十色の虹 ――十色会「仮名手本忠臣蔵」公演(11月27日)に寄せて

なんという悲劇だろう。互いに相手を思いあっておりながら、そのために、だれもが悲しみのどん底に突き落とされるのだ。そうしたこの段の悲劇のありかを、そのやるせなさを納得させてくれる語りであった。

「勘平腹切」英・燕二郎。燕二郎は大きく受ける。太夫の苦しい時、受けて語らせる力がある。英は、この段の悲劇の中心は、与市兵衛女房の誤解と嘆きにある、と知らせてくれる。

十色の虹

森田美芽


 1年は早い。だが、若手の伸び盛りの人形遣いにとって、1年は長すぎる。
 この舞台のために積まれたであろう1年の重さを思う。そしてまた今年も彼らの美しい舞台に出会えたことを喜ぼう。

 『仮名手本忠臣蔵』より「殿中刃傷の段」。千歳・宗助。「脇能過ぎて・・」のマクラから気合の入った語り。若狭助の短慮、若さ、師直の悪の大きさを見事に描き出す。宗助がそれを撥先鋭く受ける。
 勘市は血気さかんな若気のいたりともいうべき若狭助を演じた。少し右が早いのか、扱いに苦慮しているようだが、逆にそれが短慮な性格に合っていた。
 亀次の師直はさすが貫禄というべきか。この場の師直の悪の多重性、多様性を描いている。
 昇六の珍才は丁寧な使い振りで、小者らしいひょうきんさもある。横から見ると、時々人間らしい線が消えるときがある。
 玉翔の本蔵は、出番は短いが存在感がある。目線がよい。
 文司の判官は受身のつらさ、じりじりと追い詰められる苦しさを表現する。一転して怒りを爆発させる強さも。

 「裏門の段」咲甫・清志郎。これもはまり役。意気盛ん、若手らしい伸びやかさと美声。伴内のチャリも巧み。
 咲甫は舞台を率いる太夫として、背中に一本芯の入ったような、気概と力強さを感じさせる。清志郎の音がまっすぐに届く。
 簑紫郎の勘平。動きが生き生きしている。主君の危急を知ってはっとするところがうまい。「御ともに恥づべし」がいたく響く。
 一輔のおかる。可憐で愛らしい。形になっている。それよりも、この場で現実的に対処しようとしている底強さを感じる。
 文哉の伴内。勘平との対比のチャリとしては悪くない。

 「身売りの段」呂勢・喜一朗。この人のおかるの愛らしさ、新妻らしい初々しさと色気、夫のためにといういじらしさ。喜一朗もこまやかについていく。
 一輔のおかるは、この場のいじらしさをよく表現した。最初の鏡を見る仕草も丁寧。
 勘弥の与市兵衛女房は娘を身売りさせる悲しみと嘆きが伝わる。
 紋秀の一文字屋亭主、為所もあり浄瑠璃に合わせた動き。チャリめいてもこの業界の人間らしいふてぶてしさもほの見える。
 幸助の勘平。やはり大きい。裏門の時から、苦悩を経て男ぶりが上がったのがわかる。この人が遣うと、技術もそうだが、主役の格が出る。

 「勘平腹切」英・燕二郎。燕二郎は大きく受ける。
 太夫の苦しい時、受けて語らせる力がある。その力がこの段を包む。
 英は、この段の悲劇の中心は、与市兵衛女房の誤解と嘆きにある、と知らせてくれる。
 幸助の勘平は、自分のしでかしたことと疑いもしない。この気後れ、負い目が悲劇を生む。その苦しみを十分に表出している。
 前の猟師姿から武士への変わりもうまい。
 刃に自分を映すところが、「心は塩谷浪人」の気持ちを出す。そして負い目ゆえに汚名を晴らすことができるとも思わない、そのひたむきさ。血判の無念が伝わってくるようだった。
 与市兵衛女房はここに到って本領発揮。婿への遠慮、娘を売る悲しみ、夫が殺され、その悲しみが彼女の判断を狂わせる。彼女は、自分が生み出した悲劇の最大の被害者となる。
 種ケ島の六、昇六は今回よい成長振りを見せた。幸
 司のめっぽう弥八、人形を動かす動きと、人形の動きが一つになってきた。
 狸の角兵衛、代役の一輔が的確にこなす。そして清五郎の原郷右衛門。老けもきっちりこなす。玉勢の弥五郎と対の性根を見せる。
 弥五郎は若さも分別もあり、まじめな人柄を感じさせる。形のきまりも美しい。

 なぜ、この人々は、無意味な死を遂げ、一家離散の憂き目をみなければならなかったのか。
 そのキーワードは「負い目」であることを痛感した。おかるは自分が誘ったばかりに勘平に面目をなくさせ、勘平はその負い目のために自分が殺したと思った人間の懐から財布を取り出す。その後ろめたさが、「遺体を調べてくれ」という主張もできなくしてしまう。
 与市兵衛女房は婿のために娘を売るという自分の嘆きのゆえに、勘平を信じることができない。なんという悲劇だろう。互いに相手を思いあっておりながら、そのために、だれもが悲しみのどん底に突き落とされるのだ。そうしたこの段の悲劇のありかを、そのやるせなさを納得させてくれる語りであった。英大夫の本領発揮というところか。
 三味線の燕二郎も、その主題の重さ、人の思いの深さにふさわしい音色であった。
 彼らを見るとき、1年前の姿が浮かぶ。だが、もう、思い出すには及ばない。先に終わった本公演とすら、比較すべきではない。今日の姿は、もう新しい第一歩であるから。その伸び行くさまを共にすることのできたことを、この時の結ぼれを、さらに明日の糧とするために、里程標にして置いておこう。いつか、「時々の初心」を思い出すために。