新しい物語―2005年夏公演によせて―

森田美芽

 この夏も、文楽の第一部を飾るのは「親子劇場」である。もう10年以上も続けられているこの試みを、どれほど評価してもしすぎることは無いと思う。なぜなら、この試みから、見る者から語る者へ、変貌を遂げた一人の少年が与えられたのだから。
 豊竹咲寿大夫。かれの名が、どれほどの希望を彼らにも我々にも与えてくれたことか。彼のおかげで、文楽は小学生にも、「あの人かっこいい」と言えるものになったのだから。まさに「時分の花」の恵みと輝きを舞台で発揮してくれた。その成果を第一に記したい。

第一部「東海道中膝栗毛」
 咲大夫のどっしりと構えの大きい弥次郎兵衛に、小心者の英大夫の喜多八。でも、どちらも人間の「おもろうて、やがてかなし」をにじませて。二人の掛け合い、またやりとりから自然に笑いが起こる。
 入れ事があるからおもしろいのではない。そこにわれわれ自身が笑われるような失敗や愚かさの持ち主だからだ。だが言葉も風俗も、いまの子供たちには理解しにくい。その言葉の懸隔を埋める苦心と、諦めない姿勢とが、子供たちにも届くのではないだろうか。
 津国大夫、南都大夫らの着実な語り、つばさ大夫の声がまっすぐに届く。三味線は燕二郎をシンに、喜一朗、龍聿らの健闘が光る。

 人形ではやはり勘十郎の弥次郎兵衛の表情の豊かさが印象に残る。文司の喜多八も好演。簑紫郎の仙松の愛らしさ、亀次の親父はあれも狐だったのかと余韻を残し、簑二郎の和尚もよい。

「文楽はおもしろい」後半の一輔のみ所見。人形解説中心だが、子供たちは実際に人形に触れた感触を忘れまい。あれほど目を輝かせ、好奇心に満ちた子供たちなのだ。

「小鍛冶」シンに伊達大夫、末席に初舞台の咲寿大夫。伊達大夫は77歳、咲寿大夫は15歳。祖父と孫の年齢の者たちが共に舞台を勤める。
 しかし初舞台の15歳は堂々と客席に向かう。そのハーモニーの力強さ、生命力を、子供たちはどう聞いただろう。
 また三輪大夫の品ある確かさ、咲甫大夫の頼もしさを。三味線は団七に二枚目の団吾、師の二枚目を勤める団吾のきっぱりとした絃があやなす空間。

 玉女が稲荷明神を大車輪で遣う。左の玉志、足の玉勢との絶妙の、一糸乱れぬそのコンビネーション、同じ師に遣え、鍛え抜かれたその確かなリーダーシップを、いま、玉女が受け継ぐ。
 勘弥の三条小鍛冶宗近、上品な検非違使かしらの動き、清五郎は孔明かしらの勅使の落ち着き。

   第一部は一度しか見ることができなかった。しかし子供たちの反応を見ながら思った。彼らは気づいているだろうか。彼らの聴いたことのない日本語の深さ、彼らの理解できないところにこそ、見てもらいたい真実なものがあることを。
 そしてこの試みには、大阪市も市内の小・中学生を親子で鑑賞できるよう毎年補助を行なっている。
 時にその成果が不十分といわれることさえある。それにも拘らず補助を続けてきたことは大阪市の見識であり、歴史都市としての品格を作る壮大な作業としての意義付けがあるからである。
 財政難の折ではあるが、こういう試みは是非続けてほしい。そして劇場の関係者にとっても、舞台を勤める技芸員の方々にとっても、創造することは伝承することとは別の困難がある。
 その苦難を乗り越えて舞台を作り上げていかれる人々に敬意を表したい。

第二部「桂川連理柵」の通し
「石部宿屋の段」、文字久大夫、ツレ相子大夫、三味線清友、ツレ清馗。
 文字久大夫はまだ人物の語り分けが少し不十分に思える。お半の秘めた思いにもう一つの深みが欲しい。
 だが彼が語る伊勢下向の旅路は、その風情が見えるように思えた。日和の中、伊勢参りを終えて安堵して歩む人々の足取り、その地名に読み込まれた懐かしさを感じさせるものがあった。清友はそうした彼の持ち味を十分に引き出した。

 「六角堂の段」、千歳大夫、清治。まず儀兵衛と長吉の詞の巧みさに心惹かれた。お絹の複雑な思いと、それと知らせず夫のために働くいじらしさ。
 紋寿のお絹はしっとりと、内面に激しいものを備えた旧家の嫁である。

 「帯屋の段」、前、嶋大夫、清介、後住大夫、錦糸。前半のチャリと後半のしみじみとした情味の対比。
 玉男の長右衛門と簑助のお半が圧巻。この二人には、言葉を失ってしまう。
 14歳という少女の危うさ、男の迷い、この二人なら、ありえないと思う過ちも起してしまうかもしれない。
 簑助のお半には、人を誘惑する力がある。
 そして玉也の儀兵衛、自分では抜け目ないつもりの、憎めない小悪役も見事。
 清之助の長吉、阿呆とはいうものの、刀をすり替える策略といい、単なる笑われる三枚目というだけではない魅力。
 紋豊の婆、憎らしい反面、なぜか同情してしまう。彼らはいずれも役柄が生き、呼吸している。

 「道行朧の桂川」津駒大夫、文字久大夫、寛治を中心に、道行の華やぎと夏の終わりのわびしさを感じさせる。
 玉女の長右衛門は確かに、中年期の迷い、かつての罪を胸に秘めている男の影がある。

第三部「摂州合邦辻」
 「万代池」が大阪で出ることは珍しい。だが大阪でこそ、その浄瑠璃の持つ場所の力が生きて輝くはずではないか。
 現実と虚構のはざまで、いまも文楽劇場からほんの目と鼻の先に、閻魔堂も月江寺も万代池も存在するのだ。
 しかしその場所性を踏まえた魔力を今回はあまり見出すことが出来なかった。
 ただ、合邦の教化の「六拍子揃えてわが身を見れば、さながら四季の物狂いよの」「今は心も乱れ乱れて」が、後の玉手の狂乱を暗示しているように思えた。
 文雀の玉手は、自分を殺させるため、どう振舞えばいいかを計算して演じているような、そういう理の勝った女丈夫である。
 簑助の玉手なら、確かに彼女自身が恋に迷っているのではという、そういう錯覚を起させた。言ってみれば、観客をも誘惑したのである。
 文雀の玉手は、そういう意味ではきわめて一途な、潔い玉手である。わが身の物狂いを装って父の手にかかって死ぬ、そのことが俊徳丸をはじめ多くの人の救いとなるという、「万代池」の主題が見事に現実化される。
 文吾の父性の情にあふれる合邦、控えめで娘をいとしむ母に玉英、和生の俊徳丸はあくまで大名の子の品格を保ち、清三郎、和右の浅香姫は可憐、勘緑と玉志の入平はきびきびとして好演。

 「万代池」では浅香姫の南都大夫、合邦の新大夫がそれぞれによく人物を表し、松香大夫は俊徳丸の無念をしみじみ聞かせた。
 呂茂大夫と希大夫の若々しい声がよく揃って美しい。
 師匠を代演した喜一朗の生き生きとした響き。「合邦庵室」の中を呂勢大夫と清志郎がテンポよく聞かせ、綱大夫は玉手のくどきに年功を見せる。
 「ヲイヤイ」にもいくつかの型があるのだろう。二つ目にアクセントを置くのと、だんだんにクレッシェンドする型と。
 十九大夫は後者で、父の無念を、娘を誤解したことへの悔いを強く現す。段切の富助の三味線の見事さ。

 千穐楽、彼らはその役を手放す。
 彼らの手を、声を通して具体化した、それ以外ではありえなかった役を。
 彼らは公演ごとに、短い生と死を繰り返す。舞台という、彼らがそこでだけ人々にすぐれて生きた証を作り出す場所で。
 そして出会う。その生命の強靭さ、豊かさ、86歳と15歳の生命を共に包み込む舞台の力の大きさを。その輝きをいとおしむ。

 始まったばかりの15歳の新しい物語がどのように刻まれてゆくのか、それはどのような物語を300年のうちに紡いでいくのだろうか。
 一つの舞台は終わる。そして新しい物語が始まる。それを生きる限り、見つめ続けて生きたいと願う。