カテゴリー別アーカイブ: 美芽の“呂”観劇録

再びの「すしや」、さらなる高みへ

森田 美芽

2020年12月17日、東京、紀尾井小ホールにおける素浄瑠璃公演「豊竹呂太夫『すしや』に挑む」を聞く。
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冒頭に、児玉竜一早稲田大学教授の短い挨拶。いがみの権太は関西では普通名詞であること、最大の山場は権太のモドリ、維盛の運命、そして「師匠は権太を捕まえに来る」と、わずか5分で今日の見どころと主題、これに賭ける二人の演者の姿勢まで伝えてくださる。

遠目にはグレーの肩衣、青磁色の袴の清やかさ、祖父譲りの見台。
「春は来ねども花咲かす、娘が漬けた鮓ならば、なれがよかろと買ひに来る 風味も吉野」、文字で読めば数秒、そこに付けられた節の複雑さ。産み字の語尾の節、イキと間、これらは口伝通りと言う。その口伝の確かさと重さ。いつの間にか、目の前に吉野下市の賑わい、年頃の娘と母の微笑ましい掛け合いが浮かんでくる。

権太の出。ふと気づく。「門口より乙声で 『母者人』」が、思ったほど強くない。以前はかなり低く、力を込めているのがわかったが、いまはそれほど力を込めなくても、自然体で、それこそ権太のたくらみや眼差しや足取りまで見えるように思える。
「竈の下の灰(はーい)まで」の一言にその性根を見せる。そして母の「聞きやこの村へ来て居るげなが、互ひに知らねばすれ合うても、嫁姑の明き盲目」というキーワードがさらりとはめ込まれる。

そして権太の母を騙す語り口の絶妙なこと。嘆きながら「目をしばたたあああき」の間合い、また「大盗人にあーーひました」という真に迫った語り口、「しゃくりイイイ、イイイ上げても出ぬ涙」で客席に笑いが自然と起こる。「どうで死なねばなーりますまい」で母親の心が動くのを見せて、ついに母親に金を出させるのに成功する。その母親の甘さ、婆のかしらの人のよさがそのまま表れている。

弥左衛門が帰り、弥助と名付けている維盛に、上市に逃げるように迫る。ここで弥左衛門が維盛の父重盛に昔恩を受けたことを告白する。原作では弥左衛門は盗賊、重盛が唐の硫黄山に送る祠堂金を奪った罪を許されたことになっているが、改作では金を盗まれた被害者になっている。ここでは改作版。

お里の誘いを退け、そこに若葉の内侍の登場。「神ならず仏ならねばそれぞとも知らぬ道をば往き迷ふ」に驚く。そこで景色が変わる。
険しい道、慣れない長旅、北嵯峨の庵からここまでの彼女の道のりの厳しさ、疲れ果てた彼女の絶望的な状況が偲ばれる。一方、維盛はお里と馴染みながらも妻への義理を立てる。その二人が奇跡的に出会う。二人の戸惑いが、あまりに意外でとっさにわからないことに表れる。それと知っての「ナウなーつーかしや」が痛く沁みる。
そして小金吾の死を嘆く哀切と、「若い女中の寝入り端」以下の感情の激するところの対比、維盛の「親どもへ義理にこれまで契りし」がいとも淡々と、突き放したように聞こえる。なればこそ、次の、お里のさわりとの対比が生きる。

前半は詞の区切りを明確に、お里の、維盛一家への遠慮を感じさせながら、「可愛らしい、いとしらしい」には切ない恋心をにじませ、「雲井に近き御方へ」はまた産み字で、「鮓屋の娘が惚れらうか」が、彼女の思いの深さとこの不条理の酷さが強く響く。
「情けないお情けに預かりました」は少し早く、むしろあっさりと語る。それがむしろ、娘の哀れさを一層伝える。

ここからの場面の変化が際立っている。落ち延びていく維盛内侍、「ご運のほどを危うけれ」に三味線のタタキ、権太は金の入った鮓桶を抱えて追って行き、お里が焦って「ソレソレソレソレたつた今」のリズムが心地よい。その急に対する梶原の出の威厳、弥左衛門一家の七転八倒との対比。婆と弥左衛門の桶の取り合いで少し和ませ、そしてついに権太が維盛の首と妻子を捉えての出。
権太と梶原の問答は、梶原の「あつぱれの働き」「スリヤ親の命は櫓られても、褒美が欲しいか」の詞で、悪の勝利を明白にわからせる。「私にはとかくお銀」は、さらりと語られるのに、そこに権太の性根よりも、ここに賭けた権太の複雑な思いが滲む。
おそらく人形のある本公演なら、この「縄付き引つ立て立ち帰る」でその性根を見せるのだろうが、消え入るようなその語尾に、権太の苦しさが見える、そして弥左衛門が刃を突き立て、血を吐く叫び。

弥左衛門の口惜しさ、息子への怒りと息子ゆえの悲しさ、「弥左衛門歯噛みをなし」からの詞の強さとタタキ、その怒りと悲しみが深いほど、「胸が裂くるわい」が堪える。そして権太のモドリ。苦しみをこらえての詞、一文笛。自分の妻子を身代わりにと、「縛り縄、かけてもかけても手が外れ」から「チチ血を吐きました」の叫びは舞台と客席を一つにする。
それを聞いた弥左衛門の嘆き。さらに、逢うことのできなかった孫と嫁が失われたことの痛み。家族でありながら、顔すらも知れない嫁と孫、それを同時に差し出した息子の本心。それを知れなかった自分、弥左衛門の「ヤレ聞こえぬぞよ権太郎」にこもる力が、この一家の悲劇の深さを表す。

それに引き換え、あまりに達観した様子の維盛、ところがこの述懐、「逢うて別れ逢はで死するも皆因縁」のくだりが、実にリズミカルに語られ、この「千本桜」全体の主題と重なる。かと言って悟りしましたのでない。頼朝の陣羽織を「ずだずだに引き裂いても」をつぶ読みするのに応えて衣を裂こうとして気づく、そこに父の恩報じと知り、どこまでも父の蔭を逃れることのできない運命を悟る、この維盛の複雑さに心が至ったのは私には初めてであった。
しかし、その直後の、権太の嘆き。「思へばこれまで衒つたも後は命を衒らるる種と知らざる浅ましイイイイイ」その絶望は計り知れない。すべては父のため、父の忠義のためと妻子を犠牲にしたのに、それすらも全く無意味であったと。これを描いた、作者の残酷なまでのリアリティが、その無念から伝わってくる。

ここからは段切れへ向けての急速な展開。父は息子の臨終にも立ち会わず内侍を伴い出で立とうとする。そこまで深く傷つけられた親子の、最期の別れ。華やかな旋律に載せて、この悲劇の幕を閉じる。

なんとよく出来た浄瑠璃だろう。この権太を創造した作者の巧みさというより、源平の争いの蔭に犠牲になった庶民を代表させる、この悲劇的造形をなんと言えばいいのだろう。
そして浄瑠璃としての完成度の高さ。登場人物一人一人の性根と役割がこれほど個性的に立てられていて、しかもずっと聞いていると、一人一人の中にある悲劇の伏線からその成就までが一つの線のように導かれ、この場においてそれらが交錯し、悲劇としての必然を作り出している。それらが耳を通し伝わってくる。

そして呂太夫にとっては、二十数年ぶりの素浄瑠璃での「すしや」一段。
実はその時、やはり劇的構成と権太の性根に感じ入ったが、今回さらに、何気ない詞の運び、細かい節付け、三味線とのバランス、それらを含めての円熟を感じた。
いたずらに力を籠めずとも、自然に語りながら、何とも言えない感触と余韻を残していく。複雑な人物構成なのに、語りの中で生きた感情がぶれずに交錯する。その語りの全体が、三味線と共にドラマの構成を見事に再現して、聴く者一人一人の感性や感情とぶつかり合い、心を揺さぶる。

これが、呂太夫が長らく目指してきた芸の真骨頂の一つの成果であろう。25年間、彼の語りを聞いて、義太夫節とはこれほど奥深く、人を感動させるものかと、改めて思わされる夜であった。

掲載、カウント2021/1/5より)

闇を超えて、時を重ねて

森田美芽

 10か月ぶりに、大阪に文楽が帰ってきた。それだけで、心が浮き立ち、じっとしていられなくなる。本当に長かった。コロナ感染拡大防止のため、三部制の上演、しかも劇場内の座席は、まだ半分以下しか使えない。それでも交互の座席は大変見やすく、隣の人に迷惑をかける心配も少ない。床前の私の特等席は当分お預けだけれど。
 幕開き三番叟は上演中毎日、舞台を清める儀式である。舞台の成功をもたらす超自然的な力への祈念。それは私たちの祈りでもある。これから始まる、分秒まで厳密な、洗練された動きと語り、にも拘らず一瞬先に何が起こるかわからない舞台という危うい現実を前に、数時間の先に陶酔と喝采が生まれる奇跡を、この向こうに見ようとする。

 第一部は『源平布引滝』。「矢走の段」亘太夫、錦吾。力強く、メリハリの利いた亘太夫の語り。行儀のいい錦吾。小まんは勘弥、白旗を守ろうと男どもを相手に必死の応戦。そして湖を見る眼差しに決意が宿る。亀次の忠太はもちろん憎さげな男を的確に遣う。
 「竹生島遊覧の段」気合の入った團吾の三味線。小住太夫(前半)が宗盛、語りだし、品格、なかなかに聞かせる。左衛門の文字栄太夫は詞に力がこもる。実盛は津國太夫。思慮深く肚を見せない強さ。小まんは南都太夫。「死んではどうにもならぬ命」から「今日はいかなる悪日ぞ。」の女の嘆きが沁みる。碩太夫は小細工なし。
人形は、宗盛が紋秀。品位のいる役を堂々と遣う。左衛門は文哉。女をいじめる役回りもうまく性根を見せる。
 「九郎助住家の段」中、咲寿太夫と友之助(前半)。咲寿太夫は「づきが廻っても高ぶけりさせぬ」などの泥臭い表現がまだ落ち着かないところもあるが、まずは序盤の物語をしっかり聞かせた。友之助の支えも大きい。
 次、靖太夫、錦糸。片腕の発見から実盛と瀬尾の詮議。たとえば「世に連れて変はる住居や憂き思ひ」など、情景と心情の描写が一つになるところや、「気疎い物ぢゃ」のあたりの詞の間など、まだ改善の余地はあるが、瀬尾の大笑いなど、破綻なくまとめている。「詞なければ」のあたりに情を込めた。ただ、瀬尾に迫られ「のっぴきならぬ手ごめを見るより」は女房なのか九郎助なのかわかりにくかった。錦糸の安定感と美音。
 奥、呂太夫、清介。瀬尾が引っ込んで、実盛の物語。物語る力の違いを感じさせる。一途に母を求める太郎吉、老の逸徹の九郎助、娘を思う老母らを納得させなければならない、それを説得する、実盛の重厚さ。聞きながら、その光景が繰り返される、朗々たるその語りの力。小まんの無念も、ここに至る源氏の無念も、琵琶の湖に起こったことが、もう一つのその後の平家の運命とも重なるように。それはさらに、切り落とされた片腕をつなぐと死者が蘇るという奇跡までも納得させる。いつもながら、清介との掛け合いの間合いの見事さよ。
 瀬尾の再登場から、錣太夫、宗助。敵役の瀬尾が、実の娘の小まんの息子にわざと討たれる、その豪胆さも十分に聴かせる。宗助は亡き寛治の手と音を受け継ぐ。綿繰馬に跨る少年が、やがて実盛を討つことになる予言。ここは平家物語の一節からの創作だが興味深い。実盛は日の光が似つかわしい美丈夫として描かれるが、後に白髪を墨で染めて合戦に挑み瀬尾の孫に討たれる未来がここに語られる。物語は太夫によって、過去と未来が重なる、不思議な時間として白日の下に明かされる。それを見おろす琵琶湖と比叡は、悠久の時のなかに静かに佇み、人の営みの因縁とはかなさを見下しているように思える。
 人形は、玉男の実盛の、圧倒的な男振りと貫禄。二股武士でありながら、実に情けを知る武将のりりしさ。九郎助は文司、師匠の文吾の晩年を思わせる、父性の温かさとしたたかさをよく表す。簑一郎の女房は、気丈で思いやりに満ち、紋吉の矢橋仁惣太も一癖ある風情。勘次郎が倅太郎吉をりりしく遣い、清五郎の葵御前はゆったりした品格がある。瀬尾の玉也は極めつけといってよい。

 第二部の『新版歌祭文』は、冬の午後の少し弱い光を感じさせる。は睦太夫、勝平。
 睦太夫は安定感をもって語れるようになった。だが、小助の引っ込みの、「おれがコウ担げて…言ひ分ないはずぢゃ」の間がなんとも長く感じる。まだ一人一人の呼吸と、彼の語り口が合っていないような感じといったらいいか。勝平はそのあたりの呼吸もうまく合わせてくれる。
 続いて呂勢太夫、清治。声も安定し、緩急も自在に語れる。お染のクドキが切に迫る。言葉もいらない清治の糸。後半が咲太夫、燕三。久作の説得力とお勝の貫禄。ただ、おみつの母のくだりは、何か中途半端で見えないことの対比が効きにくい。段切れはやはり高音の伸びがもう一つで、この人の力でいま、聞くべき段を聞かせてほしい。連れ弾きは燕二郎。師弟の息の合った華やぎ。ただ、ここは亡き寛治の弾いていた彦六系の手であったか。
 人形では清十郎のおみつが、前半のコミカルな演技と細かい業、後半の尼姿の対比と変化で、聖なる自己犠牲という主題を明確にする。久松は文昇。ややたよりない性根を生かす。和生の久作は白太夫かしらの親心そのもの、勘壽がおみつの母の哀れをくどくなく表し、簑紫郎の小助は三枚目の敵らしく笑いを取り、玉翔が儲け役の船頭で一際喝采を受ける。簑助のお勝。この人が舞台にいるだけで、舞台が変わる。一日も長く勤めていただきたい。

 『釣女』太郎冠者を藤太夫、場を盛り上げる愛嬌たっぷり。大名を芳穂太夫、生真面目に勤める。美女を希太夫、淑やかで美しい。醜女を三輪太夫、最後に全部持っていく。三味線は團七以下、清馗、清公、清允の心地よいユニゾンが繰り返され、笑いを呼ぶ。玉佳の太郎冠者、主役にも余裕が出てきた。玉勢は形がよくさわやか。紋臣の美女もかぐわしく自然な動き。勘弥が最後に醜女を、なんとも愛らしく遣うので、これはフグ扱いは気の毒と思わせる楽しさ。
 これは狂言に由来する演目だが、狂言の道行という手法で距離も時間も一気に飛び越えてしまう。時を超える、大名も醜女も個人名はない。いつでも、だれでも起こり得るという、現在が未来への反復を含む関係の中でのドタバタ劇。太郎冠者を醜女が追いかけていくオチを楽しみながら、なるほど男も女も見かけで動いたらあかん、と言われているように思う。ルッキズムとストーキングというのは時代を超えてあるものだが、それがまるで現在の、たとえば吉本新喜劇などにもつながってくるように思える。

 第三部は『本朝二十四孝』は、やや変則的な上演。
 「道行似合の女夫丸」から始まる。睦太夫、靖太夫、亘太夫、碩太夫、生徒も、友之助、錦吾、燕二郎、清方。これも不思議な道行で、濡衣の方は亡き夫と瓜二つの勝頼との道行に、亡夫の面影を見るが、勝頼の方はそうではない。いわくありげな様子を楽しむ。睦太夫、美声だが「氷を渡る信濃路へ…」のあたりで上の声に届いていない。碩太夫は「昔を偲ぶ流行歌」あたりしっかり声を出しているがまだ一本調子。
 「景勝上使の段」希太夫が長足の進歩、清丈もしっかりと聞かせる。
 「鉄砲渡しの段」芳穂太夫、清志郎。前後がないとわかりにくい段だが、それでも聞かせたのは芳穂太夫の力だろう。清志郎もここはしっかりと押える。
 「十種香の段」千歳太夫、富助。ただ、ソツなくというのではない、やはりそれ以上に、物語と詞の美しさが問われるところだと思う。その点で、さらなる飛躍を期待したい。
 「奥庭狐火の段」織太夫、藤蔵。ツレ寛太郎、琴清公。狐火が妖しく舞う。それだけで客席は異空間にいざなわれる。この段では、三味線が妖しさを表すのに、太夫は真っ向勝負のようなところがあり、その戦いに、織太夫が挑んでいる。
 この物語は元々の仕掛けがややこしすぎてどうもわからない人も多い。両家を巻き込む陰謀と、それに立ち向かうのは、ただ自分の愛する人を助けたいという、単純極まりないお姫様の思いだけ。そこにすべての情熱が注がれ、この物語を私たちに引き付ける。その中で、奇跡が起こる。
 八重垣姫が、恋する相手を救うために、今度は狐に憑依される。諏訪法性の兜のもたらす奇瑞。狐に憑かれた姫は、ここかしこと跳び、回旋し、のたうち回る。ここは、勘十郎の至芸に酔いしれるところだが、それだけではない。私たちの先祖が昔、暗闇に感じていた畏怖、異類と魑魅魍魎の跋扈する闇の中に、姫の一筋なる思いが光をもたらし、狐たちをも従えて、闇を切り裂く。差し初める東雲の光に、彼女が諏訪の湖を渉る姿が重なる。
 濡衣は簑二郎。彼女の見えない一面もうまく表出している。勝頼は玉助、色男ぶりが際立つ。謙信は玉志、またスケールの大きさが出ている。勘市は景勝、文七の強さも印象的。玉誉の白須賀六郎、簑太郎の原小文治もきびきびと小気味よい動き。玉輝は花守り関兵衛で、少し為所が少ないか。

 コロナの感染拡大防止のためにこうした三部方式を取ること自体は責められないだろう。ただ、演目と配役が難しい。また2時間ほどで完結する演目に限られるなら、通し狂言はどうなるのだろう。特に今年4月に公演予定だった、『義経千本桜』の場合、もし序段が省略されたら、通しそのものの意味がなくなるのではと危惧する。今後、このような公演形態のままでいくのか、それとも以前のようにできるのか、あるいは、別の形もありうるのか、不安は消えない。
 ただ、文楽そのものは、幾度も闇を通って、そのたびに奇跡のように甦ってきた。困難に襲われるたびに、忍耐し、ひたすら芸を磨きつつ時を待つ。本公演もまたそのように、力を充実させて、この困難の時を乗り越えてこられた技芸員の方々の覚悟と強い使命感を感じた。願わくは、この充実をもって来春の公演を迎えられますように。

掲載、カウント2020/11/23-2より)

新たな境地へ―2020年9月公演 第3部 絵本太功記 十段目―

森田美芽
 なんと清冽な、清廉な舞台。誰も、自分が、自分がではなく、一人ひとりが確実にその役割を果たし、全体をドラマとして成立させる。実は太夫のイニシアティヴがそれを成立させていることを気づいた者は至福の時間である。

 「夕顔棚」睦太夫、清志郎 力の入る一段。睦太夫、久々の舞台に、安定したところと、チャレンジングな姿勢を見せる。節もきちんと、声も出ている。だが、皐月の言葉がまだそこだけ不自然。しかし「捨つべきものは弓矢ぞ」など、しっかり伝わっている。
 そして、「『三国一の悲しみ』と知らぬ白歯の孫嫁が」の孫嫁のところが、上の音で届くべきところはまだ届いていないが、それを届かせようとする彼のチャレンジ精神を感じた。「老母は何か心に頷き」での短い決意がまだ不十分。この皐月の性根がしっかり描こうとしている造形。ただ、真柴久吉が武張りすぎるか。清志郎のサポートもいい。登場人物の陰りやイキを弾き分け、しかも清々しい。勘寿の皐月が、武家の女の気概と誇りを失わずここにいることが伝わってくる。その造形が一貫している。簔二郎の操は、出のしとやかさと母らしい風情の移り行きも自然。

 「尼ヶ崎」前、「呂勢太夫、清治。呂勢太夫は一年あまりのブランクを経ての復帰。だが、声に頼りすぎず、ひねらず、正攻法の浄瑠璃で、十次郎の若さゆえの純粋さとその悲劇を描き切る。『鎧の袖に降りかかる 雨か』と「涙の」ですぐに世界が切り替わる。
 ただ本調子でないと思えるのは、「胸は八千代の玉椿」など、彼ならもっと高いところへ届くだろうに、それが出きらないところ。ここは一輔の初菊のいじらしさ、後ろ姿の可憐さが光る。そしてまた、皐月の述懐のところも聞かせてほしい。清治は、焦らず、大きく構えて太夫を支える名人芸。

 、呂太夫、清介。「ここに刈り取る」から、これまでの呂太夫と違う。「夕顔棚のこなたより」の「こなた」のイキが詰む。「現れ出でたる」の「現れ」が「矢声」と呼ばれる高音。それが無理なく届く。「光秀」の「み」からカンの声と、立て続けにくる。皐月のクドキでは、「たとへがたなき人非人」の「ん」が決して力まないのに正しく止まる。「不義の富貴は浮かべる雲」の節の美しさ。「主を殺した」は「ころし」までがカンで、「た」が地声に戻る。「天罰」の「天」もまた。

 操のクドキ、「お諫め申したその時に」の「その時」の重さ、「知らぬこと」の切なさが胸に迫る。そして「諫める泣いつ一筋」に、で地に戻る。光秀の「声荒らげ」以下はむしろ冷静に。光秀の玉志も毅然として大きい。

 十次郎の戻りから、「ヤア言ひ甲斐なき見方の奴ばら。シテ四王天田島頭は」の肚。さらに「妹背の別れ愛着の」の切ない語り。大落としの「堪へかねてはらはらはら雨か涙の汐境、波立ち騒ぐ如くなり」でクライマックスに持っていく。
 久吉の出から皐月の最期「可愛さゆゑの罪亡ぼし」の本音など、最後は三味線の熱演だが、段切れまで実に弛緩なく、物語の全体が耳を通してしっかりとはいってくる。だから人形が生きている。初菊は最後に十次郎の亡骸に黒髪を切って供え、そのはかなさを伝える。
 これは武将であり父である男の悲劇と、母であり自らの道義心に従う女たちの世代を超えた悲劇でもある。その全体が、しっかりと音の仕分けを通して聞こえてくる。浄瑠璃とはいかに精密で劇的なるものかを今回改めて聞かせていただいた。

掲載、カウント2020/11/23より)

「異なる者」から「共にある者」へ――2020年初春公演

森田美芽

 文楽劇場の1月は華やぎに満ちている。睨み鯛、凧、繭玉という、いまは庶民の暮らしからも離れつつある正月の風習が、人の心を湧き立たせる。何か新しいものが始まる予感。
そ して竹本津駒太夫の六代竹本錣太夫襲名というめでたい初春公演、その華やかさと賑わいの反面、心にかかることがあった。

2020_初春文楽公演-B2ポスター 
第一部、幕開きは『七福神宝の入舩』床には七挺七枚、太夫と三味線がずらりと並び、舞台は宝船をせり上げるという大がかりなもの。三輪太夫の寿老人が新春を寿ぐのにふさわしい一声。清公の琴が安定感あり。靖太夫の布袋は愛嬌ありユーモラスな語りに清五郎のゆったりした遣い方。津国太夫の大黒天、胡弓は友之助、その弓使いに客席も沸く。勘市は巧まざる遣いぶり。弁財天は芳穂太夫、琵琶に似せた三味線の音を響かせる清友。紋臣、ゆったりとあたりを払う動きが美しい。福禄寿は亘太夫、長い頭を伸縮させ、力いっぱい弾けて笑いを取るのは紋秀、友之助の曲弾きがさりげなくすごい。恵比寿は碩太夫、簑紫郎が鯛を釣り上げるところをしっかり見せる。恵比寿ビールのご愛敬。毘沙門は文字栄太夫、亀次、武骨さの重み。最後に玉志の寿老人が杖を掲げると、「祝六代錣太夫襲名」の文字が。こうして盛り上がったところで、襲名の舞台に移る。

 今回の襲名披露狂言は『傾城反魂香』「土佐将監閑居の段」通称「吃又」と呼ばれる段である。襲名の錣太夫の緊張した面持ち、床上での口上は六代呂太夫が語る。新錣太夫の若い日のエピソードが微笑ましく、いかにも生真面目な人柄を思わせ、観客席もほっと明るい気持ちになる。
 舞台も素晴らしかった。口を希太夫、團吾。短くともすっきりとまとまり、描き分けは確か。奥。新錣太夫の語りは、又平の一途さ、必死さとそれが伝わらないもどかしさの内に、彼の深い絶望と、一転してそこから救われた喜びがまっすぐに伝わってくる好演であった。差別された者が必死で戦い、それを妻が支えようとする。貧しさと困難の中に希望を見出そうとする二人の強さと誇り、そうしたものを感じさせる真実さが錣太夫の魅力だろう。宗助もよくその糸で支え、ドラマを描き出した。勘十郎の又平の、朴訥な誠実さと絵師としての誇り、にも拘らず障がいのために嘲られる者の悲哀と苦しみ。それを支える女房おとくは清十郎。夫を思う一途さと、夫に代わってしゃべる積極性と、やはりただの町人ではないと思わせる物腰の上品さが相まって、もう一つの主題である、助け合って生きる夫婦愛の絆の確かさを感じさせるものだった。又平のかしらはどちらかといえば三枚目のおかしみがまさる。動きの中にもそれを強調するところがある。その動きのユーモラスな仕草に、観客の笑いが漏れる。
 しかし、私の中に止めるものがあった。それは、笑ってよいのか?という、言葉にならない感覚である。あえて言うなら、違和感のようなもの。最後は障がいが治りハッピーエンドとなるものの、又平の、現在でいえば発話障がいに対する師匠や周囲の対応は、今日では絶対に許されないものである。そして又平の必死の詞の数々も、もしそこに、同じような障がいのゆえに差別された人にとって、それが太夫の語りの芸の一つであるとしても、同じような痛みを覚えるものではないかと思わされた。
 
 文楽にはしばしば、「異なる者」が取り上げられる。それは、身分の低い者、外国人、女性、そして障がい者など、差別や抑圧を受ける存在である。そして障がい者に関して、かなり残酷な描写や、昔の差別の名残を見て私たちはそれを痛ましいと思い、あるいは怒りを覚える。それはもはや、私たちの感性が、差別することはいけない、人権にもとることであるという感覚によって生かされているからだ。
 障がい者の扱いも、例えば『敵討襤褸錦』(かたきうちつづれにしき)の中の巻のように、知的障害者を仇討の邪魔になるとして殺す(つまり犠牲になる)場合もあれば、『壺坂観音霊験記』のように、視覚障害が癒されめでたく終わるケースもある。
 さらに『摂州合邦辻』の俊徳丸のように、病に侵された身を義母玉手御前の犠牲によって癒されるケースもある。しかしどの芝居でも、その途中で差別を受けたものの述懐に、心が刺し貫かれるような辛さを感じる。それは紛れもなく、我々の先祖の世代が作り出した感覚である。私自身、昭和の時代になっても、障がい者に対し世間がどれほど冷たかったかを明白に記憶している。その感覚が呼び覚まされるのである。そこから、障がい者を差別すること自体が正しくないという社会に変わるために、どれほどの時間と当事者の戦いがあり、そして日本自体が変わる必要があったかを思うと、感慨深いものがある。
 「異なる者」すなわち「例外者」「少数者」が犠牲となる。これらは文楽を始め、歌舞伎にも、また今日の時代劇等のドラマにも共通する主題であるが、彼らは共同体から少しはみ出た「異なる者」である。彼らは武家社会の倫理や町人の倫理など、それぞれの属する共同体の「義」を優先させる(敵討、お家の再興等)ために犠牲となる。この犠牲によってその「義」が実現する。あるいは「浄化」が起こる。奇跡によって病が癒され、穢れが浄化される。かくして彼らの犠牲は観客の同情とカタルシスを呼ぶものとなり、娯楽としての演劇に欠かせない要素となる。しかしその「義」自体は問われることもなく、少数者の犠牲をなくする方向へ向かうのでもない。この発想の中からは、犠牲者が死んでからの追悼はあっても犠牲は繰り返される。この理不尽さは残ることになる。
 しかしこれはまた、現代の日本でも繰り返されている悲劇ではないか。それを思うと、私たちは、文楽でこうした差別を扱う作品を避けるというよりも、あえて記憶するために、残すという意味もあるのかもしれない、と思った。いま忘れてならないのは、こうした差別の中で生きた人々の声、そしてそうした差別が現に存在したことであろう。むしろそれを忘れないための棘のようなものであるのかもしれない。私たちはかつて、どんなふうに人を傷つけ、貶めてきたか、それをどのように克服してきたか、それに直面した時、どんなふうに感じ、そこから変わってきたのかを記憶しておかねばならないと思う。
 おそらくこれからも文楽を楽しむうえで、避けられない問題となってはくるだろう。少なくとも、但し書きは必要となるかもしれない。ポリティカルコレクトネスというだけではなく、私たち自身の感性が、そうした一方的な差別や抑圧に本能的な忌避を感じるようになってきているからだ。なぜいま、この芝居なのか、なぜこうした表現をするのか、あえて説明しなければならない世代が多数になることは、ある意味喜ばしいことかもしれない。その時にも、伝わる真実があるかどうか、文楽の芸は、そうした普遍性を問われるものとなるのではないだろうか。

 続いて『曲輪ぶんしょう』の華やかさと色町の風情、そして伊左衛門の大家のぼんぼんらしい振る舞い、新町の廓は失われても、その美しさと人情はこうして芸の上に残されている。しかし今回、掛け合いで上演するのは、咲太夫の負担軽減のためだろうか。夕霧の織太夫、楽日近くには声が出なくなっていた。夜の「長局」の影響と思われるが、まだ肚からの声になっていないということだろうか。藤太夫・南都太夫、咲寿太夫らが力を添える。燕三、ツレ燕二郎、清允。なんと艶やかな、しっとりと語りかけるような三味線。口は睦太夫、勝平、ツレ錦吾。伊左衛門は玉男。はんなりとした色気よりも、大家のぼんぼんらしい甘さと夕霧に対する甘えが交錯する駄目男ぶりの内に気概を感じさせ、和生の夕霧は華やかな貫目を見せるが、遊女らしい性根とは少し違うものを感じた。勘壽の喜左衛門は隙のない亭主、おきさに簑助という贅沢に、観客の目がその一点に注がれる。獅子太夫の玉翔が見せ場を作り、勘次郎、勘助、簑之の仲居トリオが楽しくからむ。

第二部『加賀見山旧錦絵』は、昨年を通して上演された『忠臣蔵』の世界をちょうど女性たちの奥の世界に移したもの。「草履打」場面は鶴岡八幡宮、『忠臣蔵』なら大序に当たる。幕が開いた時の両側に対照的に広がる2つの勢力の対比や、敵役の師直を、同じく憎さげな局岩藤に、いじめられる塩谷判官を中老尾上に転じ、一方的ないいがかりでのいじめを見せる.
岩藤の呂勢太夫が休演で代役は靖太夫。尾上を芳穂太夫、善六は小住太夫、腰元が亘太夫と碩太夫、三味線は清治。
 「廊下の段」籐太夫、團七。腰元たちの噂話、岩藤とお初の心理戦、詞で聞かせる。
 そして「長局」、前を千歳太夫、富助、後を織太夫、藤蔵。千歳太夫は何度か手掛けて変わってきた。例えば、お初が尾上の気を紛らわせようと、芝居の話を振るところ。主君を諫めようとする必死の覚悟が伝わってきて、後へと続く思いを印象付けた。富助はその緊張を糸に乗せて伝える。織太夫はお初の激情を爆発させる。藤蔵もさらに強く導く。その畳みかける迫力。
 転じて「奥庭」、靖太夫、錦糸。靖太夫は今日3度目の舞台だが、小気味よく運び、一気に留飲を下げる段切れへと向かう。短いが錦糸は彩り豊かに弾く。
 人形では、和生の尾上が中老の品格と死を決意した嘆きを肩で表現して見事。玉男が岩藤で憎い敵役の強さ。文哉の善六がきっちり性根を見せ、玉誉、簑太郎の腰元が動きも大きく楽しい。勘十郎のお初が誰よりも生き生きとこの舞台を動かしている。お初の強さ、尾上への忠誠というより、姉妹のような絆、それを理屈抜きに納得させる生きたお初。玉佳の安田庄司が最後にいい役で出てくる。

 『明烏六花曙』は平成八年の初春公演以来だから、実に四半世紀ぶりという珍しい狂言。それも文楽では珍しい新内からの作品である。色っぽい作品かと思ったら、次々と趣向は変わるし、登場人物が多く、どこかで見たような趣向が続く。これは一体何なのか、どう解釈すればいいのか。いささかの戸惑いを感じながら見ていた。
 なぜ、ここに浦里がいて、娘が禿にならなければならないのか。なぜ時次郎が死ななければならないのか。それでもみどりの健気さ、浦里の哀れが自然に耳に入ってくると、いつの間にか時代を超えている。髪結のおたつの存在感。こうなった様々な事情があることを、語らずとも理解し、それとなく支え、浦里一家を助ける、こうした人物が、と思った時、また別のことに気づいた。人生の機微をよく理解し、また気の回る役どころ、懐深い、苦労人だが自立した世話の女性。庶民の暮らしの中にあるリアルな存在感にはっとさせられる。それは、生きて苦労してきたからこその粋なのだと。そうした庶民の暮らしの中で育まれた存在感であると。

 一転して雪の責め場、亭主勘兵衛の俗悪ぶりや遣り手おかやの女の残酷、さらに最後に出てくる手代彦六。この人物は文楽の独自の趣向というが、自分では粋でもてる男を自認しているが、結局的外れの思い込みで、主人公を助ける「デウス・エクス・マキーナ」の働きをしてしまう、という役どころ。その軽薄さやうぬぼれまで、どれもがリアルで、どこにもあると思わせる、こうした人物一人ひとりの語り分けが見事であると思った。詞ひとつでその人物の人生観、これまで生きてきた重さ、直面している困難や感情、その絡みのあわいまで響かせる。
 その難しさを、呂太夫・清介が1時間余り、弛緩させずに語り、弾き、客席を惹きつける。その確かな造形に、呂太夫の世話物の底力を見る。江戸時代中期の、250年前の浄瑠璃の人物が、いまここで目の前に生きている、その感情をリアルに現在のものとして共感できる。昔の創作上の登場人物が、いま、ここで実感できるのだ。昔をいまに、人から人へ、思いを伝え、情を伝える。文楽の底力とはまさにそういうものだと実感させてくれる、呂太夫の語りの力を改めて思い知る一幕であった。
 人形では、浦里の勘弥は哀れさのまさる造形、みどりは玉路と和馬が交替で。玉助の時次郎は花ある二枚目。髪結おたつの情の深さを清十郎が描き、亭主勘兵衛の文司は敵役も貫禄あり、手代彦六は簑二郎が剽軽さをたっぷり見せてくれる。

 『明烏六花曙』の、新内の世界の再現も、確かに私たちは、失われゆくものとその感覚をここに共有している。時のはかなさよりも、そこに生きる人々の感情に、その生き生きとした生活感に、私たちは共感する。時代を超えて繋がっているこの共感を育てることが、私たちが文楽を愛する大きな意味に違いない。呂太夫も、錣太夫も、また他の方々も含め、そうした力を代表し、「昔いた者」を「共にある者」に変え、今日もまた、時代を超えた奇跡に出会わせてくれるのだ。
文楽のさらなる発展を期する1年でありたい。

掲載、カウント2020/02/28より)