カテゴリー別アーカイブ: 美芽の“呂”観劇録

受け継ぐもの、手渡すもの―第21回文楽素浄瑠璃の会―

森田美芽

 国立文楽劇場第40回邦楽公演は、2018年8月18日、文楽素浄瑠璃の会として、豊竹呂太夫、鶴澤清友による『和田合戦女舞鶴―市若初陣の段―』、豊竹咲太夫、鶴澤燕三による『曲輪文章―吉田屋の段―』、そして咲太夫、片岡仁左衛門による対談「浄瑠璃よもやま話」が行われた。演目解説は大阪市立大学大学院の久堀裕朗教授。
 対談の司会は産経新聞文化部の亀岡典子編集委員と、行き届いた顔ぶれで、舞台そのものの充実と、観客に伝えるものの両面において評価の高い会となった。

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 「和田合戦女舞鶴」は東京国立劇場でも1989年に上演されたきり。その前の記録をたどると、1965年に三越劇場、1950年に十代豊竹若太夫襲名披露狂言として上演されている。そのため、呂太夫にとっても、祖父の衣鉢を受け継ぎ、若太夫襲名という大きな目標のステップであることは間違いない。
 彼はこの作品を、2009年に早稲田大学で、2015年国立劇場で素浄瑠璃で語っており、いずれも三味線は清友と、磨きをかけ、手の内に入れてきた、今回はその成果を問われることになる。また「越前風」と呼ばれる曲風を伝える貴重な一曲として伝承の上でも大きな意味を持つ。
 
 「市若初陣」まず市若丸の登場。11歳ながら、錦革の鎧と兜、弓矢を携えた本格的な武者姿が浮かぶ。母に「逢ひたかった」という11歳の稚さ。息子を出迎え、手柄を立てさせたいと語る母。そこに「忍びの緒」の謎が現れる。はっとするような展開で、気が付けば物語の中に取り込まれている。

 板額は市若をなだめ、気を取り直し、尼君のもとへ向かおうとする。そして尼君からの残酷な事実の語りに、「ホイ、はつ」と、忍びの緒に込められた意味を悟る。その重さを感じさせる語り。
 そして尼君の懇願に、夫への恨みと嘆きが交錯する。「エエ聞こえぬぞや我が夫」からのこの板額の嘆き、「告げとも知らず余所の子の、花々しきを見るにつけ」の泣きの表現。それに対する夫の無責任、妻にすべての苦しみを負わせながら、という怒りも共にさせられていく。
そして「涙を忠義に思ひかへ」からの豹変。「ナニ、腹切つてか」「アノ腹をや。腹を」の畳みかける苦しみに、清友の撥が入る。
 
 そして「耳聳立てし四方八方」の緊張感が高まる中での、板額の一人芝居。
 その必死さの裏は嘆きと伝わる。そして市若が潔く腹を切り、苦しい息の下から母を呼ぶのに対し、母は「与市殿とわが仲の、ほんの、ほんの、ほんの・・ほんぼんの子ぢゃわいなう」と語りかける母の悲しみが臓腑をつんざくばかりに、複数の拍手がたちまち客席に広がる。

 「なんの因果で武士の子とは生まれ来たことぞ」が胸に堪えた。
 そこから二親が息子の首を手渡す涙。さらに言えば、この身代わりの犠牲そのものが無になってしまうというさらに残酷な結末が待ち受けている。
 この場では、本当なら必要のない身代わりが必要と信じて、市若丸がその犠牲となっていく、そのプロセス自体があまりにも理不尽に思われ、「寺子屋」などのようには共感しにくい構造になっているにもかかわらず、なればこそ、市若の純真さ、いたいけな少年像が明確に、そしてそれを義理のために死なせなければならないという矛盾を背負った板額の嘆きと、母としての叫び、にもかかわらず「涙を忠義に思ひかへ」る男勝りの忠義心が、またそのことを強要する当時の論理の残酷さが心にすとんと落ちる。
 呂太夫の語りはそれらの物語の起伏、板額と市若の親子の情と忠義の意志、それらの葛藤と悲劇を余すところなく描き、清友の糸が涙と嘆きに彩りを添えた。

 「吉田屋」冒頭、暮れのざわめきと色町の風情を燕三が艶やかに描き出す。喜左衛門の詞の深み。長年色町の裏も表も知り尽くし、客を逸らさぬ手際、「紅絹裏の羽織をふわと」打ちかけるその軽やかさが目に浮かぶ。
 
 藤屋伊左衛門の詞、「七百貫目の借銭負うて」「この身が金ぢや。総身が冷えて堪らぬ」の呼吸。
 ところが夕霧に客があると聞いた途端に調子が変わる。こうした感情の機微も堪える咲太夫の語り。余所事浄瑠璃が入り、夕霧の出。二人のじゃらくらとした戯れ。そして15分に及ぶ夕霧のクドキ。
 「この夕霧をまだ傾城と思うてか。ほんの女夫ぢゃないかいな」に込められた女心。段切れは「申し申し伊左衛門様」からの詞が義太夫として納まる。

 そして仁左衛門と咲太夫の対談。
 仁左衛門の巧まざる愛嬌とニンの良さ。咲太夫との縁、幼少期の思い出に始まり、松島屋系の「吉田屋」の演じ方、性根、演技についての苦労話など、また、文楽と歌舞伎の間での相互輸入のいきさつも興味深い。
 しかしその中で、失われて色町の風情と、失われゆく義太夫のことば、義太夫訛りについて触れられた時は胸が痛んだ。
 「義太夫節の本行を習いにきたのは孝夫さん(現仁左衛門)の世代まで」といい、いまは丸本ものの科白も習いには来ないという。知らない人が大勢になれば、「多勢に無勢」で、本物を知る人が異端となってしまう。
 正しい本行に従って役を学ぶことが、歌舞伎の若手の継承で途絶えることは実に危機的である。それは、文楽の方にも言えることだが、正しい大阪弁のイントネーションや、「義太夫訛り」が伝わらなくなっていけば、文楽のみならず歌舞伎も含めて日本の伝統文化の危機となる。それがもはや危機感どころではなく、現実になりつつある。

 伝えられるべきものが伝えられなければならない。先人から受け継いだものを、次の世代へと確実に手渡し、伝えていかねばならない。
 こうした素浄瑠璃の会を国立劇場が持つことの意義はどれほど強調してもし過ぎるということはない。それだけでなく、いま、文楽の具太夫節自体が、わずか20名の太夫、三味線によって支えられているという現実。
 その中で、咲太夫は戦前からの伝統を直接に継ぐ世代として最後の人であり、呂太夫もまた、越路太夫や春子太夫といった名人に直接師事し、八世綱太夫らに直接稽古を受けた最後の世代である。
 彼らの受け継いだものを、若手は全力で受け継いでいかねばならない。ほどなく、若手素浄瑠璃の会がもたれるが、彼らに一段と自覚を促すと共に、国立劇場に、失われてはならない伝統の灯を継承する責任をよく果たしていくこと、そのための文楽公演であることをよく肝に銘じていただきたい、と願う。
 
 まだまだ、受け継ぐべきもの、彼らが手渡すものは数限りなく、時間は迫っているからだ。その時のはざまに、こうした至芸を聴くことのできた幸いを心より感謝する。

カウント数(掲載、カウント18/08/20より)

闇と魔のあいだに―― 2018年夏休み文楽特別公演

森田美芽

第1部 「瓜子姫とあまんじゃく」

子ども公演

木下順二の原作だが、初演の越路太夫はどのようにかかわっていたのか、プログラムを見ても判然としない。
本来は義太夫節のために書き下ろされた作品ではないから、越路太夫の苦労と二代喜左衛門の為した業績が、今日明確でないことが惜しまれる。しかし、越路太夫の流れを受け継ぐ呂太夫が、今日またそれを上演する意義を見せてくれたと思う。

呂太夫の語りは、嶋太夫と異なり、あまんじゃくの部分をはっきり区別する。あまんじゃくがオウム返しをするところも、高さを変え、また「しりっぽでもあるか知んねえだに」はもっとはっきりした震え声で返す。
この謎めいた物語、実はあまんじゃくが山父であるかどうか、なぜじっさがあまんじゃくの思いを読んだように、「ケケエロウ、そんだらふうではちがうがな」と言ったのか、謎は謎のままである。呂太夫の語りの中には、瓜子姫という存在の不思議さ、鶏やトンビや烏をその懐に抱いて一体化する自然の豊かさを踏まえて、その謎の中のあまんじゃくという存在を際立たせた。鶴澤清介はその豊かさを受けて物語を織りなす。ツレ清公、清允もよく音が響くようになった。

瓜子姫は簑紫郎、良く動き、また戸惑いや悲しみといった表情もよく遣った。成長著しい。あまんじゃくは玉佳、憎めないあまんじゃくの造形が楽しい。じっさは文哉(後半玉勢)、あまんじゃくとの知恵比べが面白い。
ばっさは亀次、よい味わいに枯れた婆。杣の権六は玉路、ひょうきんさをうまく出した。山父は勘介、効果満点。

続いて「解説 文楽ってなあに」は玉翔(後半玉誉)。子ども向けということで、人形を中心とした解説は定番のものだが、子どもたちには十分楽しめたようだ。

「増補大江山」こちらも怪奇を扱うが、大江山の酒呑童子伝説などが一般的でなくなったいま、鬼という異形をどう表わすか。
若菜を芳穂太夫、時折芝居めいた感覚が残る。渡辺綱を津国太夫、この人の地力を聞かせていただいた。右源太は竹本文字栄太夫、左源太を竹本碩太夫、力強い声。三味線は清友、團吾、友之助、錦吾、燕二郎。力の入った三味線に怪しさが増す。清友の的確なリードで、團吾、友之助が支え、錦吾、燕二郎らの熱演が光る。

人形では文司の綱は凛々しく実直。簑二郎の若菜は前半の怪しさを秘めた女から、後半の鬼への変身が著しい。最後の綱との対決は力が入って見応え十分。右源太は紋吉、左源太は玉翔。安定感ある遣いぶり。
確かに一部は子ども向けということで困難が伴うが、本物であれば必ず届くものがあるはず。それを心に感じてほしいと念じた。

第2部 「三十三間堂棟由来・平太郎住家より木遣り音頭の段」

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通常の形と異なり、和田四郎のくだりが入るが、これがどうも座りがよくない。そもそも和田四郎の存在意義がわかりにくく、熊野権現の奇瑞を見せるだけなら、母を殺す必要があるのかと思ってしまう。

中、睦太夫、宗助。所見が千穐楽に近かったためであろうが、睦太夫は少し語尾がかすれ気味。というより、声の使い方がどうかと思えるところがある。宗助も支えているが、やはりこの場では畑物を盗んで首代に金十枚という設定がどうも不自然で、彼としては非常にやりにくいところではなかったか。
切の咲太夫、燕三は期待通り。「母は今を限りにて、元の柳に帰るぞや」のあたりの染み通るようなお柳の哀しみに打たれた。ただ切語りの役場としてはあっさり終わったとの印象が残る。奥の呂勢太夫、清治は、「心の鬼の和田四郎」の底強さや悪人ぶり、人形の動きを的確に導く。ただ、最後の聞かせ所の「和歌の浦には」のくだりが意外にも声が伸び切らなかった。

人形では和生が女房お柳、師の衣鉢を継ぎ、草木の身での母の情を見せる。
平太郎を玉男、この人も手に入っているが、今回は平太郎が目を病んでいるという設定や、和田四郎との立ち回りは見せ場本位のように思われて気の毒。平太郎の母に文昇、こうした老け役もしっかりと。みどり丸を簑太郎、無邪気さがかえって哀しみを誘う。勘市が進ノ蔵人、思慮深く実直な性根。和田四郎を文哉(前半玉勢)。
この個所だけではただ悪役としての性根がわかりにくいが、文哉は大きく遣い、平太郎の奇瑞を引き出す役割を果たした。

二つ目の演目は、『大塔宮曦鎧」明治以来の復曲で東京ではすでに5年前に上演されている。
馴染みは薄いが見応えある作品に仕上がった。「六波羅館の段」中、咲寿太夫が丁寧に忠実に語り、清馗が勘所を押さえる。まだ声の変化が不十分だが、体当たりで語る姿勢が好ましい。
奥、靖太夫は自然に流れるようになってきたが、たとえば花園の出の詞などがまだ奥深さがでない。太郎左衛門と花園の詞の応酬もあと一歩。錦糸はさすがに復曲の全体を見通した構成力。

「身替り音頭の段」中、小住太夫は抜擢だが、期待に応える堂々とした語り。勝平の糸が確かにそのあるべきところに導いたとはいえ、このキャリアでこの語りは頼もしい。
奥、千歳太夫、富助。前半、太郎左衛門の詞と地が変わらなかったり、声が届かないところがあったが、「切って替へたる末世の手本」あたりの緊張感、太郎左衛門の嘆きはさすが。富助はやはり時代物の奥の迫力と哀切を示す。

玉也の太郎左衛門、自分の孫を身替りとする哀しみを隠す気丈、玉志の右馬頭宣明、実直さをよく表し、真面目さの中の愛嬌も感じさせる。妻花園を勘弥、太郎左衛門に対抗する格がほしい。範貞を玉輝、悪の軽薄さを出した。
若宮を勘次郎、高貴さを出す。三位の局を清五郎、出はやや貫目不足か。鶴千代を和馬、力王丸を簑之、共に子役の哀れを誘う出来。

第3部「新版歌祭文・野崎村の段」中、文字久太夫、清志郎。

文字久太夫が中を担当するという贅沢。生真面目な彼らしく手堅い語りだが、小助の詞がより引き立つと面白味も増すのではないか。清志郎も手堅く支える。

前は津駒大夫、寛治。こうした語りがもっとも力を発揮できる人だろう。お染のクドキが実に映える。
寛治の糸の魅惑。後は三輪太夫、久作の強さにはっとする。段切れはこの人らしい伸びやかな美声。
團七、ツレ清公。段切れの連れ引きは寛治に敬意を払い彦六系で締めたか。

おみつは清十郎。中では女らしくしっとりと、お染が出てからはややおきゃんに、髪を下してからは凛とした姿勢で、同じ娘の3つの顔を見事に遣った。一輔のお染は、大家のお嬢様らしいおっとりとした風情と娘の恋の情熱。文昇の久松はやや大人しめで2人から恋される色気をにじませる。
久作は勘寿。いつもは婆の多い人だが、こうした白太夫かしらも人物の味を出しつつ気骨あるところを見せる。簔助のお勝は、この場の雰囲気を一変させ、背筋を伸ばさせるおのずからの威厳。玉誉の祭文売りは芝居気のあるところを見せ、簔一郎の久三の小助は三枚目の性格を前面に出すが、この人の底悪さをもう少しにじませてもよいのではないか。
下女およしは玉征(後半勘昇)が気持ちよい遣い方。駕籠屋は玉彦と勘助(後半玉路)、リズミカルな足。船頭は紋秀がたっぷり見せる。今回は婆を出さない演出と台本だが、清十郎は出の時に薬をもって上手障子の中に入るなど、婆の存在を意識させた。

最後は「日本振袖始・大蛇退治の段」
織太夫の岩長姫、謡いがかりから始まる。希太夫の稲田姫、「おいたはしい」と言われる通り。
南都太夫の素戔嗚尊は力強く語り、ツレは亘太夫。藤蔵、清丈、寛太郎、錦吾、燕二郎の、揃った勢いと怪しさ。人の通わぬ深山の不気味、燕二郎の胡弓。

紋臣の稲田姫、白無垢のか弱さと、不安さを丁寧に遣う。最後に大蛇の腹を立ち割って出てくるところは凛々しい。玉助の素戔嗚尊は大きく豪快で頼もしい。
和馬(後半簔之)の爺は基本に忠実。そして岩長姫は勘十郎の独壇場。壺の酒を次々と飲み干し、酔いながら大蛇の本性を現していく、その過程をたっぷりと見せ、飽きさせない。舞いながら酔い、酔いながらさらに舞う。その差す手引く手の危うさに、どうなることかと客は固唾をのんで見守る。

ついに本性を現し、稲田姫を一飲みにする。そこに素戔嗚の登場。石見神楽の大蛇が登場し、縦横無尽に動き、素戔嗚の奮迅ぶりを見せる。そして大団円で大きな拍手。気持ち良い追い出し。

全体として、出演者は健闘し、また良い成果を出しているが、演出がこれでよいのか、と思われた。場面を復活させるにせよ、復曲させるにせよ、なぜそれをするのか、その姿勢が明確でないと、結局思いつきのように継続性のないものになってしまう。
そして何より、千穐楽の日にようやく次回の11月公演の演目が発表されたというのは、劇場としてどうなのか。単体の公演としての成果だけでなく、1年を通して計画的に演目を配列し上演すること、さらに伝承が可能なように5年に一度程度の上演が望ましい演目があることを忘れてはならない。
そして何より、三大名作を初めきちんとした通し狂言を1年に1回もまともに出さないというのは、国立文楽劇場としてあるべき姿ではない。太夫、三味線の養成などの課題が迫っているにせよ、文楽を愛する人々のために、責任を感じてほしいと思う。

カウント数(掲載、カウント18/08/14より)

珠玉の系譜 ―2018年4月公演 五代目吉田玉助襲名披露―

森田美芽

 昨年の呂太夫、新年の織大夫に続き人形の吉田幸助が、祖父の名跡を継ぎ五代目吉田玉助となる。その襲名披露狂言は、祖父、父四代目玉助(玉幸)と受け継がれた「勘助住家」の横蔵実は山本勘助。スケールの大きい立役遣いとして期待された彼の、現在の充実と将来の可能性を十分に見せる舞台であった。

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 第一部、『本朝廿四孝』を「桔梗原の段」から。
 口、芳穂太夫、團吾。奴同士の争いから、唐織と入江の諍いまで、丁寧に語り好感が持てる。入江の憎さげなところも魅力。團吾は気合の入った三味線でこの場の導入をスムーズにした。
 奥、文字久太夫、團七。慈悲蔵の詞にあるためらい、「結ぶ栄花も夢の夢」などの詞の広がりが、自然に語れている。高坂、越名の出と4人の性格の描写も納得できる。
 先ほどと打って変わって唐織の強さにも心づかされる。團七の糸の導くところ、文字久太夫の良さが発揮された。慈悲蔵の玉男が「呆然として佇む」風情あり、高坂弾正の玉輝も落ち着いて知恵者。文司は越名弾正の金時かしらのユーモラスさで、前受けを狙わない自然体。しかし慣れぬ赤子をあやすところは愛嬌たっぷり。簑二郎の唐織は位をくずさず、一輔の入江は八汐かしらだが憎めぬ風情。

 続いて「吉田幸助改め五代目吉田玉助 襲名披露口上」
 吉田簑二郎が仕切り、玉男、和生、勘十郎の順で、新玉助のエピソードを交えた祝賀が述べられる。先の織太夫の時も感じたが、なぜ人形部だけの出演なのか、これこそ文楽座全体での祝うべき襲名であるのに。

 続いて「景勝下駄の段」織太夫が寛治の薫陶を得て語る。老母と景勝の対決などに、母の位取り、気概が見えて良。景勝との対決も、詞の中に緊張感を漂わせる。ただ景勝の詞が勢いこんで違和感が残った。

 襲名披露狂言の「勘助住家」前、呂太夫、清介。横暴な横蔵と兄に甘く弟に辛く当たる母、理不尽な仕打ちに耐える弟とその妻のそれぞれを自然に描く。しかし「捨ててしもうたか」にほんのわずかに本音を匂わせる周到な語り。息子を人質に取られ仕官を迫られてもなお母の詞に背かれぬという不自然、それだけにお種の嘆き、2人の泣く子の間で苦悩し、ついに戸を打ち破るほどの我が子への愛情を見せる、不自然を自然に納得させる呂太夫の語り、三段目の切場語りにふさわしい。かつ清介の糸ならでは、この複雑さと不自然さを納得させられないだろう。
 後、呂勢太夫、清治。雪の庭での争いから我が子に死を迫る母、それに答える勘助の正体の見顕しまで、清治の一部の隙もなく織り上げる迫力に、呂勢太夫も勘助、直江を力強く語り納める。

 人形は、まず玉助の勘助が、横暴さとその背後の知略、文七かしらのスケールの大きさを示し、決まり決まりも力強かった。周囲を固めるのは、肚を感じさせる玉男の直江山城之介、理不尽な運命の中で我が子を抱きしめようとするお種の情熱を示した和生、芯の強さと一方で兄への甘やかしという矛盾を見事に遣った勘十郎の母、そして後半は簑助がこの母の重さをしかと伝える。玉也の景勝はその眼光の鋭さを見せた。襲名披露狂言に相応しい一幕となった。

 『義経千本桜』「道行初音の旅」。静御前の咲太夫、忠信の織太夫を中心に、津国太夫、南都太夫、咲寿太夫、小住太夫、亘太夫、碩太夫、文字栄太夫が上段に、燕三、宗助、清志郎、清馗、清丈、友之助、清公、燕二郎、清允が下段に並ぶ豪華な床を舞台奥にしつらえ、清十郎の静はフシオクリの後、下手から出る。
 愛らしさと美しさ、そして義経を追う意志をもってしなやかに立つ風情。勘十郎の狐忠信が自在に動く。彼らは主従なのだ。しかしそのバランス、どちらも主張し、どちらも輝く。忠信物語の合戦を演じる、その立ち合いやよし。迫ってくる音と声の厚みと共に、花にあふれる幻想を思う、華やかで祝祭に相応しい幕切れとなった。
 
 第二部は「彦山権現誓助剣」の半通し。「須磨浦の段」はお菊を三輪太夫が安定した語りで武家の誇りと無念を表わし、内匠を始太夫に代わり睦太夫が力強く、悪の底強さを加えて語り、友平の小住太夫は大きな声が前に出て、弥三松の咲寿太夫は子供らしさも板についてきた。清友のお菊の思いに沿いつつこの悲劇に観客の心を向ける。
 「瓢箪棚の段」中、希太夫、寛太郎。独楽の博打やら夜鷹やらの庶民的な語りの世界だが、決して下卑た感じにはならないのが希太夫の語りか。節も綺麗で、詞の面白さが楽しい。寛太郎の糸は明確で若々しい。
 奥は津駒太夫、藤蔵、ツレに清公。この物語の中でも最も謎めいた背景の説明や、様々な人物の往来など、技量を要求される場だが、さすがに津駒太夫はそれらの要求に見事に応えていく。青侍やいたち川などのやりとりの面白さ、伝五右衛門とお園の短いが重要な出会い、友平の自害と気丈なお園など、聴きどころも確か。藤蔵の三味線がドラマの起伏を伝える確かさと力強さ。

 「杉坂墓所」口を亘太夫と錦吾。短くも百姓たちの詞からしっかりと六助の人となりが伝わる、衒いのない語りと素直に聞ける三味線。
 奥は靖太夫と錦糸。靖太夫は節に酔わせる力が今一つ。詞は悪くないが、地声だけで語っているように聞こえ、どうしても表現の幅が狭くなっているのではないか。しかし六助の詞など、よく勉強しているのはわかる。錦糸はやはり一段上の三味線としてリードしている。

 「毛谷村六助住家の段」口は睦太夫と喜一朗改め勝平。睦太夫は端場の格で出すぎず引きすぎず、しかし内匠の性根や老女の怪しさなど、詞で表現できるようになっているのはさすが。勝平は持ち前の明るい音がよく響き、物語の濃淡を弾き分ける強さ。
 奥は千歳太夫、富助。幼子に手をやく風情からお園との出会い、さらにお園の変化もしっかりと聞かせて、斧右衛門のくだりは笑わせたがその変化がよく伝わらなかったか。内匠が実は微塵弾正と気づいての怒りはさすがと言えた。富助、問答無用の小気味よさ。

 人形ではまず、玉男の六助が肚もあり人の好さも感じさせる十分さ。お園の和生は「六助住家」よりも「瓢箪棚」の気丈さと多面性に魅力を感じさせた。玉志の京極内匠が大健闘の出来。この敵役の造形がなければこの物語は成り立たないが、この敵役の大きさや謎めいた出自、悪の権化のような強さや立ち回りの面白さを見せた。勘弥のお菊は武家の誇りと哀れさが印象的。簑太郎の弥三松は子どもの動きと感情を最後まで見せて健闘。
 友平の文昇は忠誠心と若気の至りの性格を見せ、紋臣の惣嫁のお鹿など愛嬌を見せる。玉勢の若党佐五平は老いの哀れさをしっかりと遣い、玉佳の伝五右衛門な短い出会いのうちの真実を伝える。青侍の簑一郎、身のこなしがすっきりと見事。いたち川の清五郎は自分より大きいお園に驚く表情を手堅く遣う。勘寿の母お幸は誇り高く、勘市の斧右衛門は貧しい庶民の悲哀のにじむ哀れさと滑稽さの両面を描きだした。

 千穐楽を前に、住大夫の訃報を聞いた。
 巨星落つ。そのことについては多くの人が語るので、ここでは現状の文楽について語る。住大夫が残そうとした伝承の重さ、文楽という技芸の深さを伝えることの責任を、一人一人が感じたのではないだろうか。若手から中堅の太夫・三味線の健闘、またその成長ぶりは頼もしく思われた。
 そしていま不遇と見える人々も、必ず芸の華を咲かせる時の来るを信じ、力を蓄え、来るべき時に備えてほしい。そして国立文楽劇場、文楽協会、文楽座の技芸員すべての力を一つにして、その付託に応えるべく精進し、時のしるしを読み、これからの文楽を築いていってほしい。

カウント数(掲載、カウント18/05/05より)

愛とゆるし―狂言風オペラ『フィガロの結婚』―

森田美芽

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 「ああ、誰もみな、これで幸せになる。苦悩のこの日を、気まぐれと狂 「ああ、誰もみな、これで幸せになる。苦悩のこの日を、気まぐれと狂気の日を、喜びと幸せのうちに終わらせられるのは、ただ愛だけ」
 このモーツアルトの喜劇の歌詞の「ただ愛だけ(solo amor)」を、浄瑠璃作者の片山剛氏は「愛と赦し(amor e perdono)」に置き換えた。この一言が、この笑いと、高い音楽性と、伝統芸能の底力の集大成の本質を伝えた。2018年3月23日、大阪いずみホールでの狂言風オペラ「フィガロの結婚」の千穐楽である。
 モーツアルトの歌劇を狂言で、それに能と文楽が加わるとどうなるのか、想像もつかなかった。だがその本質は凡庸な人間のドタバタ喜劇であり、狂言や文楽への親和性は高い。すると能は?また音楽を担当するのがルツェルン音楽大教授陣によるクラングアートアンサンブルの管楽八重奏と、鶴沢友之助の太棹三味線とは、和洋の音階や楽風の差をどうするのか。しかもオペラといいながら、基本的に歌わない。アリアやカンツォーナは管楽の演奏で、狂言師のセリフと太夫の語りが物語る。それがどのような語りとなるのか。
時代は平安、江戸、現代が混然としたある春の一日、場所は京の在原平平の屋敷、作中人物はフィガロの両親のくだりを省き、より明快な設定とする。
 舞台は正面奥が八重奏団、その前に床をしつらえ、ちょうど目付柱とワキ柱のように2本の竹がまっすぐに建てられている。舞台の両端は半ば几帳で区切られ、能楽堂の橋掛かりのように使われる。それだけではない。客席側の扉すら演者の出没する空間となる。
 柝が入って口上、馴染んだ序曲の管楽による演奏。そして友之助の三味線で「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」の旋律。
 狂言、野村又三郎の太郎(フィガロ)と茂山茂のお花(スザンナ)の掛け合いで、今夜の結婚と殿様の好色ぶりが語られ、そこに殿様である在原平平(人形 桐竹勘十郎)が現れてからむという場面。殿様を語るのは豊竹呂太夫。なんと生き生きとリアルな、それでいて生々しくない語りと人形。そしてあまりに人間臭い。それでいて人間と人形が絡むのも全く不自然さがない。勘十郎の業が冴える。
そもそも狂言自体、男が女役を演じて、歌舞伎の女方とは全く異なる。女らしさというより、女という役柄に徹しているために色気ではなく自然と笑いが起こる。さらに山本善之の蘭丸(ケルビーノ)とその恋人役の茂山あきらのおあき(バルバリーナ)も登場。オペラでは女性が演じる少年ケルビーノの瑞々しさは、滑稽さにとってかわられる。
 第二部は三番叟の三味線での幕開き。友之助の手に拍手が起こる。殿様の和歌のたしなみすらない滑稽さを笑いとするのは狂言ならではの手法。だがそれを何と自然に納得させる呂太夫の語りだろう。愚かさも欲望も隠さない、ある意味最も正直な人間像を描いた。赤松禎友の奥方の舞の美しさと気品。それでいて夫への恨み、やるせない思いを秘めた、能ならではの味わい。さらにお花の小舞は生き生きとしゃれて、能舞と対比しても重々しくなり過ぎず楽しい。
 フィナーレは冒頭で取り上げた「愛と赦し」での大団円。大きな拍手とアンコールで、出演者全員と芸術監督の大槻文蔵師が舞台で挨拶する。アンコールが3度続くほど、拍手は鳴りやまなかった。
 どこがおもしろい、と言っても、それは一言では難しい。原作の持ち味を十分生かしながら、狂言という形で、狂言師の方々の演技とセリフにして何ら不自然なところがないだけでなく、狂言としての笑いにまで昇華されていた。野村又三郎の太郎(フィガロ)の重厚さと単純さ、山本善之の蘭丸(ケルビーノ)の、ある意味殿様のミニチュア版のような好色と軽やかさ、殿様のみならず太郎も蘭丸も男の単純さ、弱さ、愚かしさをそれぞれに持つ。一方、茂山茂のお花(スザンナ)のしっかり者としてのキャラクターや茂山あきらのおあき(バルバリーナ)のコケティッシュな魅力など、本行のオペラの性格をしっかりと踏まえてなおかつ狂言として高い完成度を誇る。能が入ることでセリフの少ない奥方の存在の重さや思いが伝わり、舞台に奥行を与えた。殿様が人形であることで、これが何かのパロディであること、現実離れさせてそこに現実を投影する距離が、笑いを深くした。たとえば掛け合いの中での「忖度」「文書改ざん」「そだねー」など、ライブならではの入れ事があるたびに会場がどっと沸き、拍手が起こる。私たちは古典の中にも今を見ているのだ。
 一方、本当に愛と赦しはあるのか?という思いも残る。なぜ奥方はあんなにあっさりと恨みを捨てるのだろうか。夫はまた性懲りもなく浮気を重ねそうに思える。フィガロもまたそうするかもしれない。そう思えば、確かに毒のある、含みのある終わり方かもしれない。だがそれでも、愛と赦しがなければ、次の一歩は踏み出せない。奥方と殿様はこれからどうなったのだろう、と考えさせられる面もあった。
 また、古典としての力強さも感じずにはおれない。すべての動きが滑らかで、その訓練された身体の持つ動きがもう一つの世界を作り出すのに十二分の働きをしている。この和と洋の音楽と動きの両方を統括して演出された藤田六郎兵衛師の卓越した働きにも敬意を表せざるをえない。音楽監修は木村俊光氏。音楽単体で聞いても納得できる水準の高さであるが、この舞台全体での三味線とのアンサンブルは特筆ものであろう。それを成し遂げられたのは、管楽の水準の高さと鶴沢友之助の秘めたる力にほかならない。そしてこれだけの近くて遠い異世界を持つ人びとを能の品格、狂言の笑い、文楽の自在、管楽のアンサンブルを高い見識で一つの世界に昇華しきった舞台の全体をまとめ上げた芸術監督である大槻文蔵師の手腕に拍手を送りたい。
 古典の可能性は、その身体に秘められた力のなかにある。彼らが修行を通して見につけてきたものが、新しい可能性の場で響き合いつつ、その中に閃光のように生まれる。おそらく多くの方々の支援により計画され、プロフェッショナルの手によって苦闘しつつ実現した奇跡のような舞台に出会えた観客こそ幸いであろう。この舞台に関わったすべての方々に感謝を捧げたい。

カウント数(掲載、カウント18/03/26より)

織りなす春の調べに――平成三十年初春公演

森田美芽

 八世竹本綱太夫五十回忌追善と六世竹本織大夫襲名を寿ぐ、まことに賑わしい新春公演となった。しかしその華やぎの中にもいくつかの、これはどうかと思えることが目についた。この公演の成果と意義を確かめておきたい。

 第一部の幕開きは「花競四季寿」の「万歳」、「鷺娘」。床は睦太夫、津国太夫、咲寿太夫、小住太夫、文字栄太夫、清友、喜一朗、清丈、錦吾、燕二郎。新春を寿ぐ演目の定番だが、残念ながら睦太夫の声が語りに合っていないのか、終始違和感を覚えた。津国太夫は地力を感じさせ、咲寿太夫は安定した前に出る声で気持ちよく通る。
 三味線も清友のリードで風情と清やかさが十分。玉勢の太夫が二枚目の性根があまり感じられない。才蔵の紋臣は当初生真面目さが先だったが、日を追うごとに工夫を加え愛嬌ある才蔵に仕上がった。
 続く「鷺娘」を文昇。丁寧に遣おうとしているが、鷺とも娘とも性根が中途半端に思えた。羽ばたきが不十分に見えたり、独特の浮遊感や寒さの中にも春の光を感じさせてほしいと思う。

 続いて「平家女護島・鬼界が島の段」呂太夫、清介。
 いきなり三味線なしに謡ガカリで始まり、「今生よりの冥途」が通奏低音のように響く。
 呂太夫がこの曲を自分のものとして、そこに俊寛の孤独と落剝、にもかかわらずまだ悟りきった風ではない人間の悲哀を存分に描く。これに比べ、平判官康頼は宗教に救いを求め、少将は千鳥との出会いに生きる希望を見いだす。簑助の千鳥の愛らしさ蜑詞の似合う素朴さと生命力。
 ここでは絶望の中に四人がそれぞれ生きる希望を再び見いだしてのつながりとなる。それが、瀬尾と丹左衛門に別離を命じられた時の4人揃ってと主張する覚悟となる。それゆえにこその千鳥の嘆き、それに心揺さぶられる俊寛の犠牲への決意が、自然と納得させられる語り。よろぼいながらの俊寛が瀬尾に立ち向かう時、思わず応援したくなるような気持ちにさせられる。
 「互いに未来で」は、この世に希望を持たないということだ。「思ひ切っても凡夫心」の痛ましさ、岩場に上る俊寛の悲嘆は、自分が打ち捨てられたことではなく自ら捨てたこの世への未練とも思えた。呂太夫の語りは一人ひとりの性根、一つ一つの場の心理を的確に表し、それらをクライマックスと築き上げる構成力が見事である。清介の的確な支えが要所要所の要となり、この物語の全体を見通させた。
 玉男の俊寛はすでに持ち役と言ってよい。平判官康頼は清五郎、誠実な検非違使かしらをそのままに遣う。丹波少将成経を文司、その若さ、命へと向かう自然さが品よく伝わった。蜑千鳥の簑助、この匂いたつ生命力を秘めた女性像が簑助の真骨頂。瀬尾太郎兼康の玉志、丹左衛門の玉輝は対照的な役の性根を示した。

「八世竹本綱太夫五十回忌追善・六世竹本織大夫襲名披露」

 2人だけの舞台に、八世綱太夫の遺影。口上は咲太夫のみ。このような口上を文楽では見たことがない。追善ということだけならそうだろう。
 だが、咲甫太夫の織太夫襲名とあれば、三業こぞっての口上こそ見たかった。文楽は三業で一体。歌舞伎のように家を前面に出すことにはいささか違和感を覚える。むしろ文楽座全体で喜んで参加できる形は考えられなかっただろうかと思ってしまう。

 さてその襲名披露狂言の「摂州合邦辻・合邦住家の段」は一家一門の晴れ舞台。中、南都太夫、清馗。久しぶりに南都太夫が一人で語るのを聞く。詞で人物の語り分けが不分明なところがあったが、何より合邦の親としての思いを伝えたのは年功と言える。
 前、咲太夫、清治。「面映ゆげなる玉手御前」からの、クドキと三味線に真骨頂を聞く。玉手と父の対立、母の慈悲、自然に流れる思い。まさに三味線を弾くのでなく、情を弾いているのだ。
 奥、織大夫、燕三。42歳の今なればこそ語れる浄瑠璃と感じた。力と勢い、音や節の的確さ。しかしよく映るのは俊徳丸や浅香姫や入平であり、合邦の親としての複雑さや母の無条件の情けではない。その一つ一つの場が積み重なってこの芝居の不条理さと複雑さを、一つのドラマとして主題あるものとする、それは太夫としての生涯の課題であろうが、今回はとにかく性根を違わず大団円に導く力ある語りには圧倒された。また燕三が、太夫の間を制し導き、ドラマの主調低音を作り出し、またその技巧と華やかさで酔わせた。
 勘十郎の玉手御前は前半のクドキの滴るような色気と浅香姫への狼藉までさすがに見せるが、印象に残るのはむしろ戸口に立ってじっと親たちの話を聞き、思い入れをする、そこでの玉手の寂寥感というか、孤独である。おそらくは理解されないであろうその思いを胸に佇む、そんなところにも勘十郎らしさが見える。
 和生の合邦、前半は直情で一本気な侍気質の一方で、娘が無事とわかり、ちょっと疎外感を感じて拗ねているように見えるところに、なんとも言えない愛嬌がある。後半、怒りを溜めて娘に刃を向けるところから、玉手の述懐を聞き嘆くあたりは床の勢いに押されたよう。女房は勘壽、文句なし。前半のようやく会えた娘とのちくはぐなやりとりもうまく見せる。俊徳丸を一輔、品ある姿勢。浅香姫は簑二郎、姫というより恋する女の情熱を感じた。奴入平を玉佳、性根通り嫌味のない造形。

 今回気になったのは、上手の仏壇の装置がいつもと異なり、仏像を大きく描き、その下に位牌を置いていたので、「新しい戒名も貼ってあれど」に矛盾するのではないかと思えた。
 また客席も、大数珠を持ち出すところで笑いが出るなど、こうした死者への対峙と回向という習慣が馴染みをもたなくなり、違和感を覚えているのだろうかと思った。こうした生活感の差を埋めるのは大抵なことではない。織太夫らの世代は、こうした距離感をも引き受けて舞台を務めねばならないのだと思う。

 第2部、「良弁杉由来」。
 「志賀の里の段」。三輪太夫の渚の方の奥方らしい風情とゆかしさ、それゆえ「光丸よ」の叫びが胸に堪える。小住太夫が乳母小枝を伸びやかに、腰元の亘太夫と碩太夫は面白く聞かせた。三味線は團七、ツレと八雲を友之助と錦吾。のどかさから一転しての嵐、古風な八雲もよく聞かせた。

 「桜の宮物狂いの段」津駒太夫、始太夫、芳穂太夫、咲寿太夫、藤蔵、清志郎、寛太郎、清公、清允らが並ぶ。藤蔵の三味線は音の津波のように寄せてくる。津駒太夫は一人子を失った打撃に打ちひしがれた痛々しさ、「焼野の雉子夜の鶴」の哀れさ、そこから正気ついてまた噂話を聞いての驚きなど、渚の方の感情の変化をうまく聞かせ、この場の主題を表出した。

 「東大寺の段」靖太夫、錦糸。靖太夫は語りだしから東大寺の格式、それゆえ渚の方が場違いと恐れるような雰囲気をきっちりと語る。そこから雲弥坊とのやりとりは、まだ詞が寝れていないと思えるが、非人の女への望外の情けなど、「人を助くる出家」を納得させる語り。ここも錦糸がその場を見事に立ち上げる。

 「二月堂の段」千歳太夫、富助。人形も見せ場が多い。良弁僧正は緋の法衣と品位のなかに、人にかしずかれ敬われながら、自分自身の出自がわからないという不安をにじませる。そしてようやく非人の婆とさげすまれていた者が自分の母となる、ある意味くどいやりとりを、千歳太夫は丁寧に仕上げた。
 身分の壁、気後れ、それでももしかしたらという一縷の望みが、この奇跡を生み、「そんなら、あなたが」「そもじが」で30年積もり積もった思いがはじけて泣く、ここで拍手がくるほどの出来であった。富助はこの全体を背後で統率し、弛緩なくこの場の格を作り上げた。
 和生の渚の方は、師文雀を思い出す出来。女の一生ともいうべき流転の中にも品位を保ち、母たるものの姿に迫った。良弁僧正は玉男、動きの少ないかしらもよく映るようになった。乳母小枝は紋秀、腰元藤野は紋芳、腰元春枝は玉誉、このあたりも場をわきまえた遣いぶり。花売り娘の簑紫郎は華やかに印象的、吹玉屋は勘市で吹玉を大きく見せるなどの工夫で楽しませた。亀次の船頭はやはり存在感がある。
 雲弥坊は幸助、伴僧にしてはやや前受け狙いか。弟子僧の文哉と玉翔、動かない役なりの工夫。

 最後に「傾城恋飛脚・新口村の段」。口の希太夫と團吾が簾内というのはもったいないの一言。前、呂勢太夫は寛治の糸に導かれ「京の六条数珠屋町」などをしっとりと聞かせた。
 後は文字久太夫、宗助で、孫右衛門と梅川とのやりとりにも情けのこもる出来。人形は忠兵衛を勘弥、梅川を清十郎、この二人は息の合ったところを見せ、梅川の嫁らしさも出色。親孫右衛門を玉也、落ちのびる二人を見送る姿がすべてを語る。忠三郎女房は簑一郎、動きがあって楽しませてくれる。

 さて、全体として、正月に襲名というおめでたい事が続き、客席も大いににぎわったのは喜ばしいことである。新織太夫にはますますの精進を期待する。それは彼一人にとどまるものではなく、文楽座全体にとって、文楽という稀有の貴重な存在を世に示し、輝かせるものであってほしいから。

カウント数(掲載、カウント17/02/03より)