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小狐丸の怪、小鍛冶の畏れ

森田美芽

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 そこは、異空間だった。
 多くの人が、初めて足を踏み入れた空間。しかも照明を落とし、和蠟燭の揺らめく光のみ。その暗さの中で、語り、舞う人々に、微動だにせず心が引き寄せられているのがわかる。
 2019年5月31日、大槻能楽堂自主公演能は「小狐丸―伝説の刀剣 誕生の瞬間」と題した画期的な企画であった。
 ナビゲーターの桂吉坊氏が、「能楽堂は初めての方?」と尋ねると、およそ3分の一は手が上がったのではないか。特別ゲストの近藤隆氏は無論、「刀剣乱舞」すら知らない筆者にとっては、驚きとしか言いようがなかった。そして近藤氏が、その由来となった「小鍛冶」の一節を現代語で朗読されるその姿勢の真摯さ、固唾を飲んで聞き入る聴衆。そして「小鍛冶」の別演出の解説のために、大槻文蔵師が拍子をとられて地謡2名で、赤頭と白頭の差を演じて見せる。神格としての稲荷明神をいかに表現するかというこの舞台の主題を、妥協なく、実に分かりやすく簡潔に見せるその手法と解説にまた感心させられた。
 蠟燭に火が灯され、舞台中央に所作台と緋毛氈が備えられ、三挺三枚。呂太夫、希太夫、亘太夫が並び、三味線は清友、友之助、燕二郎。
 その声は、確かに客席に向かっている。だが、いつもと違う。声が、舞台の背後から響いてくるような感覚がある。あたかも、稲荷山の闇から明神が降りてくるように。三味線もまた、その強さが増幅され、隅々まで届き、広がる。いつも文楽劇場で語るのとは違う、彼らにとってもここは異空間なのだ。人形を活かすための彼らの語りと三味線は、もっとそれ自体の持つ純粋な力と、何か貫くものをもって広がり、耳を通してでなく、全身に浴びせられる。その感覚に打たれる。三味線の手には「千本桜」の狐に使われる手が多く出てくる。なじんだ声と音。にもかかわらず、迫ってくるものが明らかに違う。
 後半、能「小鍛冶」は黒頭別習の小書がつく。観世喜正氏による前シテは童子で稲穂を手に持ち稲荷明神を象徴し、後シテは輪冠なしの黒頭。小走りに足を細かく動かす狐の歩み。その異界性。この世ならぬものが、揚幕の向こうから歩み寄り、舞台を横切り、相槌を打つ。その前のワキ三条小鍛冶宗近の福王知登氏の誠実さ、勅使橘道成の喜多雅人氏の動かざる品位に対し、明らかにこの世ならぬものが降臨する舞台となる。激しく刻まれる鼓、太鼓。切り裂く笛。まるで一人の声のような地謡。そして舞台を背後からまとめる、後見の座に大槻文蔵師、斎藤信隆氏、赤松禎友氏の、翁のごとき眼差し。
 蝋燭の灯だけでは、面をそれと判別することも難しい。そして面をかければ、ほとんど周囲は見えないままではないだろうか。にもかかわらず、その動きは一部の隙もなく、十全に見えているかのよう。手を伸ばし、幣を取り、刀を鍛える、その空間に充ち満ちているものが、その身体と共に語っている。一つになる地謡とともに、もう一つの身体の無言の声を聴くように。
 そうだ。能楽堂で能を体験する、それもこのわずかな灯の中で、鍛えられ身体と一つになったその動きに、言葉なく満たされるものと出会える。ここでは義太夫節の語りもまた、そうした身体性の時空の中で、より研ぎ澄まされた声となり音となって、私たちの感性に直接的に届いているようだ。

 幕間、多くの方が舞台に寄り、蠟燭の揺らめく舞台を写真に収めている。しかし舞台に向かうマナーの良さが光った。そういえば、能楽堂は初めてなのに、全く場を壊すようなふるまいはなかった。むしろ、素直に感じて拍手し、笑い、息を詰める。それだけではない。多くの方が想像だにしなかったこの空間に充ち満てるものを体験することができた。それと名状できなくとも、確かにそれは「見た」感覚としてその人を見たし、いずれまた「能」の時空を慕わしく思える時が来るだろうと思わされた。
 能であれ文楽であれ、これまで知らなかった人々にどうやって知ってもらうか、一度も来たことのない劇場にどうやって招くかが喫緊の課題である。それに対する一つの回答としてなされたこの試みを高く評価したい。阿るのではなく、いたずらに親しさを強調するのでなく、品格を持って、能と文楽、そこにしかない経験を提供し、それを味わっていただくこと。美しいものに出会わなければ、美しいという形容詞は使えない。見所において能の持つ身体性と超自然への親和性、義太夫の語りの荘重さとダイナミズム、掛け値なしのその真髄に触れることができたこと、その勇気と、携わられたお一人お一人の誠実と、芸なるものの高みを保ち続ける方々への、新たな感謝と敬意を表しつつ。

カウント数(掲載、カウント2019/06/06より)

沈黙の溢れ、日長き桜―国立文楽劇場2019年4月公演―

森田美芽

 歴史は夜作られる。そして夜の深さに広がる静寂。一部と二部でこれほど趣向の異なる演目でありながら、その主眼は夕刻から夜なのだ。

 桜と四条河原と城。文楽劇場の四月公演は、スケールの大きな時代物、じっくり効かせる世話物、そして三大名作と、文楽のエッセンスが揃った舞台。ことに「忠臣蔵」通しと銘打って、3公演に亘って全段を上演する試み。これには賛否両論あるが、それはそれとして、舞台成果を客観的に見ていきたい。
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 第一部『仮名手本忠臣蔵』大序より「城明け渡し」まで。
 大序は毎回、若手の精一杯の語りが楽しみ。最初は亘太夫、小細工のない堂々とした語り。錦吾は端正で生真面目。
 二番手の碩太夫、声は若いが詞を大切に語っている。真正面からぶつかっていく姿勢が清々しい。若狭助と師直の最初の諍いをきちんと語る。清允も臆せずその緊迫感を伝える。小住太夫は高音にやや苦しむも、「女好きの師直」などが伝わる。
 燕二郎、「目利き」の後の一撥のキマリは師譲りか。咲寿太夫、清公。清公は一日の長あり。安定した響き。咲寿太夫は「御錠意の下侍」などはっとさせられた。

 この場では玉勢のすずやかな足利直義、簑紫郎の顔世の、品位と共に清涼感のある存在感が印象に残った。

 続く「恋歌の段」。
 師直を津国太夫、顔世を南都太夫、若狭助を文字栄太夫、三味線は團吾。津国太夫の師直の憎々しさ、「よい返事聞くまでは」の底強い悪のいやらしさ。南都太夫の顔世の、この場の追い詰められた苦衷、文字栄太夫の若狭助も直情らしさを聴かせる。
 短いが、ベテラン揃いで、ツボを押さえた語りと気合を込めた團吾の三味線。

 二段目「桃井館力弥使者の段」
 芳穂太夫、清丈。最近省略されていた「梅と桜」の久々の復活。芳穂太夫もあまり力を入れ過ぎず、しかし冒頭の奴詞はなめらかに、本蔵の堅苦しさ、戸無瀬の娘への配慮など、大人の浄瑠璃。
 ただし加古川本蔵の詞はいま一歩。梅桜にももう一段の風情を求めたい。
 清丈の三味線は、音色も撥を下すタイミングも実に的確なサポートができるようになったことが感慨深い。奴関内は和馬、可介は簑之、なかなか面白い一対。

 「本蔵松切の段」
 三輪太夫、清友。ベテランはやはり違う、と思わされる。本蔵の詞が段違いに響く。本蔵と若狭助の間の緊張、若狭助の覚悟、それを直接諫めることはできないと知る本蔵の老獪さが伝わってくる。
 それらの深みが響き合うように、幾重にもその思いを見通せるような清友の三味線。

 玉助の力弥の爽やかさ、凛々しさ。さすがに小浪が惚れ込むのもわかる。紋臣の小浪の初々しさ、愛らしさ。その中に武家娘の強さも。戸無瀬は簑一郎。この場だけだとその重みがわかりにくいが、気の利いた母の思いやりもうまく見せた。

 三段目「下馬先進物の段」
 小住太夫、寛太郎。小住太夫は抜擢に応える。
 伴内の詞が、意識して動かそうとするが、まだ堅く声がかすれる時もある。師直と本蔵の語り分けはまだ課題が残る。まだ十分使える声域が狭いように思える。
 しかしこの場の性根をきちんと押さえたことは大健闘。寛太郎も動きのある三味線で導く。

 「腰元おかる文使いの段」
 希太夫、清馗。端正で折り目正しい希太夫の浄瑠璃に、ここは柔らかさ、広がりが加わった。「高砂の浦に着きにけり」など謡がかりも伸びやか。
 このおかるの造形が、後の悲劇の大きな鍵となるだけに、おかるの一途さが前に出た。伴内の詞にもう少し端敵の性根が出るとよい。清馗はこうした柔らかさ、色気もよく弾いている。

 「殿中刃傷の段」
 三段目の緊迫を、呂勢太夫、清治が描き出す。若狭助の勢い込んだ表情と、それをいなす師直。打って変わった師直に戸惑いを隠せない若狭助と、事情を知らずとばっちりを受けることになる塩谷判官。
 師直にいじめられ、追い詰め、追い詰められていくその火花の散るような葛藤と、ついには禁を破って刃傷に及ぶほどの怒りを、呂勢太夫
は見事に描き出した。大笑いに二度、拍手が来るほどに。導く清治の糸の揺るぎない足取り。

 「裏門の段」
 睦太夫、勝平。ここは一気呵成に進むところ。睦太夫は最初の一声の調子がどうかと思ったが、持ち直し、勘平の無念をじっくりと、またおかるの悔いの一言を、説得力ある語りで聞かせた。
 勝平の人物の描き分けの的確さ、ユーモラスささえ感じさせる。

 四段目。「花籠の段」
 文字久太夫改め豊竹藤太夫、團七。緊張感を保ち、しかも原剛右衛門と斧九太夫の性根を示し、クライマックスへの備えをしなければならない。藤太夫は荘重さを出しつつ詞の変りに性根を感じさせ、良い備えとなった。團七は、唯一の色である花の華やぎとこの空間の重苦しさを糸に乗せて描きだす。

 「塩谷判官切腹の段」
 唯一の切語り、咲太夫の力演。白木の見台の備え。塩谷判官と石堂に比べ、薬師寺がやや軽い。しかしそのためにかえって静かな塩谷の怒りが伝わってくる。「通さん場」ならではの緊張感、
 燕三の「雨だれ」は、3度ほど、静かに降ろされる撥のあいまの、無音の透徹した間。
 待ちかねた由良助の登場からの畳みかける迫力と、判官の無念。昇華されないこの無念が、後々の悲劇を引き起こす。「さてこそ末世に大星が忠臣義心の名を上げし」のいたわしい強さが、今回の咲太夫の成果であろう。

 「城明け渡しの段」
 清允の三味線、正確にリズムを刻み、繰り返す中に浪士らの無念が確と刻み付けられる。碩太夫の気合の一声。

 人形では、まず勘十郎の師直の巨悪が見事。「恋歌」での色欲、「進物場」での物欲、「殿中刃傷」での権勢を誇る権力欲、それらの権化としての大きさを勘十郎が表現し、表情の変わらない人形の、怒りが増幅する様子まで感じさせた。
 対する和生の塩谷判官は、今回、品位を保ちつつも、理不尽な罵詈雑言を向けられることへの怒り、その故に切腹に追い詰められる無念さを強く表した。
 玉男の由良助は、舞台も観客も、固唾を飲んで見守るこの場の役割を、信頼して委ねられる座頭の貫録を感じさせた。師の型を踏襲しつつ、判官の無念を受け継ぎつつ、ふとにじむ悲しみを表した。

 簑助の四段目の顔世。
 花を飾る品位と、夫の遺骸にすがりつく様子に、判官との夫婦の絆を感じさせる。今回省略された「御台二た目と見もやらず、口に称名目に涙」の詞章が見えるようだった。
 文昇の桃井若狭助、直情径行の若さとふてぶてしさを大序から遣う。玉輝の本蔵、老獪さと実直。文司の伴内、愛嬌ある端敵。玉佳の勘平、ここでは軽率さが目立って良い。
 一輔のおかる、「文使い」で勘平の手を取って迫るのが色気というより若さ。玉路の珍才、小物だが忠実。玉翔の力弥、「梅桜」の瑞々しい色気と、四段目の気丈さ。勘市の原郷右衛門、堅物らしい。
 文哉(代役簑一郎)の九太夫、こちらも腹に一物をよく遣う。石堂は玉志と玉助が交替で、重さはやや玉志が勝るか。紋秀の薬師寺、こちらも石堂との対比だが、やや軽く感じた。
 

第二部は『祇園祭礼信仰記』より「金閣寺の段」「爪先鼠の段」
 「金閣寺」
織太夫、藤蔵。織太夫は意欲的な語りでこの場を勤める。
 時代物の格、大膳の悪の大きさ、碁の用語を織り込んだ詞の小気味よさといい、舞台ごとに大きくなっていると感じる。ただ、少し時代を意識しすぎてか、力が入りすぎたところも。
 藤蔵も相乗効果のように波に乗っていく。

 「爪先鼠」
 千歳太夫、富助。アト芳穂太夫、清志郎。千歳太夫は朱色に金房の見台。力むこともなく自然に大きな構えの時代物を語るようになった。大膳の悪も雪姫の必死も実に自然に体に入ってくる。
 「花か雪かと眺むる空に、散ればぞ花を雪と詠む、命も花と散りかかる」の美しさと、緊迫感の見事さ。支える富助もまた、派手に聞かせるよりも花に託された運命の流転を包み込むような、包容力を感じさせる。
 アト、芳穂太夫、清志郎。ここも聞かせるし、見せ場が多いが、それをしっかりと作り出す、力強い語りと頼もしい糸。

 そして清十郎の雪姫の美しさ。一分の隙もなく、まさに「雨に打たれた海棠桃李」の風情、縄に縛められ、必死に爪先で鼠を描く、鼠が体を上るその感触まで感じるような、被虐の美。
 目を閉じて片手で遣うその集中力が隅々まで漲り、その奇瑞を生み出す不思議な空間が広がった。
 玉志の松永大膳、口あき文七の悪役のスケールの大きさを表現した。玉助の此下東吉、品位ある、美しい二枚目に映るので、背が低いという設定があまり実感できない。三重での活躍も危なげがない。
 紋秀の直信、こちらはうちしおれた二枚目の風情。亀次の慶寿院、身分の高さが自然ににじみ出る。紋吉の松永鬼藤太、兄に勝る弟はなし、という点で忠実さが光る。玉誉の石原新五、簑太郎の乾丹蔵、玉彦の川嶋忠治らも気分よく動く。
 玉誉に一日の長あり。文哉の十河軍平、正体を現してからも手強い。

 溢れんばかりの桜、大掛かりな仕掛け、スペクタクルな面だけに目を留めやすいが、今回は語りの丁寧さもあり、雪姫の爪先鼠も効果的で、幻想的な春の風情まで感じさせる好舞台であった。

 続いて『近頃河原の達引』「四条河原の段」「堀川猿廻しの段」は、しっとりと胸に迫る情の舞台。
 「四条河原の段」は靖太夫、錦糸。靖太夫はこうした地味なやり取りもしっかり聞かせるようになった。
 とりわけ官左衛門と伝兵衛の性根の語り分け、勘蔵のおかしみ、久八の実直など、人物像を明確に出している。錦糸の糸の華やぎはこうしたところでも、ふっと息をつかせるように響く。上方唄「ぐち」は碩太夫。

 「堀川猿廻し」
 前津駒太夫、宗助、ツレ清公。奥呂太夫、清介、ツレ友之助。
 津駒太夫はたっぷりと、貧しい中で懸命に生きる母子の情、おつるの愛らしさ、与次郎のおかしみを聴かせる。情の深さが加わった。
 宗助は逆に淡々と、この家の光の薄さ、生活の音の豊かさを静かに伝える。清公は三味線の掛け合いを対話のように弾いている。

 呂太夫の語りが、「おもろうて、やがてかなし」を体現している。
 この、善意の人たちの悲劇を、あまりにも貧しくはかない運命の人たちを、暖かく見守るように。「最後はお猿に全部持っていかれる」というが、猿廻しの後の「ああよい女房じゃに」で思わずほろりときそうになった。
 「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん」もまた。無駄な力を入れず、それでいて心の琴線に触れ、動かす。軽さと重さの妙味。
 清介の名人芸というより、この三味線の楽しさと豊かさ、友之助もまた一段と華やかに、この場を盛り上げる。それゆえに、段切れはまた悲しみが増す。

 井筒屋伝兵衛は勘弥。町人らしい柔らかさと、怒った時の激しさ。玉勢の官左衛門、こうした敵役もうまくなっている。勘介の仲買勘蔵、なかなかの遣いぶり。廻しの久八は清五郎、男気ある立ち姿。
 簑二郎は誠実そのもの。そのおしゅん、師簑助の型を受け継ぎ、遊女でありながら心は貞女の一筋なる思いが形に現れる。

 玉也の与次郎。貧しく無筆であっても心優しく実直な男としての造形が素晴らしい。勘壽の母は、目の見えない悲しさ、娘を思いやるがゆえに、心中行を許す切なさ、そしていま、想像もつかないような、貧しさに生きるリアリティは、この人でなければと思わせる。
 勘次郎の稽古娘おつる、三味線手の扱いもよかった。猿は勘介、この愛らしさに、この悲劇は救われているように。

 舞台成果は素晴らしいものであったが、やはり違和感は残った。
 とりわけ、「判官切腹」のあと、たよりなく放り出されたような感じで劇場を後にした時の「これでよいのか」という違和感。

 この忠臣蔵の悲劇の根本は、すれ違い、八つ当たり、とばっちりである。本来は桃井と師直の対立であったのが、その怒りの矛先が、元々はあまり関係のない塩谷判官に向くという理不尽。
 しかも原因を作った当人は、部下の機転で難を逃れ、最初全く関係なかったはずの人間は、道ならぬ横恋慕のとばっちりで侮辱されるという屈辱。そして結果は、藩を奪われ自分は切腹、部下たちは浪々の身となるという理不尽。
 そしてそれが、仇討のために増幅されることから生まれる悲劇である。そのためには、その原因と無念さが、全編に亘って貫かれていなければならない。
 全体を3回の公演に分けることのデメリットは、まず忠臣蔵というドラマの成立全体にかかわってくる。悲劇はまだ始まったばかりで、いわば仕込みの段かいである。その劇的緊張が続かない、一つの世界が終わらないままに、まったく別の時間が始まる。
 そこに不安というより、根本的な問題を感じる。

 第二に、演者の問題。「忠臣蔵」は総力戦である。演じる側にも大きな試練である。
 公演ごとに、どの役を、どの段を割り振られるかが、現状の自分の立ち位置となる。それは毎回、さながら演者の方々の「番付」を見る思いであった。しかしこの上演の仕方ではそれが確とはわからない。
 「忠臣蔵」の中の役、それは文楽の内部にある厳しい芸の秩序を示すものではなかったか。
 歴史を紐解けば、国立劇場ができた昭和42年ごろの文楽は、やはり人数的に現在と大差ない陣容で通しをかけている。今回は3分割というやり方だが、それが問題と感じられるのは、おそらく夏公演の五段目から七段目、11月の八段目以降の時であろう。
 花形の役が、特定の技芸員だけに集中されないだろうか。もしそうなら、ベテランも若手も、それぞれにしどころのある役を与えられ、それを精一杯努めることで、芸の上でも飛躍を遂げるという上演のもう一つの意味はなくなってしまうのではないか。
 
 本来通しの上演なら一人の人が良い役を独占できないようになっている。しかし3分割となると、それもどうなるか不安である。
 結局、いまの文楽で、いつも役が特定の人に集中してしまい、一方で実力を正当に評価されていないのではと思われる人がいる。そのために、舞台がマンネリ化していないか。
 役をどう割り振るかは制作の最も重要な仕事である。今回の3分割方式が、悪い前例にならなければと案じる。「忠臣蔵」での配役は、可能な限り、毎回新しい挑戦であるべきである。

 舞台は、この一度では終わらない。現在の舞台の質を保ったまま、この陣容を維持し発展させていかなければならない。新しい観客を取り込み、新しい時代の中で、なおもその美しさと情を発信できる文楽でなければならない。
 5年後、10年後のためにいますべきことは、この業と伝統を担う一人一人を活かし、その芸をきちんと評価し、芸の伝承ができる舞台を作り続けていくこと。国立文楽劇場は35年の歴史を重ねたが、それが終わらないように、いまこそ、全力を挙げてその課題に取り組むべきである。

カウント数(掲載、カウント2019(令和元年)/05/01より)

開かれた扉 ―狂言風オペラ「フィガロの結婚」大槻能楽堂版―

森田美芽

 大槻能楽堂に足を踏み入れる時、いつも異空間に身を置くときの緊張感が走る。
 何度通っても、そこには素人に対する結界のように、興味本位など跳ね返されるような、見えない力を感じる。それでいて、舞台は三方に向かって開かれ、正面、脇正面など、様々な見え方を許し、自由な想像を働かせ、舞台と一体になる感覚をいつも味わうことができる、不思議な空間である。
呂太夫フィガロの結婚 
 昨年、いずみホールで見た狂言風オペラ「フィガロの結婚」が、2019年3月20日、大阪での能のホームグラウンドともいうべき大槻能楽堂で再演された。その楽しさ、そしてそこに深く感銘を受けたことを記しておきたい。
 
 能楽堂で演じられることの意義。それは、能・狂言の役者にとって、身体に叩き込まれた動きのリズムが最大限生きることである。
 三間四方、狭いはずの空間を最大限に使い、道行の足取りもなめらかに、目付柱の前でぴたりと静止し、階(きざはし)を上り、三味線の友之助の陰に隠れ、そうした動きの訓練された自然さに、まず心を惹かれた。
 太郎の野村又三郎氏の重厚さと軽妙さの微妙なバランス、お花の茂山茂氏の、太郎との軽妙な掛け合いと女の強さのバランス、蘭丸の山本善之氏の、「蝶々」のような身軽さ、茂山あきら氏のおあきの、女の抜け目なさ、どれもこの舞台では自然な笑いに包まれる。
 男性が女性を面もなしに演じて、なおも何らの不自然さも感じさせない力。風刺を取り込んだ軽やかな科白の数々、どれも狂言ならではの楽しさを満喫させていただいた。
 
 対して、奥方を演じる赤松禎友氏。金地の唐織の華やかさと、増女(?)のバランスの美しさ。この舞台で唯一、嫉妬や恨みのマイナス感情を体現しなければならず、それがフィナーレの「赦し」へとつながる難しい役どころ。
 赤松氏は、長年の修行で積み重ねられた「女」の恨みとその昇華という、能の普遍的な主題への親和性がもはや血肉となっていると思われた。その自然さが、一見不自然なフィナーレの「赦し」を納得させたに違いない。
 わずかに彼女が本音を表わすかと思われたその舞の美しさ、構えや運びの自然さの中ににじませる人間性こそ、この舞台を生きる場としてきた方の本領であろう。
 
 しかし、身体性の確かさは、文楽も負けてはいない。
 勘十郎の遣う在原平平、人形なるがゆえに生々しさを消し、滑稽さ、風刺が一段と効く。狂言の方との絡みも、嫌味や不自然さがかえってなくなるという不思議。
 この首は以前、国立劇場で2014年に「不破留寿之太夫」に作られた首である。やや大きめで愛嬌があり、この役柄にぴたりとはまる。
 勘十郎の手にかかると、生身の人間以上に人間らしく見えるが、足は宙に浮いているのに、どうしてこんなに自在に体を動かして自然なのだろうと、人形遣いの三位一体の妙技に陶然となる。左は簑紫郎、足は勘介。
 
 橋掛かりにはクラングアートアンサンブルの方々が横一列に並び、伴奏ではなく、舞台において対等の位置を占めることを表現している。
 その音の自然な明るさとリズムは、西洋音楽の古典が身体に宿っている者たちの自然な音の現れのように聞こえる。

 そして今回、改めて知った音楽の楽しさ。普段はこの空間でまず聞かれない洋楽の管楽器とコントラバスの響きの広がり、高音の柔らかい伸びやかさ、低音の効果。
 そして義太夫三味線が、普段のメリヤスや三番叟から、「フィガロ」の「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」まで演じることのできる表現力の広さ。
 友之助ならではの音楽性が、義太夫三味線のもう一つの豊かさを引き出した。モーツァルトの曲と義太夫の間に、全く違和感を持たせない。この構成は見事である。

 しかし、この舞台の要は、音楽だけではなく、義太夫節の語りである。
 モーツァルトの曲は金管・木管とコントラバスの八重奏、狂言の語りと能の謡は生身の詞、その間をつなぎ全体を物語として語る豊竹呂太夫の語りの力。
 時に平平の科白で笑いを取り、その人間性をにじませつつ、人形と人間の異空間を一つにする語りの楽しさ。
 人形でしか表しえない平平のキャラクターの面白さを、人間とのやり取りに自然に引き入れる力である。
 
 それにしても、狂言を軸とする笑いの趣向の楽しさはどうだろう。
 愚かな主人を下僕がとっちめるという趣向は狂言に共通するが、主人が風流を解さないのは『萩大名』を思わせる。
 そして現代の笑い(吉本など)のアレンジや、時勢への風刺のきいた詞(忖度、隠蔽、市長と知事の取替選挙など)はさすがと思わされた。
 これに対し、文楽も負けてはいない。「約束じゃぞ」とおあきを見送るところは「すしや」の権太、三番叟にメリヤス、文楽を知る者には思わずくすり、となるような趣向がそこかしこに埋め込まれている。
 無論、知らなくても十分楽しいが、古典を楽しまれる方には宝石探しのような楽しみのある舞台である。

 そしてフィナーレ。出演者全員による挨拶に、この能楽堂の当主であり、この舞台の芸術総監督の大槻文蔵師が加わる。
 拍手がなりやまない。
 能楽堂では普通ありえないアンコールが自然に起こって、誰の心にも、満足があったことが分かった。
 作者の片山剛氏が言われるように、「誰もが幸せになる舞台を作りたい」と言われた通りの舞台になった。

 そしてこの舞台に立たれた時の、大槻文蔵師の、静謐で気品に満ちたたたずまい、それがすべてを物語っている。
 1400年の歴史を持つ難波宮跡のある上町台地、その中で戦争の災禍を経てこの能楽堂を守ってこられた矜持と使命感。大阪の都市格ともいうべき町の品格を保ち、なお庶民に愛されてきたこの貴重な場を私たちがいまも楽しむことのできるという幸い。

 いままた、次の時代に向けての新しい能楽堂のために、能楽の次の世代のために、また大阪の古典芸能のために働きを止めないその姿勢に、古典を愛する者の一人として、深く尊敬を表したい。この志が舞台を作り、生きる人々に喜びを与え、明日への力を生み出す「衆人愛敬」となるのだと。

カウント数(掲載、カウント19/03/21より)

その志明らかなれば―2019年初春公演―

森田美芽

 外では寒波にインフルエンザと暗いニュースが続いても、劇場の中には輝く命の熱がある。そう思って劇場へと足を運ぶ。変わらない正月の風情、華やかな舞台、その中に、許された命の誇らしげな力と、ややもどかしげに迫るもう一つの声を聴く。
初春文楽公演-B2ポスター

第一部の幕開きは『二人禿』。野澤松之輔の作で昭和16年の初演というから、それほど古い曲ではない。島原の春景色と言っても、それ自体すでに過ぎ去りし日々である。
 睦太夫、南都太夫、咲寿太夫、碩太夫は美声の太夫揃いで楽しめるが、言葉の中から伝わってくる色気がまだあるように思えた。三味線の勝平、清丈、錦吾、燕二郎。勝平のリードで廓の風情、羽根音、おこぼの足音まで聞こえるような華やぎ。10分ばかりの贅沢な時間。
 人形は一輔、紋臣。紋臣のははずむような動きで活動的、一輔のはおとなしやかで柔らかい動きときっちり性根の違いを見せた。

『伽羅先代萩』の「竹の間」はこれまで掛け合いが主だったが、今回は織太夫、團七で。
 確かに織太夫は語り分けがよいが、中でも最もつきづきしいと感じたのは、実は沖の井だった。特に後半、八汐をやりこめる、理路整然とした捌き方は胸がすっとする爽快さ。それに比べると、八汐の憎々しさはまだ軽く、滑稽さも感じられる。團七のリードは確実で、この場の逆転劇の楽しさを聞かせてくれる。
 「御殿」は千歳太夫、富助。
 千歳太夫は、こうした段をじっくりと聞かせる。
 たとえば「心一つの憂き思ひ」で政岡の苦衷を表わし、千松の健気さが胸に染みる。「千松に飲ます茶碗も楽ならで」がやや強く感じたが、大名の子がわずかな食事を待ち焦がれるという哀れさが伝わってきた。富助もしっとり聞かせる、大人の三味線。

 「政岡忠義」は咲太夫、燕三のところ、咲太夫の休演で織太夫が代役。本来なら、咲太夫が格上だから当然「御殿」と思っていた。織太夫にとっては大きな課題だが、よく応えたと思う。
 栄御前の短絡、忠義を第一とする前半から、母としての感情を爆発させる後半、「三千世界に子を持った親の心は」がいたく迫る。
 転じての大団円も見事に語り納めた。導く燕三の頼もしさ、一分の揺らぎもない。

 人形では、和生の政岡が乳母の母性とお家を思う忠節と気概を示す好演。
 「竹の間」で鶴喜代が沖の井の膳を食べようとするのを制する眼差しの力。勘壽の八汐は悪の貫目よりも出自の卑しさをどこか匂わせる敵役。
 文昇の沖の井は捌き役の冷静さが印象的。簑紫郎の小巻は老女方のかしらだが気合の鋭さを感じさせる。簑太郎の鶴喜代君はおっとりと大名の子らしく格ある遣い方。
 これに対し玉翔の千松は、臣下の子としての慎しみ深さや忠節を幼いながらにわきまえている、その健気さがいじらしい。簑助の栄御前、権高さと自分を頼む愚かさをじっくり見せる余裕。簑悠(前半は玉延)の忍びは及第点。

『壷坂観音霊験記』「土佐町松原」は亘太夫、清允。御簾内だが、はっきりと聞かせ、響かせる。気持ちの良い序段。
 「沢市内より山の段」前は靖太夫、錦糸のはずがこの日は芳穂太夫が代役を勤めた。「糸より細き身代の、薄き煙の営みに」とある貧しさよりも、思いのほか沢市の色気というか、若々しさが目立った。
 お里のクドキもなかなか聞かせるとともに、この男の苛立ちが、やりきれなさが伝わってくる語り。 錦糸の糸は生活感を帯びてなお美しい。

 は呂勢太夫、清治。ツレ清公。
 沢市が死んだと知ったときの嘆きの激しさ。そこに至るまでの、沢市のおどけたような、諦めたような表情との対比が素晴らしい。
 ただ、嘆きの深さを表わすには、沢市の屈折があと一歩というところか。段切れはめでたく、明るく終える。清治の余裕、それでいて鋭い、この人の表現の幅を改めて知る。
 人形では、玉也の沢市の屈折と色気を評価したい。簑二郎(勘弥)のお里の生き生きとした強さがまぶしい。勘次郎が茶店の嬶、玉峻が観世音。場を心得た遣い方。

第二部は『冥途の飛脚』と「壇浦兜軍記」
 『冥途の飛脚』「淡路町の段」口希太夫、團吾。團吾の音色はこの町の色、雰囲気、夕方の店先の空気の色を感じさせる。
 希太夫は丁寧な詞で物語の導入を作り出す。手代や妙閑の詞が印象的。この実直さと、忠兵衛との対比。
 奥文字久太夫、藤蔵。
 忠兵衛の色気と物狂おしさ。飯炊きのまんの滑稽味。八右衛門にすがるあわれさ、そして腹に一物の八右衛門。忠兵衛の危うさが十分にわかる出来。
 そして「措いてくりょ…行て退きょ」がやや芝居がかって聞こえる。藤蔵とはよいバランスで物語を進めていく。

 「封印切」呂太夫、宗助。
 宗助、一転して明るく華やぐ舞台。色町の風情をはんなりと聞かせる。呂太夫は「恋と哀れは種一つ、梅芳しく松高き」と、近松独特の、言葉の重なりの内に織りなされる人と状況描写。
 突き放すのではなく、入れ込むのでなく、冷静にその距離を保ちつつ、神の視点での描き方。そしていつの間にか、見る者が、追い詰める八右衛門、追い詰められる忠兵衛、嘆く梅川の心に同調していくような語り。
 呂太夫は八右衛門を、善と見せかけて追い詰め、逃げ場をなくす手の込んだ悪役として描く。忠兵衛は最初「短気は損気」と自覚しながらも、ついに三百両に手を付けてしまう。それを愚かさと言いきることはできない。

 私たちも、もし同じ立場ならどうあろうかと思わせる。梅川の嘆きもそれをとどめることができないほどに。この緊張感を見事に描いた。
 その通り玉男の忠兵衛は、自らの内面の穴に落ち込んだようなこの男の悲劇を納得させる遣い方。清十郎の梅川は、自らが原因と思ってその嘆きを深くする純情が哀れを誘う。玉輝の八右衛門は、この複雑な敵役の底意地悪さを描いた。
 玉誉の禿もよい出来だが、あとの狂言に三味線がついてしまうので損。簑一郎の花車、抑えた色気と人の好さ。

 「道行相合かご」
 三輪太夫、芳穂太夫、文字栄太夫、亘太夫。清友、清馗、友之助、清公、清允。
 この悲劇の後としては、あまりに中途半端な終わり方かもしれないが、三輪太夫初め、冬の大和の木枯らし、寒々しさ、二人の行く手のはかなさを感じさせた。しかしこの狂言で手代伊兵衛を玉助、玉志クラス、駕籠屋に玉勢、文哉とは、もったいないというか、贅沢というか。

 「阿古屋琴責」の段
 阿古屋を津駒太夫、重忠を織太夫、岩永を津国太夫、榛沢を小住太夫、水奴を碩太夫、
三味線は清介、ツレ清志郎、三曲寛太郎。

 ある意味、この段の影の主役は、三曲の寛太郎であったかもしれない。それほど見事な出来だった。琴も、胡弓も、その旋律の美しさと技量にため息をついた。
 それだけではない。勘十郎の遣う阿古屋が舞台に登場した時、ぱっと光が差し込んだように思えた。品格と貫目、そして心根の優しさ。その女が舞台で、ただ一人の男のために、責めを受け、三曲を弾く。
 あたかも人形が音を出しているかのように錯覚させる、

 その手の業と心と音色が一体化して、この上ないと思わせる舞台となった。
 左は一輔、足は勘次郎。津駒太夫はニンに合った役どころで、阿古屋を情深く聞かせる。織太夫の重忠は折り目正しく心ある智将。ただし裁きの重みがいま一歩に感じた。玉志の風格と重み。岩永は文司。滑稽味を出すが、本来の敵役の性根を失わない。
 それでいて、最後に胡弓を奏でるふりをするあたり、愛嬌あるところを見せる。津国太夫がいい味わいを出す。小住太夫の榛沢はさわやかで、玉佳はすっきりと色気ある立ち姿。
 水奴、碩太夫がまっすぐに声を出す。勘助、玉路、和馬、簑之らの心地よい遣いぶり。

 「その志明らかなれば、冬の夜をわれは嘆かず」とは中原中也「寒い夜の自我像」の一節。
 多くの責任を負い、舞台を務める人々、またそれを支える人々の労苦を思うにつけ、この複雑な世に、実に心を満たす灯を与えてくれていることに感謝せざるを得ない。

 しかし次回、4月の舞台は仮名手本忠臣蔵、それも3公演に分けての上演と聞き、あまりのことと、驚きよりも嘆息せざるをえない。
 私の短い観劇経験でも、忠臣蔵を本公演で上演するのに、通し以外というのはなかった。そして忠臣蔵のキャスティングは、その時々の文楽座の総力を挙げたものであり、各段の性根に合わせた配役で、芸の序列を明確にすると同時に、どの役にもしどころがあり、担当する者すべてがその役を演じることで、一段飛躍できる、そのような機会に他ならなかった。そして5年ごとに上演されることで、その前回の公演と比べての個々の技芸員の進展も手に取るようにわかった。

 私が最も危惧するのは、そうした「忠臣蔵」上演の意味そのものが変わってしまうことである。

 全段上演といっても、十段目、十一段目はあまりその意義を感じない。
 むしろ、それでなくともきちんとした形で通し狂言を行うという国立劇場の使命がないがしろにされているのに、こうした前例を作ることは、ますます文楽の本質を損なうことではないか。
 国立劇場はその責任を感じ、その志を曲げることなく、その使命を全うしていただきたいと切に願う。

==WEB管理人の不手際で掲載が遅れましたこと、美芽さんと読者の皆様にお詫びします==

カウント数(掲載、カウント19/02/10より)