カテゴリー別アーカイブ: 美芽の“若”観劇録

NEW 魂の芸―11代豊竹若太夫襲名披露公演『和田合戦女舞鶴』―

森田美芽

遅れていた桜が満開を迎え、花曇りの空に鮮やかな幟がはためく。2024年4月6日、豊竹呂太夫改め11代豊竹若太夫の誕生である。それを知らしめるのは、先代若太夫の襲名と、初代若太夫の記念碑とも言える『和田合戦女舞鶴』の「市若初陣の段」である。まずは舞台成果についてのみ書いておく。

 

中、希太夫、清公。時代物三段目の重い語りだしと、その緊張とは裏腹な腰元の掛け合いに笑いを取る。
場所はなぜか尼君の館。尼君はなぜ、我が娘斎姫を殺した荏柄平太の妻と子をここに匿うのか、その謎解きがこの後展開されるが、ここではまだ暗示である。綱手が出て腰元を諫めるが、その微妙な立場を暗示する、複雑な感情を希太夫は見ごとに色づける。その陰翳を深める清公の糸。84年ぶりに復活されたというこの場を生き生きと演じる。

板額登場。
緋色の着付に陣羽織、鉢巻という女武者姿。ここで「誠口ほど健気なら公暁を刺し殺し、その身も自害したがよい」と言い切る女丈夫。女としての甘さは微塵も感じさせない強さ、忠義の論理。しかしこれが、後にそっくりそのまま返ってくるとは。

そして夜討ちかと思えば幼い子どもたちの軍勢という意味不明な事態。
その中に我が子市若がいないことに気づき、板額は将軍実朝の母への複雑な思いを理解する。ここが現代人には理解しにくいことだが、まず、主殺しの平太の一族を捕えなければ天下の法を乱すことになり、さりとて母の政子に敵対すれば不孝となる、そのためにわざと御家人の子どもたちだけの軍勢を送りこんだわけだが、理と情の背馳というには、子役の武者姿はあまりに稚く、アンバランスと見える。この微笑ましい場面が暗転するとは。

、若太夫、清介。
鮮やかな緑の肩衣に「豊竹」の紋。ゆっくりと清介の三味線に導かれて語り出すのは市若の出。緑地の着付、鎧兜に身を固める11歳。いまなら小学生、そのあどけなさ、単純さ、それゆえの純粋さ。そして我が子に向かう時の板額の、打って変わった母親としての顔。兜の忍びの緒を締めなおそうとして緒が切れる、その不吉さに「わしや討死をするのかや」不安を表わす我が子を抱き上げ、屋敷に入る板額。

ここらはむしろ淡々と進んでいく。いや、抑揚がないのではなく、あまりに自然で、その一つ一つに意味があることが、見る者にも次第に迫ってくる。そのような語りの構成の見事さ。

「子を捨つる藪はあれども身を捨つる」と下手に浅利与市。ここで彼は「見る」役である。彼が見ているのは、密かな計画が成るかどうかであるが、まだここでは見えない。

一間で板額が尼君に向かい、ようやく尼君の口から真実が明かされる。まず、公暁丸が実は先将軍頼家の子善哉丸であり、現将軍実朝には子がないため、この子を跡目に残したいこと、荏柄平太夫妻の子と偽っていること、それを夫は知っていること、自分だけが何も知らされずにいたこと。そして夫が市若丸の兜の忍びの緒を切れるようにしたのは、市若を公暁丸の身代わりに首を討てということなのだと板額は理解する。その「ホイ、ハツ」の一言に板額の驚きと、一瞬にして絶望に変わる思いが見える。
それに畳みかける、尼君の「一人の孫を先立てば」「助けてたも板額」、公暁の「我が命終はるは厭はねども、共にとある祖母様のお命が助けたい、よきに頼む」と言われ、板額一人にその責が負わされる。それも「『仰せ否』とも言ひかぬる」母としての板額は追い詰められ、嘆く。しかし夫の与市は外で「おれが心を推量せよ」と自分の苦境を訴えるのみ、実際に我が子を手にかけよ、と自分の手を汚さずに妻に求める。母である彼女にどれほど残酷であるかを想像すらしないように。

だが、そこから板額が、一途に手柄を求める市若を見て、「涙を忠義に思ひかへ」る。彼女は忠義の論理に従わねばならない。そこから逃れるすべはない。そして市若に対し、一世一代の芝居を打ち、彼を自害へと追い詰める。そのために、自分が平太の子なら、と考えさせ、「主を殺した者の子と、指差しにあはうより、潔う腹切つて、さすがは武士と言はるる気」という言葉を引き出す。板額はそれに「ナニ腹切つてか」と、「腹」を繰り返す。この一言が耳に残り、そこに我々の意識が集中するように。

市若を上手に帰し、板額の一人芝居。誰も、その意味を分からず、下手の与市、奥の尼君と綱手、上手の市若、全ての人が板額の一挙手一投足を、その言葉を聞き取ろうとする。
その緊張の中、板額は市若が公暁の取替子であると語る。それを聞いた市若は絶望し、自身が語った通りに自刃する。それは市若にとって、自身と母の面目を保つ、武士の子としての唯一の道であるから。しかしやはり子として、母に回向を頼み上げます、と語るいじらしさ。
板額は市若に、先将軍の子の身代りであると真実を語り、そして「何の荏柄の子であろうぞ。与市殿と我が仲の、ほんの、ほんの、ほんの、ほんの、本ぼんの子ぢやわいなう」と張り裂くばかりの嘆きで応える。ここで拍手が起こる。こんな理不尽なのに、現代人なら納得できないほどの理屈なのに、ここでは忠義や義理を超えた母の思いが、理屈抜きに胸に刺さる。
それが舞台全体から、客席全体へと広がる。市若の無垢の死とその母板額の嘆きに、全ての人の心が溢れ一つになったように。

なぜ市若は死ななければならないのか。この段で理解しにくいのは、それは、和田常盛と北条の子江馬太郎義時が斎姫を争うという、そもそもの当事者がここには出てこず、しかも藤永入道の陰謀というが、それは『菅原』の藤原時平や『忠臣蔵』の高師直のような巨悪には見えない。
そして実際には斎姫は亡くなっておらず、市若による身代わりの死とは、単に主殺しという封建秩序の回復のための犠牲としてだけでなく、尼君の「尼の身で、出家落とした厳罰と、言はれんも恥づかしく」と、孫への執着、愛着心からの行為であることが彼女の名誉を傷つけることからの救いとも見える。人々の執着と競争心、嫉妬、そうした小さな悪が積み重なり、一人の無垢な少年が、全てを背負って犠牲となる。

こうした犠牲に思い出すのは、旧約聖書の「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、/私たちの咎のために砕かれたのだ」(イザヤ書53章5節)という箇所である。

だが、犠牲とは我々の側から見た理解にすぎない。シモーヌ・ヴェイユが、かのイエスの姿に、全てから見捨てられる苦悩を味わいながらも、神に従う意志を貫いたことに、人の尊厳の原点を見出したように、この市若の死を「犠牲」としてのみ捉えることに、若太夫は全く異なる見解を持つ。
市若の死は、自己の尊厳を果たしての自己決断の行動であると。
すなわち、犠牲として悔やむのは現代人の、しかも第三者としての感覚であるが、市若の内面は、自らを武士の子として、忠義の論理に従うわなかればならない。もし主君を裏切れば、死をもって償わなければならない。もとより主君殺しは七族まで及ぶ大罪であり、死を免れ得ない。それを躊躇し死を逃れようとするのは、武士にあるまじきことである。だからこそ板額は、市若に「もしお前が公暁丸なら」と、彼自身の口から「腹を切る」と言わせるのだ。それゆえ、武士としての自分の生き方を決断し、全うしたのであると。
たとえいまの我々には理不尽であろうと、そのために板額は「涙を忠義に思ひかへ」たのであり、その信頼と武士としての倫理に答えたのが市若であると。それだけではない。自分を謀反人の子と信じ切腹した市若は、それでもなお自分を育ててくれた母の信頼に応えようとし、絆を守ろうとする。母板額への「子ぢゃと思ふて一遍の、御回向頼み上げます」はいじらしく、「そんなら荏柄の子でもなく、死ぬるも手柄になりますかや。嬉しうござる母様」は彼の思いが報いられた故の満足である。このような市若の姿勢がなければ、いまも封建時代の理不尽に踏みにじられる人間の悲劇という捉え方になるだろうが、市若の、さらに板額のこの悲劇には、その倫理の中に生きる人間の魂の叫びが、運命に押し流されるだけではなく、その中に立とうとする人間の潔さ、強さが現れる。それが、時代を超えて私たちの胸に迫ってくる。

この現代人にはすぐには共感しにくい物語を、このように新たな解釈を発見させ、現代に蘇らせた『市若初陣』の造形は、若太夫の語り、清介の三味線、また勘十郎の人形の三位一体で成立し得た奇跡のような舞台である。
若太夫の語りは、特に前半、むしろ淡々と進めているように聞こえる。しかしその中に丁寧に仕込まれた数々の謎を解く形で切場の後半が展開され、その節と、詞と、旋律が一つになって、弛緩なくすべての語りと音がクライマックスで一つの意味につながり、この感動を生み出す。いな、感動などと簡単に言ってはならない。それは私たちの胸深く貫く、言葉にならない思いであった。名づけることもできず、ただ涙を流すしかない、そんな情動が駆け抜けて行き、物語の幕引きと共にようやく正気に戻るような、感情の底が揺さぶられ、何かが湧き出てくるような経験。それを聞く者に与える、まさに「豊竹若太夫」の名にふさわしい語りであった。

無論、清介の三味線の躍動感や流麗さ、そのあわいに浮かぶ複雑な感情の絡み合いが声なき声として迫ってきたことも、また勘十郎の人形が、特にその一人芝居のところで、暗闇の中、緋色の着付で闘うように動く彼女の姿が、本当にその場に誰も居合わせないように、ただ一人だけスポットライトを浴びたように、くっきりと浮かび上がったことも、忘れられない。
市若の清廉さを見事に遣った紋吉、公暁の高貴さを描いた勘次郎、尼君の重厚さを伝えた簑二郎、最後に息子の首を受け取る哀愁を滲ませた玉志、微妙な立場の眼差しの翳りを表現した玉誉。

何と言えばいいのだろう。私はまだ、それを名状しかねている。
2023年暮れに、若太夫と清介が素浄瑠璃で語ったこの「市若初陣」を聞いた時、激しく揺さぶられると同時に、何か心の中に広がっていく、ある透明感のようなものを感じた。語るという行為と、聞くという行為と、私たちには到底できないその語りに、しみじみと浸っていくような、そういう安らいだ透明感があった。そしていま、新たに感じたそれを表現することが、私の次の課題でとなった。

掲載、カウント(2024/4/15より)

星の導き、地にある人びと――2023年夏公演

森田美芽

2023年夏公演は、体調不良者続出のため、異例の5日休演となった。演じる側にとって、命を削るような夏である。舞台はそうした不安を消すかのように続く。まるで、倒れても念を残す『妹背山婦女庭訓・三段目』の久我之助のように。

『妹背山婦女庭訓』の四段目は、四月公演からの通しの続編。四月が桜満開の吉野であったのに対し、四段目は七夕の三輪の里。
三輪山伝説を基に、三角関係の鞘当。だがそこに、国家の転覆を企てる巨悪に立ち向かう人びとの思惑が絡んでくる。そこで唯一、自らの思いのみに従い、恋を貫こうとする少女の純情が、この政争に大逆転をもたらすという、半二らしい結末を見る。

四段目は「井戸替の段」から。昔のこうした風習を知る人も少なくなっているが、酒が絡んで笑いを誘う。
玉翔の土左衛門や勘介の五州兵衛、玉路の藤六、和馬の野平らの生き生きした楽しさ。そして子太郎の玉勢が実にいい。とぼけた感じで、しかも事態の本質を突いてくる。
小住太夫は藤蔵と合わせ緊張しているか、やや調子が高めで苦労していた感があるが、「身は家主の、阿呆ぞと」など「十種香」のパロディを耳ざわりよく聞かせてくれる。家主の簑一郎はこうした三枚目もしっかり遣いこなす。紋臣のお三輪の母も底意のありそうな婆。

4gatsu_arasuji_omote_210202入稿

「杉酒屋の段」お三輪の登場。段鹿子の振袖、華やかな簪の首、「野崎村」のお染にも似た、だがどう見ても田舎の娘。年は14、5歳だろうか。
しかし恋を知ると少女は女になる、というのがわかる。隣家にやってきた求女という男前の烏帽子折に恋して、彼の恋人を自認する、そうした自信と自意識が見え隠れする。
その恋の成就を願って、乞巧奠(きっこうでん)の苧環を飾る。その彼女が寺子屋から戻ると、丁稚の子太郎はいきなり、「忠義を言うて聞かす」と言いだす。これは無論、忠義→忠臣→注進の駄洒落だが、彼女の周囲の人間関係を思うと、実に風刺の効いた駄洒落である。
子太郎にとっては、求女のもとに美しい上臈が通ってくることをお三輪に伝えるのはまさに忠義だが、その子太郎は、求女を訴人しようとするお三輪の母や家主には不忠者ということになる。
お三輪は一人前に、恋人に忠義を尽くそうとするが、その恋人は自分以外の女を引き入れる不忠者である。この三角関係、芳穂太夫はお三輪に重点を置いて語る。母が求女を追っていこうとして酒樽の呑み口が外れるのに手間取っている、そんな笑いまで錦糸の糸は美しい。逃げていく上臈、追う求女、それに遅れじとお三輪。
「道行恋苧環」お三輪を呂勢太夫、橘姫を織太夫、求女を靖太夫。聖太夫と初舞台の織栄太夫がツレ。清治をシンに、清志郎、清公、清允、清方と並び、末席にこちらも初舞台の藤之亮。負けじと声を張り合い、糸には緊張が走る。

三輪の里から芝村、釜が口を経て布留の社(石上神宮)で求女は橘姫(彼女は求女には敵である入鹿の妹)に追いつく(実際、かなりの距離である。奈良の地理に詳しい友人曰く「奈良マラソンやるお姫様」)。
三輪山伝説では、夜のみ通ってくるのは男である。その逆となる、夜のみ現れる美しい女は、実は政敵の妹である。語るに語れぬ政治的事情を解さないお三輪が、嫉妬にかられ求女を奪おうとし、奪い合う。彼女にとっては恋敵が、どれほどの存在であるかわからない。それほど盲目的な恋である。
その鞘当に、女が逃げ、求女が苧環の糸を付けて彼女を追う。「縁の苧環いとしさの、あまりて三輪も悋気の針」、この苧環を頼りの男を追っていくお三輪の、嫉妬と怒りの情念。

「鱶七使者の段」口、碩太夫、燕二郎。碩太夫は音の高低で仕丁二人のコミカルなやり取りを語り分け、燕二郎は鋭く入る。

、錣太夫、宗助。「花に暮らし、月に明かし」からの入鹿の絶頂と増長を的確に描き、鱶七の豪胆にはユーモラスな味わいも。「鱶七という漁師、漁師」の詞に、その本性をちらりとのぞかせる巧みさ。宗助の変化の親わしさ。

「姫戻りの段」希太夫、勝平。ここで求女は淡海、上臈は橘姫と正体を現す。だがここでは、淡海は恋をも自分の計略の道具とする。橘姫に十握の御剣を盗み出すことを求める。その代償は「尽未来際変わらぬ夫婦」という言葉。しかし何と悪い奴か、と思ってしまう。
女にもてる魅力を自分の目的のために利用する、それがたとえ天下国家のためでも、自身を犠牲にして廉直を貫いた久我之助と対比されるだろう。希太夫はこの求女という男のしたたかさをしっかりと聞かせた。勝平はこの微妙なすれ違いの綾を聞かせる熟練。

「金殿の段」、切呂太夫、清介。
お三輪は行き着いた御殿で、彼女がいかにして「疑着の相」の持ち主となったのか。ここは現代人にとって理解しがたい難題の一つだが、豆腐の御用との出会いから官女のいじめに至るプロセスが、彼女の中で嫉妬と怒りと恥と悲しみが凝縮され、凄まじい怒りと嫉妬の情念が、鱶七(実は金輪五郎)の巨躯さえも乗り越えようとするエネルギーとなったのが見える。

しかし彼女は、自分では理由もわからぬままぬまま、刃に倒れる。そしてその苦痛の中で、恋人が別世界の人間であることを知らされることになる。「天晴れ高家の北の方」と呼ばれて喜んでも、彼女の心は依然として求女にある。彼女の目には、天下国家も、国の忠臣も見えない。自分の恋する人、それも藤原淡海であると正体が知られれば、永遠に失われたにも拘わらず。

呂太夫の語りには、この二重の不条理、彼女の目にだけ見える、求女との恋が現実のものと思えるほどの、彼女の強い思いが、一人の村娘にすぎないこの少女が、その伝説の里の名を担って、不思議な犠牲となり世界を変えることを納得させる。
写実ではなく、幻想ではなく、現実と憧れと言い知れない大地の超自然の力が、一人の少女の存在を通して不思議な調和となることを聞かせる。
しかし同時に、人間としての骨格、健気で一途な、怖れを知らない少女としての一面を見せて落ち入る、その繊細な表現力と、その両面性を描き切る呂太夫の語りの魅力、それこそが義太夫節の魅力ではないだろうか。そしてこの荒唐無稽・牽強付会な物語を、大序からここまでの歩みを含めての世界を構築した清介の手裁きの妙にため息をつく。

「入鹿誅伐の段」睦太夫、南都太夫、芳穂太夫、咲寿太夫、薫太夫、文字栄太夫のベテランと中堅と若手、それぞれに個性的な6人を團吾がまとめる。ここまでの全ての悲劇と犠牲が、ついに鎌足とその家来たちによって大団円を迎える。ここは最も非現実的なホラーの一場と言ってよい。

しかしその重みはこの段までに十分積み重ねられている。爪黒の鹿のために犠牲とされた少年とその結果見出された神鏡、「疑着の相」を持つ女の生血、さらには入鹿の横暴のため若い命を散らせた久我之助と雛鳥の悲劇、さらにはめどの方の悲劇、それを思えば権力闘争のいかに空しいことかと思わされる。
そして入鹿が自らを天子とした僭上も、また狂気というべき権力欲であり、その根元に超自然的なエネルギーがある。
それらをなだめるために、かくも不合理な犠牲が積まれ、さらなる超自然的エネルギーを生み出す必要があったのだ。

だからこそ、このお三輪の死は、他の死とは異なる強さ、そうした生命の根源に当たるものの持つ不可思議な力を象徴する。だからこそこの少女に理屈抜きに感情移入せざるを得ない。
自分に対し不実な恋人、平気で他の女と通じる軽さ、その意図が、入鹿討伐のため、天下国家のためという大義であろうと、彼女にとっては、永遠にただ一人の恋人なのである。
この純粋さ、ひたむきさが、陰謀と策略に満ちたこの物語を浄化していく。三段目で若い恋人同士が互いを思いやって死すべき運命を受け入れたことで両家の対立を和解させ思いを入鹿討伐に向けさせたように。
だがこの少女の恋は独り相撲であり、成就するのは幻想の中だけにすぎない。それを成立させる恋の熱情。それこそが、人間を超えた悪として描かれた入鹿を倒す力の根源であった。

勘十郎のお三輪は、そうした激情と憧れのアンバランスな少女の中に現れる情念の不思議を感得させる、見事な造形であった。
師簑助のお三輪は、間違いなく少女でありながら女であったが、この勘十郎の場合、さらにその少女と大人の女の間の不安定さ、不可思議さをエネルギーに変える強さを感じた。
これに対する一輔の橘姫、気品ある仕草と姿、そこにアンバランスなまでの恋の情念、もう一つの恋の姿を清冽に描く。
玉助の求女は、そうした腹に一物の色男と政治家の一面を見せる魅力的な造形。玄蕃の玉誉は力強さを増し、弥藤次の勘次郎はすっきりと色気ある姿。入鹿の玉輝は悪の権化の強さ、玉志の鱶七はスケールの大きさの反面、細心さを感じさせた。豆腐の御用は簑二郎、愛嬌はあるがもう少し自分のペースでよいと思う。鎌足の文司は孔明かしらの性根。玉彦の玄上太郎もよい形。

『妹背山』四段目の夏が、七夕の光に貫かれるのに対し、『夏祭浪花鑑』の夏は、凄まじい暑さ、それも湿気がまとわりついて、特に「長町裏の段」では晴れることのない陰鬱さを湛えている。

「住吉鳥居前の段」口亘太夫、錦吾。亘太夫、こうした世話の世界の面白さをしっかりと描けるまでになってきた。特に三婦の詞が説得力あり、磯之丞の若さもよい。他の人物もきっちりした語り分けができている。錦吾は出の足取りや場面転換の色が見えてきた。

、睦太夫、清友。

睦太夫は丁寧に、多くの人物の出る場を語り分けるが、徳兵衛の方が声を若くしているのだろうか。それが少し団七と張り合うこの場の中では少し重みに欠けるのではないかと感じた。清友は変わらず誠実で手堅く支える。

「釣船三婦内の段」千歳太夫、富助。

千歳太夫の熟練。三婦の詞の端々に、酸いも甘いも嚙み分けた男の底力を感じさせる。対して磯之丞の甘さやこっぱの権たちの調子の良さ、おつぎとお辰の女の友情のような美しさ、そしてお辰の詞。「サ、ササ、立ててくだんせ、親仁さん」の気風のよさ。
それに対しお辰に磯之丞を預けられぬという、その精一杯の配慮に満ちた詞の重さ。だからこそ、後に引けないとお辰が自ら鉄弓を取る段取りも、説得力もじんと迫る。富助、この場の緊張感。

アト、咲寿太夫、寛太郎。
ここで場面が動く。義平次の企みにひっかかるおつぎ、それを知った団七の怒りの変化。一気呵成にまとめる若さの語りの心地よさ。

「長町裏の段」織太夫、藤太夫、燕三。
このところ、織太夫がこの場の団七を語ることが多い。そしてこれまで、大きな声で迫力を出すことが眼目であったように思えたが、今回、追い詰められていく団七の苦しさ、義平次への義理に苦悩する思いが、すっと伝わってきた。
藤太夫の義平次の巧みさ、憎々しさにもよるが、殺し場から祭りの興奮に紛れ、さらに「悪い人でも舅は親」が強く響いた。
次代の切語りに向けて、また一つ階段を上ったように思う。燕三の巧みな糸が、この夏の夜の物狂おしさの生み出した惨劇を彩る。

人形では、まず玉男の団七。大阪下町の、侠客と呼ばれる男っぷりのよさ、それでいて舅との関係に苦悩する。それが実にしっくりくる。そして大柄の男の人形を遣って、微塵も不安を感じさせない強さと大きさ。
この5月東京での勘十郎の団七と比較しては失礼かもしれないが、両者は全く対照的で、それぞれに魅力的である。玉男の団七は、こうした人物のパターンがあって、その中から本質を表出する。勘十郎は一人一人の役柄の性根からその形が生まれる。
玉男の遣い方は、その型に内実が伴わなければ感動は生まれない。この20年ほどの玉男の「男」の充実を見て、本当に努力の人であり、師の先代の型を追いながら、それを自分のものとしていく過程で、新たな魅力を感じさせるようになったと思う。

和生の義平次、意外なほどこの厭らしさが生きている。団七とのバランスが見事。玉助の一寸徳兵衛、形よくさわやか。この後、団七を救おうとする男としての魅力も。玉也の三婦は貫禄。三婦は、若いときにはさぞブイブイ言わせていただろう、という底力を感じさせる。
いまでこそ丸くなっているとはいうものの、達引になれば今も若い者を簡単にあしらえる経験値や鍛えた腕力を感じさせる。何より、修羅場をくぐった迫力が段違いである。
勘壽の女房おつぎ、この侠客の女房ならでは、度胸もあるし、夫の気性を誰よりも理解し、若い者には姉さんである。だが、少し判断が甘いところが見える。
勘彌のお辰、やや崩れた色気、黒の衣裳にまばゆい白さ。そして一旦預かると約束しながら、それを撤回されたときの三婦への迫り方の強さは只者ではない。しかし、むしろ傷ついた顔を隠すように恥じらう仕草が印象に残った。

団七女房お梶、一輔も母親らしさと、団七と徳兵衛をさばく強さが印象的。
清五郎の磯之丞は色男らしく、紋秀の琴浦はいじらしく、簑之の佐賀右衛門は紋吉のこっぱの権、簑太郎のなまの八、本当に大阪のチンピラらしい首そのもの。玉峻、役人でまずは形を整え、清之助の倅市松が愛おしく見える。

そして今回改めて「釣船三婦内」の面白さに気づく。この場は、「長町裏」に対し、やや大人しく見える。だがいかにも大阪らしい風情、やり取り、仕掛けがある。

この舞台の直前、NHKの「芸能百選」において、呂太夫・清介のこの「釣船三婦内の段」の放送があった。そこで呂太夫がこの芝居について語ったこと。

「僕は住吉の浜口の育ちですから、この住吉鳥居前の雰囲気が懐かしく感じるんです。本当に、あの三婦やらこっぱの権やら、あんな感じの人たちがいたんです。語る時はその人たちの顔をイメージしながら語っています。昔は本当にキャラが濃い、あんな感じの人たちが街にいたんですよ。
それから、おつぎとお辰、二人の老女形のかしらの語り分けが難しいですね。おつぎがやや年上のように語ります。
そしてこのお辰という女性の詞、好きですねえ。『一旦頼むの頼まれたと言うたからは、三日でも預からねばわしも立たぬ。アイ、立ちませぬ。サ、ササ、立ててくだけんせ、親仁さん』ほんま、太夫冥利に尽きますわ。」

そしてこのお辰の行動も、単なる意地ではなく、義理であると指摘する。
彼女が必死になるのは、単に一度請け合ったことを翻させるからではない。それはお主の大事だからである。
備州玉島の恩義のある主人、玉島兵太夫の子息であるからには、何か何でも磯之丞を守らねばならない。だからこそ、何がなんでも引き受けなければならないのだ。もしこれを引いたら、夫の顔が立たない。だからここで彼女を動かしているのは、単なる自分の意地ではなく夫への愛である。だから自分の顔と引き換えにしても、磯之丞を預からねばならなかったのだ。

それを聞いて、長らく疑問に思っていた、お辰への「なぜ」が氷解する。単に意地だけで、女の命ともいうべき顔を傷つけるのだろうか。それを即断できるのだろうか。それが「義理」のためであるなら、命をも賭けなければならない。
二人は街の侠客、何よりも義理において筋を通さなければならない立場であり、そのための犠牲なのだ。三婦もそれをわかっているからこそ、「出来た」と称賛する。だがその後、少し寂し気に、「親の生みつけた顔を」と悲しみの表情を見せる、そのいじらしさがまた何とも言えない。

「夏祭」の魅力は、こうした市井に生きる人々の豊かな表情、人間性を実にリアルに描いており、その一つ一つが大阪の魅力とつながっていることにある。
「妹背山」の天上人らの世界にお三輪という少女が闖入しその世界の犠牲となった「忠義」に対し、地を這うように生きるその侠客たちの論理が、実は「忠義」にあるということ。そのことが、「長町裏」での舅殺し、つまり「親孝行」の逆であることと対比される。またそれも、この物語の仕掛けではないだろうか。

掲載、カウント(2023/8/13より)

半二の宇宙と曾根崎の夜―2023年4月公演に寄せて

森田美芽

『妹背山婦女庭訓』は近松半二の最高傑作の一つと言えよう。
そこには義理と情に引き裂かれる人間の悲劇が、超自然と人間関係の現実のない交ぜの世界を背景に描かれる。それも大和の四季と名所を効果的に配置し、全体として「半二の宇宙」とも形容すべき世界観が展開される。そしてそれを舞台で演じる時、個々の演者も全身全霊をもってその技芸を発揮することで、その小宇宙に新たな、いくつもの始まりが起こる。

錦秋文楽公演_B2ポスター_B1_4校

第一部序段「大序・大内の段」大阪では久しぶりのこの段、若手の修行場。亘太夫、薫太夫、碩太夫、聖太夫、小住太夫。三味線は燕二郎、清方、清允、錦吾。
亘太夫は真正面からぶつかる潔さの中にも詞をしっかりと聞かせ、薫太夫は素直に教えを守り、碩太夫は采女の詞が印象的、聖太夫はしっかりと自分の声を出し、小住太夫は一日の長。燕二郎の時おり聞かせる切っ先鋭い撥さばきが心地よい。

この場が出ることで、右に蘇我蝦夷子(文哉)、左に中納言行主(清五郎)、大判事(この場は玉翔)という対立の構図が視覚化され、その真ん中の帳を押し開けて出てくる采女(紋臣)の気品に圧倒される。

「小松原の段」若草山と小松原(飛火野のようにも見える)、秋の紅葉。

掛け合いで久我之助を靖太夫、雛鳥と采女を咲寿太夫、この二人の出会い、想いを交わし合う若さの美しさ、それをしっかりと聞かせる。咲寿太夫は、最後の采女の詞が届いているのが後の段への展開として重要。腰元小菊が南都太夫、桔梗が文字栄太夫、玄蕃を津國太夫、こんなところにもベテランの味わいは楽しい。合わせるのは團吾。安定感がある。

「蝦夷子館の段」口、亘太夫、清公。蝦夷子の詞の口さばきがよく、対する久我之助に清公の三味線が小気味よい。

、藤太夫、清志郎。雪の御殿。ここで蝦夷子という巨悪に対するめどの方(文昇)のいじらしさの対比、そして安倍中納言行主に陰謀を暴かれ、自刃するもその行主を殺し、父を超える悪の権化としての入鹿の登場。この入鹿の大望は帝位の簒奪である。『ここぞ大事』の大判事の決意。それらを必然の流れとして描き出す藤太夫、劇的構成力を増した清志郎の糸。人形では蝦夷子の文司はスケールと古怪さが前に出て、玉志の入鹿は自惚れの強さを感じさせる。

 二段目は零落した天智天皇の運命、采女の失踪、あばら家を御所と誤魔化す笑い、すべて序段からの、蝦夷子、入鹿親子の悪の繁栄との対比として描かれる。その流れがしっかりと受け渡される。
「猿沢池の段」は希太夫、寛太郎。ここで鎌足の子、淡海が何とも掴みどころのないキャラクターで出てくるのが後に生きる。
「鹿殺しの段」碩太夫、錦吾。ここは一気呵成に。三作の描き方が好ましい。「掛乞の段」靖太夫、清馗。貧乏所帯を隠れ家にする臣下の苦労も知らぬ気の官女や大納言(勘市)に絡む米屋(簑紫郎)の巧まざる笑いを生かす。

「万歳の段」咲太夫に代わり織太夫、燕三。ここをやりすぎず、万歳の楽しさと、後半の芝六と淡海のやり取りの緊張が明確。燕三と燕二郎の息の合った万歳。

「芝六忠義の段」千歳太夫、富助。ここで鹿殺しの詮議を巡り、三作が自身を父の身代わりとして訴人させ、引かれていく。また芝六が鎌足への忠誠のために我が子の杉松を殺す、という二重の悲劇の果てのどんでん返しが起こる。
忠誠の証のため我が子を殺すという論理は現代人には納得できない。しかも鹿の命が人間より重いのだから。その芝六の熱い忠節と苦悩を語ってやまない、千歳太夫の見事さ、富助の強さ。

お雉が我が子の処刑の時を刻む鐘の音に苦しむさまがいたわしい。勘弥のお雉の強さといじらしさ、玉彦の三作の健気さが胸を打つ。簑二郎の芝六は忠義のための苦悩の肚の底がさらにほしいところ。
鎌足の玉也は、これまた入鹿に対抗するだけの、一筋縄ではいかないその孔明かしらの見事さ。清十郎の淡海はつかみどころのなさが何とも言えない娘にとっての魅力となるのだろうと思わせる。

第二部は三段目

「太宰館の段」睦太夫、勝平。睦太夫は初日、声が不安定に聞こえたが、1週間後に聞くと長足の進歩。「根に持つ遺恨、互いに折れぬ老木の柳」の強さなど、大判事と定高の確執の深さと、それぞれ弱みを見せない意地の張り合い。そこに入鹿の、大人二人を手玉に取る邪知深さ。「入鹿の大臣寛然と、上段の褥より遥かに見下ろし」の傲慢さ。
二人の親のそっと見せる蔭。大笑いに拍手が起こった。勝平の手強さが出陣までを支える。玉翔の注進の動きが大きい。

三段目切、「妹山背山の段」

吉野の春は、長く厳しい冬を乗り越えた喜びのように、薄紅の桜が山一杯に広がる。だが舞台では、その桜を押し分けるように、中央を川が貫く。
桜の花の溢れる中でも、『義経千本桜』の「道行初音旅」のような、幻想的で陶酔感のある桜ではない。「川」は引き裂くものとして、容赦なく流れている。それを挟んで両側に2つの空間。それぞれの緊張あるやりとり。それらが並行して進む。
歌舞伎では「吉野川の場」とされ、文楽では「山の段」と呼ばれるこの段は、2つの交わらない世界の決定的な悲劇の象徴でもある。

主な登場人物の4人が4人とも、それぞれに苦悩を抱え、重い決断を迫られている。親は子の思いを誰より理解している。そうすれば相手の子がどんな選択をするかも予想できる。
この親たちは、知らぬ間に確執を忘れ、自分の子の願いを遂げさせるために相手の子の無事を願う結果となる。

まず脊山、久我之助の織太夫。舞台の華やかさに比べ、沈鬱な表情。その複雑な心境を描くのは藤蔵。

続いて妹山、雛の祭りの賑わいもなく、ひたすらに久我之助を思う雛鳥の一途さを、呂勢太夫、はんなりと響かせる清治。

大判事の出。呂太夫、清介。「花を歩めど武士の心の嶮岨刀して、削るが如き物思ひ」この一言一言の重みが突き刺さる。十分な息と強さでもって大判事の政治的な、さらに父としての苦境を表わす。定高に対し、「心解けるか解けぬかは、今日の落居次第」と呼びかける。

「身の中の腐りは殺いで捨つるが跡の養生」と言い、定高も「枝ぶり悪い桜木は切って接木をいたさねば、太宰の家が立ちませぬ」と答える。その覚悟のほどが知られる。そして定高は娘に「今そなたの心次第で…久我之助は腹コレ腹を切らねばならぬぞや」と迫る。愛するゆえに、相手を生かしたければ、自分が犠牲になるしかない、という迫りに、雛鳥は覚悟を定める。

一方脊山では、子の切腹の覚悟を前に、大判事は「天下の主の御ためには何倅の一任など葎に生ふる草一本引き抜くよりも」と言いながら、「子の可愛うない者が凡そ生ある者にあらうか」と、武士としての忠義と父の情の間に引き裂かれる。それをさらに深める久我之助の潔さ。一生の名残の愛する者の顔を見るよりも雛鳥を生かすことを願う息子。
織太夫の久我之介の清廉さが生きる。その偽りの花を見た妹山では、定高は娘の思いを貫かせ、娘の首を落とす。そして親同士は、子同士が純愛を貫き、さらに忠義に命を散らせたことを知り、嘆きに沈む。

呂太夫はこの場で、「大判事は細切れに一字一字に渾身の力を込めなければなりません。特に久我之助が腹を切って雛鳥が母親に首を斬られてからのひとことひとことが。『首ばかりの嫁御寮に、対面しょうとは、知らなんだ』」が特に難しいと語る。なぜなら、ここは四人のそれぞれの思いを、最終的に大判事が受け止めて代表し、そしてそれを入鹿征伐へと向ける、この段全体の主題を担っているからである。

雛鳥は単純と言えば最も単純である。彼女は愛する久我之助と結ばれることだけが望みである。母の定高は、それと共に太宰の家を守るという大義名分があるが、娘の幸福には変えられない。
久我之助は他を責めずただ自分が政治的責任を担って死なねばならないゆえに真っ直ぐにその論理に従い、同時に雛鳥を守ろうとする。しかし大判事は、政治的局面からは入鹿に一度降りながらその実は鎌足側であり、息子の忠節を誇りに思いながらも、父としては無残に息子を死なせたくはない。しかし最終的に入鹿を倒すためには、久我之助を生かしておくことはできない、という苦渋に満ちた判断をしなければならない。

現代人から見て「理不尽」という声が多い。
なぜ死ななければならないか、なぜ逃げないのか。それができないからこその悲劇であり、死んだ二人の純粋さは永遠に讃えられる。

織太夫の久我之助は派手さを抑えた廉潔さが前面に出て、呂勢太夫の雛鳥の一途さに打たれ、錣太夫の後室定高は、誇り高さと娘への思いに泣かされる。さらに「山」の4人の思いを全て受け止めて入鹿征伐を期する大判事の思慮と肚を語られる呂太夫の語りの深さ。咲太夫が出られない現在、一人一人の語りと三味線の全てを受け止め全てを生かしつつ、全体を把握し配慮した語りをリードする、まさに「紋下」の語りにふさわしい。

人形陣もすべて納得の出来。一輔の雛鳥、玉佳の久我之助の清冽さ、和生の定高の情が一層冴え、玉男の大判事は屈指の名演となった。
このように床、手摺ともにバランスの取れた名舞台はなかなか見られないと思った。

それというのも、やはり大序からの「通し」で、あるべき場所にあるべき語りがあり、その全体性を把握して、この悲劇の全体が成り立つことが見えるからだろう。そして夏に四段目を独立させたことが、吉と出るか凶と出るか、これは今後の「通し」上演の在り方を考えさせるものである。

4gatsu_arasuji_omote_210202入稿

第三部『曾根崎心中』近松門左衛門の三百回忌とはいえ、春の宵に『曾根崎』はいささか季節外れというか、違和感がぬぐえない。ただ舞台成果は見事なものである。曾根崎の闇の深さの中に、お初の手が、その白い足が浮かび上がるように。

「生玉社前の段」三輪太夫、團七。お初のいじらしさ、徳兵衛の若さ、九平次の悪辣さ、少しも嫌味なく聞かせる力がある。
「天満屋の段」呂勢太夫、清友。死に向かうお初の覚悟、「徳様の御事なら」のお初の真実。だが気になったのは九平次の「どうで野江か飛田もの」に込められた悪意がもう少し強くてもよかったのではないか。

「天神森の段」芳穂太夫、希太夫、小住太夫、聖太夫と薫太夫が前後半で。錦糸、清丈、友之助、清公、清方。よく揃ったアンサンブルで、段切れへ向けての悲劇性が高まる。

勘十郎のお初に尽きる。徳兵衛は為助、健闘しているが、お初にリードされる徳兵衛になっている。玉輝の九平次の敵役が生きている。

『曾根崎心中』の好評さもあり、普段よりも夜の客足が多かったと聞く。しかし願わくは、半二の描いた大和の四季とその宇宙を味わう機会をより多くの方に持っていただきたかった。
特に「妹山脊山」は出る機会が少なく、キャスティングが難しい。私には、これこそ文楽ならではの世界であり、残し続けなければならない作品であると思うのだが。

掲載、カウント(2023/5/9より)

春は甦る-2023年初春公演―

森田美芽

  2023年の初芝居。文楽劇場の初日。恒例の睨み鯛、餅花の飾り。和服姿の方が多く華やいだ雰囲気。何よりロビーに溢れる人々の明るい表情。この3年ほど、見ることのできなかった光景だ。

初日、第二部「義経千本桜」三段目、「椎の木」「小金吾討死」「すしや」を見る。

 「椎の木の段」口、咲寿太夫、團吾。千鳥の見台に浅黄色の肩衣。師匠の前を語る覚悟がよくわかる。そして「枯れ残る、身はいとどなほ枝折や」の美しさ、切なさにはっとする。大和吉野の風情を描くところからの人物への転換のスムーズさに、彼の努力の跡を強く感じた。團吾の、そうした風景から人物への転換を優しく支える音色も。

、咲太夫に代わり織太夫、燕三。権太の人物像、出は親しみを感じさせて接近し、安心させて騙りを働く、筋金入りの悪、それも大和の田舎のやんちゃ者が成長してとの武骨さも備えてという描き方。特に「この中ぐくりの解けたは」の表情、「コレ前髪殿」からの性根の変化が面白い。ただ、凄みを効かせるのはよいが、詞が強すぎて語り全体ではなく、そこだけに耳が行ってしまうことがある。段切れ前の、権太の小仙への長い詞は、権太を理解するのに絶対に必要なだけに、惜しいと思う。その流れの中で、小仙の優しさを聞かせる燕三の構成力はさすが。

「小金吾討死の段」三輪太夫(小金吾)、津國太夫(弥左衛門)、南都太夫(若葉の内侍)、聖太夫(六代君・五人組)、三味線は清馗。ベテランの味わい。小金吾が死を覚悟して六代に語る詞だけで泣かせる。詞の中に、これまでの旅路の困難と最後まで二人を守り切れないという無念、若君への遺言、それらが迫ってくる三輪太夫の語り。それを聞いての内侍の嘆きも、頼る者とてない、未来も見えない絶望の色。聖太夫の六代は素直な発声で真っ直ぐに届く。そして弥左衛門の詞で、息子の権太との関係性も、弥左衛門の性格も知れる。短いが的確に人物を表わしその心情を伝える場の全体を、清馗の糸がまとめる。

 「すしやの段」前、呂勢太夫、清治。呂勢太夫は期待通り、吉野下市の鮓屋の賑わいからお里の性格、この家に迫る危機とは無縁に男を慕う娘の心情を丁寧に聴かせる。また権太はあまり乙声ではないが、母をだます手、ころっとひっかかる母と、やはり浄瑠璃の骨格を外さない。ただ、「しやくり上げても」のイイイ、イイイ、がやや長く感じた。無論清治は絶妙の間でアシライの手を入れる。しかし、この後の弥左衛門の説得と、彼がなぜ維盛を匿ったかの事情を語るところが実に響く。これはこの段の要であるのだとすっと伝わるのだ。それゆえ、事情を知らぬお里のうきうきと祝言を待つ有り様が、またそれを突き放す維盛の詞が説得力を持つ。

、呂太夫、清介。珍しく「親御の気風残りける」で盆が廻る。「神ならず仏ならねば」は行き暮れた若葉の内侍と、町人に身をやつし妻を思う維盛との両方の意識。その二人の思いがけない再会と、「詞はなくて三人は泣くよりほかのことぞなき」。
三人がそれぞれどのような思いであったかと、地味にここで泣かされる。そのあとの「供連れぬも心得ず」などと呑気に語っている維盛から、若葉の内侍の苦労の述懐の対比へのスムーズな運び、さらに「かくゆるかしきお暮しなら都のことも思し召し」で内侍の恨みがましさを洗わす。これがあってあとのお里のサワリが効いてくる。お里の嘆きに引き込まれると、一転して梶原の来訪を告げる声、落ち延びるところに権太が維盛を追う。その本音を出した権太に怖れを感じる。
次々と変わる局面に緊迫感はあるが、それを息もつかせず語りきる。なのに、弥左衛門と婆が桶をやり取りするところは笑いを誘う。

権太の再登場。「いがみの権太が生け捕ったり」までは詞、「討ち取ったりと呼ばはる声」は地に戻る。その移り行きが実に自然で、物語の視点がどこにあるかが見える。「私にはとかくお銀」と権太の性根の出る詞は圧巻。梶原が引き込みの時、「暫く汝に預くるぞ」が粒読みで、梶原にも腹に一物あることが知れる。

権太のモドリ。その直前に我が子を手にかける父の「こんな奴を生けて置くは世界の人の大きな難儀ぢやわい」の真に迫る強さ。それに対する権太の真情の吐露が悲しい。これまでの悪の意味がすべて忠義のためであったことが語られ、しかも最愛の妻と子を身代わりに差し出したという苦しみが「コレ血を吐きました」でクライマックスに達する。

そこから、実は梶原が全てを知り、維盛に出家を勧めたことから、自分の全ての犠牲が無意味であったことを悟る、何という悲劇、何という悔い。この物語の最大のどんでん返しがここに結実する。しかしあまり思い入れを取らず、ここからは調子が一段高めて物語を収斂させていく、段切れの運びが切ない。清介、この全体を把握し、時々の場面や人物の変化を見事に把握しきった気合の三味線。

玉助の権太がそうした性根をよく捉え表出した出色の出来。最初の悪人ぶりから嘆く父親の情までスケール大きく描いた。一輔のお里は美しく、サワリの時の複雑な思いも納得できた。弥助実は維盛は玉男、動きの少ない中でも気品を感じさせ、若葉の内侍の清五郎は高貴の女性らしいツンデレなところも母性愛も見せる。小金吾は玉勢、動きが爽やかで的確。小仙は紋臣で優しい母らしさ。弥左衛門の文司は忠義の重みをしっかり出した。弥左衛門女房は勘壽、こういう役では言うに言われぬ説得力を感じさせる。梶原平三の玉輝、敵役だが肚を見せない重さも。文哉が猪熊大之進を動きだけで納得させ、簑之の六代君は幼いながら気品あり、清之助の善太も愛らしい。

 

見たかったものは、充実の舞台に、満員の客席。多くの人が、当たり前のように芝居を楽しめる世。そして、そこで演じられるのは、人形を通して人が生きたその人物の感情を表わし、それが私たち自身の内にも感じられること。舞台を見て登場人物に自然に感情移入していき、自分自身が当事者のように感じ、つかの間、別の人生を生きるように、そして終われば自分自身の現実に戻っていく、そのような分かたれた時空、特別な時間が欲しいのだ。それを十分に感じたこの初日。私はまた劇場に向かうだろう。再びこの感情の高まりを経験するために。

掲載、カウント(2023/1/8より)

天よりの音-2022年12月 ゴスペル・イン文楽×能楽

森田美芽

大阪ビジネスパークのホテルモントレ・ラスール15階の「天星殿」は、天に開かれた能舞台がある。能舞台を覆う屋根の上に天窓があり、昼は陽光が降り注ぎ、夜は星の光が差す。

金春流太鼓方の上田悟氏と呂太夫の、30年に及ぶ友情の結実。星降る夜の静けき光の中で、ゴスペル・イン・文楽に能楽の狂言方・囃子方が加わり、不思議な、また清冽な舞台が繰り広げられた。
折りしもクリスマスを控えた12月23日、寒風身を切る如き嵐の中で、そこだけは別世界の穏やかさと沈黙と支配していた。その後の衝撃も忘れ難く、ここにしたためる。

天星殿96051

まず、上田悟氏とご長男の上田慎也氏による、太鼓連調「祈り」。舞台の沈黙を穿つ一打、そしてリズム。それは遠くより近づく足音のように低く始まり、鋭く空を切り裂く。撥は垂直に面の中央に降ろされ、音が無の空間から生まれる。天から降る音のように、それは厳粛に、弛緩なく妥協なく、やがて二人の音色が呼応し語り合い、また追いかける。祈りとは呼吸すること、その呼吸が相通じること。天に向けて語られた言葉は、再び地に降りて空しくなることはない。

そしてゴスペル・イン文楽×能楽。その初演から関わり、何度も繰り返し見てきたこの演目に、このような新たな展開があろうとは想像できなかった。

第1章「イエスキリストの生誕」。始まりは能の四拍子(四つの楽器。笛、小鼓、大鼓、太鼓)。いつもは三味線による『三番叟』の冒頭の荘厳な旋律だが、野口亮氏の笛は旋律なしにその時空を貫き、天を切り裂いて時をそこに迎える。

マリアの登場。能舞台は三方に開かれている。背後には囃子方が並ぶ。その中で虚空に浮かぶようなマリアの足取り。
清十郎のマリアは、初演の時よりもさらに若々しく、純粋な乙女の姿。マリアのまなざしの先には御使い。マリアの孤独、歴史上ただ一人の不条理に堪える健気な処女。それは2000年前のナザレでの光景が、時空を超えて現代のこの場所に同時的に生じているように思えた。
そして生まれた嬰児に貢物を捧げる東方の賢者たちを狂言方の山口耕道氏、山本善之氏が見せる。軽妙なやりとりで、嬰児が世の救い主として来られたことを示す。産まれたばかりの我が子を抱くマリア。この母性の表現は無論のこと、今回のマリアは、まるでこれからこの子のたどる運命を予感しているかのように、「心が剣で貫かれる」ことを知っているかのように見えた。

第2章「イエス・キリストの生涯」イエスのかしらは俊寛、しかし衣裳はこれまでと全く違い、半分裸で体を見せる。文楽では肉胴を使っている。
貧しきイエスに伴う、狂言方の舟頭と弟子。作り物もなく、ただ櫂の動きで舟を操る。ワキ方の位置で眠るイエス。嵐に翻弄され、左右に転がる山本氏の軽やかな動き。狂言方の身体能力の凄さを垣間見る。
嵐を鎮めるイエスは勘市。再び、三味線と四拍子の合奏。いな、合奏ではなく、異なる世界がクロスする混沌。
休憩をはさみ、第3章「最後の晩餐」

「癒し求めてひとびとは」から。パンと葡萄酒を捧げるイエスの覚悟。印象的な希太夫のユダの裏切り。捕われのイエスは後ろ手に縛られる。橋掛かりからそれを窺い見るペテロ。それを取り囲む人々の眼差しが見え、ペテロの弱さは無言で顔を伏せ、手を挙げるのみ。ペテロの科白を呂太夫が語ることでその嘆きは一層深い。

第4章「イエスキリストの十字架」
初めて十字架の道行を演じる。半裸のイエスは2本の木を組み合わせた十字架を担い、引きずりながらゴルゴダへの道を歩む。その木はリアルな十字架ではなく、イエスが担わなければならなかったすべての人の罪の象徴と見えた。
勘市はその重みを、理不尽な苦しみを、ただ堪えるイエスの姿で表す。我が神我が神、なんぞ我を見捨て給いし、のクライマックスから、十字架のイエスをシルエットで見せる表現。

第5章「イエスキリストの復活」。復活のイエスと出会い怯えるペテロと、僧侶のような薄物をまとう、やや肉感的なイエス。手の真ん中に赤い傷跡。それを見て恐れと絶望は歓喜と希望に変わる。呂太夫の「ハレルヤ」の力強さ。

 

そしてマリアとイエス。今回、人形陣はわずか3名、一度に人形が1体しか舞台に出せない状況。だから基本的にマリアとイエスは同時には出ない。
しかしそれは、マリアによってイエスが生まれ、イエスは公生涯に入って後はマリアとほとんど関わらないというものあるが、マリアの使命とイエスの使命は表裏一体であり、人として能う限りの犠牲を払って他者のために生きることであり、自分の命を他者のために捧げることである。イエスの活動の裏にはマリアの沈黙の祈りがあり、マリアはイエスの生涯を先取りしている。
清十郎と勘市、清之助の3人は、この二つの運命、二つの尊い犠牲にふさわしい気高さと清さを見せた。

狂言の動きは能に比較してはるかに自由でダイナミックであり、人形よりも細やかな表現が一人の意志によって可能である。山口氏と山本氏の掛け合いはほっとさせる温かさやユーモアがあり、この物語の通奏低音のように人の善意が広がっているのを感じさせる。

一方、能楽囃子方の四拍子と文楽の太棹三味線は異質な表現力を持つ楽器であり、言ってみれば、能楽の四拍子は三味線の旋律のような「色」のない、純粋な虚空に響く音である。
笛の野口氏を始め、小鼓の上田敦史氏、大鼓の森山泰幸氏、太鼓の上田慎也氏、この4つだけでも純粋に上へと向かうような集中を作り出す力がある。
対して三味線の清友、團吾(友之助休演による)のお二人は、長年この作品を手掛け、太棹の表現力を生かした物語世界を描く。ここに二つの音の世界が並立している。内へ内へと集中しその中に垂直に降り来てわれわれの内面を一転させる音と、外へ外へと延伸し聴く人をドラマの中に包摂し人々の心を包む音。この二つの力が感覚を揺さぶる。それぞれ独自のリズムと奏法があり、双方が主張し合い、時に混沌とするが、その中から不思議な光が交錯する。

酔うというのではなく、そこにしかない音同志の主張が、時として不思議な調和を作り出す。それは、この舞台全体が異質なものの極限を掘り下げることで、その本質に近づくという奇跡を象徴している。

そして呂太夫、希太夫の語り。
狂言方の科白は本人のものだが、呂太夫は一人ではなく、その世界をわが物として、マリアもペテロもイエスも、その一人ひとりの命を生かす。この物語は、この3人の、ある意味死と再生の物語、その発端から今に至る命の物語である。その真髄が、この顔合わせにより、意図したものを超えて実現したと言えるのではないか。
これこそがクリスマスの意味である。2000年前のパレスチナの地で起こった一人の刑死が、現代まで続く人間のすべての罪を担い、癒し、ゆるし、新しい命に生かす。永遠の神が人の姿をとってこの世に生まれたという不条理。
「いま、ここで」が「いつも、どこででも」に変わり、私たちとともにいまあるという不思議。

320052056_897071791305035_4437573950034968658_n (1)

実は今回のゴスペル・イン・文楽×能楽に実現されている。文楽は近代劇として、「いつ」「どこで」「だれが」が特定された物語で、これはマリアとイエスの奇跡物語である。しかしその物語は同時に、現代のわれわれの中に到来し、その時にイエスが多くの人を癒したように、いまの私たちを癒している。

時と永遠が結ぼれるその奇跡を描くゴスペル・イン・文楽の試みは、文楽という芸能の枠を超えていく。そしていまも、私たちに生きる意味を問いかける。天より降りきたる言葉のように、人の言葉を超えて、それは私たちの魂を生かすのである。

掲載、カウント(2022/12/29より)