森田美芽
2025年夏の猛暑の日々、千穐楽を無事迎えたことが奇跡のように思われる。息をすることも苦しいほどの暑さで、すべてがどうでもよくなる中で、「文楽を見たい」と切実に思った。舞台の、あの変わらない清やかな空気の中で、しばし現実を忘れたいと思った。
第二部 名作劇場は、『一谷嫰軍記』「熊谷桜の段」で始まる。靖太夫は詞がよく動くが、地になると不安定になることがある。相模の出のチン、の一撥で、その場を変える勝平の見事さ。
「熊谷陣屋の段」切千歳太夫、富助。
熊谷の出から相模とのやり取りで、次第に核心に迫る問答を続ける二人、その間、そのためらい、藤の方と対決し、物語る熊谷の詞。千歳太夫は大音声をあげるときよりも、こうした緊迫感の盛り上げ方が見事。富助もその強さを抑えて、この三者の間を支える。
青葉の笛の下りから、藤太夫、燕三。首実検の相模の嘆きが身に迫り、弥陀六のタテ詞は今少しの力感が欲しいが、メリハリを利かせ段切れまで緊張感を保った。それにしても燕三の、「十六年も一昔。」の余情の感銘深いこと。
人形では、玉志の熊谷がどっしりと重厚に、亡き先代玉男の型を受け継ぐ。清十郎の相模は、始終藤の方、夫熊谷、主君義経への配慮の中で、わが子の首をいとおしげに抱きしめる、清冽な悲しみの美しさに打たれる。藤の方の簑一郎は気品高く、一輔の義経は、より積極的な性根の表出が欲しい。玉也の弥陀六は持ち役と言える安定感と存在感、勘次郎の堤軍次は爽やかで形よく、玉輝の梶原はもう少し柄が欲しいが、捌きは確か。
『桂川連理柵』六角堂の段。前半、睦太夫が休演して咲寿太夫がお絹、長吉は前半碩太夫が代わり、後半は咲寿太夫に戻る。儀兵衛は南都太夫、三人に清馗が合わせる。
咲寿太夫はお絹をしとやかに、長吉を軽快に楽しく、表現の幅が広がった。睦太夫のお絹は淑やかさだけでなく賢明さがうかがわれる。
碩太夫の長吉は、声もしっかりと健闘したが、少し気になったのは、「お家はん」を「おいえはん」と発音したが、これは「おえはん」なのでは、と思った。それでも急な代役で、これだけ語れるのは頼もしい。南都太夫は短くとも、儀兵衛の性根と人物の軽さをうまく表現する。清馗は世話物の呼吸もよい。
「帯屋の段」若太夫、清介。「柳馬場を押小路」の語り出しから、呉服屋が軒を連ねる町の風景の中に入り込む。その背景に、嫁お絹、母おとせ、儀兵衛、繁斎、長右衛門、長吉、次々と現れる一癖も二癖もある人物が、軽やかに語り分けられる。どこにも無駄な力が入らない、
しかしその詞の運びで、どんな性格かわかってしまう。そしてこの詞が生きるのは、小川嘉昭氏が語られたように、地をじっくり聞かせるので、詞でリアルな人物描写を行っているからだ。その詞の音の確かさと間、お絹が存外強く主張する。儀兵衛の「とぶぞとぶぞ」や「これは大きに憚り様」、「あんまり阿呆らしうて角あるかりゃせんがな」などの呼吸、リズム。
大阪ことばが生きてそのまま現前している、儀兵衛と長吉のやり取りの絶妙さに笑いが自然に起こる。こうした人物が本当にいるのだ、と思わせるほどに。清介もその間を余裕で楽しんでいるように聞こえる。
後、呂勢太夫、清治。繁斎の説得、お絹のクドキ、長右衛門の術懐、これらを無理なく聞かせる。さらに「長右衛門さん、おじ様」のお半の呼びかけが切ない。清治は切っ先の鋭さというより、音が深くしみじみと迫ってくる。
「道行朧の桂川」希太夫、小住太夫、碩太夫、聖太夫、薫太夫、清友、清丈、清公、清允。
希太夫は一部の役もあるせいか、特に高音が苦し気だったが、清友のサポート、音色の美しさが光る。
玉男の長右衛門が辛抱立役の色気と中年男の苦悩を描き、勘彌のお半は愛らしい14歳だが、もう一つ長右衛門を巻き込む妖しい色気の表出を。和生のお絹は淑やかさだけでなくしっかりと自信のある主張できる強い女性。勘壽の婆のリアリティが憎めない。玉佳の繁斎は落着きと懐深さを感じる。
長吉の簑紫郎が実に楽しい。この場では長吉の悪の面より阿呆の面が強調されているが、愛嬌と底強さのある阿呆役の動きがいい。儀兵衛は玉助。こうしたチャリ系も、簑紫郎との掛け合いが生き生きと、動きも大きく映えた。
第三部.サマーレイトショーで、外国人向けに「Welcome to Bunraku!」と銘打った英語解説、「刀剣乱舞」の小狐丸の人形を使った解説とフォトセッションがあるなど、なかなか工夫がされている。
『伊勢音頭恋寝刃』「古市油屋の段」錣太夫、宗助。夏の夜のねっとりした暑さと湿気、その中で涼やかなお紺。錣太夫は手慣れているが、お紺の純情や貢の短気がよく伝わる。宗助の音色は水が流れるように自然に届く。
「奥庭十人斬りの段」芳穂太夫、錦糸。貢が次々と人を斬る必然性が、刀の妖気か、貢の恨みか、夏の夜の魔性か、そのいずれもが感じられる語りと三味線。
このような狂気を演じては右に出る者のない勘十郎。お紺の愛想づかしからの怒り、刀の鞘が壊れてからはぞっとするような狂気のさま。白絣に次第に増える血のりが、実はシールを増やしていると聞いて驚いたが、本当にそれを血と感じさせる力。
一輔のお紺は、やはり遊女というより貞女のさま。簑二郎の万野の憎たらしさと憎めなさ、玉勢の喜助は力強く気風の良い若衆、玉翔の岩次が悪い奴の性根を見せて好演。玉彦は北六で、腰巾着らしい性根。勘彌のお鹿はむしろ可愛らしく見えてしまう。他の斬られ役も若手が健闘して、スプラッタ劇なのに怖いというよりユーモラスに見える。
最後に『小鍛冶』。織大夫が稲荷明神。大声よりも明神の性格を強く出そうとする。玉助が老翁実は稲荷明神で、動きは大きく力強い、若々しい神になった。宗近は睦太夫、紋臣は少し柄が小さく見えたが、誠実で思慮深い宗近。勅使の道成を亘太夫。これは堂々とした語りで、簑太郎がしっかりと場を締めた。
藤蔵、清志郎、寛太郎、燕二郎、藤之亮の三味線が一糸乱れぬアンサンブルで、特に清志郎が印象深く、藤之亮の胡弓もよく効いた。
第三部は多くの外国人客が来場していたが、大半は日本人客である。字幕を英語で出しているが、これには不満が多い。日本語での、すべての詞や地ではなくあらすじを直訳したようで、細かい詞のニュアンスや、実際の演技の意味が十分伝わらないのではないか。刀剣ブームにことよせても、実際の文楽との結びつきが薄く、効果的な解説であっただろうか。文楽という芸能を、外国人に伝える困難が、より一層明らかにされた。
無論、外国の方々にも理解できるようにすることは必要だが、視覚優位な歌舞伎や都をどりなどと異なり、日本語の語り、それも古い大阪弁のニュアンスを伝えることは極めて難しいだろう。当然だが、文楽の日本語の世界は、現代では日本人でも遠いものである。
むしろ文楽の根源的な魅力は、情の世界にある。情を描くことが主題である。それをどうやって伝えるか、そのことにこそ真の課題があると言うべきだろう。
しかしその芸は、高齢の師匠方をはじめ、ほんのわずかな人数によって支えられている。この至高の芸術の一つは、常にその危険性にさらされている。だからいまも私たちは、大阪の誇りと人間の喜びをもってその名を呼ぶ。「文楽は大阪と日本の宝」と。




