死の闇を越えて――2004年11月「仮名手本忠臣蔵」、12月「ゴスペル・イン・文楽」

森田美芽

 この1年もまた文楽と出会い、それを見つめ、そこから湧き上がるものを感じられたことの幸いを思う。
 とりわけ、大阪の文楽劇場20周年の締めくくりとしての「忠臣蔵」と、阪神大震災10周年を迎える神戸に捧げられた「ゴスペル・イン・文楽」に、この1年の総決算ともいえるものを感じた。

忠 臣 蔵
 忠臣蔵の主な事件は宵から薄明にかけて起こる。愛も欲も、忠節も親心も、迷いも絶望も、「人の心の奥深き」という9段目の枕がそのすべてを語っているように、単純な仇討ち劇ではなく、人の心のもたらす偶然の積み重なりが人の運命を狂わせる。昼の明かりはそのもつれた悲劇を照らすばかりである。
 忠臣蔵の主題は、偶然の必然の中に投げ込まれた人々のやるせなさであり、取り返しのつかぬ運命を自らの死で決着させる人々の生き様である。その重さは、私たち自身が自分の人生を生きようとするとき、自分自身に向けられる思いと重なり、「忠臣蔵」という物語の独自の重みを作り出している。
 「大序」 希大夫の溌剌、靖大夫の正直、呂茂大夫の誠実、芳穂大夫の工夫、三味線は龍爾、寛太郎、龍聿、清丈それぞれ聞くべきものがあるが、清丈の音に落ち着きが加わったのが頼もしい。大序はいつも若手の最初の試練である。それを正面からぶつかっていく彼らは、次の時代への希望を感じさせる。
 印象的なのは次代を受け継ぐ旗手ともいうべき人形の3人の対比である。悪の権化としてこの物語を成立させる高師直を勘十郎、血気さかんな正義感の強い凛々しい若狭助を玉女、第三者でありながら巻き込まれていく悲劇の主人公塩谷判官を和生。見えない火花が飛び散る。

 「恋歌の段」 津国大夫、南都大夫、文字栄大夫、それぞれの役どころが生きて響くのはさすがである。津国大夫の師直は物欲と権力欲を体現し、南都大夫の顔世は夫を思う貞女。喜一朗は手堅くという以上に先輩たちをまとめる。簑二郎の顔世、板ばさみの苦悩の似合う武家の奥方。
 二段目、「本蔵松切の段」、英大夫、喜左衛門。若狭助の苦悩、加古川本蔵の忠義と父性、地道な説得力、悲劇の序曲。玉女の若狭助、若くとも彼も領主の風格。
 三段目、「下馬先進物の段」、咲甫大夫、清馗。薄明の中に繰り広げられる腹の探りあい。血の繋がりの深さと重さを共に担う兄弟の健闘。咲甫大夫の浄瑠璃が色鮮やかに広がる。加古川本蔵と伴内のやりとり、その印象深いこと、とりわけ玉也の伴内の足の軽やかさに、この人の新しい魅力を見る。

 「腰元お軽文使いの段」、三輪大夫、団吾。簑助のお軽の愛らしさと息遣いを生かしたのはこの2人。「おかぼう、おかぼう」の微笑ましさも。しゃれた軽みとその中の深さを伝える。お軽は勘平に会いたいがために文を運んだ。偶然の積み重なりが悲劇を生む、もうひとつの緊張も感じさせる。
 「殿中刃傷の段」、伊達大夫、清友。師直の怒りを受けることになった塩谷判官の無念を納得させるのはこの人をおいてない。紋秀の茶道珍才が、権力に逆らえない者の悲哀を感じさせる。
 「裏門の段」、呂勢大夫、清志郎。勢いある一段を一気呵成に仕上げる。紋寿の勘平に初めて強い意志を感じる。
 四段目、「花籠の段」、千歳大夫、清治。沈痛な面持ちで再び顔世、薬師寺の一徹さと九太夫の抜け目なさの対比が見事。千歳大夫の成長がうかがわれる。

 「判官切腹の段」十九大夫、富助。「雨だれ」と称される二の糸の響き、そして沈黙。仮にも一国の主が、理不尽にも切腹させられるという怒りと無念を共有する一段。玉男の由良助にすべての期待が集まり、そしてそれを遂げる見事さ。

 「城明渡しの段」、相子大夫、清丈。由良助の無念は玉男の独壇場。復帰の相子大夫は気合の一言。
 五段目、「山崎街道出会いの段」、新大夫、喜一朗。新大夫の将来性、スケールの大きさを感じる一場。
 「二つ玉の段」、松香大夫、団七。定九郎の勘緑、形もよく決まりも大きいが、ほとばしる悪の魅力の造形がほしい。余市兵衛の哀れさ。
 六段目、「身売りの段」、津駒大夫、宗助。人妻となったお軽のけなげさと哀れをしっとりと聞かせる。婆とのやりとりも上出来。
「勘平腹切の段」、綱大夫、清二郎。ほんの一瞬の迷いで面目を失った勘平は、その気後れから死に急ぐ。婆の嘆きとそれゆえの誤解、問い詰める薬師寺、その緊張からの展開が自然に流れる。紋寿の勘平は出色の出来といってよい。この、運命に流される色男の悲劇を、その思いの切なさまで描ききった。
 七段目、「一力茶屋の段」綱大夫の由良助、嶋大夫のお軽、英大夫の平右衛門、三味線は清介。由良助と九太夫の、遊蕩のなかの腹の探りあい、男の色気と真剣勝負の魅力。お軽のじゃらじゃらした色気は嶋大夫がたっぷりと聞かせる。そして英大夫、勘十郎による平右衛門のさわやかさと血気、これが由良助の大人の泰然たる風情と見事に対比され、間のお軽の悲劇が際立った。三人侍、亭主、伴内、それぞれに印象深いものが残る。
 八段目、「道行旅路の嫁入」 シンは津駒大夫、呂勢大夫、三味線のシンは寛治。完璧としか言いようのない清之助の小浪、それを見守る文雀の母戸無瀬、その美しさと風情、これ以上は望めまいと思った。
 九段目、「雪転しの段」この段全体に謎かけのような深さが感じられる。文字久大夫、清志郎は力演だが、「風雅でもなく、洒落でなく」の面白みにはいまひとつ。

 「山科閑居の段」、住大夫、錦糸。後咲大夫、燕二郎。終わってみれば「人の心の奥深き」を納得できる。咲大夫の充実を感じる。
 今回の「山科」の成功の第一は、文吾の加古川本蔵である。部下として主君若狭助を思う忠節、娘の幸福を願う父としての思い、そして武士として塩冶判官の無念を作り出したという悔い、そのすべてを余すところなく描いた文吾の本蔵の確かさが、由良助らの忠義を裏側から支える人の情の論理である。

 「光明寺焼香の段」三輪大夫、咲甫大夫、つばさ大夫、芳穂大夫、団吾。一日の長さを気持ちよく締めくくってくれた。

  「忠臣蔵」は死を巡る物語である。その忠義も愛も、3人の切腹、死にのみ急ぐ人々、残された者たちの嘆き、死と再生ではない、再生など信じない滅びの美学に収斂されている。
 人はどのようにその終わりを迎えるか、でその生涯を測られるという世界観。超自然的な解決や救いなど信じない、あまりにもリアルな現実の論理と、死によってしか報いられない、許しをもたない世界の哀れさが胸を貫く。
 10時間を越える一日の長さも、その一場面一場面の重さも、見る者には無論、演じる側にも限界まで消耗させる。あらゆる意味で、その時点での三業の総力を測られる狂言である。その役割で、彼らがどのように評価されているか、その序列が一目でわかる。
 それゆえ彼らは全力でその時の役に立ち向かおうとする。その果てに、芸の階梯を一段階上る人もいるが、逆にこの舞台で全力を使い果たし、燃え尽きたとしか思われぬ人もいる。6年前の緑大夫の「花籠」相生大夫の「二つ玉」、そしてついに聞くことのできなかった4年前の呂大夫の平右衛門。鶴沢八介の本公演の最後の舞台でもあった。
 闇の深さを思う。人が避けることの出来ない死の重みが重なり、その重さがしばし私を立ち止まらせる。文楽が担っているもの、それを受け継ごうとする試みは、人の命をすり減らし、限界まで追いやるに値するものであるかと。

ゴスペル・イン・文楽  明けやらぬ闇の中に下り立つ光がある。カトリック神戸中央教会の、震災10年目の再出発に捧げられた「ゴスペル・イン・文楽」。
 注目の露の五郎師匠は、体調が整わず出演はかなわなかったが、ご息女露のききょうさんの代演は、目を見張るものがあった。これまでこの場面のつなぎも床で語られた。しかしこれを独立させることにより、第三者の目と立場が加わり、物語が立体化し、イエスの生涯の悲劇が浮き彫りにされた。今回の試みの特筆すべき成果である。
 清之助のマリアは完璧としかいいようがない。その清さと美しさを何にたとえよう。クリスマスの光がその顔に、赤子を抱いたその腕に宿る。そこに差し初めるのは希望の光である。今回ほどそれを強く感じたことはない。教会という場であればこその静謐な空間で、この世に来られたときには無力な赤子、周囲に助ける者もなく来られたこの方の孤独な姿が浮かび上がる。

 嵐を静める奇跡の場は、前回は冗長とも思えたが、確かにイエスがその使命を全うするために必要な道程であったことを感じた。
 今回付け加えられたヤイロの娘の件は、イエスの復活の前兆であり、またすべての人々に開かれた希望の兆しでもある。
 文楽では、人が死ぬと主遣いは人形を足遣いらに託し、引っ込む。彼らの手を離れた瞬間、人形は木偶にもどり、命のないものになる。その不思議さを何度も見てきたが、逆に、死んだものが蘇るという場面はほとんどない。
 文楽はそれほど荒唐無稽にはできていない。そのリアリティは、昔の人が確かにあると信じたものである。だから死からの蘇りがないのは当然かもしれない。
 この場面はある意味で衝撃的であった。それは文楽の技法を用いることで、その奇跡を際立たせた、新しい表現の可能性といってもよいかもしれない。

 ペテロの否定から十字架の迫力は手馴れたものとなってきた。そして復活の場面、再びナレーションが入って、弟子たちの嘆き、ペテロの悔い改め、イエスの宣教命令にいたる流れが自然に感じられるようになった。
 そしてこの復活が、私たちの死の闇を越えて希望をもたらす灯であることを、しみじみと知らせる幕切れであった。

 最後は「きよしこの夜」の合唱で終わる。誰もがともにこのクリスマスを祝うことのできる機会である。
 この舞台が、いつも関係者の献身的な働き、多くのボランティアに支えられて成り立つものであること、不可能に近いと思われる自主公演の形でこれまで続いてきたことは、それ自体が奇跡といえる。
 初演から深く関わった者の1人として、実行委員会の皆様、そして多くの協力者の方々に、心から感謝の意を述べたい。そして文楽が現代に生きるという課題に対する一つの可能性が、ここにあると思う。

 文楽が変わることを望みつつも、また変わらなくあることに安堵を覚えた1年であった。英大夫にとって、多忙な中にも着実に実りを重ねた1年であった。その総決算が平右衛門であり、このゴスペル文楽であった。
 2人の弟子を持つことにより、彼はまた次世代への継承の大きな責任を持っている。
 世代交代は早くから言われているが、本当に交代するときはあっという間であり、そのときには準備は整っていなければならない。文楽で本公演の役は、初役でも十分な力ありと認められたときだけだ。それに対する備えは、十分過ぎるほどなされなければならない。
 その時がいつまで許されるか、天のみが知るところである。どのような形でか、それは知らない。それが彼にとっても、文楽にとっても、よりよい形であるように、また文楽が新しい時代にどのように生きていくか、その課題に真摯に立ち向かわねばならないだろう。
 新しい年が、さらに飛躍と発展の年となることを祈っている。