運命の序曲――素浄瑠璃「摂州合邦辻」

森田美芽

 運命とは、人がその意志で選ぶより深く何ものかによって選ばれていること。それを自覚することは、人が逃れ得ない運命に自己の意志で立ち向かい、その闘いの中に自分の人生の意味を見出すことではないか。英大夫にとっての「合邦」はそんな浄瑠璃ではないかと思えてならない。
 2005年3月18日、大槻能楽堂、「英大夫の会」。
 ゲスト、桂雀松。
 英大夫、清友の「合邦住家の段」。祖父若大夫の名を継ぐべき名作を、東京での成功を携え、満を持して披露する英大夫の意欲を十分に、そしてその成果を十二分に感じた。

 まずゲストの雀松とのトークで場をほぐし、続いて雀松の「替り目」(上方では「酔っ払い」?)。
 落語の笑いとは、なんと暖かく、人の心の機微に通じていることか。誰も傷つけず、誰も泣かない。そんな笑いに満たされる喜び。今の世は人を傷つけ人を笑いものにする悪意に満ちた笑いが多すぎる。
 本来の笑いは、誰でも思い当たる自分自身の弱さを相対化できるユーモアから生まれるものだと思わされる。雀松がさりげなく、確かな実力を発揮して、こうした雰囲気で会場を包み、次に待っている悲劇のドラマに心を向ける上で、よい備えをしてくれたと思う。耳から入る言葉の密度に耐える備えを。

   「しんたる夜の道」暗闇の中に運命の交錯。
 英大夫は緊張の面持ち。その緊張が、闇の中を行きかう玉手、入平、母、合邦、それぞれの思いを照らし灯火のように浮かび上がる。
 玉手は死ぬためにここに来ている。入平は主人の浅香姫と俊徳丸を守るために、玉手御前の様子を窺う。母は死んだと思って回向している娘が生きて帰ったかもしれないという思いに驚き、父は義理のために娘を許すことができない。この前半、特に娘を思う母と義理に生きる父の論理の対比が見事であった。
 この父の骨太で廉直な気質が、娘を可愛く思いながらも許せないということを納得させる造形であった。これが、後半で娘を殺すにいたる悲劇を作り出す。対照的に母はひたすら娘の命を惜しむ。
 何よりも二度と会えぬと思っていた娘が生きていたという喜び、何とか父の手前娘をかばおうとする必死さ、出家させてでも生きながらえさせようとする一途な母性愛が、もう一つの物語の芯になる。

 そして玉手御前、「面映げなる・・」からのくどきの見事さ。それは父と母の世間の論理に対する、生きた女としての思いを表わしているからにほかならない。
 ここまでの父と母が丁寧に描けているからこそ、玉手御前の道ならぬ恋への父の怒りが共感されるのだ。

 後半、俊徳丸と浅香姫の登場。俊徳丸はすでに悟りを得た者のよう。しかし義母の仕業と知り、無念と義理の間で立ち尽くす涙。その思いを代弁する浅香姫、そして玉手の乱行。
 清友の三味線がこの場を盛り上げ、手に汗握る思いにさせる。
 「堪えかねて駆け出る合邦」、その、父が娘を愛するゆえに自らの手で殺さなければならないという嘆きと痛みの痛切、「これが坊主の」に響く因果、この合邦という人物の負わなければならなかった痛みをこれほどまでに感じるとは。

 苦しい息の下から、玉手御前の必死の物語。人々が納得しても、なお娘を許さない父。そして「オイヤイ」に爆発する力。
 小佐田定雄氏も言われたように、これこそ彼が若大夫から受け継いだ血の運命であると感じた。その中に、玉手御前という複雑な存在に込められたものと同じ何かを感じた。

 「寅の年寅の月寅の日寅の刻に誕生したる女の、肝の臓の生血を取り、毒酒を盛ったる器にて病人に与える時は、即座に本復疑いなしと、聞いた時のその嬉しさ」に込められた玉手の思いには、いつも複雑なものがある。
 この日は、自分の命を与えることで、密かに思う人を救うことができるというカタルシスが強く感じられた。この玉手は、俊徳丸を思っている。しかし結ばれることによってでなく、男を生かすために自分が死ぬことによって成就する恋。
 くらくらと全身を貫くエロスとタナトスの交錯。もし彼のためと家のために死ぬのでなかったら、彼女はこうはしなかっただろう。
 死への衝動。彼女の生のなかに穿たれた死の暗黒に、共に足を取られていくような眩暈を感じた。
 近代的な意識のなかの恋愛ではない、もっと根源の思い、人が人に惹かれる、結びつくという、もっと激しく強い、心と体の奥底から生まれる呼び声のような思い。英大夫の玉手御前は、お辻という固有名詞の一人の女性ではなく、「合邦が辻」の伝説、土地の生み出した物語の象徴そのものである。
 それは、家族、血の絆という、だれにも断ち切ることのできない、運命という絆の重さである。私たちが意識するもっともっと以前から、私たちの中に伝えられている、太古のDNA、あるいは言葉になる以前の言葉、意識となる以前の物語を。

 文楽の三大名作(忠臣蔵、千本桜、菅原)を近代的な意識で解釈のできる作品とすれば、「合邦」はそれ以前の人間観や世界観の混交、意識以前、無意識の世界に属し、かつ仏教の世界観、つまり彼岸がこの世と隣接していたという意識の中に生まれた作品である。
 それは、我々の時代の言葉で語ることのできない物語の世界であり、私たちはそれを分析することはできても、理解することはできない。ただ感じ、共有するのみである。
 しかしその中から、思いもよらない私たちに深く根ざすものに向き合わされる。

 「合邦」の奇跡と呼ぶべきものはそこにある。
 それは私たちの日常に穿たれた楔のようなもの。私たちの中で普段は押し殺している原始の感情が、情動が、言葉にならぬものがその裂け目からほとばしる。
 それが日常の時空の中に繰り広げられ、私たちがそこに身を置くことができるという奇跡と出会っていることなのだ。英大夫の運命の曲はいま始まったばかりなのだ。入門から30数年を経て、彼は自らの原点を作り出した。浄瑠璃は私たちの共通の運命を見出す物語であり、そこで私たちは、自分であることの始まりに出会うのだと。