まだ見ぬ未来へ――「ゴスペル・イン・文楽」によせて

 前半「艶容女舞衣―酒屋の段」・宗岸の娘への思いと半兵衛の偏屈。見せ場のお園のさわり。ここまでの芝居がしっかりしていなければ、このさわりは空虚である。だが、切々と心を打つ出来。特に最後に門口まで出て、夫に呼びかけるところは、お園の運命まで暗示するような切なさであった。

 後半「イエスの生涯」・文楽の新作は困難であるが、その伝統的技法や表現様式は、十分現代に生きるものであることと、現実にそれが、商業公演として成り立つかどうかという問題。こうしたさまざまの課題を抱えて、どれほどのことができるのか、という疑問に脅かされつつ、この日を迎えた。

 ・清之助は娘かしら、下げ髪、白の着付けのマリアを遣う。わが子を抱き上げ、まっすぐに見つめる。ここでは、処女の清らかさと、母としての慈愛と、一人の人間として、困難な決断を悔いない強さを表すという、大変困難な為所である。端的には、清之助のマリアは、前2者の表現は美しかったが、それに第三番目の強さと精神的葛藤を加えることは、彼の腕をもってしても困難であろうと感じた。

 ・われわれは、知らぬうちに愛するものを裏切る。そんな弱いわれわれに対して、イエスの眼差しは限りなくやさしい。そして、人の心の真実を見つつ、その責めを身代わりに負って下さったことを納得させる。勘寿はまたしてもここで地力を見せた。彼の遣うペテロは、本当に、どこにでもいる、罪深いわれわれ自身だった。そんな小さいものが、イエスと出会い、イエスに許されることで、命を得る。この物語のエッセンスを凝縮している。

  ・忘れてはならない。力強い三味線で、太夫を支えた清友、出すぎず、しかも負けることなく連れ弾きをこなした喜一朗、そして2つの語りを、その主題を明確に、隅々まで情の、血の通った浄瑠璃で、ただ一人で語りきった英大夫を。

 ・この「イエスの生涯」は、文楽作品として、まだまだ表現を洗練する余地がある。わくわくしてくる。毎回、違った演出を試し、ふさわしい表現を作り上げていく。その創造の営みが、われわれをいざなう。……何より、会場整理やCD販売にあたったボランティアの方々の熱意とお働きが、なんとも言えず暖かい雰囲気を作り出していたこと。

森田美芽

 「ゴスペル・イン・文楽」が終わった。関係者たちの、この1年余りの労苦を思うとき、 言葉にならない思いがこみ上げてくる。そして期待にたがわぬ好演であった。
 身内に、そ の余韻が、まだ残っている。だが、書き留めておきたい。書かねばならない。何が起こっ たか、何が見えたのか、何を語り継ぐべきか、その場に居合わせたものだけに許された幸 いを。
 この試みは、何をめざしていたのか。
 第一に、日本の伝統文化、古典芸能によるキリス ト教の表現という、新しい試みであること。その第一の接点は、「ことば」にある。文楽と いう、言葉の芸術が、どこまでキリスト教の「言葉」に迫れるかということ。
 第二に、なぜそれが可能か、その根拠を見出すこと、それは文楽そのものの見直し、そ こに表現されている人間の普遍的なものの再発見となるはずである。
 それは、人間の普遍 的な情、経験、愛といった内容において見出されるだろう。
 第三に、文楽の新しい可能性を探ること。文楽の新作は困難であるが、その伝統的技法 や表現様式は、十分現代に生きるものであることと、現実にそれが、商業公演として成り 立つかどうかという問題。
 こうしたさまざまの課題を抱えて、限りある人の力によって、 どれほどのことができるのか、という疑問に脅かされつつ、この日を迎えた。
 第二点からいえば、「艶容女舞衣―酒屋の段」と「イエスの生涯」(原題は「イエスの生 誕と十字架」だが、もう、この名で呼んでよいだろう)を結ぶものは、「無垢」であり、「犠 牲」であり、「絆」である。
 無垢は、処女の純潔と、神の前に罪なきものであることの二重 の意味がある。肉体の無垢は精神の無垢に通じる。知らないものだけが、負い目なしにい られる。
 お園の一途な思いは、この負い目なさの表現である。しかし彼女の半七への思い は報いられることがない(少なくとも現世においては)。
 一方、マリアの純潔は、西洋の2000年の歴史が育ててきた夢であり理想である。
 彼 女は「恋」なくして「母」となる。
 現実には、通常の母として以上の苦しみを背負いなが ら、その処女性と母性を神格化され、ついには天の女王の位に上げられた、とされる。そ の陰に見過ごされてきたのは、過酷な運命に立ち向かう、ナザレの貧しい少女の、信仰の 決断である。単なる無知な従順、無責任な応答ではない。
 無論、彼女は自分の決断の全体 を、その歴史的意味の全てを知って「諾」と答えたわけではない。少なくとも「未婚の母」 になることの困難だけは想像できたであろう。
 彼女にとって、マイナスしかもたらさない 決断、なぜあえて彼女はそれを選んだのだろうか。
 そこに、恋人ではない、神へのまっす ぐな信頼、自分の能力不足をなげくより、自分の至らなさを口実にするより、神を信頼す るという、それこそ稀有の、ただ神にだけ向かう、純粋な意志である。
 しかもそれは、長 く長く、30年以上にわたって続く決断である。彼女の息子が、無残な死を遂げるまで。
 愛とはまさに犠牲を払うことである。だがその犠牲が報われるとは限らない。それでも 人は、愛する者のために、帰らぬ息子のために、神のために、神の民であるまだ見ぬ人の ために、自分を犠牲にする。それはなぜ?
 目に見えない絆、親子の、夫婦の、神との、そ の絆を守ろうとして。
 高原氏の司会で、まずこの主題が語られる。そしてその主題が、きわめて明確に感じら れたのは、紋寿のお園、勘寿の半兵衛女房、そして勘寿のペテロである。
 紋寿のお園は、本当に純粋に、ただ半七のことだけを思っているのがわかる。人妻ではあ るが娘時代のなりをし、愛らしい。だが一度婚家の生活を経験して、何も知らない娘では ない。それでいて処女であることは一目瞭然である。
 彼女をこの家の人々とつないでいる のは、ただ彼女の半七への思いだけである。その、切れそうな絆を取り戻そうとする、た よりなさとひたむきさを表現する。ただ座っているだけで、そんなお園の思いが伝わって くる。さすがに紋寿である。
 宗岸は娘をいとおしく思う。半兵衛もそんなお園をいじらしく思う。だからこそ、復縁 させるわけにはいかない。半兵衛の身代わりを知ってからの女房も見事。勘寿の遣う半兵 衛女房で、私ははじめて理解した。この場での唯一名前の与えられていない、為所も少な いが、この女房次第でこの舞台が生きも死にもすることを。
 勘寿の女房は、半兵衛の述懐 を聞きながら、手ぬぐいで涙をぬぐう。それだけの仕草で、人の良いこの女房の思い、母 としての嘆き、姑としてのつらさが表現されている。勘緑の宗岸と亀次の半兵衛、ともに 健闘している。
 宗岸の娘への思いと半兵衛の偏屈。
 見せ場のお園のさわり。ここまでの芝居がしっかりしていなければ、このさわりは空虚 である。
 だが、切々と心を打つ出来である。特に最後に門口まで出て、夫に呼びかけると ころは、お園の運命まで暗示するような切なさであった。三味線のメリヤスに細棹のアシ ライが入り、そのまま幕。

 第2部が「イエスの生涯」。
 「イエスの生誕」暗闇の中に、うっすらと光がさし初める。舞台中央の飼葉桶に眠る嬰 児イエスの姿が、ぼんやりと見え始める。そしてマリアの登場。清之助は娘かしら、下げ 髪、白の着付けのマリアを遣う。舞台奥から進み出る。そしてわが子を抱き上げ、まっす ぐに見つめる。
 マリアは何を思ったのだろう。生まれてみれば、普通の貧しい家に生まれた子となんら 変わりない。力なく、弱く、母の乳を求めてやまぬみどりご。しかし、おそらく誰にも信 じてはもらえない、処女のままの受胎と出産という秘密。腕に抱いた我が子は、「ダビデの 王座につくべき子」であるという。
 その不可思議さ、圧倒されそうな事実の連続に、彼女 は戸惑わなかっただろうか。しかしみどりごイエスを見つめる彼女の目には、そうした迷 いはない。ここでは、処女の清らかさと、母としての慈愛と、一人の人間として、困難な 決断を悔いない強さを表すという、大変困難な為所である。
 端的には、清之助のマリアは、 前2者の表現は美しかったが、それに第三番目の強さと精神的葛藤を加えることは、彼の 腕をもってしても困難であろうと感じた。
 この清らかさは冷たさではない。ただ一つを望 む心の純潔そのものだから。
 「救い主イエス」を素浄瑠璃で聞かせ、最後の晩餐で紋寿の遣うイエスの登場。かしら は「俊寛」。
 ユダの裏切りは象徴的に、人形はイエスの一体だけで表現する。そして囚われ たイエスの後をペテロが追う。群集に迫られイエスを裏切るペテロ。しかし彼は、自分が 何をしたかまだ気づいていない。それに気づくのは、イエスの眼差しを感じた時である。
 責めるのでなく、恨むのでもない、その眼差しに触れて、初めて彼は自分がイエスを裏切 ったことに気づき、嘆き悲しむ。
 イエスの十字架は、「あけぼの」「一天にわかにかきくもり」を背景の照明で表現する。
 イエスの苦悩と十字架の苦しみは、通常と逆に、足が頭より高くなるほどの苦悶で表現さ れる。この左と足を遣った亀次、紋秀も努力も特筆されるべきであろう。
 クライマックス の「エリ エリ ラマ サバクタニ」の苦悶も、真に迫る動き。今回は十字架は背景の象 徴にとどめ、地に伏しのたうつ苦悶で表現する。

 そして復活。復活後、初演では白い衣を着せたが、今回はそのまま。そのかわり、はっ きりと手に釘の跡を見せる。そしてマリアが暗闇の象徴を脱ぎ捨て、清い喜びを表す。
 イ エスと目を合わせることを避けていたペテロが、イエスの眼差しを受け、再び人として立 ち上がる。このペテロに人間的共感を覚える者は少なくないだろう。
 われわれは、知らぬ うちに愛するものを裏切り、しかも自分を守るために嘘をつく。そんな弱いわれわれに対 して、イエスの眼差しは限りなくやさしい。そして、人の心の真実を見つつ、その責めを 身代わりに負って下さったことを納得させる。
 勘寿はまたしてもここで地力を見せた。彼 の遣うペテロは、本当に、どこにでもいる、罪深いわれわれ自身だった。そんな小さいも のが、イエスと出会い、イエスに許されることで、命を得る。この物語のエッセンスを凝 縮している。
 このペテロが入ることで、劇的な起伏と、共感と、主題が明確になった。そ して、前後半を通じて、人々の善意にもかかわらず、悲劇へと向かう人間の悲しみと、そ れを超えて人の絆を回復するイエスのいのちを、感じることができた。
 忘れてはならない。この日、力強い三味線で、太夫を支えた清友、出すぎず、しかも負 けることなく連れ弾きをこなした喜一朗、そして2つの語りを、その主題を明確に、隅々 まで情の、血の通った浄瑠璃で、ただ一人で語りきった英大夫を。
 私自身は、この物語を、素浄瑠璃の段階から聞いている。素浄瑠璃の場合、言葉の力が 直接的に聴覚から心へと、意味へと深く食い込んでくる。魂はそのなかに沈潜する。義太 夫の言葉と聖書の「ことば」は、たしかにそこで切り結んでいた。
 そして今回、人形の表 現によって、新たな可能性が加えられた。
 それは、見る者が、舞台にもう一人の自分を見 出すことである。これは見ることが距離をおくことになり、人が自分を見直す余裕を持つ ことになるからである。それをするためには、われわれに近い人物がいなければならない。
 まことに、ペテロを登場させたことは天の配剤であった。そしてこの物語は、キリスト教 の日本文化における表現として、ひとつの可能性を示すものであったといえよう。
 この舞台が実現するまでに、数々の困難があった。十分な準備や資金があったわけでは ない。しかし、どうしても実現したいという強い彼らの意志が、この試みを成功させた、 それを支えたのは、多くのファンであり、それぞれの家族・友人たちである。
 こんなあた りまえのことが、文楽の原点ではなかったか。
 伝統を守る、型を継承する、その前に、語 るべきもの、演じるべきものを見出す、それが、今日においても、文楽を現在形の、生き た営みとする。演じる人々にとっても、見る人にとっても、支える人にとっても、リスク を負うことを決断し、かつそれへと力を結集することにより、かけがえのないものが生み 出される。
 この「イエスの生涯」は、文楽作品として、まだまだ表現を洗練する余地があ る。
 人としてのイエスをどう表現するか、マリアをさらに生かすには、他の弟子や群集を ツメ人形で出すことはできないか、等々。
 わくわくしてくる。毎回、違った演出を試し、 ふさわしい表現を作り上げていく。その創造の営みが、われわれをいざなう。
 また、原曲 の作詩者である丹羽孝氏、今回の「イエスの生涯」を作った川口真帆子氏、照明の民部吉 章氏の見事な演出、最後まで手話通訳で、ある意味で語りの真髄を実演してくれた土屋徳 子氏と小笠原雅博氏、総合司会として、この会の全体の意味を明確に語り知らせた高原剛 一郎氏らの功績を特記しておきたい。
 何より、会場整理やCD販売にあたったボランティ アの方々の熱意とお働きが、なんとも言えず暖かい雰囲気を作り出していたことも。
 そして、それを作り出す現場を共にすることで、われわれは、もう一度、自分が一人で は生きられないこと、多くの人とつながりあっていること、そのためにこそ、彼らがこの 芸の道に命をかけて戦っていることを見出すであろう。
 それこそが、この作品を上演した ことの意義であるに違いない。