「帯屋」の四季――呂大夫を偲びつつ

「帯屋」の設定のユニークさ。その異常さ。それでこそ観客は安心して「うちとはちがう」と楽しめたのだろう。自分のしがらみを思い出させるほど、芝居にとってまずいことはない。

英は、この詞の緩急自在な語りが楽しい。流れるように自然な大阪弁で、6人の人物を的確に語りわけ、そのいずれもが生きている。人物に命がある。言い換えれば、人の善意も悪も欲望も、無意識の願望も、その全てが人の世の常なのだと納得させる。

呂大夫の語った沈鬱な長右衛門の苦衷、繁斎のしみじみとした忠告、その一つ一つが、ただ一度の出会いでありながら、耳に残っている。 あの時、私の「帯屋」は心にその範型を築かれた。

森田美芽

 同じ演者で同じ演目を見るのは期待と不安がある。
 最初に見たときより、さらに良い成 果を期待してしまう。
 若手の場合、それは成長を測るよい目安となる。
 たとえばその前日 にワッハ上方演芸場で行われた「弁天座・旗上げ公演」。ここで若手の豊竹咲甫大夫、鶴沢 清志郎は「菅原」の「東天紅」を演じた。
 幸運にも4年前、咲甫21歳の折、素浄瑠璃で語 った(この時の三味線は野沢喜一朗)のを耳にしていた。
 結論からいえば、4年前のことは 過去になった。情景描写、人物の描き分け、夫と父の間に苦悩する立田の前、妻を殺そう とする宿称太郎の「と、ど、め」というためらい、はっとするような発見をいくつも感じ た。
 彼の浄瑠璃の言葉を聞きながら、あ、このとき、この人物は何を考えていたのか、と か、こんな角度で見ている、とか、様々な思いが引き出されてきた。
 無論、立田や宿称の 心理のあや、特に宿称太郎の人物をにおわせるのは年齢的にも不十分かもしれない。しか し、言葉が陰影を持って、何重にもなるその広がりの可能性を感じた。長足の進歩である。
 清志郎も中間部の緊張を力強く描き出した。
 そう、若手にとっては、一回一回が成長の節 目である。
 では、ある程度の年功を経た技芸員にとってはどうだろう。

 2001年2月24日、ヘップファイブホールで行われた「現代に生きる古典シリーズ、落 語と文楽のあやしい関係」で、英大夫による「帯屋」を聞いた。
 私にとっては2度目だが、 彼にとっては1昨年の巡業と、国立劇場の素浄瑠璃の会ですでに手のうちに入っている作 品の一つ。
 そして、落語の世界との内的外的なつながりを見せること、いま盛りの人形遣 いたちとの競演であること。
 この「帯屋」の設定のユニークさ。何一つ「自然」な関係がない。
 長右衛門は繁斎の養 子、おとせは後妻、儀兵衛はその連れ子、お絹には子がない。さぞや気の張る家であった ろう。そして38ばかりの長右衛門は14歳のお半と関係を持ち、妊娠させる。
 その異常さ。 だが、それでこそ観客は安心して「うちとはちがう」と楽しめたのだろう。
 自分のしがら みを思い出させるほど、芝居にとってまずいことはない。
 和生のお絹、やわらかな貞女ぶり。
 夫を思い、よく出来た妻、だが夫との間に子はない という引け目。悪い姑にも一生懸命に仕える。お絹に同情が集まるはずと納得する遣い方。
 玉英のおとせ、やはり年功のうまさ。目立ちはしないが芝居を心得た遣い方。
 玉也の繁斎、 通常敵役の多い人だが、人のよい隠居、実直な商人の年輪を感じさせる。
 清之助の長右衛 門は出がよい。刀の詮議、金の問題、そしてお半の懐妊と、その肩に重苦しくのしかかる のがそれだけで分かる。わずかにしゅろ箒を受けて返す以外、本当に辛抱立役である。
 清 之助はここも持ちこたえる。観客の目が儀兵衛と長吉に行っていても、それを受け止めつ つ、そこにいる。
 この受け方が、後半の展開への伏線となるだけに、この人は、損な役回 りだが、使命をきちんと果たしているのがわかる。
 玉女の儀兵衛と簑太郎の長吉。ここで も二人はバランスのとれた好一対である。仕掛ける小悪と阿呆の関係の逆転。
 簑太郎のチ ャリは、一つ一つの動きまで意味を持っているのがわかる。
 玉女は決してチャリが本領の 人ではない。にもかかわらず、この二人が同じ舞台で並び立つとき、互いに火花を散らし あって、それでいて相手の美質をより輝かせる、不思議な効果が感じられる。
 簑太郎の遣 い方には素人さえも引き込むうまさがある。目を引き付ける、何かを感じさせる。洟をす すりこむ呼吸、儀兵衛に迫られて「お半さんとな、あたいとな、」と恥ずかしげに語るそぶ り、なんと観客の目におもしろく見せることか。
 玉女の儀兵衛、悪役なのに、どこか憎め ないところがある。「小へげたれめが」「大きに憚り様」「明けの元朝から」といった古い大 阪の、床の詞に合った、生き生きした遣い振り。この手摺の充実が大きい。

 英は、この詞の緩急自在な語りが楽しい。
 流れるように自然な大阪弁で、6人の人物を的確に語りわけ、そのいずれもが生きている。
 人物に命がある。言い換えれば、人の善意も悪も欲望も、無意識の願望も、その全てが人の世の常なのだと納得させる。
 そして14歳の娘が38の分別盛りに惚れ込み、ふとした過ちから妊娠してしまうという、人の心の弱さ、底知れなさも。確かにこの場の登場人物は、いささか類型化されているが、そのなかにある人の心の不可思議さが、この浄瑠璃を魅力あるものにしている。そんなことに思いを到らせる。
 そして清友の三味線は、深く深く心に沿った音色。
 この人は、私には技術的な物言いはできないが、どんな太夫と組んでも、その太夫のやり方に沿い、それでいて太夫を生かす 力がある。力強い美音をひけらかすことなく、太夫のやりよいようにうまくリードし、助 け、語らせてくれる。
 事実、この人と組むときの英大夫は、安心感というか、信頼感が支 えとなって、より力を出しやすくなっていると思う。
 繰り返し聞くことによって見出したもの、それはやはり喜劇と悲劇の接点であろう。
 こ こで笑われたものは、お半の真実、長右衛門の思い。彼らはそれと知らずに笑い、そして どんでん返しによって自らが笑われる者となる。その皮肉。
 喜劇と悲劇は表裏の関係にあ る。
 ふと、1昨年の巡業で、この場の後を語った呂大夫を思い起こしていた。
 十代豊竹若大夫を師匠とした呂大夫と、祖父に持つ英。兄弟のような二人で完成されたあの「帯屋」を。
 前の部分では長右衛門の苦悩の本質はまだ現れていない。
 呂大夫の語った沈鬱な長右衛門の苦衷、繁斎のしみじみとした忠告、その一つ一つが、ただ一度の出会いでありながら、耳に残っている。
 あの時、私の「帯屋」は心にその範型を築かれた。前半のチャリと後半の嘆きの間にある、お半と長右衛門の、恋と義理と自責の柵、愚かと知りつつ死へと向かわずにおれなくなる運命の絡まり。その不条理を納得させてくれた語りだった。
 どうしてもう少し、生きていてくれなかったのか。このメンバーで本公演を見る日を心から楽しみにしていたのに。

 そしてもうひとつ。若手にとっては成長のステップである繰り返しが、彼らにとっては 深化へと向かうもう一つの動きであること。
 床も手摺も、このレベルなれば、もはやこれ 以下にはなりえないという安心感はある。
 しかしその中で、新しい課題、新しい発見を自 ら求め観客に問う積極性が必要とされる。
 そうした彼らの営みのうちに、見出されるもの が起こされる。私たちは見方を、聞き方を学ぶのだ。
 たとえば儀兵衛の解釈、お絹の思い、 長吉の役割、その一つづつが、前と違った何かを教えてくれる。その広がりが私たちの心 を捉える。
 同じ作品を繰り返し見ることは、観客にとっても、いくつものチャレンジである。
 観客 とは気楽で残酷なものである。その背後にどれほどの苦しみが積まれているかお構いなし に、マンネリだとかもう充分とか言いたがる。
 芸に生きるとは、そうした残酷な観客の評価と決して目利きでない人々の気まぐれに、 生涯さらされて生き続けることとつくづく思う。決して終わりの見えない戦い。稽古の厳 しさもあろう。
 この公演の前の桂吉朝らとの対談で、人間の尊厳を破壊するほどの、という形容を彼は用いた。だが、最も恐ろ しいのは、ただ一人で、人形遣いたちも、裏方も、その全てを率いて一つの舞台をつくり、 観客に立ち向かい続けねばならないことかもしれない。
 その反復の中で、出会えるものの 真実が、私たちを生かす一期一会の出会いとなる可能性を、私は信じる。