カテゴリー別アーカイブ: 美芽の“若”観劇録

21世紀の三番叟

なぜ、三味線は、16回(あるいはそれ以上)の繰り返しを、末席の清丈まで、一糸乱れず清治の手の速さについていけるのだろう。

つまり、新しい年、新しい始まりを寿ぎ、その豊かな実り、幸福を祈ると共に、舞手自身がこれら神的存在を象徴し、あるいはこうした祝福を与える側の存在となる、という興味深い二重性が見られる。

まず千歳が進み出でて舞う。 英の声は清やかに響き、千歳はそれにふさわしく、一点のかげりもない、清新さ、すがすがしさにあふれる舞。 さきがけとしてその場を鎮め、春を呼ぶにふさわしい。

英は、初日からしばらくは、まだ声に前月の疲れが残っていたようだが、しり上がりに調子を上げ、見事に語り勤めた。 清之助は千秋楽近くなっても、舞台の直前まで、舞台袖で出の動きを繰り返し繰り返しさらっていた。 こうした日々の修練と心がけが、こうした舞台の充実を生み出すのだろう。

三番叟の動き、種蒔くしぐさ、向き合っての、また隣り合っての、その一見単調な動きが、繰り返しのリズムに乗って、次第に動きも大きく激しくなり、その律動に心が躍ってくる三味線のユニゾンが、このリズムを繰り返し繰り返し、最初は1フレーズが30秒、2回繰り返し続いて25秒に、23秒に、最後は20秒を切るかと思われるこの緩急自在の動きを、6人の三味線が一糸乱れず奏でる、見事としか言いようがない。 それとともに、三番叟の動きがその緩急に合わせて、次第に大きく、激しくなる。 まだまだ、もっと、もっと、と、見る者がその中に、自分自身を移入するかのように、演じる者の激しさに没入していくのがわかる。

簑太郎、玉女。その動きの一つ一つに意味がある。 この三番叟の動きから、われわれの先祖がどれほど豊かな実りを、大地の恵を祈願したかわかる。 彼らの思いを、感覚を共有できたと思える一瞬だった。

単なる伝統礼賛でもない。…彼らが自分の舞台に、いのちがけでぶつかっていくとき、また観客も、予備知識の有無でなく、心底そこに見出そうとするなら見えてくる、魂の交歓がある。

21世紀の三番叟

森田美芽

 なぜ、三味線は、16回(あるいはそれ以上)の繰り返しを、末席の清丈まで、一糸乱 れず清治の手の速さについていけるのだろう。
 なぜ、三番叟の玉女と簑太郎は、最後まであんなに激しい動きにも関わらず、ぴったり 呼吸を合わせ、舞い続けられるのだろう。
 見るたびに、聞くたびに、心が躍動する。2001年初春公演、21世紀を寿ぐ「寿式三番叟」、 その力に触れて、思わず胸が躍るのを抑えられないのは、私だけではないだろう。今回は その「三番叟」の魅力を探ってみたい。
 文楽の「三番叟」は、能の「翁」にその淵源を持つ。物語ではなく、天下泰平、国土安 穏の祈祷曲として舞われ、あわせて嘉例延年の祝福がもたらされる、という。

 本来は仏教の儀式、南都興福寺の維摩会に、仏教の奥義を表現するために考案されたと いい、父尉(釈尊)・翁(文殊)・三番(弥勒)の順に呪師(じゅし)によって舞われた三 番猿楽であり、後に父尉と延命冠者を伴うようになり、また稚児が露払いを勤めるなどの 変更があり、室町期に現行の「露払い(千歳)、翁、三番猿楽(三番叟)」となったといわ れる。
 また「風姿花伝」には、秦氏の子孫が村上天皇の御代に66番の申楽のうち、3つを 選んで「今の世の式三番これなり。則ち、法・報・恩の三身の如来を象り奉るところなり」 とある。
 つまり、新しい年、新しい始まりを寿ぎ、その豊かな実り、幸福を祈ると共に、 舞手自身がこれら神的存在を象徴し、あるいはこうした祝福を与える側の存在となる、と いう興味深い二重性が見られる。

 人が神になる。キリスト教ではイエスだけに認められる排他的な神秘である。
 それが、 日本では、共同体の長老である「翁」によって担われる。
 祈るものが同時に祝福を与える ものとなる。
 それは祭りという非日常の時空において、神々との交わりにより人間が超日 常的な力を得る、という思想を現す。それを「翁」の面を掛けることによって表現したの である。

 従って「翁」には、われわれの先祖がもつ神への意識、切実なる祈り、共同体の 祝祭としての面が、色濃く見て取れる。
 現行の文楽では、この様式を受け継ぎつつも、より視覚的、感覚的に訴えるものとなっ ている。
 明和年間(1764~72)にすでに上演の記録が見える。
 三番叟が二人立ちに なったのは明治以降と見られている。
 現行の華やかな演出は、むしろ歌舞伎からの逆輸入 になっているという。

 だが、それでも、なおそこに感じられる何か、私たちの先祖の表現 し、感じ、見たもののなごりが、形にならないまま、胸に迫ってくる。それは何なのだろ う。
 舞台は松羽目、能の橋懸りを模して、3本の松の作り物。なにより船底をつかわない平面 の空間は、何かに満たされることを待っている。
 最初に登場するのは面箱をかかえた千歳。紫の梅模様の着付けに紅梅白梅のかざし、若 男のかしら。清之助はしずしずと進み出る。
 続いて翁。かしらは孔明。厳かに歩み出で、正面で平伏する。これはいつも思うのだが、 観客に対してではなく、劇場正面の櫓に降臨する神に対しての礼ではないのか。(渡辺保『女 方の運命』参照)
 そうすると、客はここで拍手をすべきではないことになる。いまは櫓そ のものが形式化しているが、こうしたいわれは忘れたくはない。
 三番叟登場。先に検非違使の玉女、後に又平の簑太郎。きびきびした動き。このペアの 見事な対象性が、文楽の三番叟の魅力である。

 まず千歳が進み出でて舞う。
 英の声は清やかに響き、千歳はそれにふさわしく、一点の かげりもない、清新さ、すがすがしさにあふれる舞。
 さきがけとしてその場を鎮め、春を 呼ぶにふさわしい。
 英は、初日からしばらくは、まだ声に前月の疲れが残っていたようだ が、しり上がりに調子を上げ、見事に語り勤めた。
 清之助は千秋楽近くなっても、舞台の 直前まで、舞台袖で出の動きを繰り返し繰り返しさらっていた。
 こうした日々の修練と心 がけが、こうした舞台の充実を生み出すのだろう。

 匂うやかな、あでやかな千歳。
 翁の舞。面をつけることで神格を得る。
 本来は族長としての人物であり、祈る代表であ る。短いが文雀はさすがに貫禄と威厳のある翁。十九大夫は大きさと柄と格あるシンの役 割をつとめる。

 三番叟の舞。
 揉みの段と鈴の段。三番叟が踏みしめる。
 大地を踏みしめ、そのいたる所 を踏みなおす。
 あるいは速く、時には大きく、大地の豊穣を祈願して、その恵みを「わが このところより他へはやらじとぞ思ふ」と、力強く踏みしめる。
 このリズムの心地よさ。 三番叟の動き、種蒔くしぐさ、向き合っての、また隣り合っての、その一見単調な動きが、 繰り返しのリズムに乗って、次第に動きも大きく激しくなり、その律動に心が躍ってくる 三味線のユニゾンが、このリズムを繰り返し繰り返し、最初は1フレーズが30秒、2回繰 り返し続いて25秒に、23秒に、最後は20秒を切るかと思われるこの緩急自在の動きを、 6人の三味線が一糸乱れず奏でる、見事としか言いようがない。
 それとともに、三番叟の動 きがその緩急に合わせて、次第に大きく、激しくなる。
 まだまだ、もっと、もっと、と、 見る者がその中に、自分自身を移入するかのように、演じる者の激しさに没入していくの がわかる。

 津駒、千歳、共に次代を担う語り手であり、前に出る語りはその力を思わせる。
 だが、 少し力が入りすぎでは、と思う時もあった。
 こうした祝祭芸では、太夫は声の器に徹しな ければならないのではないか。
 人物や感情移入でなく、またいたずらに自己を顕示するの でなく、求められる声の器としておのれを無にし、明確に言葉を言霊として扱うこと、わ れわれ近代人にとって、これほど困難なことはない。
 が、なおそれに徹するところに共同 体の祈りとしての意味が伝えられるのではないだろうか。
 そして簑太郎、玉女。その動きの一つ一つに意味がある。
 この三番叟の動きから、われ われの先祖がどれほど豊かな実りを、大地の恵を祈願したかわかる。
 彼らの思いを、感覚 を共有できたと思える一瞬だった。

 私たちが文楽の舞台を良いと評するとき、そこにはいくつかの要素がある。
 まず、技芸員たちの芸が十分に練られ、磨かれたものであること。
 そうした技芸が十分に 発揚されるとき、私たちはしばし夢の世界にあそぶことが出来る。
 鍛え抜かれた声、ゆる ぎない一瞬の緊張を作り出す三味線、わずかなかしらの動きで、魂を込められる人形。

 第二に、一人一人の技芸が、全体としての舞台を、物語を作り出し、そこに古い物語の 持つ世界の意味を十分に伝えること。
 彼らの演じている人物が、その関係が、背景が、そ の世界のも
つ論理が、今日と違っていても、違っているということ自体、十分に伝えられ ること。  夫婦愛の奇跡、親子の情、武家の義理と親子の情の葛藤、等々。

 第三に、それが現代の我々に語りかける何らかの必然性を、すなわち同時性をもつこと。
 技芸員たち自身は、それぞれに異なる人生をもち、昔のような人権無視の修行時代を送っ たわけでない者たちも多い。
 彼らもまた、私たちと同じ世界に生きる人間である。
 その彼 らが演じるのは、いまでは見失われつつある日本の精神的伝統であったり、義理の論理で ある。
 そうした、自分たちの論理以外のものを演じるとき、彼らはその違和感を、自分の 内面でなんとかして埋めなければならない。
 ある者はそれを非現実と割り切り、ある者は 昔の確かだったものを思い起こそうとする。
 だが、単なる懐古趣味でも、伝統礼賛でもな い。確かに見失われてならないものがあり、それをすることによって今生きている自分自 身の取り戻し、あるいは再発見させるものがある。
 演じるものにも、見るものにも、それ は与えられる。

 彼らが自分の舞台に、いのちがけでぶつかっていくとき、また観客も、予 備知識の有無でなく、心底そこに見出そうとするなら見えてくる、魂の交歓がある。

 第四に、彼らの伝える芸の内容が、有形無形に伝える精神の伝統を、共に出来る場をも つこと。
 そこに祝祭芸としての意味がある。
 単に見て楽しむ、というのでなく、そこに参 加するものとされること。自分たち自身のうちに、それらに呼応する何かを見出すことが できる、我々がある精神性のうちに生まれ、養われていることを見出す。
 無論、日本人だ から当然、という捉え方はしたくない。それが特定のイデオロギーに結びつくものであれ ばなおさら。
 しかし、私たちの受け継いでいるものが、この世界の中で、何をあらわし、 また何を担っているのかを自覚することは意味がある。

 私たちが見失ってならないものは、 その個別の精神性をその場としつつも、それを超えてあるのだから。
 そして文楽が、その 伝統を通して、それを見せてくれる、貴重な芸脈であることはいうまでもない。
 今回、「三番叟」の充実を通して、そうした思いが与えられた。
 そしてまた、その「何か」 を見出すために、私は劇場へ向かい、彼らの舞台に向き合いたいと願う。
 よき新しい年で あることを願いつつ。

まだ見ぬ未来へ――「ゴスペル・イン・文楽」によせて

 前半「艶容女舞衣―酒屋の段」・宗岸の娘への思いと半兵衛の偏屈。見せ場のお園のさわり。ここまでの芝居がしっかりしていなければ、このさわりは空虚である。だが、切々と心を打つ出来。特に最後に門口まで出て、夫に呼びかけるところは、お園の運命まで暗示するような切なさであった。

 後半「イエスの生涯」・文楽の新作は困難であるが、その伝統的技法や表現様式は、十分現代に生きるものであることと、現実にそれが、商業公演として成り立つかどうかという問題。こうしたさまざまの課題を抱えて、どれほどのことができるのか、という疑問に脅かされつつ、この日を迎えた。

 ・清之助は娘かしら、下げ髪、白の着付けのマリアを遣う。わが子を抱き上げ、まっすぐに見つめる。ここでは、処女の清らかさと、母としての慈愛と、一人の人間として、困難な決断を悔いない強さを表すという、大変困難な為所である。端的には、清之助のマリアは、前2者の表現は美しかったが、それに第三番目の強さと精神的葛藤を加えることは、彼の腕をもってしても困難であろうと感じた。

 ・われわれは、知らぬうちに愛するものを裏切る。そんな弱いわれわれに対して、イエスの眼差しは限りなくやさしい。そして、人の心の真実を見つつ、その責めを身代わりに負って下さったことを納得させる。勘寿はまたしてもここで地力を見せた。彼の遣うペテロは、本当に、どこにでもいる、罪深いわれわれ自身だった。そんな小さいものが、イエスと出会い、イエスに許されることで、命を得る。この物語のエッセンスを凝縮している。

  ・忘れてはならない。力強い三味線で、太夫を支えた清友、出すぎず、しかも負けることなく連れ弾きをこなした喜一朗、そして2つの語りを、その主題を明確に、隅々まで情の、血の通った浄瑠璃で、ただ一人で語りきった英大夫を。

 ・この「イエスの生涯」は、文楽作品として、まだまだ表現を洗練する余地がある。わくわくしてくる。毎回、違った演出を試し、ふさわしい表現を作り上げていく。その創造の営みが、われわれをいざなう。……何より、会場整理やCD販売にあたったボランティアの方々の熱意とお働きが、なんとも言えず暖かい雰囲気を作り出していたこと。

森田美芽

 「ゴスペル・イン・文楽」が終わった。関係者たちの、この1年余りの労苦を思うとき、 言葉にならない思いがこみ上げてくる。そして期待にたがわぬ好演であった。
 身内に、そ の余韻が、まだ残っている。だが、書き留めておきたい。書かねばならない。何が起こっ たか、何が見えたのか、何を語り継ぐべきか、その場に居合わせたものだけに許された幸 いを。
 この試みは、何をめざしていたのか。
 第一に、日本の伝統文化、古典芸能によるキリス ト教の表現という、新しい試みであること。その第一の接点は、「ことば」にある。文楽と いう、言葉の芸術が、どこまでキリスト教の「言葉」に迫れるかということ。
 第二に、なぜそれが可能か、その根拠を見出すこと、それは文楽そのものの見直し、そ こに表現されている人間の普遍的なものの再発見となるはずである。
 それは、人間の普遍 的な情、経験、愛といった内容において見出されるだろう。
 第三に、文楽の新しい可能性を探ること。文楽の新作は困難であるが、その伝統的技法 や表現様式は、十分現代に生きるものであることと、現実にそれが、商業公演として成り 立つかどうかという問題。
 こうしたさまざまの課題を抱えて、限りある人の力によって、 どれほどのことができるのか、という疑問に脅かされつつ、この日を迎えた。
 第二点からいえば、「艶容女舞衣―酒屋の段」と「イエスの生涯」(原題は「イエスの生 誕と十字架」だが、もう、この名で呼んでよいだろう)を結ぶものは、「無垢」であり、「犠 牲」であり、「絆」である。
 無垢は、処女の純潔と、神の前に罪なきものであることの二重 の意味がある。肉体の無垢は精神の無垢に通じる。知らないものだけが、負い目なしにい られる。
 お園の一途な思いは、この負い目なさの表現である。しかし彼女の半七への思い は報いられることがない(少なくとも現世においては)。
 一方、マリアの純潔は、西洋の2000年の歴史が育ててきた夢であり理想である。
 彼 女は「恋」なくして「母」となる。
 現実には、通常の母として以上の苦しみを背負いなが ら、その処女性と母性を神格化され、ついには天の女王の位に上げられた、とされる。そ の陰に見過ごされてきたのは、過酷な運命に立ち向かう、ナザレの貧しい少女の、信仰の 決断である。単なる無知な従順、無責任な応答ではない。
 無論、彼女は自分の決断の全体 を、その歴史的意味の全てを知って「諾」と答えたわけではない。少なくとも「未婚の母」 になることの困難だけは想像できたであろう。
 彼女にとって、マイナスしかもたらさない 決断、なぜあえて彼女はそれを選んだのだろうか。
 そこに、恋人ではない、神へのまっす ぐな信頼、自分の能力不足をなげくより、自分の至らなさを口実にするより、神を信頼す るという、それこそ稀有の、ただ神にだけ向かう、純粋な意志である。
 しかもそれは、長 く長く、30年以上にわたって続く決断である。彼女の息子が、無残な死を遂げるまで。
 愛とはまさに犠牲を払うことである。だがその犠牲が報われるとは限らない。それでも 人は、愛する者のために、帰らぬ息子のために、神のために、神の民であるまだ見ぬ人の ために、自分を犠牲にする。それはなぜ?
 目に見えない絆、親子の、夫婦の、神との、そ の絆を守ろうとして。
 高原氏の司会で、まずこの主題が語られる。そしてその主題が、きわめて明確に感じら れたのは、紋寿のお園、勘寿の半兵衛女房、そして勘寿のペテロである。
 紋寿のお園は、本当に純粋に、ただ半七のことだけを思っているのがわかる。人妻ではあ るが娘時代のなりをし、愛らしい。だが一度婚家の生活を経験して、何も知らない娘では ない。それでいて処女であることは一目瞭然である。
 彼女をこの家の人々とつないでいる のは、ただ彼女の半七への思いだけである。その、切れそうな絆を取り戻そうとする、た よりなさとひたむきさを表現する。ただ座っているだけで、そんなお園の思いが伝わって くる。さすがに紋寿である。
 宗岸は娘をいとおしく思う。半兵衛もそんなお園をいじらしく思う。だからこそ、復縁 させるわけにはいかない。半兵衛の身代わりを知ってからの女房も見事。勘寿の遣う半兵 衛女房で、私ははじめて理解した。この場での唯一名前の与えられていない、為所も少な いが、この女房次第でこの舞台が生きも死にもすることを。
 勘寿の女房は、半兵衛の述懐 を聞きながら、手ぬぐいで涙をぬぐう。それだけの仕草で、人の良いこの女房の思い、母 としての嘆き、姑としてのつらさが表現されている。勘緑の宗岸と亀次の半兵衛、ともに 健闘している。
 宗岸の娘への思いと半兵衛の偏屈。
 見せ場のお園のさわり。ここまでの芝居がしっかりしていなければ、このさわりは空虚 である。
 だが、切々と心を打つ出来である。特に最後に門口まで出て、夫に呼びかけると ころは、お園の運命まで暗示するような切なさであった。三味線のメリヤスに細棹のアシ ライが入り、そのまま幕。

 第2部が「イエスの生涯」。
 「イエスの生誕」暗闇の中に、うっすらと光がさし初める。舞台中央の飼葉桶に眠る嬰 児イエスの姿が、ぼんやりと見え始める。そしてマリアの登場。清之助は娘かしら、下げ 髪、白の着付けのマリアを遣う。舞台奥から進み出る。そしてわが子を抱き上げ、まっす ぐに見つめる。
 マリアは何を思ったのだろう。生まれてみれば、普通の貧しい家に生まれた子となんら 変わりない。力なく、弱く、母の乳を求めてやまぬみどりご。しかし、おそらく誰にも信 じてはもらえない、処女のままの受胎と出産という秘密。腕に抱いた我が子は、「ダビデの 王座につくべき子」であるという。
 その不可思議さ、圧倒されそうな事実の連続に、彼女 は戸惑わなかっただろうか。しかしみどりごイエスを見つめる彼女の目には、そうした迷 いはない。ここでは、処女の清らかさと、母としての慈愛と、一人の人間として、困難な 決断を悔いない強さを表すという、大変困難な為所である。
 端的には、清之助のマリアは、 前2者の表現は美しかったが、それに第三番目の強さと精神的葛藤を加えることは、彼の 腕をもってしても困難であろうと感じた。
 この清らかさは冷たさではない。ただ一つを望 む心の純潔そのものだから。
 「救い主イエス」を素浄瑠璃で聞かせ、最後の晩餐で紋寿の遣うイエスの登場。かしら は「俊寛」。
 ユダの裏切りは象徴的に、人形はイエスの一体だけで表現する。そして囚われ たイエスの後をペテロが追う。群集に迫られイエスを裏切るペテロ。しかし彼は、自分が 何をしたかまだ気づいていない。それに気づくのは、イエスの眼差しを感じた時である。
 責めるのでなく、恨むのでもない、その眼差しに触れて、初めて彼は自分がイエスを裏切 ったことに気づき、嘆き悲しむ。
 イエスの十字架は、「あけぼの」「一天にわかにかきくもり」を背景の照明で表現する。
 イエスの苦悩と十字架の苦しみは、通常と逆に、足が頭より高くなるほどの苦悶で表現さ れる。この左と足を遣った亀次、紋秀も努力も特筆されるべきであろう。
 クライマックス の「エリ エリ ラマ サバクタニ」の苦悶も、真に迫る動き。今回は十字架は背景の象 徴にとどめ、地に伏しのたうつ苦悶で表現する。

 そして復活。復活後、初演では白い衣を着せたが、今回はそのまま。そのかわり、はっ きりと手に釘の跡を見せる。そしてマリアが暗闇の象徴を脱ぎ捨て、清い喜びを表す。
 イ エスと目を合わせることを避けていたペテロが、イエスの眼差しを受け、再び人として立 ち上がる。このペテロに人間的共感を覚える者は少なくないだろう。
 われわれは、知らぬ うちに愛するものを裏切り、しかも自分を守るために嘘をつく。そんな弱いわれわれに対 して、イエスの眼差しは限りなくやさしい。そして、人の心の真実を見つつ、その責めを 身代わりに負って下さったことを納得させる。
 勘寿はまたしてもここで地力を見せた。彼 の遣うペテロは、本当に、どこにでもいる、罪深いわれわれ自身だった。そんな小さいも のが、イエスと出会い、イエスに許されることで、命を得る。この物語のエッセンスを凝 縮している。
 このペテロが入ることで、劇的な起伏と、共感と、主題が明確になった。そ して、前後半を通じて、人々の善意にもかかわらず、悲劇へと向かう人間の悲しみと、そ れを超えて人の絆を回復するイエスのいのちを、感じることができた。
 忘れてはならない。この日、力強い三味線で、太夫を支えた清友、出すぎず、しかも負 けることなく連れ弾きをこなした喜一朗、そして2つの語りを、その主題を明確に、隅々 まで情の、血の通った浄瑠璃で、ただ一人で語りきった英大夫を。
 私自身は、この物語を、素浄瑠璃の段階から聞いている。素浄瑠璃の場合、言葉の力が 直接的に聴覚から心へと、意味へと深く食い込んでくる。魂はそのなかに沈潜する。義太 夫の言葉と聖書の「ことば」は、たしかにそこで切り結んでいた。
 そして今回、人形の表 現によって、新たな可能性が加えられた。
 それは、見る者が、舞台にもう一人の自分を見 出すことである。これは見ることが距離をおくことになり、人が自分を見直す余裕を持つ ことになるからである。それをするためには、われわれに近い人物がいなければならない。
 まことに、ペテロを登場させたことは天の配剤であった。そしてこの物語は、キリスト教 の日本文化における表現として、ひとつの可能性を示すものであったといえよう。
 この舞台が実現するまでに、数々の困難があった。十分な準備や資金があったわけでは ない。しかし、どうしても実現したいという強い彼らの意志が、この試みを成功させた、 それを支えたのは、多くのファンであり、それぞれの家族・友人たちである。
 こんなあた りまえのことが、文楽の原点ではなかったか。
 伝統を守る、型を継承する、その前に、語 るべきもの、演じるべきものを見出す、それが、今日においても、文楽を現在形の、生き た営みとする。演じる人々にとっても、見る人にとっても、支える人にとっても、リスク を負うことを決断し、かつそれへと力を結集することにより、かけがえのないものが生み 出される。
 この「イエスの生涯」は、文楽作品として、まだまだ表現を洗練する余地があ る。
 人としてのイエスをどう表現するか、マリアをさらに生かすには、他の弟子や群集を ツメ人形で出すことはできないか、等々。
 わくわくしてくる。毎回、違った演出を試し、 ふさわしい表現を作り上げていく。その創造の営みが、われわれをいざなう。
 また、原曲 の作詩者である丹羽孝氏、今回の「イエスの生涯」を作った川口真帆子氏、照明の民部吉 章氏の見事な演出、最後まで手話通訳で、ある意味で語りの真髄を実演してくれた土屋徳 子氏と小笠原雅博氏、総合司会として、この会の全体の意味を明確に語り知らせた高原剛 一郎氏らの功績を特記しておきたい。
 何より、会場整理やCD販売にあたったボランティ アの方々の熱意とお働きが、なんとも言えず暖かい雰囲気を作り出していたことも。
 そして、それを作り出す現場を共にすることで、われわれは、もう一度、自分が一人で は生きられないこと、多くの人とつながりあっていること、そのためにこそ、彼らがこの 芸の道に命をかけて戦っていることを見出すであろう。
 それこそが、この作品を上演した ことの意義であるに違いない。

十色の虹 ――十色会「仮名手本忠臣蔵」公演(11月27日)に寄せて

なんという悲劇だろう。互いに相手を思いあっておりながら、そのために、だれもが悲しみのどん底に突き落とされるのだ。そうしたこの段の悲劇のありかを、そのやるせなさを納得させてくれる語りであった。

「勘平腹切」英・燕二郎。燕二郎は大きく受ける。太夫の苦しい時、受けて語らせる力がある。英は、この段の悲劇の中心は、与市兵衛女房の誤解と嘆きにある、と知らせてくれる。

十色の虹

森田美芽


 1年は早い。だが、若手の伸び盛りの人形遣いにとって、1年は長すぎる。
 この舞台のために積まれたであろう1年の重さを思う。そしてまた今年も彼らの美しい舞台に出会えたことを喜ぼう。

 『仮名手本忠臣蔵』より「殿中刃傷の段」。千歳・宗助。「脇能過ぎて・・」のマクラから気合の入った語り。若狭助の短慮、若さ、師直の悪の大きさを見事に描き出す。宗助がそれを撥先鋭く受ける。
 勘市は血気さかんな若気のいたりともいうべき若狭助を演じた。少し右が早いのか、扱いに苦慮しているようだが、逆にそれが短慮な性格に合っていた。
 亀次の師直はさすが貫禄というべきか。この場の師直の悪の多重性、多様性を描いている。
 昇六の珍才は丁寧な使い振りで、小者らしいひょうきんさもある。横から見ると、時々人間らしい線が消えるときがある。
 玉翔の本蔵は、出番は短いが存在感がある。目線がよい。
 文司の判官は受身のつらさ、じりじりと追い詰められる苦しさを表現する。一転して怒りを爆発させる強さも。

 「裏門の段」咲甫・清志郎。これもはまり役。意気盛ん、若手らしい伸びやかさと美声。伴内のチャリも巧み。
 咲甫は舞台を率いる太夫として、背中に一本芯の入ったような、気概と力強さを感じさせる。清志郎の音がまっすぐに届く。
 簑紫郎の勘平。動きが生き生きしている。主君の危急を知ってはっとするところがうまい。「御ともに恥づべし」がいたく響く。
 一輔のおかる。可憐で愛らしい。形になっている。それよりも、この場で現実的に対処しようとしている底強さを感じる。
 文哉の伴内。勘平との対比のチャリとしては悪くない。

 「身売りの段」呂勢・喜一朗。この人のおかるの愛らしさ、新妻らしい初々しさと色気、夫のためにといういじらしさ。喜一朗もこまやかについていく。
 一輔のおかるは、この場のいじらしさをよく表現した。最初の鏡を見る仕草も丁寧。
 勘弥の与市兵衛女房は娘を身売りさせる悲しみと嘆きが伝わる。
 紋秀の一文字屋亭主、為所もあり浄瑠璃に合わせた動き。チャリめいてもこの業界の人間らしいふてぶてしさもほの見える。
 幸助の勘平。やはり大きい。裏門の時から、苦悩を経て男ぶりが上がったのがわかる。この人が遣うと、技術もそうだが、主役の格が出る。

 「勘平腹切」英・燕二郎。燕二郎は大きく受ける。
 太夫の苦しい時、受けて語らせる力がある。その力がこの段を包む。
 英は、この段の悲劇の中心は、与市兵衛女房の誤解と嘆きにある、と知らせてくれる。
 幸助の勘平は、自分のしでかしたことと疑いもしない。この気後れ、負い目が悲劇を生む。その苦しみを十分に表出している。
 前の猟師姿から武士への変わりもうまい。
 刃に自分を映すところが、「心は塩谷浪人」の気持ちを出す。そして負い目ゆえに汚名を晴らすことができるとも思わない、そのひたむきさ。血判の無念が伝わってくるようだった。
 与市兵衛女房はここに到って本領発揮。婿への遠慮、娘を売る悲しみ、夫が殺され、その悲しみが彼女の判断を狂わせる。彼女は、自分が生み出した悲劇の最大の被害者となる。
 種ケ島の六、昇六は今回よい成長振りを見せた。幸
 司のめっぽう弥八、人形を動かす動きと、人形の動きが一つになってきた。
 狸の角兵衛、代役の一輔が的確にこなす。そして清五郎の原郷右衛門。老けもきっちりこなす。玉勢の弥五郎と対の性根を見せる。
 弥五郎は若さも分別もあり、まじめな人柄を感じさせる。形のきまりも美しい。

 なぜ、この人々は、無意味な死を遂げ、一家離散の憂き目をみなければならなかったのか。
 そのキーワードは「負い目」であることを痛感した。おかるは自分が誘ったばかりに勘平に面目をなくさせ、勘平はその負い目のために自分が殺したと思った人間の懐から財布を取り出す。その後ろめたさが、「遺体を調べてくれ」という主張もできなくしてしまう。
 与市兵衛女房は婿のために娘を売るという自分の嘆きのゆえに、勘平を信じることができない。なんという悲劇だろう。互いに相手を思いあっておりながら、そのために、だれもが悲しみのどん底に突き落とされるのだ。そうしたこの段の悲劇のありかを、そのやるせなさを納得させてくれる語りであった。英大夫の本領発揮というところか。
 三味線の燕二郎も、その主題の重さ、人の思いの深さにふさわしい音色であった。
 彼らを見るとき、1年前の姿が浮かぶ。だが、もう、思い出すには及ばない。先に終わった本公演とすら、比較すべきではない。今日の姿は、もう新しい第一歩であるから。その伸び行くさまを共にすることのできたことを、この時の結ぼれを、さらに明日の糧とするために、里程標にして置いておこう。いつか、「時々の初心」を思い出すために。

俊寛の希望、お園の絶望――12月東京公演に寄せて

森田美芽

 希望と絶望の交錯――2000年12月東京公演及び鑑賞教室を見て、そんな思いが胸を掠めた。
 希望は過去を振り捨てて新しい可能性を見出すこと、絶望は過去に囚われた反復。
 しかしそのどちらを選ぶのも、人はその全てをかけての選択となる。その運命のむごたらしさ、人の世の酷薄さを存分に見せてくれた舞台だった。

12月東京公演『彦山権現誓助剣』

 『彦山権現誓助剣』半通しは18年ぶりの上演という。
 伝統の継承としてはこの機会を逃すわけにはいくまい。英、千歳という、次代の切語りがそれを受け継ぐ。
 しかし、芝居としては、見せ場本位の、歌舞伎の影響の強い作品である。現在、歌舞伎の方では「毛谷村」しか上演されず、この物語の希望と絶望を十分に表しきれない。
 丸本の全体からみれば、善人方が次々非業の死を遂げるという理不尽さを、どう希望へとつなげるかをみせなければならない。特に人間性の描写に優れた英大夫には、技術以上に、そうした狂言そのものの性格にいささかの違和感を覚えずにはおれなかった。
 そうした理不尽を、太夫陣はどのように描き出すかも。

 「須磨の浦」の段から始まる。床は若手の掛け合い、お菊を呂勢、友平を始、弥三松を咲甫、京極内匠を南都、呂勢はお菊の無念、母の心情、強さを的確に伝える。
 娘かしらだが、母親の強さとあだ討ちの思いに性根を置いた語り。清之助の人形は武家の娘の誇り、母のやさしさまでにじませる。始は言葉が強く、生真面目なこの僕のニンに合った語り。勘寿はここでも的確に人形をさばく。咲甫はもう子役だけではその力を出し切れない気がする。
 声柄もあるが、この人の力強い男の表現を聞きたいと思う。玉佳は丁寧に子供の哀れさを表現し、共感を誘う。南都の京極内匠も好演。所見の日(12月8日)は少し声が荒れていたように思う。しかしこの人も、持ち前の美声に、悪の色気、底強さといったものを出そうとしている。期待したい。
 簑太郎にはこの悲劇の原因である悪の大きさ、強さ、色気がある。お菊との立ち回りでも、残忍さ、お菊を手に入れようとする執念、抜け目なさ、といった悪の骨格を描き出している。
 お菊との立ち回りも見もの。こうした動きの速さ、しなやかさは、やはり若手ならではの、理屈抜きの楽しさがある。
 お菊の無念の死、助けられず相手を見極めることもできなかった友平の自責、母の死をそれとも知らぬ弥三松のいたいけな哀れさ。

 「瓢箪棚」中は新大夫、清太郎。打って変わった状況と多様な人物の登場する謎めいた場面だが、新大夫は変化や人物のやり取りをうまく語ってあきさせない。
 「ひゃな」のおもしろさも。清太郎も休演が多く心配だったが、元気になり、落ち着きを増したようでほっとした。
 奥を英、錦糸、ツレは団吾。お園のやつし、友平自害、京極内匠の悪の原点、怪奇な現象、敵と知らぬ出会い、立ち回り。
 これを論理で納得することは不可能である。英大夫のこんな声をはじめて聞いた。
 低い音から始まり、闇の中に辻君に身をやつして登場するお園の出。凛として仇討ちに向かう執念を、それだけで感じさせる。青侍、いたち川とのからみの言葉がいささか重い。
 しかしふと心づいたのは、「頼りなき身は世の人の・・」このあたりから本領を発揮し、詞の運びのなかに、妹を失った嘆きと悲しみ、手がかりもない悔しさ、友平の自死の口惜しさとたたみかける。
 そして京極内匠が自らを明智光秀の子と知って蛙丸を手に入れるくだりを、見事に聞かせた。段切れの立ち回りは人形本位だが、知らぬ間に敵と打ち合い、相手の太刀さばきでもしやと知る、つまり彼女は、求める相手の顔すら知らない。この理不尽さを表現していたのだ。
 錦糸の三味線は、はっとするほど美しく、また複雑な手をものともしない。
 団吾も顔色一つ変えずについていく。
 こうした三味線の迫りを受けて、太夫も力以上を出せるのだろう。目に見えない闘いが、床で起こっている。

 「杉坂墓所」口は始、喜一朗。詞をしっかりと押し出す始に、喜一朗は背中から支えるように弾く。
 奥は松香、清友。京極内匠と六助の出会い、偽り。松香は母への思い故に勝ちを譲る約束をする六助の誠実さを表現した。
 佐五平と門脇儀平のからみはやはり背後の人物関係がわかりにくい。弥三松はまた縁者に別れる孤独の身の上となる。

 「毛谷村六助住家」口は文字久、清志郎。七期の文字久と十五期の清志郎。二十歳近い年齢差にもかかわらず、懸命に弾く清志郎のさわやかさ。文字久も物語の動き、婆の変化等、難なく表出する。
 奥、津駒、富助。津駒はずいぶんと語りが大きくなった。それでもやはり、本公演で1時間半ちかい切り場を語り続けるのは苦しいのだろう、少し艶ある美声が翳って聞こえる。
 それでもお園の登場からからみ、一転してお園の世話女房ぶりのところなど、うまく変化を聞かせる。
 富助は、こうした4段目の繊細さ、たおやかさへと表現が広がっている。
 玉女の毛谷村六助、誠実な武人、心ある人。座頭の格、大きさとふところの深さはこの人のもの。
 簑太郎の京極内匠、己が欲望のみに忠実である悪。この両極の対比が見事。
 お園の和生、さすがにうまい。「ひねた生娘」ながら、心の純情、娘らしさを十分見せる。
 弥五平の玉志、武氏かしらの実直さを出す。
 玉英の母お幸、品の良さと腹に一物秘めたところを自然にやってのける。
 幸助・文哉・紋秀、それぞれに存在感を出すが、幕切れ近く、斧右衛門母の死体を落としたまま引き込もうとしたのはいただけない。自分ではなく、人形にさせれば芝居になるのだ。こうしたことも経験のうちである。

 『毛谷村』が仇討ちへの出発となるので、ある意味ハッピーエンドに見えるが、実はかなり救いのない物語である。
 一味斎の娘、息子、その僕たちは、次々と一人の悪の手にかかって非業の死を遂げる。
 残された母、お園、弥三松に残された希望は、この六助の力を借りて仇を討つことだけである。それが、無念と不名誉をすすぐ唯一の道であるかのように。
 個人的には、京極内匠の悪のキャラクターに興味を持った。それが、明智光秀の子という設定は、天下を覆す野望と権力欲の象徴であると思う。それに善人方が破れ、死んでいくさまは、とりわけ弥三松の境涯を思えば、むしろ、「なぜ、悪が栄え、善が滅びるのか」という詩篇作者の叫びに近いものを感じる。

鑑賞教室「平家女護島・鬼界が島の段」

 さて、鑑賞教室の「平家女護島・鬼界が島の段」は、絶望から始まる世界である。
 四方を海に囲まれた絶海の孤島、鬼界が島に流された俊寛、康頼、成経。まずその水平線の青は絶望の青。謡がかりのマクラは少し弱いかと思ったが、『この哀れなどか』あたりから、少しづつ詞と状況が重なり、俊寛の心象風景の嘆きとなって聞こえてきた。
 文吾の俊寛は、弱弱しいとはいいがたい。むしろこの男が、なぜ清盛に盾突いたか、そんな気概の名残を思わせる。
 康頼が岩に伝う姿を見て「われもあの姿かや」との嘆きは、突き放しているようにも聞こえるし、自分自身への憐憫のようにも聞こえる。
 「世に飽きし」という、もはや3人だけの閉ざされた世界に飽きているところへ見えてきたかすかな希望。海女千鳥と少将の恋。清之助の少将はこの恥じらいの美しいこと。
 紋寿の千鳥は、田舎娘の純朴さ、健康的な美しさを感じさせ、少将とは対象的。海女言葉のむつかしさも自然と耳に入ってきた。
 そして赦免船の到着。三人は我先にと使者の前に寄る。
 やっと訪れた希望、それは瞬時に砕かれる。俊寛の名がない。この嘆きの深さ、絶望。一転して希望が語られる。重盛の情けによって、俊寛もまた帰参を許される。
 一度絶望の淵に落とされた後の、二度と放すまいと思える希望。ところがそれを砕くのは、瀬尾の官僚主義である。
 千鳥をひきのけ、引き裂こうとする。少将は「この上は少将もこの島にとどまって帰るまじ」という。そう、この少将の純情ゆえに、俊寛は犠牲になったのだと気づく。しかしこのやり取りで、俊寛は自分の妻が清盛に殺されたことを知る。俊寛の絶望は、ここにあった。
 あくまで千鳥を乗せまいとする瀬尾に、千鳥の嘆き。「鬼界が島に鬼はなく」の口説きのあわれさ。俊寛が心動かされる理由がわかる。
 そして俊寛は、若い二人に希望を託すため、瀬尾を切り、自らただ一人この島に残ろうとする。
 やるかたない千鳥を、自分の後生のためにと説得する。これが説得でないのは分かっている。だが、俊寛には、二人を生かすことにしか、自分の希望も、生きる意味も見出せない。
 その嘆きが、段切れの「少将夫婦康頼も」を胸に迫らせる。だがその代償はすさまじい。
 「思い切っても凡夫心」のくだりは、俊寛の選んだ恐ろしい孤独地獄、もはや誰にも見取られることなくのたれ死ぬ運命を選ぶという、凄絶な孤独が突き上げるように迫ってきた。

 涙があふれてきた。人の希望の究極の形に。
 自分の全て、人としての世を失っても残さねばならぬ希望。
 その深さを、私は、英大夫の語りで胸に刻みつけた。
 もう一つ、明確な進歩は、悪の表出。簑太郎の瀬尾の的確な遣いぶりもあるが、この悪の大きさ、冷たさを表出したことが、俊寛の選んだものを明確にした。
 自分の嘆きを若者に繰り返させまいとする思い、妻への思い、それを踏みにじったものへの怒りが強く迫ってきた。「三刀四刀、肉切る、引き切る」の言葉まで、一つ一つ生きていた。

 それに生かされた人形も、素晴らしかった。玉也、勘寿らが実力のほどを見せ、簑太郎、清之助ははまり役であった。
 生きていた、舞台の隅々まで、力が、見えない力がみなぎっていた。そう、それが私たちの希望。文楽が、今も生きて働くという、その希望が。

無垢なる犠牲――文楽とクリスマスの出会い 2000年クリスマス公演「ゴスペル・イン・文楽」に寄す

大阪キリスト教短期大学 森田美芽

 クリスマスと文楽――?ずいぶん妙な取り合わせ、と思われるかもしれません。日本の伝統芸能として300年の伝統を持つ文楽と、イエス・キリストの誕生を祝う、西洋のお祭りが、どうして?

 実はそこに、深い出会いがあります。人間の真実な魂という出会いの場が。

 文楽では、300年前の日本人が、現実の矛盾や封建社会の壁にぶつかって、真実に悩み、そのなかで自分を犠牲にし、義理に泣き、親子の絆に殉じる・・今にも通じる、人間としての真実な姿、美しさ、悲しさをこれほど深く描いている人形芝居は、世界に類を見ないものです。

 今回、上演される「艶容女舞衣」(はですがたおんなまいぎぬ)、通称「酒屋」のヒロインお園もそのひとりです。

 彼女は嫁にきて3年になりますが、夫の半七には以前からつき合っている三勝(さんかつ)とう女性がおり、お園にはまったく無関心です。しかし彼女は、夫を愛し、しゅうとやしゅうとめに仕え、外泊をくり返す夫の帰りを、ひたすら待っています。

 「今ごろは半七さん、どこにどうしてござろうぞ」で始まる有名な酒屋のサワリでは、お園は、「去年の秋の患いに、いっそ死んでしもうたら…」皆まわりはうまくいっていたのに、と未練がましい自分を恥じたりもしています。

 半七は、たまたまある殺人事件に巻き込まれ、せっぱ詰まって、三勝と心中行に向います。それでも彼女は、残された夫の、三勝との間にできた子を、我が子と抱きしめ、半七の遺書に書かれた「未来は妻」というお園宛ての書き置きに「ほんまのことでござんすかいなあ」と涙を流して喜ぶのです。

 なんで? そんな女いまはおれへんで――なんて言わないで、ぜひ見てください。なぜ、このお園が、大阪の人によって愛されてきたか、わかります。彼女のひたむきな献身と純粋さはひとのこころを打たずにはおきません。

 さて、クリスマスと言えばイエス・キリスト、そしてその母マリア。マリアもお園と同じく、処女でした。しかし彼女は、ただ優しい、清らかな女性というだけではありません。

 誰ひとり経験したことのない、天使からの「受胎告知」に、とまどいながらも、勇気をもって神に従い、ひとりの男の子を生みました。彼女の孤独な、しかし勇気ある決断によって、全世界の救い主となるイエス・キリストをこの世に迎えることができたのです。

 この世に救いと希望をもたらす神の子の誕生を祝うクリスマス、そのかげにある女性の勇気、献身の尊さ。そしてイエス自身も、この地上に愛としをもたらすために、犠牲になって十字架の上に無残な死を遂げます。

 しかしイエスは復活し、この地上のすべての悪、罪に打ち勝って私達に神の愛と希望の勝利を告げられるのです。

 無垢なる犠牲という一つのテーマによって、今日、文楽とクリスマスが出会います。この新しい試みが、私たちを新たな感動へといざなってくれるでしょう。