カテゴリー別アーカイブ: 美芽の“呂”観劇録

夜寒か、夢か―国立文楽劇場平成30年11月公演―

森田美芽

 11月は本来なら紅葉を愛で、冬の足音を聞く、心深き月である。なのに庭に朝顔が残り、昼は24度の日が続く。季節の異様さを嘆きつつ、劇場においても、冬と夏が混在している。

 11月公演、第一部は『蘆屋道満大内鑑』で幕が開く。しかしいきなり「葛の葉子別れ」。「加茂館」も「保名物狂」もなく、物語の佳境に入れられ、葛の葉姫と女房葛の葉の関係など、観客を置き去りにしていくようだ。
 それでも中の咲寿太夫は頑張っていた。「隣柿の木」など、声は伸びやかで一語一語丁寧に語るが節はまだまだ、詞も堅い。木綿買なども、まだ変化が十分ではない。後半は小住太夫。勝平は若い太夫に頼もしい助け手、安心感をもたらす。
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 奥は津駒太夫、宗助。津駒太夫は狐詞がやや不明確なところがある。しかしこうした情を聴かせる力はさすが。宗助とのコンビも快調。

 人形では、まず和生の女房葛の葉。母性愛の深さと、童子に語り掛ける覚悟の凛とした風情。狐の身の悲しみを深く伝える。
 しかし出会いからの経緯なしのいきなりの別れで、今一つ感情が乗り切れない。清十郎の保名、この場面だけだと、単なる狼狽え者に見えてしまい、「われはちっとも恥ずかしからず」に到る心の起伏が伝わりにくい。もったいない限り。

 信田の庄司の玉輝、庄司の妻の簑一郎、存在感を出している。
 簑紫郎の葛の葉姫、宙に目をやり、戸惑いの風情、生きている表情。
 勘次郎が阿倍童子、いたいけで愛らしい。
 木綿買の荏柄段八は勘介、動きのある役。信楽雲蔵を玉延、玉峻、簑悠が交替で。玉路は落合藤治。ここらは若手が生き生きと遣っている。

 「信田森二人奴の段」
 友之助が気合の一撥、それを受けて南都太夫が凄みある悪右衛門。芳穂太夫がリードし、津国太夫はやや声が伸びなかったようだが、それでもユーモラスでおおらかな与勘平。
 咲寿太夫、碩太夫は小気味よい。
 三味線は藤蔵がここも力強くリズムを創り出し、清馗、友之助、錦吾、清允らが気持ちよく合わせる。
 床のまとまりのよさで、ここはあまり深刻にならずに、人形の動きを楽しめる。
 簑太郎の悪右衛門が鬼若らしいきびきびした動き、野干平の玉助は水を得た魚のよう、ダイナミックでおおらかな動き。
 玉佳の与勘平は愛嬌ある奴。初日は段切れが少し手間取ったが、力強く決まった。
 

 続いて『桂川連理柵』
 これも「六角堂の段」からだが、「石部宿屋」が欲しいところ。
 希太夫のお絹はつつましく女らしい。文字栄太夫が儀兵衛で詞が多くなんとも下心の見える様子。
 小住太夫が長吉、阿呆らしさが少し鼻につくが、明確。團吾は的確なまとめ役に徹している。

 「帯屋の段」前、呂勢太夫、清治。切咲太夫、燕三。
 呂勢太夫、前半のチャリ場を楽しく聞かせた。儀兵衛と長吉の笑い。
 長吉がただの阿呆ではないところをしっかりと聞かせ、婆や儀兵衛の悪さも心地よい。芸の幅が確かに感じられた。
 清治の、巧まざる愛嬌まで感じさせる妙技。

 咲太夫、お絹のクドキに見せる老練さ。しっとりした三味線のうちに、一瞬で怒りを見せる。長右衛門の秘めたる思い。お半の思いつめた表情が見えるように。
 燕三、長右衛門の心の高まりを糸に託す、その息詰まる説得力。

 簑二郎の婆、すっかり手の内に入れている。
 憎さげなところも、前身を感じさせるところも。
 勘寿の繁斎、物静かななかにも皆を配慮する家長の貫録、玉志の儀兵衛、この人には珍しい三枚目の役だが、手堅く遣う。細かい動きまで正確。愛嬌ある長吉の文司と共に、確かな実力を発揮している。
 勘弥のお絹、貞淑で慎ましやかな反面、そこに秘めた情熱を感じさせた。
 玉男の長右衛門、辛抱立役の真骨頂。しかしその内に闇を抱える男の切なさ。
 勘十郎のお半、なぜこうなってしまったのか、少女の情熱の危うさと巡り合わせの悲劇であると。

 返す返すも「石部宿屋」がないことが惜しい。

 「道行朧の桂川」
 お半を織太夫、長右衛門を睦太夫、亘太夫、碩太夫。
 三味線は寛治の逝去により清志郎がシンとなって寛太郎、清公、燕二郎を率いる。華やかな節のうちに、長右衛門の無念さが憂いとなって響く。
 華やかで、そしてやりきれなさをもって、この悲劇を終わらせる。織太夫は今月この場のみ。力と気合を込めて、死出の旅に向かうお半を描く。

 第二部、『鶊山姫捨松』「中将姫雪責の段」
 前、靖太夫、錦糸。奥、千歳太夫、富助。千歳太夫は解説にも語っているように、声を上に伸ばす努力をしているが、やはり段切れには苦しそうである。しかし千穐楽近くまで声を保ち語れたのはよかった。
 富助は妥協なしの攻めてくる三味線。

 人形は簑助の中将姫に尽きる。
 継子いじめ、父との信頼関係、無垢なる姫が雪の中で責められる、その痛ましさと、それゆえの凄惨なる美。雪の中に倒れ伏すさえ美しい。

 桐の谷は一輔、誇り高く主思い、品あるたたずまい。
 浮舟は紋臣、奥方につくと見せかけて姫を助ける芯の強さを感じさせる。そして手紙を広げてのキマリも心地よく決まる。

 岩根御前は文司。八汐のような憎まれ役で最後に気弱なところも見せるが、憎々しさのうちにも品位を見せる遣いぶり。
 広継は亀次。腹に一物。紋秀、命令で姫を責める下部の心まで感じさせる。
 

 『女殺油地獄』
 先ほどは雪に冷え冷えとしたのが、今度は初夏の野崎参りで、その変化に戸惑う。

 「徳庵堤の段」三輪太夫、清友。
 これまで掛け合いの多かったこの段を、三輪太夫が一人で語って飽きさせない。多彩な登場人物を、一人ひとり存在感を持って語り、どの人物も生きて動いでいるのを感じる。
 とりわけ豊島屋一家のやり取りのおかしみ、お吉の遠慮なしともいえる与兵衛への親切と夫とのすれ違いが、後の殺し場への伏線となっていることを自然に伝えるところがこの人の実力。
 清友はその模様と状況を丁寧に描く。

 「河内屋内の段」口、亘太夫の健闘を清丈の三味線が支える。
 理屈抜きに前に出る声と力。講中や先達のおかしみ、とぼけた味わいも可。

 奥、文字久太夫、團七。文字久太夫の強みは、情を語る力をつけてきたこと。この場の徳兵衛、生さぬ仲の息子への思いがすれ違う悲しみ、与兵衛が立ち去るのを見守る眼差しに涙を誘われる。
 この場の与兵衛はひたすら自己中心、家庭内暴力をふるうドラ息子の典型のようで、河内屋一家にひたすら同情を寄せたくなる造形。
 この家庭悲劇を、しっとりと共感を持って描く團七。

 「豊島屋油店の段」呂太夫、清介。
 呂太夫の語りを聴いて、前段とは異なる与兵衛像が見えてきた。悪遣いした金のために、高利貸しに手を出し、二進も三進も行かなくなっている。
 綿屋小兵衛との会話のうちに、彼の切羽詰まった状況がわかる。親たちの情けも届かないほどに。
 誰も彼を救いうる人はいない。
 それを承知していたから、唯一お吉を頼ったのだ。

 与兵衛は本当にお吉を殺すつもりだったのか。
 油の樽を持って行ったのが、お吉に隙を作る手段なのはわかる。しかし、お吉に断られ、理性の糸が切れる。その表現が迫ってくる。

 「俺も俺を愛しがる親父がかわいい。」親に借金の迷惑をかけたくないから殺す、というのは、信じがたいが彼の中ではそれが精一杯なのだろう。
 ちょうど不始末をしてそれを親に知られると親に悪いと思って隠す子どものように、彼の中では繋がっている理屈なのだ。

 しかし、この前の徳兵衛の詞、「生まれ立ちから親はない。子が年寄っては親となる。親の初めは皆人の子。子は親の慈悲で立ち、親は我が子の孝で立つ」
 また母お沢の詞「母が生き肝を煎じて…子ゆえの闇に迷わされ」が伏線となっている。
 遠いはずのこの親子が、実は互いを呼び合っているのを感じた。
 あまりに身勝手といえば身勝手であるが、与兵衛は自分の中のコントロールできない悪を助けてほしいと、親を呼んでいたのかもしれない、と思った。

 他にも、娘の髪を梳く櫛の歯が折れたり、立ち酒を飲んだりと、様々な伏線が周到に張り巡らされ、それが語りの中で次第に悲劇を予感させ、作り上げていく、近松の作劇法を見通した語りの構成、それを立体的に造形する清介の三味線と共に、見事な一段となった。

 人形では、極め付けともいうべき勘十郎の与兵衛。
 油の場面よりも、この救いようのない男を遣って、その感情の動きを見せることが素晴らしい。
 徳庵堤での強気と急に心細くなった場も、「河内屋内」での強欲さ、父母を手にかける自己中心そのもの、サイコパスのような人物像も、その中で親を思う心を持ちながら、身の内の悪に引きずられる弱さをまざまざと見せた。
 油の中での殺人シーンは日が進むにつれさらにグレードアップし、客席を沸かせた。
 和生のお吉は、つい与兵衛に関わってしまう人の好さとそれゆえの悲劇を納得させた。
 玉也の徳兵衛は先代への忠義と与兵衛への思いの間で揺れている実直さを伝え、女房お沢は文昇が芯の強さと母の弱さを巧みに遣う。
 玉志の兄太兵衛は与兵衛と正反対の真面目さ、清五郎の妹おかちは親思い、兄思いを強く出す。玉路の山上講先達はとぼけた味わい、玉助の豊島屋七左衛門は骨太な商売人らしさを見せ、玉翔の綿屋小兵衛は与兵衛を追い詰める資本の論理の典型。簑之はお清を愛らしく無邪気に遣い、玉彦の弥五郎、和馬の善兵衛らも性根をきちんと掴んでいる。
 紋吉の小菊はこうした遊女の手管を納得させ、花車の玉誉は柔らかな物腰で目を引く。
 勘次郎は会津の大尽、それらしい風情。簑太郎の小栗八弥、武士の品格。勘市の森右衛門、この実直、武士の誇り。
 

 こうして書き進めていくと、やはり充実した舞台ではあったが、それだけでは終わらないものを強く感じた。

 11月というのに、本格的な通し狂言が出ない。それが陣容の薄さのせいか、興行的な配慮によるものか、いずれにせよ、人気のある演目の見所だけを切り貼りしたように思われてならない。
 「葛の葉」も「桂川」もそれなりに人気のある演目だが、それをこのように出してしまうと、もう数年は通しでも出せなくなってしまう。この数年、「千本桜」も「菅原」も「絵本太功記」もそのような形で、通しで出せなくなってしまっている。
 それを、観客に対してのみならず、技芸員の方々のためにも残念に思う。

 さらに、これは東京の国立小劇場の方とも同じ演目が続く、ということが続いている。

 東京と大阪はそれぞれに違う視点で制作を進めるべきであろうが、これはある意味、制作の怠慢ではないか。大阪も東京も、出すべき演目が多くあるにも拘わらず、同じ演目で演者も固定的になると、見る側にとっては期待も薄れてしまう。
 そうしたことが、文楽への失望を生まないとも限らない。次年度のさらなる努力に期待したい。

カウント数(掲載、カウント18/11/28より)

受け継ぐもの、手渡すもの―第21回文楽素浄瑠璃の会―

森田美芽

 国立文楽劇場第40回邦楽公演は、2018年8月18日、文楽素浄瑠璃の会として、豊竹呂太夫、鶴澤清友による『和田合戦女舞鶴―市若初陣の段―』、豊竹咲太夫、鶴澤燕三による『曲輪文章―吉田屋の段―』、そして咲太夫、片岡仁左衛門による対談「浄瑠璃よもやま話」が行われた。演目解説は大阪市立大学大学院の久堀裕朗教授。
 対談の司会は産経新聞文化部の亀岡典子編集委員と、行き届いた顔ぶれで、舞台そのものの充実と、観客に伝えるものの両面において評価の高い会となった。

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 「和田合戦女舞鶴」は東京国立劇場でも1989年に上演されたきり。その前の記録をたどると、1965年に三越劇場、1950年に十代豊竹若太夫襲名披露狂言として上演されている。そのため、呂太夫にとっても、祖父の衣鉢を受け継ぎ、若太夫襲名という大きな目標のステップであることは間違いない。
 彼はこの作品を、2009年に早稲田大学で、2015年国立劇場で素浄瑠璃で語っており、いずれも三味線は清友と、磨きをかけ、手の内に入れてきた、今回はその成果を問われることになる。また「越前風」と呼ばれる曲風を伝える貴重な一曲として伝承の上でも大きな意味を持つ。
 
 「市若初陣」まず市若丸の登場。11歳ながら、錦革の鎧と兜、弓矢を携えた本格的な武者姿が浮かぶ。母に「逢ひたかった」という11歳の稚さ。息子を出迎え、手柄を立てさせたいと語る母。そこに「忍びの緒」の謎が現れる。はっとするような展開で、気が付けば物語の中に取り込まれている。

 板額は市若をなだめ、気を取り直し、尼君のもとへ向かおうとする。そして尼君からの残酷な事実の語りに、「ホイ、はつ」と、忍びの緒に込められた意味を悟る。その重さを感じさせる語り。
 そして尼君の懇願に、夫への恨みと嘆きが交錯する。「エエ聞こえぬぞや我が夫」からのこの板額の嘆き、「告げとも知らず余所の子の、花々しきを見るにつけ」の泣きの表現。それに対する夫の無責任、妻にすべての苦しみを負わせながら、という怒りも共にさせられていく。
そして「涙を忠義に思ひかへ」からの豹変。「ナニ、腹切つてか」「アノ腹をや。腹を」の畳みかける苦しみに、清友の撥が入る。
 
 そして「耳聳立てし四方八方」の緊張感が高まる中での、板額の一人芝居。
 その必死さの裏は嘆きと伝わる。そして市若が潔く腹を切り、苦しい息の下から母を呼ぶのに対し、母は「与市殿とわが仲の、ほんの、ほんの、ほんの・・ほんぼんの子ぢゃわいなう」と語りかける母の悲しみが臓腑をつんざくばかりに、複数の拍手がたちまち客席に広がる。

 「なんの因果で武士の子とは生まれ来たことぞ」が胸に堪えた。
 そこから二親が息子の首を手渡す涙。さらに言えば、この身代わりの犠牲そのものが無になってしまうというさらに残酷な結末が待ち受けている。
 この場では、本当なら必要のない身代わりが必要と信じて、市若丸がその犠牲となっていく、そのプロセス自体があまりにも理不尽に思われ、「寺子屋」などのようには共感しにくい構造になっているにもかかわらず、なればこそ、市若の純真さ、いたいけな少年像が明確に、そしてそれを義理のために死なせなければならないという矛盾を背負った板額の嘆きと、母としての叫び、にもかかわらず「涙を忠義に思ひかへ」る男勝りの忠義心が、またそのことを強要する当時の論理の残酷さが心にすとんと落ちる。
 呂太夫の語りはそれらの物語の起伏、板額と市若の親子の情と忠義の意志、それらの葛藤と悲劇を余すところなく描き、清友の糸が涙と嘆きに彩りを添えた。

 「吉田屋」冒頭、暮れのざわめきと色町の風情を燕三が艶やかに描き出す。喜左衛門の詞の深み。長年色町の裏も表も知り尽くし、客を逸らさぬ手際、「紅絹裏の羽織をふわと」打ちかけるその軽やかさが目に浮かぶ。
 
 藤屋伊左衛門の詞、「七百貫目の借銭負うて」「この身が金ぢや。総身が冷えて堪らぬ」の呼吸。
 ところが夕霧に客があると聞いた途端に調子が変わる。こうした感情の機微も堪える咲太夫の語り。余所事浄瑠璃が入り、夕霧の出。二人のじゃらくらとした戯れ。そして15分に及ぶ夕霧のクドキ。
 「この夕霧をまだ傾城と思うてか。ほんの女夫ぢゃないかいな」に込められた女心。段切れは「申し申し伊左衛門様」からの詞が義太夫として納まる。

 そして仁左衛門と咲太夫の対談。
 仁左衛門の巧まざる愛嬌とニンの良さ。咲太夫との縁、幼少期の思い出に始まり、松島屋系の「吉田屋」の演じ方、性根、演技についての苦労話など、また、文楽と歌舞伎の間での相互輸入のいきさつも興味深い。
 しかしその中で、失われて色町の風情と、失われゆく義太夫のことば、義太夫訛りについて触れられた時は胸が痛んだ。
 「義太夫節の本行を習いにきたのは孝夫さん(現仁左衛門)の世代まで」といい、いまは丸本ものの科白も習いには来ないという。知らない人が大勢になれば、「多勢に無勢」で、本物を知る人が異端となってしまう。
 正しい本行に従って役を学ぶことが、歌舞伎の若手の継承で途絶えることは実に危機的である。それは、文楽の方にも言えることだが、正しい大阪弁のイントネーションや、「義太夫訛り」が伝わらなくなっていけば、文楽のみならず歌舞伎も含めて日本の伝統文化の危機となる。それがもはや危機感どころではなく、現実になりつつある。

 伝えられるべきものが伝えられなければならない。先人から受け継いだものを、次の世代へと確実に手渡し、伝えていかねばならない。
 こうした素浄瑠璃の会を国立劇場が持つことの意義はどれほど強調してもし過ぎるということはない。それだけでなく、いま、文楽の具太夫節自体が、わずか20名の太夫、三味線によって支えられているという現実。
 その中で、咲太夫は戦前からの伝統を直接に継ぐ世代として最後の人であり、呂太夫もまた、越路太夫や春子太夫といった名人に直接師事し、八世綱太夫らに直接稽古を受けた最後の世代である。
 彼らの受け継いだものを、若手は全力で受け継いでいかねばならない。ほどなく、若手素浄瑠璃の会がもたれるが、彼らに一段と自覚を促すと共に、国立劇場に、失われてはならない伝統の灯を継承する責任をよく果たしていくこと、そのための文楽公演であることをよく肝に銘じていただきたい、と願う。
 
 まだまだ、受け継ぐべきもの、彼らが手渡すものは数限りなく、時間は迫っているからだ。その時のはざまに、こうした至芸を聴くことのできた幸いを心より感謝する。

カウント数(掲載、カウント18/08/20より)

闇と魔のあいだに―― 2018年夏休み文楽特別公演

森田美芽

第1部 「瓜子姫とあまんじゃく」

子ども公演

木下順二の原作だが、初演の越路太夫はどのようにかかわっていたのか、プログラムを見ても判然としない。
本来は義太夫節のために書き下ろされた作品ではないから、越路太夫の苦労と二代喜左衛門の為した業績が、今日明確でないことが惜しまれる。しかし、越路太夫の流れを受け継ぐ呂太夫が、今日またそれを上演する意義を見せてくれたと思う。

呂太夫の語りは、嶋太夫と異なり、あまんじゃくの部分をはっきり区別する。あまんじゃくがオウム返しをするところも、高さを変え、また「しりっぽでもあるか知んねえだに」はもっとはっきりした震え声で返す。
この謎めいた物語、実はあまんじゃくが山父であるかどうか、なぜじっさがあまんじゃくの思いを読んだように、「ケケエロウ、そんだらふうではちがうがな」と言ったのか、謎は謎のままである。呂太夫の語りの中には、瓜子姫という存在の不思議さ、鶏やトンビや烏をその懐に抱いて一体化する自然の豊かさを踏まえて、その謎の中のあまんじゃくという存在を際立たせた。鶴澤清介はその豊かさを受けて物語を織りなす。ツレ清公、清允もよく音が響くようになった。

瓜子姫は簑紫郎、良く動き、また戸惑いや悲しみといった表情もよく遣った。成長著しい。あまんじゃくは玉佳、憎めないあまんじゃくの造形が楽しい。じっさは文哉(後半玉勢)、あまんじゃくとの知恵比べが面白い。
ばっさは亀次、よい味わいに枯れた婆。杣の権六は玉路、ひょうきんさをうまく出した。山父は勘介、効果満点。

続いて「解説 文楽ってなあに」は玉翔(後半玉誉)。子ども向けということで、人形を中心とした解説は定番のものだが、子どもたちには十分楽しめたようだ。

「増補大江山」こちらも怪奇を扱うが、大江山の酒呑童子伝説などが一般的でなくなったいま、鬼という異形をどう表わすか。
若菜を芳穂太夫、時折芝居めいた感覚が残る。渡辺綱を津国太夫、この人の地力を聞かせていただいた。右源太は竹本文字栄太夫、左源太を竹本碩太夫、力強い声。三味線は清友、團吾、友之助、錦吾、燕二郎。力の入った三味線に怪しさが増す。清友の的確なリードで、團吾、友之助が支え、錦吾、燕二郎らの熱演が光る。

人形では文司の綱は凛々しく実直。簑二郎の若菜は前半の怪しさを秘めた女から、後半の鬼への変身が著しい。最後の綱との対決は力が入って見応え十分。右源太は紋吉、左源太は玉翔。安定感ある遣いぶり。
確かに一部は子ども向けということで困難が伴うが、本物であれば必ず届くものがあるはず。それを心に感じてほしいと念じた。

第2部 「三十三間堂棟由来・平太郎住家より木遣り音頭の段」

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通常の形と異なり、和田四郎のくだりが入るが、これがどうも座りがよくない。そもそも和田四郎の存在意義がわかりにくく、熊野権現の奇瑞を見せるだけなら、母を殺す必要があるのかと思ってしまう。

中、睦太夫、宗助。所見が千穐楽に近かったためであろうが、睦太夫は少し語尾がかすれ気味。というより、声の使い方がどうかと思えるところがある。宗助も支えているが、やはりこの場では畑物を盗んで首代に金十枚という設定がどうも不自然で、彼としては非常にやりにくいところではなかったか。
切の咲太夫、燕三は期待通り。「母は今を限りにて、元の柳に帰るぞや」のあたりの染み通るようなお柳の哀しみに打たれた。ただ切語りの役場としてはあっさり終わったとの印象が残る。奥の呂勢太夫、清治は、「心の鬼の和田四郎」の底強さや悪人ぶり、人形の動きを的確に導く。ただ、最後の聞かせ所の「和歌の浦には」のくだりが意外にも声が伸び切らなかった。

人形では和生が女房お柳、師の衣鉢を継ぎ、草木の身での母の情を見せる。
平太郎を玉男、この人も手に入っているが、今回は平太郎が目を病んでいるという設定や、和田四郎との立ち回りは見せ場本位のように思われて気の毒。平太郎の母に文昇、こうした老け役もしっかりと。みどり丸を簑太郎、無邪気さがかえって哀しみを誘う。勘市が進ノ蔵人、思慮深く実直な性根。和田四郎を文哉(前半玉勢)。
この個所だけではただ悪役としての性根がわかりにくいが、文哉は大きく遣い、平太郎の奇瑞を引き出す役割を果たした。

二つ目の演目は、『大塔宮曦鎧」明治以来の復曲で東京ではすでに5年前に上演されている。
馴染みは薄いが見応えある作品に仕上がった。「六波羅館の段」中、咲寿太夫が丁寧に忠実に語り、清馗が勘所を押さえる。まだ声の変化が不十分だが、体当たりで語る姿勢が好ましい。
奥、靖太夫は自然に流れるようになってきたが、たとえば花園の出の詞などがまだ奥深さがでない。太郎左衛門と花園の詞の応酬もあと一歩。錦糸はさすがに復曲の全体を見通した構成力。

「身替り音頭の段」中、小住太夫は抜擢だが、期待に応える堂々とした語り。勝平の糸が確かにそのあるべきところに導いたとはいえ、このキャリアでこの語りは頼もしい。
奥、千歳太夫、富助。前半、太郎左衛門の詞と地が変わらなかったり、声が届かないところがあったが、「切って替へたる末世の手本」あたりの緊張感、太郎左衛門の嘆きはさすが。富助はやはり時代物の奥の迫力と哀切を示す。

玉也の太郎左衛門、自分の孫を身替りとする哀しみを隠す気丈、玉志の右馬頭宣明、実直さをよく表し、真面目さの中の愛嬌も感じさせる。妻花園を勘弥、太郎左衛門に対抗する格がほしい。範貞を玉輝、悪の軽薄さを出した。
若宮を勘次郎、高貴さを出す。三位の局を清五郎、出はやや貫目不足か。鶴千代を和馬、力王丸を簑之、共に子役の哀れを誘う出来。

第3部「新版歌祭文・野崎村の段」中、文字久太夫、清志郎。

文字久太夫が中を担当するという贅沢。生真面目な彼らしく手堅い語りだが、小助の詞がより引き立つと面白味も増すのではないか。清志郎も手堅く支える。

前は津駒大夫、寛治。こうした語りがもっとも力を発揮できる人だろう。お染のクドキが実に映える。
寛治の糸の魅惑。後は三輪太夫、久作の強さにはっとする。段切れはこの人らしい伸びやかな美声。
團七、ツレ清公。段切れの連れ引きは寛治に敬意を払い彦六系で締めたか。

おみつは清十郎。中では女らしくしっとりと、お染が出てからはややおきゃんに、髪を下してからは凛とした姿勢で、同じ娘の3つの顔を見事に遣った。一輔のお染は、大家のお嬢様らしいおっとりとした風情と娘の恋の情熱。文昇の久松はやや大人しめで2人から恋される色気をにじませる。
久作は勘寿。いつもは婆の多い人だが、こうした白太夫かしらも人物の味を出しつつ気骨あるところを見せる。簔助のお勝は、この場の雰囲気を一変させ、背筋を伸ばさせるおのずからの威厳。玉誉の祭文売りは芝居気のあるところを見せ、簔一郎の久三の小助は三枚目の性格を前面に出すが、この人の底悪さをもう少しにじませてもよいのではないか。
下女およしは玉征(後半勘昇)が気持ちよい遣い方。駕籠屋は玉彦と勘助(後半玉路)、リズミカルな足。船頭は紋秀がたっぷり見せる。今回は婆を出さない演出と台本だが、清十郎は出の時に薬をもって上手障子の中に入るなど、婆の存在を意識させた。

最後は「日本振袖始・大蛇退治の段」
織太夫の岩長姫、謡いがかりから始まる。希太夫の稲田姫、「おいたはしい」と言われる通り。
南都太夫の素戔嗚尊は力強く語り、ツレは亘太夫。藤蔵、清丈、寛太郎、錦吾、燕二郎の、揃った勢いと怪しさ。人の通わぬ深山の不気味、燕二郎の胡弓。

紋臣の稲田姫、白無垢のか弱さと、不安さを丁寧に遣う。最後に大蛇の腹を立ち割って出てくるところは凛々しい。玉助の素戔嗚尊は大きく豪快で頼もしい。
和馬(後半簔之)の爺は基本に忠実。そして岩長姫は勘十郎の独壇場。壺の酒を次々と飲み干し、酔いながら大蛇の本性を現していく、その過程をたっぷりと見せ、飽きさせない。舞いながら酔い、酔いながらさらに舞う。その差す手引く手の危うさに、どうなることかと客は固唾をのんで見守る。

ついに本性を現し、稲田姫を一飲みにする。そこに素戔嗚の登場。石見神楽の大蛇が登場し、縦横無尽に動き、素戔嗚の奮迅ぶりを見せる。そして大団円で大きな拍手。気持ち良い追い出し。

全体として、出演者は健闘し、また良い成果を出しているが、演出がこれでよいのか、と思われた。場面を復活させるにせよ、復曲させるにせよ、なぜそれをするのか、その姿勢が明確でないと、結局思いつきのように継続性のないものになってしまう。
そして何より、千穐楽の日にようやく次回の11月公演の演目が発表されたというのは、劇場としてどうなのか。単体の公演としての成果だけでなく、1年を通して計画的に演目を配列し上演すること、さらに伝承が可能なように5年に一度程度の上演が望ましい演目があることを忘れてはならない。
そして何より、三大名作を初めきちんとした通し狂言を1年に1回もまともに出さないというのは、国立文楽劇場としてあるべき姿ではない。太夫、三味線の養成などの課題が迫っているにせよ、文楽を愛する人々のために、責任を感じてほしいと思う。

カウント数(掲載、カウント18/08/14より)

珠玉の系譜 ―2018年4月公演 五代目吉田玉助襲名披露―

森田美芽

 昨年の呂太夫、新年の織大夫に続き人形の吉田幸助が、祖父の名跡を継ぎ五代目吉田玉助となる。その襲名披露狂言は、祖父、父四代目玉助(玉幸)と受け継がれた「勘助住家」の横蔵実は山本勘助。スケールの大きい立役遣いとして期待された彼の、現在の充実と将来の可能性を十分に見せる舞台であった。

2017_錦秋文楽公演-B2ポスター(CS6)

 第一部、『本朝廿四孝』を「桔梗原の段」から。
 口、芳穂太夫、團吾。奴同士の争いから、唐織と入江の諍いまで、丁寧に語り好感が持てる。入江の憎さげなところも魅力。團吾は気合の入った三味線でこの場の導入をスムーズにした。
 奥、文字久太夫、團七。慈悲蔵の詞にあるためらい、「結ぶ栄花も夢の夢」などの詞の広がりが、自然に語れている。高坂、越名の出と4人の性格の描写も納得できる。
 先ほどと打って変わって唐織の強さにも心づかされる。團七の糸の導くところ、文字久太夫の良さが発揮された。慈悲蔵の玉男が「呆然として佇む」風情あり、高坂弾正の玉輝も落ち着いて知恵者。文司は越名弾正の金時かしらのユーモラスさで、前受けを狙わない自然体。しかし慣れぬ赤子をあやすところは愛嬌たっぷり。簑二郎の唐織は位をくずさず、一輔の入江は八汐かしらだが憎めぬ風情。

 続いて「吉田幸助改め五代目吉田玉助 襲名披露口上」
 吉田簑二郎が仕切り、玉男、和生、勘十郎の順で、新玉助のエピソードを交えた祝賀が述べられる。先の織太夫の時も感じたが、なぜ人形部だけの出演なのか、これこそ文楽座全体での祝うべき襲名であるのに。

 続いて「景勝下駄の段」織太夫が寛治の薫陶を得て語る。老母と景勝の対決などに、母の位取り、気概が見えて良。景勝との対決も、詞の中に緊張感を漂わせる。ただ景勝の詞が勢いこんで違和感が残った。

 襲名披露狂言の「勘助住家」前、呂太夫、清介。横暴な横蔵と兄に甘く弟に辛く当たる母、理不尽な仕打ちに耐える弟とその妻のそれぞれを自然に描く。しかし「捨ててしもうたか」にほんのわずかに本音を匂わせる周到な語り。息子を人質に取られ仕官を迫られてもなお母の詞に背かれぬという不自然、それだけにお種の嘆き、2人の泣く子の間で苦悩し、ついに戸を打ち破るほどの我が子への愛情を見せる、不自然を自然に納得させる呂太夫の語り、三段目の切場語りにふさわしい。かつ清介の糸ならでは、この複雑さと不自然さを納得させられないだろう。
 後、呂勢太夫、清治。雪の庭での争いから我が子に死を迫る母、それに答える勘助の正体の見顕しまで、清治の一部の隙もなく織り上げる迫力に、呂勢太夫も勘助、直江を力強く語り納める。

 人形は、まず玉助の勘助が、横暴さとその背後の知略、文七かしらのスケールの大きさを示し、決まり決まりも力強かった。周囲を固めるのは、肚を感じさせる玉男の直江山城之介、理不尽な運命の中で我が子を抱きしめようとするお種の情熱を示した和生、芯の強さと一方で兄への甘やかしという矛盾を見事に遣った勘十郎の母、そして後半は簑助がこの母の重さをしかと伝える。玉也の景勝はその眼光の鋭さを見せた。襲名披露狂言に相応しい一幕となった。

 『義経千本桜』「道行初音の旅」。静御前の咲太夫、忠信の織太夫を中心に、津国太夫、南都太夫、咲寿太夫、小住太夫、亘太夫、碩太夫、文字栄太夫が上段に、燕三、宗助、清志郎、清馗、清丈、友之助、清公、燕二郎、清允が下段に並ぶ豪華な床を舞台奥にしつらえ、清十郎の静はフシオクリの後、下手から出る。
 愛らしさと美しさ、そして義経を追う意志をもってしなやかに立つ風情。勘十郎の狐忠信が自在に動く。彼らは主従なのだ。しかしそのバランス、どちらも主張し、どちらも輝く。忠信物語の合戦を演じる、その立ち合いやよし。迫ってくる音と声の厚みと共に、花にあふれる幻想を思う、華やかで祝祭に相応しい幕切れとなった。
 
 第二部は「彦山権現誓助剣」の半通し。「須磨浦の段」はお菊を三輪太夫が安定した語りで武家の誇りと無念を表わし、内匠を始太夫に代わり睦太夫が力強く、悪の底強さを加えて語り、友平の小住太夫は大きな声が前に出て、弥三松の咲寿太夫は子供らしさも板についてきた。清友のお菊の思いに沿いつつこの悲劇に観客の心を向ける。
 「瓢箪棚の段」中、希太夫、寛太郎。独楽の博打やら夜鷹やらの庶民的な語りの世界だが、決して下卑た感じにはならないのが希太夫の語りか。節も綺麗で、詞の面白さが楽しい。寛太郎の糸は明確で若々しい。
 奥は津駒太夫、藤蔵、ツレに清公。この物語の中でも最も謎めいた背景の説明や、様々な人物の往来など、技量を要求される場だが、さすがに津駒太夫はそれらの要求に見事に応えていく。青侍やいたち川などのやりとりの面白さ、伝五右衛門とお園の短いが重要な出会い、友平の自害と気丈なお園など、聴きどころも確か。藤蔵の三味線がドラマの起伏を伝える確かさと力強さ。

 「杉坂墓所」口を亘太夫と錦吾。短くも百姓たちの詞からしっかりと六助の人となりが伝わる、衒いのない語りと素直に聞ける三味線。
 奥は靖太夫と錦糸。靖太夫は節に酔わせる力が今一つ。詞は悪くないが、地声だけで語っているように聞こえ、どうしても表現の幅が狭くなっているのではないか。しかし六助の詞など、よく勉強しているのはわかる。錦糸はやはり一段上の三味線としてリードしている。

 「毛谷村六助住家の段」口は睦太夫と喜一朗改め勝平。睦太夫は端場の格で出すぎず引きすぎず、しかし内匠の性根や老女の怪しさなど、詞で表現できるようになっているのはさすが。勝平は持ち前の明るい音がよく響き、物語の濃淡を弾き分ける強さ。
 奥は千歳太夫、富助。幼子に手をやく風情からお園との出会い、さらにお園の変化もしっかりと聞かせて、斧右衛門のくだりは笑わせたがその変化がよく伝わらなかったか。内匠が実は微塵弾正と気づいての怒りはさすがと言えた。富助、問答無用の小気味よさ。

 人形ではまず、玉男の六助が肚もあり人の好さも感じさせる十分さ。お園の和生は「六助住家」よりも「瓢箪棚」の気丈さと多面性に魅力を感じさせた。玉志の京極内匠が大健闘の出来。この敵役の造形がなければこの物語は成り立たないが、この敵役の大きさや謎めいた出自、悪の権化のような強さや立ち回りの面白さを見せた。勘弥のお菊は武家の誇りと哀れさが印象的。簑太郎の弥三松は子どもの動きと感情を最後まで見せて健闘。
 友平の文昇は忠誠心と若気の至りの性格を見せ、紋臣の惣嫁のお鹿など愛嬌を見せる。玉勢の若党佐五平は老いの哀れさをしっかりと遣い、玉佳の伝五右衛門な短い出会いのうちの真実を伝える。青侍の簑一郎、身のこなしがすっきりと見事。いたち川の清五郎は自分より大きいお園に驚く表情を手堅く遣う。勘寿の母お幸は誇り高く、勘市の斧右衛門は貧しい庶民の悲哀のにじむ哀れさと滑稽さの両面を描きだした。

 千穐楽を前に、住大夫の訃報を聞いた。
 巨星落つ。そのことについては多くの人が語るので、ここでは現状の文楽について語る。住大夫が残そうとした伝承の重さ、文楽という技芸の深さを伝えることの責任を、一人一人が感じたのではないだろうか。若手から中堅の太夫・三味線の健闘、またその成長ぶりは頼もしく思われた。
 そしていま不遇と見える人々も、必ず芸の華を咲かせる時の来るを信じ、力を蓄え、来るべき時に備えてほしい。そして国立文楽劇場、文楽協会、文楽座の技芸員すべての力を一つにして、その付託に応えるべく精進し、時のしるしを読み、これからの文楽を築いていってほしい。

カウント数(掲載、カウント18/05/05より)

愛とゆるし―狂言風オペラ『フィガロの結婚』―

森田美芽

shukushou 狂言風オペラおもて (1)

 「ああ、誰もみな、これで幸せになる。苦悩のこの日を、気まぐれと狂 「ああ、誰もみな、これで幸せになる。苦悩のこの日を、気まぐれと狂気の日を、喜びと幸せのうちに終わらせられるのは、ただ愛だけ」
 このモーツアルトの喜劇の歌詞の「ただ愛だけ(solo amor)」を、浄瑠璃作者の片山剛氏は「愛と赦し(amor e perdono)」に置き換えた。この一言が、この笑いと、高い音楽性と、伝統芸能の底力の集大成の本質を伝えた。2018年3月23日、大阪いずみホールでの狂言風オペラ「フィガロの結婚」の千穐楽である。
 モーツアルトの歌劇を狂言で、それに能と文楽が加わるとどうなるのか、想像もつかなかった。だがその本質は凡庸な人間のドタバタ喜劇であり、狂言や文楽への親和性は高い。すると能は?また音楽を担当するのがルツェルン音楽大教授陣によるクラングアートアンサンブルの管楽八重奏と、鶴沢友之助の太棹三味線とは、和洋の音階や楽風の差をどうするのか。しかもオペラといいながら、基本的に歌わない。アリアやカンツォーナは管楽の演奏で、狂言師のセリフと太夫の語りが物語る。それがどのような語りとなるのか。
時代は平安、江戸、現代が混然としたある春の一日、場所は京の在原平平の屋敷、作中人物はフィガロの両親のくだりを省き、より明快な設定とする。
 舞台は正面奥が八重奏団、その前に床をしつらえ、ちょうど目付柱とワキ柱のように2本の竹がまっすぐに建てられている。舞台の両端は半ば几帳で区切られ、能楽堂の橋掛かりのように使われる。それだけではない。客席側の扉すら演者の出没する空間となる。
 柝が入って口上、馴染んだ序曲の管楽による演奏。そして友之助の三味線で「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」の旋律。
 狂言、野村又三郎の太郎(フィガロ)と茂山茂のお花(スザンナ)の掛け合いで、今夜の結婚と殿様の好色ぶりが語られ、そこに殿様である在原平平(人形 桐竹勘十郎)が現れてからむという場面。殿様を語るのは豊竹呂太夫。なんと生き生きとリアルな、それでいて生々しくない語りと人形。そしてあまりに人間臭い。それでいて人間と人形が絡むのも全く不自然さがない。勘十郎の業が冴える。
そもそも狂言自体、男が女役を演じて、歌舞伎の女方とは全く異なる。女らしさというより、女という役柄に徹しているために色気ではなく自然と笑いが起こる。さらに山本善之の蘭丸(ケルビーノ)とその恋人役の茂山あきらのおあき(バルバリーナ)も登場。オペラでは女性が演じる少年ケルビーノの瑞々しさは、滑稽さにとってかわられる。
 第二部は三番叟の三味線での幕開き。友之助の手に拍手が起こる。殿様の和歌のたしなみすらない滑稽さを笑いとするのは狂言ならではの手法。だがそれを何と自然に納得させる呂太夫の語りだろう。愚かさも欲望も隠さない、ある意味最も正直な人間像を描いた。赤松禎友の奥方の舞の美しさと気品。それでいて夫への恨み、やるせない思いを秘めた、能ならではの味わい。さらにお花の小舞は生き生きとしゃれて、能舞と対比しても重々しくなり過ぎず楽しい。
 フィナーレは冒頭で取り上げた「愛と赦し」での大団円。大きな拍手とアンコールで、出演者全員と芸術監督の大槻文蔵師が舞台で挨拶する。アンコールが3度続くほど、拍手は鳴りやまなかった。
 どこがおもしろい、と言っても、それは一言では難しい。原作の持ち味を十分生かしながら、狂言という形で、狂言師の方々の演技とセリフにして何ら不自然なところがないだけでなく、狂言としての笑いにまで昇華されていた。野村又三郎の太郎(フィガロ)の重厚さと単純さ、山本善之の蘭丸(ケルビーノ)の、ある意味殿様のミニチュア版のような好色と軽やかさ、殿様のみならず太郎も蘭丸も男の単純さ、弱さ、愚かしさをそれぞれに持つ。一方、茂山茂のお花(スザンナ)のしっかり者としてのキャラクターや茂山あきらのおあき(バルバリーナ)のコケティッシュな魅力など、本行のオペラの性格をしっかりと踏まえてなおかつ狂言として高い完成度を誇る。能が入ることでセリフの少ない奥方の存在の重さや思いが伝わり、舞台に奥行を与えた。殿様が人形であることで、これが何かのパロディであること、現実離れさせてそこに現実を投影する距離が、笑いを深くした。たとえば掛け合いの中での「忖度」「文書改ざん」「そだねー」など、ライブならではの入れ事があるたびに会場がどっと沸き、拍手が起こる。私たちは古典の中にも今を見ているのだ。
 一方、本当に愛と赦しはあるのか?という思いも残る。なぜ奥方はあんなにあっさりと恨みを捨てるのだろうか。夫はまた性懲りもなく浮気を重ねそうに思える。フィガロもまたそうするかもしれない。そう思えば、確かに毒のある、含みのある終わり方かもしれない。だがそれでも、愛と赦しがなければ、次の一歩は踏み出せない。奥方と殿様はこれからどうなったのだろう、と考えさせられる面もあった。
 また、古典としての力強さも感じずにはおれない。すべての動きが滑らかで、その訓練された身体の持つ動きがもう一つの世界を作り出すのに十二分の働きをしている。この和と洋の音楽と動きの両方を統括して演出された藤田六郎兵衛師の卓越した働きにも敬意を表せざるをえない。音楽監修は木村俊光氏。音楽単体で聞いても納得できる水準の高さであるが、この舞台全体での三味線とのアンサンブルは特筆ものであろう。それを成し遂げられたのは、管楽の水準の高さと鶴沢友之助の秘めたる力にほかならない。そしてこれだけの近くて遠い異世界を持つ人びとを能の品格、狂言の笑い、文楽の自在、管楽のアンサンブルを高い見識で一つの世界に昇華しきった舞台の全体をまとめ上げた芸術監督である大槻文蔵師の手腕に拍手を送りたい。
 古典の可能性は、その身体に秘められた力のなかにある。彼らが修行を通して見につけてきたものが、新しい可能性の場で響き合いつつ、その中に閃光のように生まれる。おそらく多くの方々の支援により計画され、プロフェッショナルの手によって苦闘しつつ実現した奇跡のような舞台に出会えた観客こそ幸いであろう。この舞台に関わったすべての方々に感謝を捧げたい。

カウント数(掲載、カウント18/03/26より)