ゆるぎなき絆――2005年正月公演

森田美芽


 この年になって、新年の意味を考えるようになった。もうあと何度、このような正月を迎えることが許されるだろうか。新年には1年に一度、古い年を忘れ、新しく始めるという厳粛さがある。誤り多い日常を清め、再びやり直すことによって、淡々と続く時間を再び洗い直す、そのために年末年始の慌しい大掃除や年賀状書き、お節料理といった儀式が必要なのだと思う。
 幕開きの三番叟を見たのも久方ぶりである。それが舞台を清め、神に向かうという意味をもつ儀式であることをしみじみと感じた。1年の、1日の始まりを大切にすること、それは時を刻む私たちの生に、なくてはならないことなのだ。そうした思いの中に、新春狂言のはなやぎと緊張が交錯する。
 女は誘惑されたのか、それとも誘惑したのか――『刈萱桑門筑紫いえづと』「守宮酒の段」を見たとき、眩暈のような感覚に襲われた。見詰め合う二人。それぞれに使命をもって。だが女はそうした陰謀を知らない。自分を手放そうとしない厳格な父の娘として、使命を忠実に果たそうとするだけである。20歳で処女の彼女には、赤い振袖はいささか不釣合いに見える。神に聖別されたものとして、男女の仲には無知であるが、肉体は成熟しているという危うさと誇り高さ。かたや、忠義のために女を誘惑することを命じられた名うてのドンファン。そこに守宮酒という媚薬。女は守宮酒のために、自ら男を巻き込んでいく。ここではむしろ、女が男を誘惑しているかのように見える。男はしてやったり、という風情は見せない。むしろ女に引きずられるように関係を持つ男。誘惑するはずがされる側になる。それを見守る橋立。
 宝玉が黒く変じ、身の潔白を疑われたゆうしでは鏑矢を突き立て自害する。神に仕える身で易々と身を委ねたことへの申し訳か、自分の誇りのためか、父への裏切りの詫びのためか。彼女は厳格な父に生涯夫を持たぬことを命じられ、それを自分の運命と信じている。20歳を過ぎても処女の、一方で父に逆らえぬ素直さ、悪く言えば幼稚さと、それとうらはらの成熟した肉体、密かに男を思うことがあっても、それをどう表わしてよいのかわからないおぼこさとのアンバランス。守宮酒での媚態は、酒のせいとは思われない。彼女の抑圧されていたもう一つの自分が目をさます。
 娘を妻の身代わりのように自分の手元におきたい父、娘が成熟して大人になり、ほかの男のものになることを許せない。娘を愛する父のエゴイズムと寂しさを感じさせる新洞左衛門は文吾が好演。
 和生のゆうしでは、もはや赤の振袖の似合わぬ年ごろの娘のファーザーコンプレックスと危うい自我、父と娘の絆を強く感じさせた。
 ゆうしでの自死に、女之助は変化する。勘十郎の女之助。彼は根っからの誘惑者ではない。恋しているときには真実な思いであっても、新しい恋を見つけるとそれが真実と思い込む、結果として女を誘惑しては捨てることになる男ではないか。そしてその頼りなげな風情、一見潔く見えるところが、女たちの母性本能をくすぐるのではないか。その彼がゆうしでの一途さに心動かされ、汚名を返上するべく守宮の血を腕につけて誓うところは色男ぶりが光る。
 監物太郎夫妻は勘緑と玉英、腹に一物の難物をよくこなしている。
 中の文字久大夫、清志郎。複雑な物語の構成を説明するこの冒頭の部分は、不在の人物と権力関係を理解させるのが難しい。文字久大夫は人物の描写はずいぶんよくなったと思うが、こうした箇所はまだまだ彼にも難関である。清志郎の舞台には、いつもすがやかな緊張感がある。途上なれど精一杯ぶつかっていこうとする気迫と熱意が、いつも彼の舞台に清涼な美しさを与えている。
 切は十九大夫、富助。宮守酒を飲まされてからのゆうしでの乱れから新洞左衛門の嘆きに至るまでの息もつかせぬ見事さ。時代物の格を表わす。

 『天網島時雨炬燵』原作の割り切れなさがむしろ純愛と人の弱さの中の真実に裏打ちされているのに対し、見た目本位の改作の面白さとわりなさに満ちている。あざといまでの趣向、
 中、咲大夫のはずむような詞の呼吸の一つ一つに、いまさらながら字幕の限界を知らされる。字幕で意味はわかっても、それが物語の人物や感情を無機質の文字から読み取るのは不可能である。咲大夫の語りで、そのすべてが一目瞭然である。燕二郎はその言葉の一つ一つに輝きと陰影を添える。伝界坊の幸助のちょんがれ節の軽妙、太兵衛の俗悪、翻弄される治兵衛の無力がいたいたしくもはがゆい。
 切、嶋大夫、清介。おさんの女の義理ににじむ涙と、それでもこの男との絆を失いたくないという切なさ。着物を洗いざらい質に入れても、義理を果たす方を取る、そうして戦うほかはない悲しさ。
 奥、千歳大夫、清治。小春の登場、阿呆の丁稚の祝言が水杯という皮肉、そこにおさんが尼になったという知らせが届く。義理に迫られても、時の過ちであっても、死ぬほかはない二人の悲劇。だが、玉女の治兵衛、清之助の小春、この気品と汚れなき女の真情を、近松の原作でこそ見たいと切に願う。

 『戻籠色相肩』「廓話の段」。江戸と大阪と京、それぞれの廓の色模様を語る、晴れ渡った空とのどかな日和、英大夫は骨太の浪花次郎作、三輪大夫はすっきりとした吾妻与四郎 、呂勢大夫は愛らしい島原のかむろ、人形はそれぞれ和生、勘十郎、文雀。いずれも水準以上の出来。力のあるものが余裕をもって取り組む時の安心感が床にも人形にもただよう。
 『七福神宝入船』 三味線の芸づくしの楽しさ。団七の三味線の華やぎと手堅さ、琵琶に模した音色、中堅どころの人形陣の手ごたえ。理屈ぬきに楽しめる一段。
 『伊賀越道中双六』「沼津の段」住大夫、錦糸の独壇場。それに玉男の十兵衛、簑助のお米、文吾の平作。貧しくとも義理を立てる庶民の悲劇。
 平作の悲劇に引きつけられた。正直と廉直、底辺に生きながら人の誇りを忘れない、それゆえ命がけで義地を果たそうとする父と、その父の気性を受け継いだ生き別れの息子が出会う。ようやく会えたというのに親子と顔を合わせ名乗ることはできない、武家社会の義理の惨さが浮かび上がる。幕切れ、池添の作る火花が、親子の名残をほのかに照らす。それを後にする十兵衛の嘆き。このように、黙って死んでいく庶民の声がどこに届くのであろうかと思わされた。簑助のお米、門口でもの思いの風情は他の追随を許さない。
 『恋娘昔八丈』「城木屋の段」、伊達大夫、喜左衛門。この語り口に脱帽。切、綱大夫、清二郎。騙される側の人の良さと騙す側、それにつけこむ丈八のキャラクターが生きる。
 「鈴が森の段」津駒大夫、寛治。お駒の哀れさと周囲の人々の嘆き、好奇、同情、恐れ、それらを巧みに語りこなしている。あわや処刑かと緊張ののち、才三郎が現れ八方丸くおさまる。
 番頭丈八を簑助が遣う。余裕を感じさせるほどのチャリの表現が忘れられない。
 玉女の才三郎、このところ色男役が多いが、これも前半の頼りなさと後半の凛々しさが対照的。玉也の庄兵衛、女房の紋豊、よき一対。紋寿のお駒は、ひたすらあわれな、恋のために全てを捧げる健気な娘である。

 今年の正月の狂言立ては、あまりにあちらこちらに心が惹かれて、一つを味わって後すぐに次の話にと頭を切り替えることができなかった。それほど一つ一つの舞台は充実し、完結した世界をもっていた。
 ベテランも中堅も若手も、それぞれに見えない火花を散らすように、その芸を競い合った。一度見た作品も、初めての芝居も、それぞれに見えるものと聞こえるものが届き、飽きることがない。年を経ても古びない、時の試練を経て磨かれ、ますます真実へと近づき行くもの、過去と未来を結ぶゆるぎない絆を作り出すもの、見る者にも演じる者にもそれを新たにされた1月であった。