カテゴリー別アーカイブ: 美芽の“呂”観劇録

開かれた扉 ―狂言風オペラ「フィガロの結婚」大槻能楽堂版―

森田美芽

 大槻能楽堂に足を踏み入れる時、いつも異空間に身を置くときの緊張感が走る。
 何度通っても、そこには素人に対する結界のように、興味本位など跳ね返されるような、見えない力を感じる。それでいて、舞台は三方に向かって開かれ、正面、脇正面など、様々な見え方を許し、自由な想像を働かせ、舞台と一体になる感覚をいつも味わうことができる、不思議な空間である。
呂太夫フィガロの結婚 
 昨年、いずみホールで見た狂言風オペラ「フィガロの結婚」が、2019年3月20日、大阪での能のホームグラウンドともいうべき大槻能楽堂で再演された。その楽しさ、そしてそこに深く感銘を受けたことを記しておきたい。
 
 能楽堂で演じられることの意義。それは、能・狂言の役者にとって、身体に叩き込まれた動きのリズムが最大限生きることである。
 三間四方、狭いはずの空間を最大限に使い、道行の足取りもなめらかに、目付柱の前でぴたりと静止し、階(きざはし)を上り、三味線の友之助の陰に隠れ、そうした動きの訓練された自然さに、まず心を惹かれた。
 太郎の野村又三郎氏の重厚さと軽妙さの微妙なバランス、お花の茂山茂氏の、太郎との軽妙な掛け合いと女の強さのバランス、蘭丸の山本善之氏の、「蝶々」のような身軽さ、茂山あきら氏のおあきの、女の抜け目なさ、どれもこの舞台では自然な笑いに包まれる。
 男性が女性を面もなしに演じて、なおも何らの不自然さも感じさせない力。風刺を取り込んだ軽やかな科白の数々、どれも狂言ならではの楽しさを満喫させていただいた。
 
 対して、奥方を演じる赤松禎友氏。金地の唐織の華やかさと、増女(?)のバランスの美しさ。この舞台で唯一、嫉妬や恨みのマイナス感情を体現しなければならず、それがフィナーレの「赦し」へとつながる難しい役どころ。
 赤松氏は、長年の修行で積み重ねられた「女」の恨みとその昇華という、能の普遍的な主題への親和性がもはや血肉となっていると思われた。その自然さが、一見不自然なフィナーレの「赦し」を納得させたに違いない。
 わずかに彼女が本音を表わすかと思われたその舞の美しさ、構えや運びの自然さの中ににじませる人間性こそ、この舞台を生きる場としてきた方の本領であろう。
 
 しかし、身体性の確かさは、文楽も負けてはいない。
 勘十郎の遣う在原平平、人形なるがゆえに生々しさを消し、滑稽さ、風刺が一段と効く。狂言の方との絡みも、嫌味や不自然さがかえってなくなるという不思議。
 この首は以前、国立劇場で2014年に「不破留寿之太夫」に作られた首である。やや大きめで愛嬌があり、この役柄にぴたりとはまる。
 勘十郎の手にかかると、生身の人間以上に人間らしく見えるが、足は宙に浮いているのに、どうしてこんなに自在に体を動かして自然なのだろうと、人形遣いの三位一体の妙技に陶然となる。左は簑紫郎、足は勘介。
 
 橋掛かりにはクラングアートアンサンブルの方々が横一列に並び、伴奏ではなく、舞台において対等の位置を占めることを表現している。
 その音の自然な明るさとリズムは、西洋音楽の古典が身体に宿っている者たちの自然な音の現れのように聞こえる。

 そして今回、改めて知った音楽の楽しさ。普段はこの空間でまず聞かれない洋楽の管楽器とコントラバスの響きの広がり、高音の柔らかい伸びやかさ、低音の効果。
 そして義太夫三味線が、普段のメリヤスや三番叟から、「フィガロ」の「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」まで演じることのできる表現力の広さ。
 友之助ならではの音楽性が、義太夫三味線のもう一つの豊かさを引き出した。モーツァルトの曲と義太夫の間に、全く違和感を持たせない。この構成は見事である。

 しかし、この舞台の要は、音楽だけではなく、義太夫節の語りである。
 モーツァルトの曲は金管・木管とコントラバスの八重奏、狂言の語りと能の謡は生身の詞、その間をつなぎ全体を物語として語る豊竹呂太夫の語りの力。
 時に平平の科白で笑いを取り、その人間性をにじませつつ、人形と人間の異空間を一つにする語りの楽しさ。
 人形でしか表しえない平平のキャラクターの面白さを、人間とのやり取りに自然に引き入れる力である。
 
 それにしても、狂言を軸とする笑いの趣向の楽しさはどうだろう。
 愚かな主人を下僕がとっちめるという趣向は狂言に共通するが、主人が風流を解さないのは『萩大名』を思わせる。
 そして現代の笑い(吉本など)のアレンジや、時勢への風刺のきいた詞(忖度、隠蔽、市長と知事の取替選挙など)はさすがと思わされた。
 これに対し、文楽も負けてはいない。「約束じゃぞ」とおあきを見送るところは「すしや」の権太、三番叟にメリヤス、文楽を知る者には思わずくすり、となるような趣向がそこかしこに埋め込まれている。
 無論、知らなくても十分楽しいが、古典を楽しまれる方には宝石探しのような楽しみのある舞台である。

 そしてフィナーレ。出演者全員による挨拶に、この能楽堂の当主であり、この舞台の芸術総監督の大槻文蔵師が加わる。
 拍手がなりやまない。
 能楽堂では普通ありえないアンコールが自然に起こって、誰の心にも、満足があったことが分かった。
 作者の片山剛氏が言われるように、「誰もが幸せになる舞台を作りたい」と言われた通りの舞台になった。

 そしてこの舞台に立たれた時の、大槻文蔵師の、静謐で気品に満ちたたたずまい、それがすべてを物語っている。
 1400年の歴史を持つ難波宮跡のある上町台地、その中で戦争の災禍を経てこの能楽堂を守ってこられた矜持と使命感。大阪の都市格ともいうべき町の品格を保ち、なお庶民に愛されてきたこの貴重な場を私たちがいまも楽しむことのできるという幸い。

 いままた、次の時代に向けての新しい能楽堂のために、能楽の次の世代のために、また大阪の古典芸能のために働きを止めないその姿勢に、古典を愛する者の一人として、深く尊敬を表したい。この志が舞台を作り、生きる人々に喜びを与え、明日への力を生み出す「衆人愛敬」となるのだと。

カウント数(掲載、カウント19/03/21より)

その志明らかなれば―2019年初春公演―

森田美芽

 外では寒波にインフルエンザと暗いニュースが続いても、劇場の中には輝く命の熱がある。そう思って劇場へと足を運ぶ。変わらない正月の風情、華やかな舞台、その中に、許された命の誇らしげな力と、ややもどかしげに迫るもう一つの声を聴く。
初春文楽公演-B2ポスター

第一部の幕開きは『二人禿』。野澤松之輔の作で昭和16年の初演というから、それほど古い曲ではない。島原の春景色と言っても、それ自体すでに過ぎ去りし日々である。
 睦太夫、南都太夫、咲寿太夫、碩太夫は美声の太夫揃いで楽しめるが、言葉の中から伝わってくる色気がまだあるように思えた。三味線の勝平、清丈、錦吾、燕二郎。勝平のリードで廓の風情、羽根音、おこぼの足音まで聞こえるような華やぎ。10分ばかりの贅沢な時間。
 人形は一輔、紋臣。紋臣のははずむような動きで活動的、一輔のはおとなしやかで柔らかい動きときっちり性根の違いを見せた。

『伽羅先代萩』の「竹の間」はこれまで掛け合いが主だったが、今回は織太夫、團七で。
 確かに織太夫は語り分けがよいが、中でも最もつきづきしいと感じたのは、実は沖の井だった。特に後半、八汐をやりこめる、理路整然とした捌き方は胸がすっとする爽快さ。それに比べると、八汐の憎々しさはまだ軽く、滑稽さも感じられる。團七のリードは確実で、この場の逆転劇の楽しさを聞かせてくれる。
 「御殿」は千歳太夫、富助。
 千歳太夫は、こうした段をじっくりと聞かせる。
 たとえば「心一つの憂き思ひ」で政岡の苦衷を表わし、千松の健気さが胸に染みる。「千松に飲ます茶碗も楽ならで」がやや強く感じたが、大名の子がわずかな食事を待ち焦がれるという哀れさが伝わってきた。富助もしっとり聞かせる、大人の三味線。

 「政岡忠義」は咲太夫、燕三のところ、咲太夫の休演で織太夫が代役。本来なら、咲太夫が格上だから当然「御殿」と思っていた。織太夫にとっては大きな課題だが、よく応えたと思う。
 栄御前の短絡、忠義を第一とする前半から、母としての感情を爆発させる後半、「三千世界に子を持った親の心は」がいたく迫る。
 転じての大団円も見事に語り納めた。導く燕三の頼もしさ、一分の揺らぎもない。

 人形では、和生の政岡が乳母の母性とお家を思う忠節と気概を示す好演。
 「竹の間」で鶴喜代が沖の井の膳を食べようとするのを制する眼差しの力。勘壽の八汐は悪の貫目よりも出自の卑しさをどこか匂わせる敵役。
 文昇の沖の井は捌き役の冷静さが印象的。簑紫郎の小巻は老女方のかしらだが気合の鋭さを感じさせる。簑太郎の鶴喜代君はおっとりと大名の子らしく格ある遣い方。
 これに対し玉翔の千松は、臣下の子としての慎しみ深さや忠節を幼いながらにわきまえている、その健気さがいじらしい。簑助の栄御前、権高さと自分を頼む愚かさをじっくり見せる余裕。簑悠(前半は玉延)の忍びは及第点。

『壷坂観音霊験記』「土佐町松原」は亘太夫、清允。御簾内だが、はっきりと聞かせ、響かせる。気持ちの良い序段。
 「沢市内より山の段」前は靖太夫、錦糸のはずがこの日は芳穂太夫が代役を勤めた。「糸より細き身代の、薄き煙の営みに」とある貧しさよりも、思いのほか沢市の色気というか、若々しさが目立った。
 お里のクドキもなかなか聞かせるとともに、この男の苛立ちが、やりきれなさが伝わってくる語り。 錦糸の糸は生活感を帯びてなお美しい。

 は呂勢太夫、清治。ツレ清公。
 沢市が死んだと知ったときの嘆きの激しさ。そこに至るまでの、沢市のおどけたような、諦めたような表情との対比が素晴らしい。
 ただ、嘆きの深さを表わすには、沢市の屈折があと一歩というところか。段切れはめでたく、明るく終える。清治の余裕、それでいて鋭い、この人の表現の幅を改めて知る。
 人形では、玉也の沢市の屈折と色気を評価したい。簑二郎(勘弥)のお里の生き生きとした強さがまぶしい。勘次郎が茶店の嬶、玉峻が観世音。場を心得た遣い方。

第二部は『冥途の飛脚』と「壇浦兜軍記」
 『冥途の飛脚』「淡路町の段」口希太夫、團吾。團吾の音色はこの町の色、雰囲気、夕方の店先の空気の色を感じさせる。
 希太夫は丁寧な詞で物語の導入を作り出す。手代や妙閑の詞が印象的。この実直さと、忠兵衛との対比。
 奥文字久太夫、藤蔵。
 忠兵衛の色気と物狂おしさ。飯炊きのまんの滑稽味。八右衛門にすがるあわれさ、そして腹に一物の八右衛門。忠兵衛の危うさが十分にわかる出来。
 そして「措いてくりょ…行て退きょ」がやや芝居がかって聞こえる。藤蔵とはよいバランスで物語を進めていく。

 「封印切」呂太夫、宗助。
 宗助、一転して明るく華やぐ舞台。色町の風情をはんなりと聞かせる。呂太夫は「恋と哀れは種一つ、梅芳しく松高き」と、近松独特の、言葉の重なりの内に織りなされる人と状況描写。
 突き放すのではなく、入れ込むのでなく、冷静にその距離を保ちつつ、神の視点での描き方。そしていつの間にか、見る者が、追い詰める八右衛門、追い詰められる忠兵衛、嘆く梅川の心に同調していくような語り。
 呂太夫は八右衛門を、善と見せかけて追い詰め、逃げ場をなくす手の込んだ悪役として描く。忠兵衛は最初「短気は損気」と自覚しながらも、ついに三百両に手を付けてしまう。それを愚かさと言いきることはできない。

 私たちも、もし同じ立場ならどうあろうかと思わせる。梅川の嘆きもそれをとどめることができないほどに。この緊張感を見事に描いた。
 その通り玉男の忠兵衛は、自らの内面の穴に落ち込んだようなこの男の悲劇を納得させる遣い方。清十郎の梅川は、自らが原因と思ってその嘆きを深くする純情が哀れを誘う。玉輝の八右衛門は、この複雑な敵役の底意地悪さを描いた。
 玉誉の禿もよい出来だが、あとの狂言に三味線がついてしまうので損。簑一郎の花車、抑えた色気と人の好さ。

 「道行相合かご」
 三輪太夫、芳穂太夫、文字栄太夫、亘太夫。清友、清馗、友之助、清公、清允。
 この悲劇の後としては、あまりに中途半端な終わり方かもしれないが、三輪太夫初め、冬の大和の木枯らし、寒々しさ、二人の行く手のはかなさを感じさせた。しかしこの狂言で手代伊兵衛を玉助、玉志クラス、駕籠屋に玉勢、文哉とは、もったいないというか、贅沢というか。

 「阿古屋琴責」の段
 阿古屋を津駒太夫、重忠を織太夫、岩永を津国太夫、榛沢を小住太夫、水奴を碩太夫、
三味線は清介、ツレ清志郎、三曲寛太郎。

 ある意味、この段の影の主役は、三曲の寛太郎であったかもしれない。それほど見事な出来だった。琴も、胡弓も、その旋律の美しさと技量にため息をついた。
 それだけではない。勘十郎の遣う阿古屋が舞台に登場した時、ぱっと光が差し込んだように思えた。品格と貫目、そして心根の優しさ。その女が舞台で、ただ一人の男のために、責めを受け、三曲を弾く。
 あたかも人形が音を出しているかのように錯覚させる、

 その手の業と心と音色が一体化して、この上ないと思わせる舞台となった。
 左は一輔、足は勘次郎。津駒太夫はニンに合った役どころで、阿古屋を情深く聞かせる。織太夫の重忠は折り目正しく心ある智将。ただし裁きの重みがいま一歩に感じた。玉志の風格と重み。岩永は文司。滑稽味を出すが、本来の敵役の性根を失わない。
 それでいて、最後に胡弓を奏でるふりをするあたり、愛嬌あるところを見せる。津国太夫がいい味わいを出す。小住太夫の榛沢はさわやかで、玉佳はすっきりと色気ある立ち姿。
 水奴、碩太夫がまっすぐに声を出す。勘助、玉路、和馬、簑之らの心地よい遣いぶり。

 「その志明らかなれば、冬の夜をわれは嘆かず」とは中原中也「寒い夜の自我像」の一節。
 多くの責任を負い、舞台を務める人々、またそれを支える人々の労苦を思うにつけ、この複雑な世に、実に心を満たす灯を与えてくれていることに感謝せざるを得ない。

 しかし次回、4月の舞台は仮名手本忠臣蔵、それも3公演に分けての上演と聞き、あまりのことと、驚きよりも嘆息せざるをえない。
 私の短い観劇経験でも、忠臣蔵を本公演で上演するのに、通し以外というのはなかった。そして忠臣蔵のキャスティングは、その時々の文楽座の総力を挙げたものであり、各段の性根に合わせた配役で、芸の序列を明確にすると同時に、どの役にもしどころがあり、担当する者すべてがその役を演じることで、一段飛躍できる、そのような機会に他ならなかった。そして5年ごとに上演されることで、その前回の公演と比べての個々の技芸員の進展も手に取るようにわかった。

 私が最も危惧するのは、そうした「忠臣蔵」上演の意味そのものが変わってしまうことである。

 全段上演といっても、十段目、十一段目はあまりその意義を感じない。
 むしろ、それでなくともきちんとした形で通し狂言を行うという国立劇場の使命がないがしろにされているのに、こうした前例を作ることは、ますます文楽の本質を損なうことではないか。
 国立劇場はその責任を感じ、その志を曲げることなく、その使命を全うしていただきたいと切に願う。

==WEB管理人の不手際で掲載が遅れましたこと、美芽さんと読者の皆様にお詫びします==

カウント数(掲載、カウント19/02/10より)

夜寒か、夢か―国立文楽劇場平成30年11月公演―

森田美芽

 11月は本来なら紅葉を愛で、冬の足音を聞く、心深き月である。なのに庭に朝顔が残り、昼は24度の日が続く。季節の異様さを嘆きつつ、劇場においても、冬と夏が混在している。

 11月公演、第一部は『蘆屋道満大内鑑』で幕が開く。しかしいきなり「葛の葉子別れ」。「加茂館」も「保名物狂」もなく、物語の佳境に入れられ、葛の葉姫と女房葛の葉の関係など、観客を置き去りにしていくようだ。
 それでも中の咲寿太夫は頑張っていた。「隣柿の木」など、声は伸びやかで一語一語丁寧に語るが節はまだまだ、詞も堅い。木綿買なども、まだ変化が十分ではない。後半は小住太夫。勝平は若い太夫に頼もしい助け手、安心感をもたらす。
2018_11月文楽公演-配役ちらし-表面
 奥は津駒太夫、宗助。津駒太夫は狐詞がやや不明確なところがある。しかしこうした情を聴かせる力はさすが。宗助とのコンビも快調。

 人形では、まず和生の女房葛の葉。母性愛の深さと、童子に語り掛ける覚悟の凛とした風情。狐の身の悲しみを深く伝える。
 しかし出会いからの経緯なしのいきなりの別れで、今一つ感情が乗り切れない。清十郎の保名、この場面だけだと、単なる狼狽え者に見えてしまい、「われはちっとも恥ずかしからず」に到る心の起伏が伝わりにくい。もったいない限り。

 信田の庄司の玉輝、庄司の妻の簑一郎、存在感を出している。
 簑紫郎の葛の葉姫、宙に目をやり、戸惑いの風情、生きている表情。
 勘次郎が阿倍童子、いたいけで愛らしい。
 木綿買の荏柄段八は勘介、動きのある役。信楽雲蔵を玉延、玉峻、簑悠が交替で。玉路は落合藤治。ここらは若手が生き生きと遣っている。

 「信田森二人奴の段」
 友之助が気合の一撥、それを受けて南都太夫が凄みある悪右衛門。芳穂太夫がリードし、津国太夫はやや声が伸びなかったようだが、それでもユーモラスでおおらかな与勘平。
 咲寿太夫、碩太夫は小気味よい。
 三味線は藤蔵がここも力強くリズムを創り出し、清馗、友之助、錦吾、清允らが気持ちよく合わせる。
 床のまとまりのよさで、ここはあまり深刻にならずに、人形の動きを楽しめる。
 簑太郎の悪右衛門が鬼若らしいきびきびした動き、野干平の玉助は水を得た魚のよう、ダイナミックでおおらかな動き。
 玉佳の与勘平は愛嬌ある奴。初日は段切れが少し手間取ったが、力強く決まった。
 

 続いて『桂川連理柵』
 これも「六角堂の段」からだが、「石部宿屋」が欲しいところ。
 希太夫のお絹はつつましく女らしい。文字栄太夫が儀兵衛で詞が多くなんとも下心の見える様子。
 小住太夫が長吉、阿呆らしさが少し鼻につくが、明確。團吾は的確なまとめ役に徹している。

 「帯屋の段」前、呂勢太夫、清治。切咲太夫、燕三。
 呂勢太夫、前半のチャリ場を楽しく聞かせた。儀兵衛と長吉の笑い。
 長吉がただの阿呆ではないところをしっかりと聞かせ、婆や儀兵衛の悪さも心地よい。芸の幅が確かに感じられた。
 清治の、巧まざる愛嬌まで感じさせる妙技。

 咲太夫、お絹のクドキに見せる老練さ。しっとりした三味線のうちに、一瞬で怒りを見せる。長右衛門の秘めたる思い。お半の思いつめた表情が見えるように。
 燕三、長右衛門の心の高まりを糸に託す、その息詰まる説得力。

 簑二郎の婆、すっかり手の内に入れている。
 憎さげなところも、前身を感じさせるところも。
 勘寿の繁斎、物静かななかにも皆を配慮する家長の貫録、玉志の儀兵衛、この人には珍しい三枚目の役だが、手堅く遣う。細かい動きまで正確。愛嬌ある長吉の文司と共に、確かな実力を発揮している。
 勘弥のお絹、貞淑で慎ましやかな反面、そこに秘めた情熱を感じさせた。
 玉男の長右衛門、辛抱立役の真骨頂。しかしその内に闇を抱える男の切なさ。
 勘十郎のお半、なぜこうなってしまったのか、少女の情熱の危うさと巡り合わせの悲劇であると。

 返す返すも「石部宿屋」がないことが惜しい。

 「道行朧の桂川」
 お半を織太夫、長右衛門を睦太夫、亘太夫、碩太夫。
 三味線は寛治の逝去により清志郎がシンとなって寛太郎、清公、燕二郎を率いる。華やかな節のうちに、長右衛門の無念さが憂いとなって響く。
 華やかで、そしてやりきれなさをもって、この悲劇を終わらせる。織太夫は今月この場のみ。力と気合を込めて、死出の旅に向かうお半を描く。

 第二部、『鶊山姫捨松』「中将姫雪責の段」
 前、靖太夫、錦糸。奥、千歳太夫、富助。千歳太夫は解説にも語っているように、声を上に伸ばす努力をしているが、やはり段切れには苦しそうである。しかし千穐楽近くまで声を保ち語れたのはよかった。
 富助は妥協なしの攻めてくる三味線。

 人形は簑助の中将姫に尽きる。
 継子いじめ、父との信頼関係、無垢なる姫が雪の中で責められる、その痛ましさと、それゆえの凄惨なる美。雪の中に倒れ伏すさえ美しい。

 桐の谷は一輔、誇り高く主思い、品あるたたずまい。
 浮舟は紋臣、奥方につくと見せかけて姫を助ける芯の強さを感じさせる。そして手紙を広げてのキマリも心地よく決まる。

 岩根御前は文司。八汐のような憎まれ役で最後に気弱なところも見せるが、憎々しさのうちにも品位を見せる遣いぶり。
 広継は亀次。腹に一物。紋秀、命令で姫を責める下部の心まで感じさせる。
 

 『女殺油地獄』
 先ほどは雪に冷え冷えとしたのが、今度は初夏の野崎参りで、その変化に戸惑う。

 「徳庵堤の段」三輪太夫、清友。
 これまで掛け合いの多かったこの段を、三輪太夫が一人で語って飽きさせない。多彩な登場人物を、一人ひとり存在感を持って語り、どの人物も生きて動いでいるのを感じる。
 とりわけ豊島屋一家のやり取りのおかしみ、お吉の遠慮なしともいえる与兵衛への親切と夫とのすれ違いが、後の殺し場への伏線となっていることを自然に伝えるところがこの人の実力。
 清友はその模様と状況を丁寧に描く。

 「河内屋内の段」口、亘太夫の健闘を清丈の三味線が支える。
 理屈抜きに前に出る声と力。講中や先達のおかしみ、とぼけた味わいも可。

 奥、文字久太夫、團七。文字久太夫の強みは、情を語る力をつけてきたこと。この場の徳兵衛、生さぬ仲の息子への思いがすれ違う悲しみ、与兵衛が立ち去るのを見守る眼差しに涙を誘われる。
 この場の与兵衛はひたすら自己中心、家庭内暴力をふるうドラ息子の典型のようで、河内屋一家にひたすら同情を寄せたくなる造形。
 この家庭悲劇を、しっとりと共感を持って描く團七。

 「豊島屋油店の段」呂太夫、清介。
 呂太夫の語りを聴いて、前段とは異なる与兵衛像が見えてきた。悪遣いした金のために、高利貸しに手を出し、二進も三進も行かなくなっている。
 綿屋小兵衛との会話のうちに、彼の切羽詰まった状況がわかる。親たちの情けも届かないほどに。
 誰も彼を救いうる人はいない。
 それを承知していたから、唯一お吉を頼ったのだ。

 与兵衛は本当にお吉を殺すつもりだったのか。
 油の樽を持って行ったのが、お吉に隙を作る手段なのはわかる。しかし、お吉に断られ、理性の糸が切れる。その表現が迫ってくる。

 「俺も俺を愛しがる親父がかわいい。」親に借金の迷惑をかけたくないから殺す、というのは、信じがたいが彼の中ではそれが精一杯なのだろう。
 ちょうど不始末をしてそれを親に知られると親に悪いと思って隠す子どものように、彼の中では繋がっている理屈なのだ。

 しかし、この前の徳兵衛の詞、「生まれ立ちから親はない。子が年寄っては親となる。親の初めは皆人の子。子は親の慈悲で立ち、親は我が子の孝で立つ」
 また母お沢の詞「母が生き肝を煎じて…子ゆえの闇に迷わされ」が伏線となっている。
 遠いはずのこの親子が、実は互いを呼び合っているのを感じた。
 あまりに身勝手といえば身勝手であるが、与兵衛は自分の中のコントロールできない悪を助けてほしいと、親を呼んでいたのかもしれない、と思った。

 他にも、娘の髪を梳く櫛の歯が折れたり、立ち酒を飲んだりと、様々な伏線が周到に張り巡らされ、それが語りの中で次第に悲劇を予感させ、作り上げていく、近松の作劇法を見通した語りの構成、それを立体的に造形する清介の三味線と共に、見事な一段となった。

 人形では、極め付けともいうべき勘十郎の与兵衛。
 油の場面よりも、この救いようのない男を遣って、その感情の動きを見せることが素晴らしい。
 徳庵堤での強気と急に心細くなった場も、「河内屋内」での強欲さ、父母を手にかける自己中心そのもの、サイコパスのような人物像も、その中で親を思う心を持ちながら、身の内の悪に引きずられる弱さをまざまざと見せた。
 油の中での殺人シーンは日が進むにつれさらにグレードアップし、客席を沸かせた。
 和生のお吉は、つい与兵衛に関わってしまう人の好さとそれゆえの悲劇を納得させた。
 玉也の徳兵衛は先代への忠義と与兵衛への思いの間で揺れている実直さを伝え、女房お沢は文昇が芯の強さと母の弱さを巧みに遣う。
 玉志の兄太兵衛は与兵衛と正反対の真面目さ、清五郎の妹おかちは親思い、兄思いを強く出す。玉路の山上講先達はとぼけた味わい、玉助の豊島屋七左衛門は骨太な商売人らしさを見せ、玉翔の綿屋小兵衛は与兵衛を追い詰める資本の論理の典型。簑之はお清を愛らしく無邪気に遣い、玉彦の弥五郎、和馬の善兵衛らも性根をきちんと掴んでいる。
 紋吉の小菊はこうした遊女の手管を納得させ、花車の玉誉は柔らかな物腰で目を引く。
 勘次郎は会津の大尽、それらしい風情。簑太郎の小栗八弥、武士の品格。勘市の森右衛門、この実直、武士の誇り。
 

 こうして書き進めていくと、やはり充実した舞台ではあったが、それだけでは終わらないものを強く感じた。

 11月というのに、本格的な通し狂言が出ない。それが陣容の薄さのせいか、興行的な配慮によるものか、いずれにせよ、人気のある演目の見所だけを切り貼りしたように思われてならない。
 「葛の葉」も「桂川」もそれなりに人気のある演目だが、それをこのように出してしまうと、もう数年は通しでも出せなくなってしまう。この数年、「千本桜」も「菅原」も「絵本太功記」もそのような形で、通しで出せなくなってしまっている。
 それを、観客に対してのみならず、技芸員の方々のためにも残念に思う。

 さらに、これは東京の国立小劇場の方とも同じ演目が続く、ということが続いている。

 東京と大阪はそれぞれに違う視点で制作を進めるべきであろうが、これはある意味、制作の怠慢ではないか。大阪も東京も、出すべき演目が多くあるにも拘わらず、同じ演目で演者も固定的になると、見る側にとっては期待も薄れてしまう。
 そうしたことが、文楽への失望を生まないとも限らない。次年度のさらなる努力に期待したい。

カウント数(掲載、カウント18/11/28より)

受け継ぐもの、手渡すもの―第21回文楽素浄瑠璃の会―

森田美芽

 国立文楽劇場第40回邦楽公演は、2018年8月18日、文楽素浄瑠璃の会として、豊竹呂太夫、鶴澤清友による『和田合戦女舞鶴―市若初陣の段―』、豊竹咲太夫、鶴澤燕三による『曲輪文章―吉田屋の段―』、そして咲太夫、片岡仁左衛門による対談「浄瑠璃よもやま話」が行われた。演目解説は大阪市立大学大学院の久堀裕朗教授。
 対談の司会は産経新聞文化部の亀岡典子編集委員と、行き届いた顔ぶれで、舞台そのものの充実と、観客に伝えるものの両面において評価の高い会となった。

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 「和田合戦女舞鶴」は東京国立劇場でも1989年に上演されたきり。その前の記録をたどると、1965年に三越劇場、1950年に十代豊竹若太夫襲名披露狂言として上演されている。そのため、呂太夫にとっても、祖父の衣鉢を受け継ぎ、若太夫襲名という大きな目標のステップであることは間違いない。
 彼はこの作品を、2009年に早稲田大学で、2015年国立劇場で素浄瑠璃で語っており、いずれも三味線は清友と、磨きをかけ、手の内に入れてきた、今回はその成果を問われることになる。また「越前風」と呼ばれる曲風を伝える貴重な一曲として伝承の上でも大きな意味を持つ。
 
 「市若初陣」まず市若丸の登場。11歳ながら、錦革の鎧と兜、弓矢を携えた本格的な武者姿が浮かぶ。母に「逢ひたかった」という11歳の稚さ。息子を出迎え、手柄を立てさせたいと語る母。そこに「忍びの緒」の謎が現れる。はっとするような展開で、気が付けば物語の中に取り込まれている。

 板額は市若をなだめ、気を取り直し、尼君のもとへ向かおうとする。そして尼君からの残酷な事実の語りに、「ホイ、はつ」と、忍びの緒に込められた意味を悟る。その重さを感じさせる語り。
 そして尼君の懇願に、夫への恨みと嘆きが交錯する。「エエ聞こえぬぞや我が夫」からのこの板額の嘆き、「告げとも知らず余所の子の、花々しきを見るにつけ」の泣きの表現。それに対する夫の無責任、妻にすべての苦しみを負わせながら、という怒りも共にさせられていく。
そして「涙を忠義に思ひかへ」からの豹変。「ナニ、腹切つてか」「アノ腹をや。腹を」の畳みかける苦しみに、清友の撥が入る。
 
 そして「耳聳立てし四方八方」の緊張感が高まる中での、板額の一人芝居。
 その必死さの裏は嘆きと伝わる。そして市若が潔く腹を切り、苦しい息の下から母を呼ぶのに対し、母は「与市殿とわが仲の、ほんの、ほんの、ほんの・・ほんぼんの子ぢゃわいなう」と語りかける母の悲しみが臓腑をつんざくばかりに、複数の拍手がたちまち客席に広がる。

 「なんの因果で武士の子とは生まれ来たことぞ」が胸に堪えた。
 そこから二親が息子の首を手渡す涙。さらに言えば、この身代わりの犠牲そのものが無になってしまうというさらに残酷な結末が待ち受けている。
 この場では、本当なら必要のない身代わりが必要と信じて、市若丸がその犠牲となっていく、そのプロセス自体があまりにも理不尽に思われ、「寺子屋」などのようには共感しにくい構造になっているにもかかわらず、なればこそ、市若の純真さ、いたいけな少年像が明確に、そしてそれを義理のために死なせなければならないという矛盾を背負った板額の嘆きと、母としての叫び、にもかかわらず「涙を忠義に思ひかへ」る男勝りの忠義心が、またそのことを強要する当時の論理の残酷さが心にすとんと落ちる。
 呂太夫の語りはそれらの物語の起伏、板額と市若の親子の情と忠義の意志、それらの葛藤と悲劇を余すところなく描き、清友の糸が涙と嘆きに彩りを添えた。

 「吉田屋」冒頭、暮れのざわめきと色町の風情を燕三が艶やかに描き出す。喜左衛門の詞の深み。長年色町の裏も表も知り尽くし、客を逸らさぬ手際、「紅絹裏の羽織をふわと」打ちかけるその軽やかさが目に浮かぶ。
 
 藤屋伊左衛門の詞、「七百貫目の借銭負うて」「この身が金ぢや。総身が冷えて堪らぬ」の呼吸。
 ところが夕霧に客があると聞いた途端に調子が変わる。こうした感情の機微も堪える咲太夫の語り。余所事浄瑠璃が入り、夕霧の出。二人のじゃらくらとした戯れ。そして15分に及ぶ夕霧のクドキ。
 「この夕霧をまだ傾城と思うてか。ほんの女夫ぢゃないかいな」に込められた女心。段切れは「申し申し伊左衛門様」からの詞が義太夫として納まる。

 そして仁左衛門と咲太夫の対談。
 仁左衛門の巧まざる愛嬌とニンの良さ。咲太夫との縁、幼少期の思い出に始まり、松島屋系の「吉田屋」の演じ方、性根、演技についての苦労話など、また、文楽と歌舞伎の間での相互輸入のいきさつも興味深い。
 しかしその中で、失われて色町の風情と、失われゆく義太夫のことば、義太夫訛りについて触れられた時は胸が痛んだ。
 「義太夫節の本行を習いにきたのは孝夫さん(現仁左衛門)の世代まで」といい、いまは丸本ものの科白も習いには来ないという。知らない人が大勢になれば、「多勢に無勢」で、本物を知る人が異端となってしまう。
 正しい本行に従って役を学ぶことが、歌舞伎の若手の継承で途絶えることは実に危機的である。それは、文楽の方にも言えることだが、正しい大阪弁のイントネーションや、「義太夫訛り」が伝わらなくなっていけば、文楽のみならず歌舞伎も含めて日本の伝統文化の危機となる。それがもはや危機感どころではなく、現実になりつつある。

 伝えられるべきものが伝えられなければならない。先人から受け継いだものを、次の世代へと確実に手渡し、伝えていかねばならない。
 こうした素浄瑠璃の会を国立劇場が持つことの意義はどれほど強調してもし過ぎるということはない。それだけでなく、いま、文楽の具太夫節自体が、わずか20名の太夫、三味線によって支えられているという現実。
 その中で、咲太夫は戦前からの伝統を直接に継ぐ世代として最後の人であり、呂太夫もまた、越路太夫や春子太夫といった名人に直接師事し、八世綱太夫らに直接稽古を受けた最後の世代である。
 彼らの受け継いだものを、若手は全力で受け継いでいかねばならない。ほどなく、若手素浄瑠璃の会がもたれるが、彼らに一段と自覚を促すと共に、国立劇場に、失われてはならない伝統の灯を継承する責任をよく果たしていくこと、そのための文楽公演であることをよく肝に銘じていただきたい、と願う。
 
 まだまだ、受け継ぐべきもの、彼らが手渡すものは数限りなく、時間は迫っているからだ。その時のはざまに、こうした至芸を聴くことのできた幸いを心より感謝する。

カウント数(掲載、カウント18/08/20より)

闇と魔のあいだに―― 2018年夏休み文楽特別公演

森田美芽

第1部 「瓜子姫とあまんじゃく」

子ども公演

木下順二の原作だが、初演の越路太夫はどのようにかかわっていたのか、プログラムを見ても判然としない。
本来は義太夫節のために書き下ろされた作品ではないから、越路太夫の苦労と二代喜左衛門の為した業績が、今日明確でないことが惜しまれる。しかし、越路太夫の流れを受け継ぐ呂太夫が、今日またそれを上演する意義を見せてくれたと思う。

呂太夫の語りは、嶋太夫と異なり、あまんじゃくの部分をはっきり区別する。あまんじゃくがオウム返しをするところも、高さを変え、また「しりっぽでもあるか知んねえだに」はもっとはっきりした震え声で返す。
この謎めいた物語、実はあまんじゃくが山父であるかどうか、なぜじっさがあまんじゃくの思いを読んだように、「ケケエロウ、そんだらふうではちがうがな」と言ったのか、謎は謎のままである。呂太夫の語りの中には、瓜子姫という存在の不思議さ、鶏やトンビや烏をその懐に抱いて一体化する自然の豊かさを踏まえて、その謎の中のあまんじゃくという存在を際立たせた。鶴澤清介はその豊かさを受けて物語を織りなす。ツレ清公、清允もよく音が響くようになった。

瓜子姫は簑紫郎、良く動き、また戸惑いや悲しみといった表情もよく遣った。成長著しい。あまんじゃくは玉佳、憎めないあまんじゃくの造形が楽しい。じっさは文哉(後半玉勢)、あまんじゃくとの知恵比べが面白い。
ばっさは亀次、よい味わいに枯れた婆。杣の権六は玉路、ひょうきんさをうまく出した。山父は勘介、効果満点。

続いて「解説 文楽ってなあに」は玉翔(後半玉誉)。子ども向けということで、人形を中心とした解説は定番のものだが、子どもたちには十分楽しめたようだ。

「増補大江山」こちらも怪奇を扱うが、大江山の酒呑童子伝説などが一般的でなくなったいま、鬼という異形をどう表わすか。
若菜を芳穂太夫、時折芝居めいた感覚が残る。渡辺綱を津国太夫、この人の地力を聞かせていただいた。右源太は竹本文字栄太夫、左源太を竹本碩太夫、力強い声。三味線は清友、團吾、友之助、錦吾、燕二郎。力の入った三味線に怪しさが増す。清友の的確なリードで、團吾、友之助が支え、錦吾、燕二郎らの熱演が光る。

人形では文司の綱は凛々しく実直。簑二郎の若菜は前半の怪しさを秘めた女から、後半の鬼への変身が著しい。最後の綱との対決は力が入って見応え十分。右源太は紋吉、左源太は玉翔。安定感ある遣いぶり。
確かに一部は子ども向けということで困難が伴うが、本物であれば必ず届くものがあるはず。それを心に感じてほしいと念じた。

第2部 「三十三間堂棟由来・平太郎住家より木遣り音頭の段」

omote_170728入稿

通常の形と異なり、和田四郎のくだりが入るが、これがどうも座りがよくない。そもそも和田四郎の存在意義がわかりにくく、熊野権現の奇瑞を見せるだけなら、母を殺す必要があるのかと思ってしまう。

中、睦太夫、宗助。所見が千穐楽に近かったためであろうが、睦太夫は少し語尾がかすれ気味。というより、声の使い方がどうかと思えるところがある。宗助も支えているが、やはりこの場では畑物を盗んで首代に金十枚という設定がどうも不自然で、彼としては非常にやりにくいところではなかったか。
切の咲太夫、燕三は期待通り。「母は今を限りにて、元の柳に帰るぞや」のあたりの染み通るようなお柳の哀しみに打たれた。ただ切語りの役場としてはあっさり終わったとの印象が残る。奥の呂勢太夫、清治は、「心の鬼の和田四郎」の底強さや悪人ぶり、人形の動きを的確に導く。ただ、最後の聞かせ所の「和歌の浦には」のくだりが意外にも声が伸び切らなかった。

人形では和生が女房お柳、師の衣鉢を継ぎ、草木の身での母の情を見せる。
平太郎を玉男、この人も手に入っているが、今回は平太郎が目を病んでいるという設定や、和田四郎との立ち回りは見せ場本位のように思われて気の毒。平太郎の母に文昇、こうした老け役もしっかりと。みどり丸を簑太郎、無邪気さがかえって哀しみを誘う。勘市が進ノ蔵人、思慮深く実直な性根。和田四郎を文哉(前半玉勢)。
この個所だけではただ悪役としての性根がわかりにくいが、文哉は大きく遣い、平太郎の奇瑞を引き出す役割を果たした。

二つ目の演目は、『大塔宮曦鎧」明治以来の復曲で東京ではすでに5年前に上演されている。
馴染みは薄いが見応えある作品に仕上がった。「六波羅館の段」中、咲寿太夫が丁寧に忠実に語り、清馗が勘所を押さえる。まだ声の変化が不十分だが、体当たりで語る姿勢が好ましい。
奥、靖太夫は自然に流れるようになってきたが、たとえば花園の出の詞などがまだ奥深さがでない。太郎左衛門と花園の詞の応酬もあと一歩。錦糸はさすがに復曲の全体を見通した構成力。

「身替り音頭の段」中、小住太夫は抜擢だが、期待に応える堂々とした語り。勝平の糸が確かにそのあるべきところに導いたとはいえ、このキャリアでこの語りは頼もしい。
奥、千歳太夫、富助。前半、太郎左衛門の詞と地が変わらなかったり、声が届かないところがあったが、「切って替へたる末世の手本」あたりの緊張感、太郎左衛門の嘆きはさすが。富助はやはり時代物の奥の迫力と哀切を示す。

玉也の太郎左衛門、自分の孫を身替りとする哀しみを隠す気丈、玉志の右馬頭宣明、実直さをよく表し、真面目さの中の愛嬌も感じさせる。妻花園を勘弥、太郎左衛門に対抗する格がほしい。範貞を玉輝、悪の軽薄さを出した。
若宮を勘次郎、高貴さを出す。三位の局を清五郎、出はやや貫目不足か。鶴千代を和馬、力王丸を簑之、共に子役の哀れを誘う出来。

第3部「新版歌祭文・野崎村の段」中、文字久太夫、清志郎。

文字久太夫が中を担当するという贅沢。生真面目な彼らしく手堅い語りだが、小助の詞がより引き立つと面白味も増すのではないか。清志郎も手堅く支える。

前は津駒大夫、寛治。こうした語りがもっとも力を発揮できる人だろう。お染のクドキが実に映える。
寛治の糸の魅惑。後は三輪太夫、久作の強さにはっとする。段切れはこの人らしい伸びやかな美声。
團七、ツレ清公。段切れの連れ引きは寛治に敬意を払い彦六系で締めたか。

おみつは清十郎。中では女らしくしっとりと、お染が出てからはややおきゃんに、髪を下してからは凛とした姿勢で、同じ娘の3つの顔を見事に遣った。一輔のお染は、大家のお嬢様らしいおっとりとした風情と娘の恋の情熱。文昇の久松はやや大人しめで2人から恋される色気をにじませる。
久作は勘寿。いつもは婆の多い人だが、こうした白太夫かしらも人物の味を出しつつ気骨あるところを見せる。簔助のお勝は、この場の雰囲気を一変させ、背筋を伸ばさせるおのずからの威厳。玉誉の祭文売りは芝居気のあるところを見せ、簔一郎の久三の小助は三枚目の性格を前面に出すが、この人の底悪さをもう少しにじませてもよいのではないか。
下女およしは玉征(後半勘昇)が気持ちよい遣い方。駕籠屋は玉彦と勘助(後半玉路)、リズミカルな足。船頭は紋秀がたっぷり見せる。今回は婆を出さない演出と台本だが、清十郎は出の時に薬をもって上手障子の中に入るなど、婆の存在を意識させた。

最後は「日本振袖始・大蛇退治の段」
織太夫の岩長姫、謡いがかりから始まる。希太夫の稲田姫、「おいたはしい」と言われる通り。
南都太夫の素戔嗚尊は力強く語り、ツレは亘太夫。藤蔵、清丈、寛太郎、錦吾、燕二郎の、揃った勢いと怪しさ。人の通わぬ深山の不気味、燕二郎の胡弓。

紋臣の稲田姫、白無垢のか弱さと、不安さを丁寧に遣う。最後に大蛇の腹を立ち割って出てくるところは凛々しい。玉助の素戔嗚尊は大きく豪快で頼もしい。
和馬(後半簔之)の爺は基本に忠実。そして岩長姫は勘十郎の独壇場。壺の酒を次々と飲み干し、酔いながら大蛇の本性を現していく、その過程をたっぷりと見せ、飽きさせない。舞いながら酔い、酔いながらさらに舞う。その差す手引く手の危うさに、どうなることかと客は固唾をのんで見守る。

ついに本性を現し、稲田姫を一飲みにする。そこに素戔嗚の登場。石見神楽の大蛇が登場し、縦横無尽に動き、素戔嗚の奮迅ぶりを見せる。そして大団円で大きな拍手。気持ち良い追い出し。

全体として、出演者は健闘し、また良い成果を出しているが、演出がこれでよいのか、と思われた。場面を復活させるにせよ、復曲させるにせよ、なぜそれをするのか、その姿勢が明確でないと、結局思いつきのように継続性のないものになってしまう。
そして何より、千穐楽の日にようやく次回の11月公演の演目が発表されたというのは、劇場としてどうなのか。単体の公演としての成果だけでなく、1年を通して計画的に演目を配列し上演すること、さらに伝承が可能なように5年に一度程度の上演が望ましい演目があることを忘れてはならない。
そして何より、三大名作を初めきちんとした通し狂言を1年に1回もまともに出さないというのは、国立文楽劇場としてあるべき姿ではない。太夫、三味線の養成などの課題が迫っているにせよ、文楽を愛する人々のために、責任を感じてほしいと思う。

カウント数(掲載、カウント18/08/14より)