カテゴリー別アーカイブ: 美芽の“若”観劇録

新しい物語―2005年夏公演によせて―

森田美芽

 この夏も、文楽の第一部を飾るのは「親子劇場」である。もう10年以上も続けられているこの試みを、どれほど評価してもしすぎることは無いと思う。なぜなら、この試みから、見る者から語る者へ、変貌を遂げた一人の少年が与えられたのだから。
 豊竹咲寿大夫。かれの名が、どれほどの希望を彼らにも我々にも与えてくれたことか。彼のおかげで、文楽は小学生にも、「あの人かっこいい」と言えるものになったのだから。まさに「時分の花」の恵みと輝きを舞台で発揮してくれた。その成果を第一に記したい。

第一部「東海道中膝栗毛」
 咲大夫のどっしりと構えの大きい弥次郎兵衛に、小心者の英大夫の喜多八。でも、どちらも人間の「おもろうて、やがてかなし」をにじませて。二人の掛け合い、またやりとりから自然に笑いが起こる。
 入れ事があるからおもしろいのではない。そこにわれわれ自身が笑われるような失敗や愚かさの持ち主だからだ。だが言葉も風俗も、いまの子供たちには理解しにくい。その言葉の懸隔を埋める苦心と、諦めない姿勢とが、子供たちにも届くのではないだろうか。
 津国大夫、南都大夫らの着実な語り、つばさ大夫の声がまっすぐに届く。三味線は燕二郎をシンに、喜一朗、龍聿らの健闘が光る。

 人形ではやはり勘十郎の弥次郎兵衛の表情の豊かさが印象に残る。文司の喜多八も好演。簑紫郎の仙松の愛らしさ、亀次の親父はあれも狐だったのかと余韻を残し、簑二郎の和尚もよい。

「文楽はおもしろい」後半の一輔のみ所見。人形解説中心だが、子供たちは実際に人形に触れた感触を忘れまい。あれほど目を輝かせ、好奇心に満ちた子供たちなのだ。

「小鍛冶」シンに伊達大夫、末席に初舞台の咲寿大夫。伊達大夫は77歳、咲寿大夫は15歳。祖父と孫の年齢の者たちが共に舞台を勤める。
 しかし初舞台の15歳は堂々と客席に向かう。そのハーモニーの力強さ、生命力を、子供たちはどう聞いただろう。
 また三輪大夫の品ある確かさ、咲甫大夫の頼もしさを。三味線は団七に二枚目の団吾、師の二枚目を勤める団吾のきっぱりとした絃があやなす空間。

 玉女が稲荷明神を大車輪で遣う。左の玉志、足の玉勢との絶妙の、一糸乱れぬそのコンビネーション、同じ師に遣え、鍛え抜かれたその確かなリーダーシップを、いま、玉女が受け継ぐ。
 勘弥の三条小鍛冶宗近、上品な検非違使かしらの動き、清五郎は孔明かしらの勅使の落ち着き。

   第一部は一度しか見ることができなかった。しかし子供たちの反応を見ながら思った。彼らは気づいているだろうか。彼らの聴いたことのない日本語の深さ、彼らの理解できないところにこそ、見てもらいたい真実なものがあることを。
 そしてこの試みには、大阪市も市内の小・中学生を親子で鑑賞できるよう毎年補助を行なっている。
 時にその成果が不十分といわれることさえある。それにも拘らず補助を続けてきたことは大阪市の見識であり、歴史都市としての品格を作る壮大な作業としての意義付けがあるからである。
 財政難の折ではあるが、こういう試みは是非続けてほしい。そして劇場の関係者にとっても、舞台を勤める技芸員の方々にとっても、創造することは伝承することとは別の困難がある。
 その苦難を乗り越えて舞台を作り上げていかれる人々に敬意を表したい。

第二部「桂川連理柵」の通し
「石部宿屋の段」、文字久大夫、ツレ相子大夫、三味線清友、ツレ清馗。
 文字久大夫はまだ人物の語り分けが少し不十分に思える。お半の秘めた思いにもう一つの深みが欲しい。
 だが彼が語る伊勢下向の旅路は、その風情が見えるように思えた。日和の中、伊勢参りを終えて安堵して歩む人々の足取り、その地名に読み込まれた懐かしさを感じさせるものがあった。清友はそうした彼の持ち味を十分に引き出した。

 「六角堂の段」、千歳大夫、清治。まず儀兵衛と長吉の詞の巧みさに心惹かれた。お絹の複雑な思いと、それと知らせず夫のために働くいじらしさ。
 紋寿のお絹はしっとりと、内面に激しいものを備えた旧家の嫁である。

 「帯屋の段」、前、嶋大夫、清介、後住大夫、錦糸。前半のチャリと後半のしみじみとした情味の対比。
 玉男の長右衛門と簑助のお半が圧巻。この二人には、言葉を失ってしまう。
 14歳という少女の危うさ、男の迷い、この二人なら、ありえないと思う過ちも起してしまうかもしれない。
 簑助のお半には、人を誘惑する力がある。
 そして玉也の儀兵衛、自分では抜け目ないつもりの、憎めない小悪役も見事。
 清之助の長吉、阿呆とはいうものの、刀をすり替える策略といい、単なる笑われる三枚目というだけではない魅力。
 紋豊の婆、憎らしい反面、なぜか同情してしまう。彼らはいずれも役柄が生き、呼吸している。

 「道行朧の桂川」津駒大夫、文字久大夫、寛治を中心に、道行の華やぎと夏の終わりのわびしさを感じさせる。
 玉女の長右衛門は確かに、中年期の迷い、かつての罪を胸に秘めている男の影がある。

第三部「摂州合邦辻」
 「万代池」が大阪で出ることは珍しい。だが大阪でこそ、その浄瑠璃の持つ場所の力が生きて輝くはずではないか。
 現実と虚構のはざまで、いまも文楽劇場からほんの目と鼻の先に、閻魔堂も月江寺も万代池も存在するのだ。
 しかしその場所性を踏まえた魔力を今回はあまり見出すことが出来なかった。
 ただ、合邦の教化の「六拍子揃えてわが身を見れば、さながら四季の物狂いよの」「今は心も乱れ乱れて」が、後の玉手の狂乱を暗示しているように思えた。
 文雀の玉手は、自分を殺させるため、どう振舞えばいいかを計算して演じているような、そういう理の勝った女丈夫である。
 簑助の玉手なら、確かに彼女自身が恋に迷っているのではという、そういう錯覚を起させた。言ってみれば、観客をも誘惑したのである。
 文雀の玉手は、そういう意味ではきわめて一途な、潔い玉手である。わが身の物狂いを装って父の手にかかって死ぬ、そのことが俊徳丸をはじめ多くの人の救いとなるという、「万代池」の主題が見事に現実化される。
 文吾の父性の情にあふれる合邦、控えめで娘をいとしむ母に玉英、和生の俊徳丸はあくまで大名の子の品格を保ち、清三郎、和右の浅香姫は可憐、勘緑と玉志の入平はきびきびとして好演。

 「万代池」では浅香姫の南都大夫、合邦の新大夫がそれぞれによく人物を表し、松香大夫は俊徳丸の無念をしみじみ聞かせた。
 呂茂大夫と希大夫の若々しい声がよく揃って美しい。
 師匠を代演した喜一朗の生き生きとした響き。「合邦庵室」の中を呂勢大夫と清志郎がテンポよく聞かせ、綱大夫は玉手のくどきに年功を見せる。
 「ヲイヤイ」にもいくつかの型があるのだろう。二つ目にアクセントを置くのと、だんだんにクレッシェンドする型と。
 十九大夫は後者で、父の無念を、娘を誤解したことへの悔いを強く現す。段切の富助の三味線の見事さ。

 千穐楽、彼らはその役を手放す。
 彼らの手を、声を通して具体化した、それ以外ではありえなかった役を。
 彼らは公演ごとに、短い生と死を繰り返す。舞台という、彼らがそこでだけ人々にすぐれて生きた証を作り出す場所で。
 そして出会う。その生命の強靭さ、豊かさ、86歳と15歳の生命を共に包み込む舞台の力の大きさを。その輝きをいとおしむ。

 始まったばかりの15歳の新しい物語がどのように刻まれてゆくのか、それはどのような物語を300年のうちに紡いでいくのだろうか。
 一つの舞台は終わる。そして新しい物語が始まる。それを生きる限り、見つめ続けて生きたいと願う。

運命の序曲――素浄瑠璃「摂州合邦辻」

森田美芽

 運命とは、人がその意志で選ぶより深く何ものかによって選ばれていること。それを自覚することは、人が逃れ得ない運命に自己の意志で立ち向かい、その闘いの中に自分の人生の意味を見出すことではないか。英大夫にとっての「合邦」はそんな浄瑠璃ではないかと思えてならない。
 2005年3月18日、大槻能楽堂、「英大夫の会」。
 ゲスト、桂雀松。
 英大夫、清友の「合邦住家の段」。祖父若大夫の名を継ぐべき名作を、東京での成功を携え、満を持して披露する英大夫の意欲を十分に、そしてその成果を十二分に感じた。

 まずゲストの雀松とのトークで場をほぐし、続いて雀松の「替り目」(上方では「酔っ払い」?)。
 落語の笑いとは、なんと暖かく、人の心の機微に通じていることか。誰も傷つけず、誰も泣かない。そんな笑いに満たされる喜び。今の世は人を傷つけ人を笑いものにする悪意に満ちた笑いが多すぎる。
 本来の笑いは、誰でも思い当たる自分自身の弱さを相対化できるユーモアから生まれるものだと思わされる。雀松がさりげなく、確かな実力を発揮して、こうした雰囲気で会場を包み、次に待っている悲劇のドラマに心を向ける上で、よい備えをしてくれたと思う。耳から入る言葉の密度に耐える備えを。

   「しんたる夜の道」暗闇の中に運命の交錯。
 英大夫は緊張の面持ち。その緊張が、闇の中を行きかう玉手、入平、母、合邦、それぞれの思いを照らし灯火のように浮かび上がる。
 玉手は死ぬためにここに来ている。入平は主人の浅香姫と俊徳丸を守るために、玉手御前の様子を窺う。母は死んだと思って回向している娘が生きて帰ったかもしれないという思いに驚き、父は義理のために娘を許すことができない。この前半、特に娘を思う母と義理に生きる父の論理の対比が見事であった。
 この父の骨太で廉直な気質が、娘を可愛く思いながらも許せないということを納得させる造形であった。これが、後半で娘を殺すにいたる悲劇を作り出す。対照的に母はひたすら娘の命を惜しむ。
 何よりも二度と会えぬと思っていた娘が生きていたという喜び、何とか父の手前娘をかばおうとする必死さ、出家させてでも生きながらえさせようとする一途な母性愛が、もう一つの物語の芯になる。

 そして玉手御前、「面映げなる・・」からのくどきの見事さ。それは父と母の世間の論理に対する、生きた女としての思いを表わしているからにほかならない。
 ここまでの父と母が丁寧に描けているからこそ、玉手御前の道ならぬ恋への父の怒りが共感されるのだ。

 後半、俊徳丸と浅香姫の登場。俊徳丸はすでに悟りを得た者のよう。しかし義母の仕業と知り、無念と義理の間で立ち尽くす涙。その思いを代弁する浅香姫、そして玉手の乱行。
 清友の三味線がこの場を盛り上げ、手に汗握る思いにさせる。
 「堪えかねて駆け出る合邦」、その、父が娘を愛するゆえに自らの手で殺さなければならないという嘆きと痛みの痛切、「これが坊主の」に響く因果、この合邦という人物の負わなければならなかった痛みをこれほどまでに感じるとは。

 苦しい息の下から、玉手御前の必死の物語。人々が納得しても、なお娘を許さない父。そして「オイヤイ」に爆発する力。
 小佐田定雄氏も言われたように、これこそ彼が若大夫から受け継いだ血の運命であると感じた。その中に、玉手御前という複雑な存在に込められたものと同じ何かを感じた。

 「寅の年寅の月寅の日寅の刻に誕生したる女の、肝の臓の生血を取り、毒酒を盛ったる器にて病人に与える時は、即座に本復疑いなしと、聞いた時のその嬉しさ」に込められた玉手の思いには、いつも複雑なものがある。
 この日は、自分の命を与えることで、密かに思う人を救うことができるというカタルシスが強く感じられた。この玉手は、俊徳丸を思っている。しかし結ばれることによってでなく、男を生かすために自分が死ぬことによって成就する恋。
 くらくらと全身を貫くエロスとタナトスの交錯。もし彼のためと家のために死ぬのでなかったら、彼女はこうはしなかっただろう。
 死への衝動。彼女の生のなかに穿たれた死の暗黒に、共に足を取られていくような眩暈を感じた。
 近代的な意識のなかの恋愛ではない、もっと根源の思い、人が人に惹かれる、結びつくという、もっと激しく強い、心と体の奥底から生まれる呼び声のような思い。英大夫の玉手御前は、お辻という固有名詞の一人の女性ではなく、「合邦が辻」の伝説、土地の生み出した物語の象徴そのものである。
 それは、家族、血の絆という、だれにも断ち切ることのできない、運命という絆の重さである。私たちが意識するもっともっと以前から、私たちの中に伝えられている、太古のDNA、あるいは言葉になる以前の言葉、意識となる以前の物語を。

 文楽の三大名作(忠臣蔵、千本桜、菅原)を近代的な意識で解釈のできる作品とすれば、「合邦」はそれ以前の人間観や世界観の混交、意識以前、無意識の世界に属し、かつ仏教の世界観、つまり彼岸がこの世と隣接していたという意識の中に生まれた作品である。
 それは、我々の時代の言葉で語ることのできない物語の世界であり、私たちはそれを分析することはできても、理解することはできない。ただ感じ、共有するのみである。
 しかしその中から、思いもよらない私たちに深く根ざすものに向き合わされる。

 「合邦」の奇跡と呼ぶべきものはそこにある。
 それは私たちの日常に穿たれた楔のようなもの。私たちの中で普段は押し殺している原始の感情が、情動が、言葉にならぬものがその裂け目からほとばしる。
 それが日常の時空の中に繰り広げられ、私たちがそこに身を置くことができるという奇跡と出会っていることなのだ。英大夫の運命の曲はいま始まったばかりなのだ。入門から30数年を経て、彼は自らの原点を作り出した。浄瑠璃は私たちの共通の運命を見出す物語であり、そこで私たちは、自分であることの始まりに出会うのだと。

水、いのち、揺らぎ――「舞踏の源流 文楽」大阪倶楽部

森田美芽

 鮮烈な感覚が五感を襲う。
 言葉が、音楽が、身体が、声が、人形が、色が、それぞれの固有の表現を通して迫ってくる。見えなかったものが見え、届かなかったものが届く。感動という言葉を簡単には使うまいと思う。
 しかしこの日、新たに目覚めさせられた感覚を何としよう。古典を現代に発見し、息吹を吹き込む制作者伴野久美子による新しい企画「古典の新芽シリーズ」第1回は、各界の精鋭を巻き込み、新しい感性の世界を展開する試みとなった。

 第一部は、まず谷川賢作の作曲・ピアノ、由良部正美による舞踏「minimal」。
 谷川俊太郎の詩の魅力の一つは、珠玉のような言葉に溢れる生命感と透徹した悲しみの感覚である。谷川賢作のピアノは、ドビュッシーの「沈める寺」あるいは「葉末を渡る鐘の音」「金色の魚」を思わせる。それは、由良部の舞踏表現においても、とりわけ水に関わる部分が耳に残ったせいかもしれない。
 「おだやかに流れる河/こうべを垂れて見送る木々」あるいは「耳に流れこむ/言葉の/濁流」といったことばが、暖かい、雨上がりのしっとりした空気のような感覚で包み込む音色となり、それを由良部が受けてする舞踏の、細やかで止むことのない動きの中に受肉する。
 由良部自身の言葉でいえば、体の重心を絶えず移動させる動き。それは自らの身体を楽器とする働きであると。事実、音の持つ記憶が身体と重なり、あたりを包みこんで空気となる。
 そのなかで鍛え抜かれた身体は、自らを素材に自在に、しかも深く統御されて動く。
 私が私として生きている言葉の深みのように、表現する者とされるものは一つではない。自らの身体をもって描く者は、自分を客体として世界に投げかけ、再び世界からその意味を受け取る。

   そしてその身体は皮膚を通して外界とつながり、「老いた舌/痒い皮膚/ゆらぐカラダ 口は/水を含んで/なお渇く」と自らが異なる存在であることを嘆く。
 しかし「雲の調べで/木々の/和声で いつかやむ/心臓の/韻律 だが歌は続く/君を/讃えて川底に/流れる/水の旋律」で、穏やかに自然のリズムと溶け合い、調和していく。身体が詩を語ることは、「言葉の/空しい/求愛」ではないのだと。

 続いて、桐竹勘十郎、勘弥、紋吉により、「日高川入相花王・渡し場の段」の人形遣いの動きを人形なしで見せる。
 人形のない人形遣いの、目的を失ったように見える肉体が、見えない胴串を握り、首を遣う。足のない人形の足音が力強く響く。重心を失った肉体は解体せず、習い覚えた動きの中に自分を見出す。
 普段は人形の蔭で自らを殺す肉体そのものに触れて、その洗練と自在さに驚きを覚えた。義太夫は英大夫、清友。

 その最後とかぶさるように再び舞台に登場する由良部。
 白塗りの、ほとんど全身をさらして、身体そのもので表現するコトバは、土方巽の「病める舞姫」。
 英大夫は以前、建畠晢の現代詩を義太夫節で語るという試みをしたが、そのとき彼は、詩の物語を文楽の登場人物に当てはめて語りを作った。
 その手法が生かされ、難解な詩は対話の物語となり、清友は余情を残す三味線で支えた。
 言葉で語ろうとして語りえない、身体でしか語れない秘密。しかし外界はそれに無関心に、あるいは興味本位に過ぎていく。
 死とは身体の滅びるところ。私の存在がすべて無になる時。由良部の身体は、極限までその動きを支え、もはや言葉の届かない、身体そのものによってしか伝えられない一つの感覚をわれわれに共有させた。
 背中と太腿と肩、その純粋な筋肉の律動。大地から離れようとし、また近づく足裏。男から女へ、寸感的に性を越えていく動き、一人が二人に、私があなたに、そこに一つの共通の基盤のようなものを感じさせつつ、彼は彼としてそこにいる。こんな身体表現があるのだと、目もくらむ思いで見つめていた。

 休憩ののちのトークタイムは、喜多流シテ方の大島衣恵。
 言葉、語り、身体表現のすべてを総合する能楽師で、しかも若い女性を抜擢した伴野氏の見識は見事。
 先ほどの由良部の言葉も、英大夫の言も、彼女の司会で引き出された。こうしたトークにありがちな単なる内輪話や楽屋落ちで終わらせなかった彼女の功績を評価したい。

 最後に文楽「日高川」を人形入りで。勘十郎は無論、左も足も生き生きと動く。そしてこの短い場でも、勘十郎の実力は冴える。人形を知り尽くし、その表現を追及しようとする彼ならではの迫力と動き。清姫の両肩を見せ、片袖を脱ぐ。一枚板でしかない人形の身体が見える。しかし彼はその中に、清姫の絶望と思いの全てをこめる。
 川に飛び込み、蛇体に変じる。銀鱗の衣装に変わり、がぶの首できまる。全てのことばを越えて、言葉を集約する動きに変わる、その鮮やかさが人形遣いの身体の言葉である。英大夫の伸びやかな一声で舞台は終わる。今日の力の全てがここに集約される。
 忘れてはいけない。普段なら金屏風を使う床には、鮮やかな伴野氏の背景。そこに、記号となる以前の感性を萌えたたせようとする彼女の意図を感じずにおれなかったことも。

 なんという充実、言葉と身体の極限の格闘であったことか。この舞台を作った全ての人への感謝を惜しまない。
 さらに一言。大阪倶楽部は、都市としての大阪の持つ、格と歴史と趣味の場である。そこでのこうした試みは、大阪という街の過去と未来をつくる試みであり、大阪の文化の新たな一歩として評価されるべきである。
 また、出演者を囲んでの晩餐会の食事を供した花外楼にも、こうした形で大阪の文化の深さと創造の試みを支えてくれたものとここに記したい。

ゆるぎなき絆――2005年正月公演

森田美芽


 この年になって、新年の意味を考えるようになった。もうあと何度、このような正月を迎えることが許されるだろうか。新年には1年に一度、古い年を忘れ、新しく始めるという厳粛さがある。誤り多い日常を清め、再びやり直すことによって、淡々と続く時間を再び洗い直す、そのために年末年始の慌しい大掃除や年賀状書き、お節料理といった儀式が必要なのだと思う。
 幕開きの三番叟を見たのも久方ぶりである。それが舞台を清め、神に向かうという意味をもつ儀式であることをしみじみと感じた。1年の、1日の始まりを大切にすること、それは時を刻む私たちの生に、なくてはならないことなのだ。そうした思いの中に、新春狂言のはなやぎと緊張が交錯する。
 女は誘惑されたのか、それとも誘惑したのか――『刈萱桑門筑紫いえづと』「守宮酒の段」を見たとき、眩暈のような感覚に襲われた。見詰め合う二人。それぞれに使命をもって。だが女はそうした陰謀を知らない。自分を手放そうとしない厳格な父の娘として、使命を忠実に果たそうとするだけである。20歳で処女の彼女には、赤い振袖はいささか不釣合いに見える。神に聖別されたものとして、男女の仲には無知であるが、肉体は成熟しているという危うさと誇り高さ。かたや、忠義のために女を誘惑することを命じられた名うてのドンファン。そこに守宮酒という媚薬。女は守宮酒のために、自ら男を巻き込んでいく。ここではむしろ、女が男を誘惑しているかのように見える。男はしてやったり、という風情は見せない。むしろ女に引きずられるように関係を持つ男。誘惑するはずがされる側になる。それを見守る橋立。
 宝玉が黒く変じ、身の潔白を疑われたゆうしでは鏑矢を突き立て自害する。神に仕える身で易々と身を委ねたことへの申し訳か、自分の誇りのためか、父への裏切りの詫びのためか。彼女は厳格な父に生涯夫を持たぬことを命じられ、それを自分の運命と信じている。20歳を過ぎても処女の、一方で父に逆らえぬ素直さ、悪く言えば幼稚さと、それとうらはらの成熟した肉体、密かに男を思うことがあっても、それをどう表わしてよいのかわからないおぼこさとのアンバランス。守宮酒での媚態は、酒のせいとは思われない。彼女の抑圧されていたもう一つの自分が目をさます。
 娘を妻の身代わりのように自分の手元におきたい父、娘が成熟して大人になり、ほかの男のものになることを許せない。娘を愛する父のエゴイズムと寂しさを感じさせる新洞左衛門は文吾が好演。
 和生のゆうしでは、もはや赤の振袖の似合わぬ年ごろの娘のファーザーコンプレックスと危うい自我、父と娘の絆を強く感じさせた。
 ゆうしでの自死に、女之助は変化する。勘十郎の女之助。彼は根っからの誘惑者ではない。恋しているときには真実な思いであっても、新しい恋を見つけるとそれが真実と思い込む、結果として女を誘惑しては捨てることになる男ではないか。そしてその頼りなげな風情、一見潔く見えるところが、女たちの母性本能をくすぐるのではないか。その彼がゆうしでの一途さに心動かされ、汚名を返上するべく守宮の血を腕につけて誓うところは色男ぶりが光る。
 監物太郎夫妻は勘緑と玉英、腹に一物の難物をよくこなしている。
 中の文字久大夫、清志郎。複雑な物語の構成を説明するこの冒頭の部分は、不在の人物と権力関係を理解させるのが難しい。文字久大夫は人物の描写はずいぶんよくなったと思うが、こうした箇所はまだまだ彼にも難関である。清志郎の舞台には、いつもすがやかな緊張感がある。途上なれど精一杯ぶつかっていこうとする気迫と熱意が、いつも彼の舞台に清涼な美しさを与えている。
 切は十九大夫、富助。宮守酒を飲まされてからのゆうしでの乱れから新洞左衛門の嘆きに至るまでの息もつかせぬ見事さ。時代物の格を表わす。

 『天網島時雨炬燵』原作の割り切れなさがむしろ純愛と人の弱さの中の真実に裏打ちされているのに対し、見た目本位の改作の面白さとわりなさに満ちている。あざといまでの趣向、
 中、咲大夫のはずむような詞の呼吸の一つ一つに、いまさらながら字幕の限界を知らされる。字幕で意味はわかっても、それが物語の人物や感情を無機質の文字から読み取るのは不可能である。咲大夫の語りで、そのすべてが一目瞭然である。燕二郎はその言葉の一つ一つに輝きと陰影を添える。伝界坊の幸助のちょんがれ節の軽妙、太兵衛の俗悪、翻弄される治兵衛の無力がいたいたしくもはがゆい。
 切、嶋大夫、清介。おさんの女の義理ににじむ涙と、それでもこの男との絆を失いたくないという切なさ。着物を洗いざらい質に入れても、義理を果たす方を取る、そうして戦うほかはない悲しさ。
 奥、千歳大夫、清治。小春の登場、阿呆の丁稚の祝言が水杯という皮肉、そこにおさんが尼になったという知らせが届く。義理に迫られても、時の過ちであっても、死ぬほかはない二人の悲劇。だが、玉女の治兵衛、清之助の小春、この気品と汚れなき女の真情を、近松の原作でこそ見たいと切に願う。

 『戻籠色相肩』「廓話の段」。江戸と大阪と京、それぞれの廓の色模様を語る、晴れ渡った空とのどかな日和、英大夫は骨太の浪花次郎作、三輪大夫はすっきりとした吾妻与四郎 、呂勢大夫は愛らしい島原のかむろ、人形はそれぞれ和生、勘十郎、文雀。いずれも水準以上の出来。力のあるものが余裕をもって取り組む時の安心感が床にも人形にもただよう。
 『七福神宝入船』 三味線の芸づくしの楽しさ。団七の三味線の華やぎと手堅さ、琵琶に模した音色、中堅どころの人形陣の手ごたえ。理屈ぬきに楽しめる一段。
 『伊賀越道中双六』「沼津の段」住大夫、錦糸の独壇場。それに玉男の十兵衛、簑助のお米、文吾の平作。貧しくとも義理を立てる庶民の悲劇。
 平作の悲劇に引きつけられた。正直と廉直、底辺に生きながら人の誇りを忘れない、それゆえ命がけで義地を果たそうとする父と、その父の気性を受け継いだ生き別れの息子が出会う。ようやく会えたというのに親子と顔を合わせ名乗ることはできない、武家社会の義理の惨さが浮かび上がる。幕切れ、池添の作る火花が、親子の名残をほのかに照らす。それを後にする十兵衛の嘆き。このように、黙って死んでいく庶民の声がどこに届くのであろうかと思わされた。簑助のお米、門口でもの思いの風情は他の追随を許さない。
 『恋娘昔八丈』「城木屋の段」、伊達大夫、喜左衛門。この語り口に脱帽。切、綱大夫、清二郎。騙される側の人の良さと騙す側、それにつけこむ丈八のキャラクターが生きる。
 「鈴が森の段」津駒大夫、寛治。お駒の哀れさと周囲の人々の嘆き、好奇、同情、恐れ、それらを巧みに語りこなしている。あわや処刑かと緊張ののち、才三郎が現れ八方丸くおさまる。
 番頭丈八を簑助が遣う。余裕を感じさせるほどのチャリの表現が忘れられない。
 玉女の才三郎、このところ色男役が多いが、これも前半の頼りなさと後半の凛々しさが対照的。玉也の庄兵衛、女房の紋豊、よき一対。紋寿のお駒は、ひたすらあわれな、恋のために全てを捧げる健気な娘である。

 今年の正月の狂言立ては、あまりにあちらこちらに心が惹かれて、一つを味わって後すぐに次の話にと頭を切り替えることができなかった。それほど一つ一つの舞台は充実し、完結した世界をもっていた。
 ベテランも中堅も若手も、それぞれに見えない火花を散らすように、その芸を競い合った。一度見た作品も、初めての芝居も、それぞれに見えるものと聞こえるものが届き、飽きることがない。年を経ても古びない、時の試練を経て磨かれ、ますます真実へと近づき行くもの、過去と未来を結ぶゆるぎない絆を作り出すもの、見る者にも演じる者にもそれを新たにされた1月であった。

死の闇を越えて――2004年11月「仮名手本忠臣蔵」、12月「ゴスペル・イン・文楽」

森田美芽

 この1年もまた文楽と出会い、それを見つめ、そこから湧き上がるものを感じられたことの幸いを思う。
 とりわけ、大阪の文楽劇場20周年の締めくくりとしての「忠臣蔵」と、阪神大震災10周年を迎える神戸に捧げられた「ゴスペル・イン・文楽」に、この1年の総決算ともいえるものを感じた。

忠 臣 蔵
 忠臣蔵の主な事件は宵から薄明にかけて起こる。愛も欲も、忠節も親心も、迷いも絶望も、「人の心の奥深き」という9段目の枕がそのすべてを語っているように、単純な仇討ち劇ではなく、人の心のもたらす偶然の積み重なりが人の運命を狂わせる。昼の明かりはそのもつれた悲劇を照らすばかりである。
 忠臣蔵の主題は、偶然の必然の中に投げ込まれた人々のやるせなさであり、取り返しのつかぬ運命を自らの死で決着させる人々の生き様である。その重さは、私たち自身が自分の人生を生きようとするとき、自分自身に向けられる思いと重なり、「忠臣蔵」という物語の独自の重みを作り出している。
 「大序」 希大夫の溌剌、靖大夫の正直、呂茂大夫の誠実、芳穂大夫の工夫、三味線は龍爾、寛太郎、龍聿、清丈それぞれ聞くべきものがあるが、清丈の音に落ち着きが加わったのが頼もしい。大序はいつも若手の最初の試練である。それを正面からぶつかっていく彼らは、次の時代への希望を感じさせる。
 印象的なのは次代を受け継ぐ旗手ともいうべき人形の3人の対比である。悪の権化としてこの物語を成立させる高師直を勘十郎、血気さかんな正義感の強い凛々しい若狭助を玉女、第三者でありながら巻き込まれていく悲劇の主人公塩谷判官を和生。見えない火花が飛び散る。

 「恋歌の段」 津国大夫、南都大夫、文字栄大夫、それぞれの役どころが生きて響くのはさすがである。津国大夫の師直は物欲と権力欲を体現し、南都大夫の顔世は夫を思う貞女。喜一朗は手堅くという以上に先輩たちをまとめる。簑二郎の顔世、板ばさみの苦悩の似合う武家の奥方。
 二段目、「本蔵松切の段」、英大夫、喜左衛門。若狭助の苦悩、加古川本蔵の忠義と父性、地道な説得力、悲劇の序曲。玉女の若狭助、若くとも彼も領主の風格。
 三段目、「下馬先進物の段」、咲甫大夫、清馗。薄明の中に繰り広げられる腹の探りあい。血の繋がりの深さと重さを共に担う兄弟の健闘。咲甫大夫の浄瑠璃が色鮮やかに広がる。加古川本蔵と伴内のやりとり、その印象深いこと、とりわけ玉也の伴内の足の軽やかさに、この人の新しい魅力を見る。

 「腰元お軽文使いの段」、三輪大夫、団吾。簑助のお軽の愛らしさと息遣いを生かしたのはこの2人。「おかぼう、おかぼう」の微笑ましさも。しゃれた軽みとその中の深さを伝える。お軽は勘平に会いたいがために文を運んだ。偶然の積み重なりが悲劇を生む、もうひとつの緊張も感じさせる。
 「殿中刃傷の段」、伊達大夫、清友。師直の怒りを受けることになった塩谷判官の無念を納得させるのはこの人をおいてない。紋秀の茶道珍才が、権力に逆らえない者の悲哀を感じさせる。
 「裏門の段」、呂勢大夫、清志郎。勢いある一段を一気呵成に仕上げる。紋寿の勘平に初めて強い意志を感じる。
 四段目、「花籠の段」、千歳大夫、清治。沈痛な面持ちで再び顔世、薬師寺の一徹さと九太夫の抜け目なさの対比が見事。千歳大夫の成長がうかがわれる。

 「判官切腹の段」十九大夫、富助。「雨だれ」と称される二の糸の響き、そして沈黙。仮にも一国の主が、理不尽にも切腹させられるという怒りと無念を共有する一段。玉男の由良助にすべての期待が集まり、そしてそれを遂げる見事さ。

 「城明渡しの段」、相子大夫、清丈。由良助の無念は玉男の独壇場。復帰の相子大夫は気合の一言。
 五段目、「山崎街道出会いの段」、新大夫、喜一朗。新大夫の将来性、スケールの大きさを感じる一場。
 「二つ玉の段」、松香大夫、団七。定九郎の勘緑、形もよく決まりも大きいが、ほとばしる悪の魅力の造形がほしい。余市兵衛の哀れさ。
 六段目、「身売りの段」、津駒大夫、宗助。人妻となったお軽のけなげさと哀れをしっとりと聞かせる。婆とのやりとりも上出来。
「勘平腹切の段」、綱大夫、清二郎。ほんの一瞬の迷いで面目を失った勘平は、その気後れから死に急ぐ。婆の嘆きとそれゆえの誤解、問い詰める薬師寺、その緊張からの展開が自然に流れる。紋寿の勘平は出色の出来といってよい。この、運命に流される色男の悲劇を、その思いの切なさまで描ききった。
 七段目、「一力茶屋の段」綱大夫の由良助、嶋大夫のお軽、英大夫の平右衛門、三味線は清介。由良助と九太夫の、遊蕩のなかの腹の探りあい、男の色気と真剣勝負の魅力。お軽のじゃらじゃらした色気は嶋大夫がたっぷりと聞かせる。そして英大夫、勘十郎による平右衛門のさわやかさと血気、これが由良助の大人の泰然たる風情と見事に対比され、間のお軽の悲劇が際立った。三人侍、亭主、伴内、それぞれに印象深いものが残る。
 八段目、「道行旅路の嫁入」 シンは津駒大夫、呂勢大夫、三味線のシンは寛治。完璧としか言いようのない清之助の小浪、それを見守る文雀の母戸無瀬、その美しさと風情、これ以上は望めまいと思った。
 九段目、「雪転しの段」この段全体に謎かけのような深さが感じられる。文字久大夫、清志郎は力演だが、「風雅でもなく、洒落でなく」の面白みにはいまひとつ。

 「山科閑居の段」、住大夫、錦糸。後咲大夫、燕二郎。終わってみれば「人の心の奥深き」を納得できる。咲大夫の充実を感じる。
 今回の「山科」の成功の第一は、文吾の加古川本蔵である。部下として主君若狭助を思う忠節、娘の幸福を願う父としての思い、そして武士として塩冶判官の無念を作り出したという悔い、そのすべてを余すところなく描いた文吾の本蔵の確かさが、由良助らの忠義を裏側から支える人の情の論理である。

 「光明寺焼香の段」三輪大夫、咲甫大夫、つばさ大夫、芳穂大夫、団吾。一日の長さを気持ちよく締めくくってくれた。

  「忠臣蔵」は死を巡る物語である。その忠義も愛も、3人の切腹、死にのみ急ぐ人々、残された者たちの嘆き、死と再生ではない、再生など信じない滅びの美学に収斂されている。
 人はどのようにその終わりを迎えるか、でその生涯を測られるという世界観。超自然的な解決や救いなど信じない、あまりにもリアルな現実の論理と、死によってしか報いられない、許しをもたない世界の哀れさが胸を貫く。
 10時間を越える一日の長さも、その一場面一場面の重さも、見る者には無論、演じる側にも限界まで消耗させる。あらゆる意味で、その時点での三業の総力を測られる狂言である。その役割で、彼らがどのように評価されているか、その序列が一目でわかる。
 それゆえ彼らは全力でその時の役に立ち向かおうとする。その果てに、芸の階梯を一段階上る人もいるが、逆にこの舞台で全力を使い果たし、燃え尽きたとしか思われぬ人もいる。6年前の緑大夫の「花籠」相生大夫の「二つ玉」、そしてついに聞くことのできなかった4年前の呂大夫の平右衛門。鶴沢八介の本公演の最後の舞台でもあった。
 闇の深さを思う。人が避けることの出来ない死の重みが重なり、その重さがしばし私を立ち止まらせる。文楽が担っているもの、それを受け継ごうとする試みは、人の命をすり減らし、限界まで追いやるに値するものであるかと。

ゴスペル・イン・文楽  明けやらぬ闇の中に下り立つ光がある。カトリック神戸中央教会の、震災10年目の再出発に捧げられた「ゴスペル・イン・文楽」。
 注目の露の五郎師匠は、体調が整わず出演はかなわなかったが、ご息女露のききょうさんの代演は、目を見張るものがあった。これまでこの場面のつなぎも床で語られた。しかしこれを独立させることにより、第三者の目と立場が加わり、物語が立体化し、イエスの生涯の悲劇が浮き彫りにされた。今回の試みの特筆すべき成果である。
 清之助のマリアは完璧としかいいようがない。その清さと美しさを何にたとえよう。クリスマスの光がその顔に、赤子を抱いたその腕に宿る。そこに差し初めるのは希望の光である。今回ほどそれを強く感じたことはない。教会という場であればこその静謐な空間で、この世に来られたときには無力な赤子、周囲に助ける者もなく来られたこの方の孤独な姿が浮かび上がる。

 嵐を静める奇跡の場は、前回は冗長とも思えたが、確かにイエスがその使命を全うするために必要な道程であったことを感じた。
 今回付け加えられたヤイロの娘の件は、イエスの復活の前兆であり、またすべての人々に開かれた希望の兆しでもある。
 文楽では、人が死ぬと主遣いは人形を足遣いらに託し、引っ込む。彼らの手を離れた瞬間、人形は木偶にもどり、命のないものになる。その不思議さを何度も見てきたが、逆に、死んだものが蘇るという場面はほとんどない。
 文楽はそれほど荒唐無稽にはできていない。そのリアリティは、昔の人が確かにあると信じたものである。だから死からの蘇りがないのは当然かもしれない。
 この場面はある意味で衝撃的であった。それは文楽の技法を用いることで、その奇跡を際立たせた、新しい表現の可能性といってもよいかもしれない。

 ペテロの否定から十字架の迫力は手馴れたものとなってきた。そして復活の場面、再びナレーションが入って、弟子たちの嘆き、ペテロの悔い改め、イエスの宣教命令にいたる流れが自然に感じられるようになった。
 そしてこの復活が、私たちの死の闇を越えて希望をもたらす灯であることを、しみじみと知らせる幕切れであった。

 最後は「きよしこの夜」の合唱で終わる。誰もがともにこのクリスマスを祝うことのできる機会である。
 この舞台が、いつも関係者の献身的な働き、多くのボランティアに支えられて成り立つものであること、不可能に近いと思われる自主公演の形でこれまで続いてきたことは、それ自体が奇跡といえる。
 初演から深く関わった者の1人として、実行委員会の皆様、そして多くの協力者の方々に、心から感謝の意を述べたい。そして文楽が現代に生きるという課題に対する一つの可能性が、ここにあると思う。

 文楽が変わることを望みつつも、また変わらなくあることに安堵を覚えた1年であった。英大夫にとって、多忙な中にも着実に実りを重ねた1年であった。その総決算が平右衛門であり、このゴスペル文楽であった。
 2人の弟子を持つことにより、彼はまた次世代への継承の大きな責任を持っている。
 世代交代は早くから言われているが、本当に交代するときはあっという間であり、そのときには準備は整っていなければならない。文楽で本公演の役は、初役でも十分な力ありと認められたときだけだ。それに対する備えは、十分過ぎるほどなされなければならない。
 その時がいつまで許されるか、天のみが知るところである。どのような形でか、それは知らない。それが彼にとっても、文楽にとっても、よりよい形であるように、また文楽が新しい時代にどのように生きていくか、その課題に真摯に立ち向かわねばならないだろう。
 新しい年が、さらに飛躍と発展の年となることを祈っている。