21世紀の三番叟

なぜ、三味線は、16回(あるいはそれ以上)の繰り返しを、末席の清丈まで、一糸乱れず清治の手の速さについていけるのだろう。

つまり、新しい年、新しい始まりを寿ぎ、その豊かな実り、幸福を祈ると共に、舞手自身がこれら神的存在を象徴し、あるいはこうした祝福を与える側の存在となる、という興味深い二重性が見られる。

まず千歳が進み出でて舞う。 英の声は清やかに響き、千歳はそれにふさわしく、一点のかげりもない、清新さ、すがすがしさにあふれる舞。 さきがけとしてその場を鎮め、春を呼ぶにふさわしい。

英は、初日からしばらくは、まだ声に前月の疲れが残っていたようだが、しり上がりに調子を上げ、見事に語り勤めた。 清之助は千秋楽近くなっても、舞台の直前まで、舞台袖で出の動きを繰り返し繰り返しさらっていた。 こうした日々の修練と心がけが、こうした舞台の充実を生み出すのだろう。

三番叟の動き、種蒔くしぐさ、向き合っての、また隣り合っての、その一見単調な動きが、繰り返しのリズムに乗って、次第に動きも大きく激しくなり、その律動に心が躍ってくる三味線のユニゾンが、このリズムを繰り返し繰り返し、最初は1フレーズが30秒、2回繰り返し続いて25秒に、23秒に、最後は20秒を切るかと思われるこの緩急自在の動きを、6人の三味線が一糸乱れず奏でる、見事としか言いようがない。 それとともに、三番叟の動きがその緩急に合わせて、次第に大きく、激しくなる。 まだまだ、もっと、もっと、と、見る者がその中に、自分自身を移入するかのように、演じる者の激しさに没入していくのがわかる。

簑太郎、玉女。その動きの一つ一つに意味がある。 この三番叟の動きから、われわれの先祖がどれほど豊かな実りを、大地の恵を祈願したかわかる。 彼らの思いを、感覚を共有できたと思える一瞬だった。

単なる伝統礼賛でもない。…彼らが自分の舞台に、いのちがけでぶつかっていくとき、また観客も、予備知識の有無でなく、心底そこに見出そうとするなら見えてくる、魂の交歓がある。

21世紀の三番叟

森田美芽

 なぜ、三味線は、16回(あるいはそれ以上)の繰り返しを、末席の清丈まで、一糸乱 れず清治の手の速さについていけるのだろう。
 なぜ、三番叟の玉女と簑太郎は、最後まであんなに激しい動きにも関わらず、ぴったり 呼吸を合わせ、舞い続けられるのだろう。
 見るたびに、聞くたびに、心が躍動する。2001年初春公演、21世紀を寿ぐ「寿式三番叟」、 その力に触れて、思わず胸が躍るのを抑えられないのは、私だけではないだろう。今回は その「三番叟」の魅力を探ってみたい。
 文楽の「三番叟」は、能の「翁」にその淵源を持つ。物語ではなく、天下泰平、国土安 穏の祈祷曲として舞われ、あわせて嘉例延年の祝福がもたらされる、という。

 本来は仏教の儀式、南都興福寺の維摩会に、仏教の奥義を表現するために考案されたと いい、父尉(釈尊)・翁(文殊)・三番(弥勒)の順に呪師(じゅし)によって舞われた三 番猿楽であり、後に父尉と延命冠者を伴うようになり、また稚児が露払いを勤めるなどの 変更があり、室町期に現行の「露払い(千歳)、翁、三番猿楽(三番叟)」となったといわ れる。
 また「風姿花伝」には、秦氏の子孫が村上天皇の御代に66番の申楽のうち、3つを 選んで「今の世の式三番これなり。則ち、法・報・恩の三身の如来を象り奉るところなり」 とある。
 つまり、新しい年、新しい始まりを寿ぎ、その豊かな実り、幸福を祈ると共に、 舞手自身がこれら神的存在を象徴し、あるいはこうした祝福を与える側の存在となる、と いう興味深い二重性が見られる。

 人が神になる。キリスト教ではイエスだけに認められる排他的な神秘である。
 それが、 日本では、共同体の長老である「翁」によって担われる。
 祈るものが同時に祝福を与える ものとなる。
 それは祭りという非日常の時空において、神々との交わりにより人間が超日 常的な力を得る、という思想を現す。それを「翁」の面を掛けることによって表現したの である。

 従って「翁」には、われわれの先祖がもつ神への意識、切実なる祈り、共同体の 祝祭としての面が、色濃く見て取れる。
 現行の文楽では、この様式を受け継ぎつつも、より視覚的、感覚的に訴えるものとなっ ている。
 明和年間(1764~72)にすでに上演の記録が見える。
 三番叟が二人立ちに なったのは明治以降と見られている。
 現行の華やかな演出は、むしろ歌舞伎からの逆輸入 になっているという。

 だが、それでも、なおそこに感じられる何か、私たちの先祖の表現 し、感じ、見たもののなごりが、形にならないまま、胸に迫ってくる。それは何なのだろ う。
 舞台は松羽目、能の橋懸りを模して、3本の松の作り物。なにより船底をつかわない平面 の空間は、何かに満たされることを待っている。
 最初に登場するのは面箱をかかえた千歳。紫の梅模様の着付けに紅梅白梅のかざし、若 男のかしら。清之助はしずしずと進み出る。
 続いて翁。かしらは孔明。厳かに歩み出で、正面で平伏する。これはいつも思うのだが、 観客に対してではなく、劇場正面の櫓に降臨する神に対しての礼ではないのか。(渡辺保『女 方の運命』参照)
 そうすると、客はここで拍手をすべきではないことになる。いまは櫓そ のものが形式化しているが、こうしたいわれは忘れたくはない。
 三番叟登場。先に検非違使の玉女、後に又平の簑太郎。きびきびした動き。このペアの 見事な対象性が、文楽の三番叟の魅力である。

 まず千歳が進み出でて舞う。
 英の声は清やかに響き、千歳はそれにふさわしく、一点の かげりもない、清新さ、すがすがしさにあふれる舞。
 さきがけとしてその場を鎮め、春を 呼ぶにふさわしい。
 英は、初日からしばらくは、まだ声に前月の疲れが残っていたようだ が、しり上がりに調子を上げ、見事に語り勤めた。
 清之助は千秋楽近くなっても、舞台の 直前まで、舞台袖で出の動きを繰り返し繰り返しさらっていた。
 こうした日々の修練と心 がけが、こうした舞台の充実を生み出すのだろう。

 匂うやかな、あでやかな千歳。
 翁の舞。面をつけることで神格を得る。
 本来は族長としての人物であり、祈る代表であ る。短いが文雀はさすがに貫禄と威厳のある翁。十九大夫は大きさと柄と格あるシンの役 割をつとめる。

 三番叟の舞。
 揉みの段と鈴の段。三番叟が踏みしめる。
 大地を踏みしめ、そのいたる所 を踏みなおす。
 あるいは速く、時には大きく、大地の豊穣を祈願して、その恵みを「わが このところより他へはやらじとぞ思ふ」と、力強く踏みしめる。
 このリズムの心地よさ。 三番叟の動き、種蒔くしぐさ、向き合っての、また隣り合っての、その一見単調な動きが、 繰り返しのリズムに乗って、次第に動きも大きく激しくなり、その律動に心が躍ってくる 三味線のユニゾンが、このリズムを繰り返し繰り返し、最初は1フレーズが30秒、2回繰 り返し続いて25秒に、23秒に、最後は20秒を切るかと思われるこの緩急自在の動きを、 6人の三味線が一糸乱れず奏でる、見事としか言いようがない。
 それとともに、三番叟の動 きがその緩急に合わせて、次第に大きく、激しくなる。
 まだまだ、もっと、もっと、と、 見る者がその中に、自分自身を移入するかのように、演じる者の激しさに没入していくの がわかる。

 津駒、千歳、共に次代を担う語り手であり、前に出る語りはその力を思わせる。
 だが、 少し力が入りすぎでは、と思う時もあった。
 こうした祝祭芸では、太夫は声の器に徹しな ければならないのではないか。
 人物や感情移入でなく、またいたずらに自己を顕示するの でなく、求められる声の器としておのれを無にし、明確に言葉を言霊として扱うこと、わ れわれ近代人にとって、これほど困難なことはない。
 が、なおそれに徹するところに共同 体の祈りとしての意味が伝えられるのではないだろうか。
 そして簑太郎、玉女。その動きの一つ一つに意味がある。
 この三番叟の動きから、われ われの先祖がどれほど豊かな実りを、大地の恵を祈願したかわかる。
 彼らの思いを、感覚 を共有できたと思える一瞬だった。

 私たちが文楽の舞台を良いと評するとき、そこにはいくつかの要素がある。
 まず、技芸員たちの芸が十分に練られ、磨かれたものであること。
 そうした技芸が十分に 発揚されるとき、私たちはしばし夢の世界にあそぶことが出来る。
 鍛え抜かれた声、ゆる ぎない一瞬の緊張を作り出す三味線、わずかなかしらの動きで、魂を込められる人形。

 第二に、一人一人の技芸が、全体としての舞台を、物語を作り出し、そこに古い物語の 持つ世界の意味を十分に伝えること。
 彼らの演じている人物が、その関係が、背景が、そ の世界のも
つ論理が、今日と違っていても、違っているということ自体、十分に伝えられ ること。  夫婦愛の奇跡、親子の情、武家の義理と親子の情の葛藤、等々。

 第三に、それが現代の我々に語りかける何らかの必然性を、すなわち同時性をもつこと。
 技芸員たち自身は、それぞれに異なる人生をもち、昔のような人権無視の修行時代を送っ たわけでない者たちも多い。
 彼らもまた、私たちと同じ世界に生きる人間である。
 その彼 らが演じるのは、いまでは見失われつつある日本の精神的伝統であったり、義理の論理で ある。
 そうした、自分たちの論理以外のものを演じるとき、彼らはその違和感を、自分の 内面でなんとかして埋めなければならない。
 ある者はそれを非現実と割り切り、ある者は 昔の確かだったものを思い起こそうとする。
 だが、単なる懐古趣味でも、伝統礼賛でもな い。確かに見失われてならないものがあり、それをすることによって今生きている自分自 身の取り戻し、あるいは再発見させるものがある。
 演じるものにも、見るものにも、それ は与えられる。

 彼らが自分の舞台に、いのちがけでぶつかっていくとき、また観客も、予 備知識の有無でなく、心底そこに見出そうとするなら見えてくる、魂の交歓がある。

 第四に、彼らの伝える芸の内容が、有形無形に伝える精神の伝統を、共に出来る場をも つこと。
 そこに祝祭芸としての意味がある。
 単に見て楽しむ、というのでなく、そこに参 加するものとされること。自分たち自身のうちに、それらに呼応する何かを見出すことが できる、我々がある精神性のうちに生まれ、養われていることを見出す。
 無論、日本人だ から当然、という捉え方はしたくない。それが特定のイデオロギーに結びつくものであれ ばなおさら。
 しかし、私たちの受け継いでいるものが、この世界の中で、何をあらわし、 また何を担っているのかを自覚することは意味がある。

 私たちが見失ってならないものは、 その個別の精神性をその場としつつも、それを超えてあるのだから。
 そして文楽が、その 伝統を通して、それを見せてくれる、貴重な芸脈であることはいうまでもない。
 今回、「三番叟」の充実を通して、そうした思いが与えられた。
 そしてまた、その「何か」 を見出すために、私は劇場へ向かい、彼らの舞台に向き合いたいと願う。
 よき新しい年で あることを願いつつ。