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男たちの嘆き、女たちの悲しみ――4月公演「菅原伝授手習鑑」を見る

 細部まで理解しているはずのこの物語を、新たな視点で見せてくれた。それは、千代ではなく、松王の嘆きの意味を納得させてくれたことである。

 だが、英大夫の語りを聞いて、「ご夫婦の手前もあるわい」と千代をたしなめた一言で、松王丸の嘆きはもっと深い、と気づかされた。

 どうしても観客は、千代に直接的に感情移入してしまうだけに、この悲劇の中心にいる松王の嘆きの意味を思い起こさせるには、そうした世界観と性根を描ききる、太夫の物語への理解と力量が必要なのだ。
 英大夫の語りは、眼目の泣き笑い、いろは送りの技術的克服だけでなく、こうした物語の骨格を納得させてくれるものであった。

 これほど内容ある舞台であったにもかかわらず、私には、英大夫がまだまだいける、と思わずにおれなかった。
 彼は、文楽に呼ばれている。

森田美芽

 2002年4月公演は「菅原伝授手習鑑」の通し。菅原道真の1100年忌や、吉田玉男一世一代の菅丞相というふれ込み以上に、新しい息吹を感じる舞台となった。
 そして英大夫が、「寺子屋」を語る。
 「菅原」の長い物語で、一日の最後を飾る場面。多くの人の期待、技術的なハードルの高さ、40分もの息もつかせぬこの場を、20日の間連日勤め上げるという持続力。役場の大きさは、太夫としての課題の大きさ(スケールの大きい芸)に深く関わっている。

 結論からいえば、英大夫は期待通り、いな、期待以上であった。
 細部まで理解しているはずのこの物語を、新たな視点で見せてくれた。それは、千代ではなく、松王の嘆きの意味を納得させてくれたことである。

 吉田簑助の千代。松王に「女房なんでほえる」とたしなめられ、上手に行き、呆けたように座り込む、そのうつろな表情。この女は、わが子を犠牲にするという企みを聞かされた時、涙かれるまで泣き尽くしたのだろう。そしてその悲しみが現実となったいま、もはや、なにも心に届かない。
 わが子を殺すために寺入りさせ、その死に際を看取ることも、死に顔に対面することもできなかった。
 忠義のためと説得されて、他に取るべき道もないと頭では理解している。だが、彼女は失ったものの大きさに打ちひしがれ、義理と外面だけを考える夫に、しんと心が冷たくなるような悲しみを抱いている。

 戸浪なら、夫を励まし自分も覚悟して加担するか、納得できなければ、自分の手で子を連れ出して逃げるだろう。この女には、そんな底強さを感じる。
 勘寿の戸浪は、初段で、かつての宮仕えの気品と気概を残しながらも、自分自身あえて不義を犯す勇気をもった女であると感じさせた。そしていまは自分の選んだ男を支え、共に戦っていこうとする女である。
 だが、千代は違う。彼女は夫に従ってしか生きられない。にもかかわらず夫は、彼女の感情を無視し、それを表現することを許さない。わが子を失ったばかりか、あの「茶筅酒」で見られた嫁舅、相嫁同士の絆も忠義のためにと断ち切られてしまった。
 もしかしたら千代は、このあと松王に離縁状を叩きつけて去るかもしれない、と思わされた。それほど、千代の悲しみに同情されてならなかった。

 吉田簑助の千代は演じているのでも遣っているのでもない。千代の心を生き、また千代という女が生きているのだとしか思えなかった。

 だが、英大夫の語りを聞いて、「ご夫婦の手前もあるわい」と千代をたしなめた一言で、松王丸の嘆きはもっと深い、と気づかされた。
 「ご夫婦の手前もあるわい」とは、単に外聞を憚ったためでなく、源蔵夫婦に心ならずも寺子を殺させたことへの配慮である。
 なぜなら、彼自身がこの企ての張本人であるからだ。前の「佐田村」で父に勘当を受け、息子を身代わりに仕立てて寺入りさせ、源蔵を追い詰めて首を打たせる。その結果を自分が確認する。父として、これほど惨い仕儀があろうか。
 泣き笑いの哀しみが痛いほど伝わってくる。
 3つ子のなかでも時平に仕えたために悪役に廻らざるをえず、わが子の首をみても、平静を装い、泣くことも許されなかった。
 彼も心一杯で泣きたかったのだ。桜丸にかこつけてでなければ、泣くこともできないその孤独。千代にその悲しみは届いているだろうか。夫婦はもう一度、その絆を取り戻せるだろうか。
 「いろは送り」の美しさ、哀切さのなかで、再びよりそう松王と千代を見て、そんなふうに思わざるを得なかった。
 文吾はそうした孤独を生きた松王を大きく遣った。それも人間松王、息子の死を、覚悟はしていても受け止める嘆きをこらえきれないいたわしさを、十分に感じさせる好演であった。
 一暢の源蔵もまた、菅丞相との心のつながりを感じさせる誠実さをにじませた。

 文楽の中心は常に男である。こうした悲劇を自らの手で為さなければならない男の、義理の影に隠れた涙を描くことができなければ、この場の悲劇は安手なものになってしまう。
 どうしても観客は、千代に直接的に感情移入してしまうだけに、この悲劇の中心にいる松王の嘆きの意味を思い起こさせるには、そうした世界観と性根を描ききる、太夫の物語への理解と力量が必要なのだ。
 英大夫の語りは、眼目の泣き笑い、いろは送りの技術的克服だけでなく、こうした物語の骨格を納得させてくれるものであった。
 燕二郎の三味線も、「いろは送り」をはじめ、たっぷりと聞かせてくれた。一つ一つ、松王の思いや千代の悲しみを描き出すような三味線であった。

 この段全体としては、前を語った綱大夫、清二郎親子の、芯の通った語りと音色が、この悲劇を首尾一貫して描き出す力となった。
 敵役としての松王の存在感、とりわけ首実検の緊迫感を、あれほど強く感じさせたからこそ、後半の悲劇が一層心を打つものとなった。
 清二郎の、「腕白顔に墨べったり」のくだりのメリヤスの楽しさも、その緩急を心得たものであった。
 そしてまた、二段目の吉田玉男の菅丞相と吉田清之助の苅屋姫の別れの悲劇も忘れがたい。
 初段の苅屋姫は、初々しい恥じらいに満ちている。恥ずかしさでつい目を伏せがちになるが、本当は愛しい人を見ていたい、そんなまぶしさに満ちた眼差しである。
 だが、「杖折檻」では、愛しい人を苦境に陥れ、そのために父が失脚することとなった。その原因を作った者としての悔いのために、顔が上げられない。一段と眼差しを深くする。
 母の杖を受けながら、それより深い心の痛み。
 さらに追い討ちをかけるように、自分をかばってくれた姉が殺される。なぜ、一体誰が、その途惑い、悲しみ。
 そして段切れ、丞相を見送る眼差し。
 義理の親子であるために、罪責意識はなお深い。そして帝へのはばかりもある。
だが会いたい、一目見たい。父との今生の別れに、父を見つめる。
 運命の残酷さと、悲しみのうちに顔を上げ、見送る娘。
 清之助の苅屋姫は、自分にその原因があるとはいえ、もはやどうすることもできないほど大きくなってしまったその結果に翻弄されることとなった、女の悲しみそのものを表現しているかのように思われた。
 吉田玉男の菅丞相は、自分からは仕掛けない。彼自身が、悪に翻弄される正義そのものを象徴する。
 その彼が唯一見せる人間として、父としての感情が、伏籠を見つめる、その袖でさえぎる仕草である。万感の思いがこもる。しらしらと明けてゆく朝の光が見える。
 十九大夫の位と力を備えた語り、清治の一点の揺るぎもない妙音とが一つになり、三度四度とうねるように高まってゆく舞台。今もその感動が甦ってくる。

 この二段目全体でいえば、「杖折檻」での咲大夫、富助は、覚寿の品位と義理立てる母の嘆きを聞かせる。
 「生みの親の打擲は、養い親へ立つる義理、養い親の慈悲心は、生みの親へ立つる義理」の詞が見事に生きている。
 情に流されぬこの気丈さを納得させる、厚みある語りに、富助の音が冴える。
 文雀の覚寿の品位が舞台を引き締める。
また簑太郎の宿弥太郎は、粋であって親に弱い、悪事に加担するにはどこか不安のある不思議な敵役として魅力的である。

 「東天紅」の津駒大夫、清友。津駒は十分なおもしろさ。立田の前のためらいが美しい。
 宿弥太郎の小心さ、心の動きも伝わってくる。
 清友の音色の心深さ。
 英大夫のみならず、住大夫に代わり「桜丸切腹」を語る千歳大夫、嶋大夫の途中休演を代わった呂勢大夫もまた、同じ課題を担うことになった。
 呂勢大夫は最後まで声を保ち、清介のよいサポートで物語の起伏をよく描いたと思う。
 無論、菅丞相の重さを十分出すことはまだ課題であろうが、御台所の気品、源蔵の失意、希世の軽薄さなど、よく現していた。
 なお「筆法伝授」の口は津国大夫に龍聿と清丈が交替で勤め、二人とも音もしっかりしてきた。
 また「築地」は文字久大夫に喜一朗と団吾が交替で。文字久大夫は動きがあり、人物の描き分けも前回より進歩著しい。
 喜一朗は生き生きと力強く、団吾は繊細なれど芯のある音色で、よく太夫を生かした。
 これに対し、千歳大夫は、最初声があまりに苦しそうで危ぶんだが、千秋楽には見事に復調し、さらに切腹のくだりでは息をのんだ。
 だが、最も困難なのは、白太夫の嘆きの意味である。
 ここでは、主君を失墜させたという意味では、桜丸の切腹は免れ得ない。
 しかし、白太夫の七十の「賀の祝」をすることは主君の意志でありそれをおろそかにはできない。
 その迷いは、「車曳」で咲甫大夫がすでに明確に示している。白太夫は、それと知りつつなお息子を助けたいため、その許しを神に祈願し、求めようとする。
 だが、現れる兆候は、どれもそれを許さないものとしか思われない。死すべき運命から逃れることができないと、悲しい覚悟を決めざるを得ないのである。そこを納得させるのは難しい。

 千歳大夫は、白太夫と八重の泣きでそれを伝えようとした。
 そして段切れまで、弛緩なくこの父の嘆きを持続させたのは見事である。よく演じたと思う。
 だがこれは、師の越路大夫が引退の折に語った型であり、彼にはまだまだ上を目指してもらいたい。大きくなろうとする者には、克服すべき課題もまた大きいのだ。
 和生の桜丸は、自らの運命を受け入れた静かさが胸を打つ。だがもう一歩、桜丸の強い姿勢を見せて欲しかった気もする。
 紋寿の八重は、幼な妻のおぼこさ、やさしさ、愛らしさと、この悲しみの対比が見事である。

 これに先立つ「茶筅酒」の松香大夫と団七は、ほっこりと花のほころぶやさしさとでもいえようか。3人の嫁たちのむつまじさ、愛らしさ、一暢の白太夫の好人物ぶりを的確に描き、この悲劇の前に心休まるひとときを作ってくれた。
 「喧嘩」は千歳大夫にかわり文字久大夫、宗助。文字久大夫は語りが大きくなった。梅王と松王の描き方がうまい。
 そして玉女の梅王の力強さ。長男であるゆえに、最も屈折が少なく、それゆえ真っ正直に感情を表現する。動きも生き生きとしている。
 特に「切腹」の段切れで、そっと下手で簑太郎の春と手を合わせるところが、何ともいえない風情を感じる。

 あと、簡単に印象のみ記す。
 「加茂堤」では新大夫の松王がよい。力があり、重さが表現できている。
始大夫は安定感がでてきた。
 つばさ大夫、相子大夫はまっすぐに声を出している。
 貴大夫の桜丸と南都大夫の八重、さすがに一味違う。八重の愛らしさと幼さの表出が巧み。
 人形では文司の希世が巧み。御台所の亀次も的確。

 第二部の「車曳」では津国の時平の大笑いに自然に拍手が起こり、咲甫大夫の桜丸は切腹にいたる重要な伏線を、若々しく思いを込める。
 睦大夫の杉王丸も勢いある語り。
 「天拝山」の伊達大夫、寛治。幕開きの牛の講釈はこの人ならでは。
 一転して雷神に変身する後半は、虐げられる正義から復讐する正義への大転換。

 「寺入り」は呂勢大夫、清志郎と清馗。さわやかに、控えめに語り、弾く。
 勘緑の春藤玄蕃は、権力をかさに着るいやらしさまで見せる。
 紋若の小太郎のけなげさ、紋秀の菅秀才の行儀よさ。

 舞台が終わったあと、ずっしりとした手ごたえを感じた。
そして、これほど内容ある舞台であったにもかかわらず、私には、英大夫がまだまだいける、と思わずにおれなかった。
 祖父若大夫や,師越路大夫、亡き呂大夫らを受け継ぎつつ、なおそれにとどまらない、彼自身の「寺子屋」が、この後にまだ完成されていくような、そんな予感である。
 彼は、文楽に呼ばれている。
 その奥にあるものを、形をとって聞かせるために。
 そして私たちも、そのはるかな呼び声を聞くために、また劇場へと足を運ばずにおれないだろう。私たちを魅了してやまない、そこに結集された力と命の限りを尽くした舞台に出会うために。

癒しの力、試練の輝き――2002年正月公演によせて

森田美芽

 私たちは倦み疲れる。日々のわずらいに、終わりの見えない労苦に、報いられることもない誤解と偏見による心の傷に。癒し系という言葉を最近よく聞く。だが、悲しみが深いほど、簡単には癒されない。
 本当に癒す力をもつのは、私たちより上の存在だけである。私たちの苦しみを知り、しかもそれに打ちひしがれず、勇気と希望を与えてくれる力。もし私たちの心が文楽を見て癒しを感じるというなら、それは彼らの美と芸に対する鍛えられた力とそこに表された成果のためである。

 正月公演、初芝居という響きには、そうした私たちの戦いの日々をほんの少し逃れることのできる響きがある。苦しければ苦しいほど、そうした美しい、華やかな世界に触れて一時、それを忘れたくなる。癒す側の苦しみ、葛藤など、何一つ思い出すこともなく。

 第一部「寿柱立万歳」。新年を寿ぐ万歳は、太夫が勘寿、才三を一暢。ベテランらしい、ゆったり、飄々とした遣いぶり。千歳大夫はまだ声が濁ることがあるが、少しずつ回復してきた。津国大夫は相変わらず生真面目な芸風で、何かこの太夫と才三は、役が反対のような気もした。三味線は団七がまとめ、弥三郎、清太郎らもきっちりと勘所を押えた弾きぶり。

 「国性爺合戦」の通し。様々な魅力に溢れている。

 「平戸浜伝い」掛け合いでは松香大夫が一歩抜きん出る。三輪大夫の小むつも厚みがある。喜左衛門が若手の三味線を鍛え、率いる。

 「千里が竹虎狩り」口は御簾内で呂勢大夫、清太郎。明快なことばが歯切れよく響く。奥、伊達大夫、清友、ツレ清丈、寛太郎。この段の不条理さ、時代はずれなところまで面白く聞かせる。

 「楼門」津駒大夫の第一声を聞いて、これをどう感じればいいのか、と迷った。6年前、彼の師匠であった故呂大夫のその段を聞いたとき、言葉とともに風格が、意味だけでなくそこの場所が、世界が立ち上ってくるような気がした。全くの素人の耳にも、「風」という言葉が、たとえ十分理解できないにせよ、確かにあるのだ、と感じさせるものだった。

 力の差、といえばどうしようもないのかもしれない。だが、津駒は、おそらく自分のいまの力が師匠に及ばぬと知りつつ、臆せず、力いっぱい語った。この試練が、いまの自分の力を超えたものと知りつつ、そこに自分の語るべき道を見出そうとした。後半の錦祥女のくどき、老一官妻の嘆きが胸にじんと響いてきた。鶴澤寛治の三味線が、こうした彼の語りを支え、引き上げ、輝かせる。なんと柔かく、馥郁たる音の群れであることか。

 「甘輝館」住大夫、錦糸。甘輝と錦祥女のやりとりが胸にこたえる。義理とは男性の論理であるとつくづく思う。こうした説得力をもつのは、やはり若い人では駄目なのだ。

 「紅流し」十九大夫、清治。あふれる音、みなぎる力。女の犠牲の上に成り立つ男の義。人形では、まず玉女の和藤内。まっすぐに伸びた大きさ。力にあふれ、意気盛ん。それだけでなく、「平戸浜伝い」からこの男の清冽な誠実さを感じさせた。智に優れ、武勇に勝り、義に感じるというだけではない、この男の隠れた真実の一つを見せてもらった気がする。

 これに対し、簑太郎の和藤内は、大団七のかしらの持つ若々しさ、やんちゃともいえるような溢れる力と確かな人物描写が魅力的であった。簑助の錦祥女、「楼門」でのあの気品。動かずしてすべてを伝える美しさ。「甘輝館」で夫の手にかかろうとする潔さ、協力を断られての打ち沈んだ横顔、そして決意。手負いになってからのけなげさ。まことに女性の犠牲の力として表現しようとしたもののすべてを、この人は伝えられたのだと思う。文雀の一官妻。品位と誇り。玉幸の老一官、古武士の実直。文吾の甘輝、和藤内の血気に対照的 な落ち着きと大きさある大将軍の位。今回の「国性爺」は、ベテランの力が若手の挑戦を受けてそれを花開かせた、という気がする。

 第二部は「嬢景清八島日記」で始まる。「花菱屋」は咲大夫、富助。幕開きの花菱屋女房のわわしさと長の鷹揚さ、肝煎佐治太夫といった一筋縄ではいかない廓の人物像を厚みをもって描く。実際、この物語は、娘糸滝の献身が、こうした色町の経済の論理に立ち向かい、それを動かすという、ある意味での夢物語なのだ。その説得力を作り出したのは、さすがに咲大夫と富助、そして紋寿の娘糸滝である。14歳の娘のけなげさ、一途さが、こうした生き馬の目を抜く、残酷な経済性の論理に勝つという奇跡を納得させる遣い振りであった。花菱屋の長は玉松、白太夫かしらの人のよさ。女房の勘寿は、夫のふがいなさに手を焼きつつ店を切り回すしっかり者と見た。「八百屋」の婆とも似ているが、最後に店の者に負けじと年を負けてやるところが、なんとも憎めない心地よさ。つくづく勘寿は貴重な人だと思う。肝煎佐治太夫は玉幸。駆け引きの抜け目なさと、こうした商売には珍しい人情味という役どころを納得させる。

 そして「日向嶋」は綱大夫、清二郎。人形は玉男の景清。「俊寛」よりもさらにすさまじい境涯。盲目の乞食と成り果てても、鎌倉への帰順を拒む武将景清の、意地と誇り。その彼の心の拠り所は、重盛の位牌。花を手向け、合掌する、にじみ出る口惜しさ、無念。この男を生かしてきたのは、この誇りと意地にほかならない。ところが、そこに糸滝と佐治大夫が現われ、初めて親子の絆にめざめる。しかし、糸滝が百姓に嫁入りすると聞き、再び誇りを捨てるよりはと娘を突き放す。まるで自分自身の誇りを傷つけられたように。しかしそれでも、別れ際に父としての心を抑えがたく手を振る景清。そして娘の犠牲を知って歯噛みする景清。自分を支え続けたものが、いま、一人娘をさえ犠牲にしてしまったことへの嘆き。幕切れに、降参の船からかの位牌を落とすところは、彼の絶望の深さか、あるいはこの世の価値のはかなさか、自ら身を投げようとしたのか、いくつもの解釈が可能になる。それでいて理屈ぬきに胸を打つ。こうした景清をみることの出来た幸いを思う。

「お夏清十郎・寿連理の松」

 一暢のお梅。愛らしくまめまめしい働き者と存外の気の強さ。清之助のお夏。むしろ、お染を連想させる。恋する男以外は何も見えない情熱、愛らしさ。和生の清十郎には、たよりない色男の歯がゆささえ感じる。玉女の手代太左衛門、憎まれ役が生きている。しかしこういう役では、簑太郎のうまさが勝る。吉田幸助の遣った小半親方。その足遣いの生き生きとした足の運びに、ふと何かが目覚めた。白い足。そのたった一つのゆえに忘れがたいものが残る。亀次の母おかね。この人はこうした脇役でも貴重な一人となっている。大阪の後家の風情を的確に遣う。存在感を出せる人だと思う。文吾、余裕で遣う貫禄。最後に玉也の親徳左衛門が最後に出て、丸く収まる。とはいえ、二人の女の一方を本妻、一方を妾という発想は、やはり無理がある。とはいえ、これは昔の人の夢ではないか、と思った。死をもって愛を遂げようとする悲劇のやるせなさに対し、「一人も死ななかっためでたさ」というのは、現代人の感覚ではついていきにくい面は残る。嶋大夫、清介はけっして出来のよい物語でないものでも、登場人物のおもしろさ、情味、風情を実力で聞かせてくれる。

「伊達娘恋緋鹿子」

 たった10分の、一幅の絵のような、そこに凝縮された、娘の一生といのち。英大夫は短い言葉に命を吹き込む。言葉が生きて輝き始める。始大夫、睦大夫はその一言に気合を込めて語る。そして燕二郎に率いられる三味線が、充実した音のうねりを聞かせる。清志郎と清丈も、生き生きと、若さのまっすぐに届くような音色。まるでお七が、自分のしでかそうとすることに酔っているかのように。人形は前半は玉英、後半は簑二郎と、研修生の優等生コンビ。玉英は実力者で、きっちりと遣っているし、簑二郎も形をくずさない。千秋楽には、お七の不安、決意、必死さ、そして半鐘を鳴らし、降りてくるときの放心したような風情、一つ一つを感じられた。しかし両者とも、恋のゆえに禁を破り、死を覚悟した娘のすさまじさ、それを型の一つ一つを通して伝えるという点では、課題を残したように思う。

 降りしきる雪。三挺三枚、精選された三味線の響き、底から響いてくるような音の厚み。耳から来るものの充実が、魂を深い深いところで満たしていく。降りしきる音、降りしきる声、舞台が終わっても、まだ現実に戻りたくないと思わせるほど、何かを揺さぶってやまない、音と声の競演。ことばが言葉でありつつ、それを越えて語りかけてくるもの。彼らはそれを取り次いでいる。それは天上の真理ではなく、現に生きている人の、心からなることばの奥にあるもの。それと名状しがたい、言葉にすることをはばかられる、心の内なる埋もれた気高い真珠のようなものである。

 彼らの営みとは、命をかけて、人の『喜び』を作り出し、芸を継承し、自らを人にさらし続けることである。

 等しい精神のみが精神を理解する、と『精神現象学』のなかでヘーゲルは語る。私たちが何かを見えるようになるのは、そのことを理解できるよう、導いてくれた人がいるからだ。技芸員の方々は、ただ与え続けてくれている。観客がそこで行われていることが理解できるようになるまで、ただ黙っておのれの芸の完成に向かって精進し、私たちがそれを見出すのを待ってくれている。私たちは、彼らを見ているのでなく、見ることができるようにされているのだ。彼らを通して、その狭い、細い唯一つの道を行くような、そんな音と声の軌跡を心に刻むのだ。

 たとえその時はわからなくても、目にした、耳にしたそのことが、後の日に深い意味を結晶させることがある。たとえば、私が27年前に聞いた故鶴澤燕三師匠の「新口村」(注:1975年8月南座、13代片岡仁左衛門の歌舞伎公演に出演されたおりのこと、太夫は織〔現・綱〕大夫)が、ただ一度の燕三師匠との出会いであったにもかかわらず、これこそ三味線の音という、深い音色を刻みつけたように。また6年前に聞いた故呂大夫の「楼門」が、いまも心を離れないように。そしていま、燕三師匠の愛弟子の燕二郎が、その音の核を受け継いでいるのを感じ、胸の震えるような喜びと期待を禁じえない。

 彼らのいまを共にしていることを喜び、失われたものを嘆くのでなく、彼らの歩みに心を用いよう。その歩みは長く、完成は遠く、彼らの時を知るのは、その歩みを共にすることによってしかないのだから。癒しとは、そのなかに生まれてくる、生きる力にほかならないのだから。

意味の迷宮―近松半二「本朝廿四孝」の世界

森田美芽

 半二の作劇法のひとつに、対位法がある。一人の人物はもう一人と符合し、裏表あるいは真実と影の関係に対比される。
 さらに男の野心と女の恋、親の義理と犠牲になる子。こうした関係が輻輳して繰り返され、劇としての序破急を作り出す。
 一見親不孝なならず者が実はこの上ない親孝行者であったり、貧しい百姓に身をやつした男が実は重臣となり、車遣いは君主の子で武家の嫡男が実は家臣の取替え子である。

 同じ名を持つ2人の弾正は、長尾と武田を治める執権同士。
 一人の人間はその一人に留まるのでなく、だれかの影であり、もう一人の自分、ドッペルゲンガーである。
 近代の自己意識は自分を唯一の人間としてしか意識しない。半二の世界では、人は二つの可能性をもち、そのどちらでもあり、どちらでもない。そこに人間の運命を見る。

 私は私であって、なおかつもう一人の私がそこにいる。自分がたどるはずの運命を誰かが肩代わりし、自分が遂げることの出来なかった愛を誰かが実現する。その陰でそれらのすべてを操る陰の演出家が存在する。
 運命が回転し、人は思いもよらぬ方向へと自分の生を向けられる。
 その中で、無垢なる者が犠牲となっていく。
 痛ましい犠牲、愛の重さ、それらをこえて歴史を作り出す力の本質が存在する。

 わけても二段目、勝頼切腹の段の痛ましさ。自ら死を選んだ運命の青年。彼は自分が本当は誰であるかを知っていたのだろうか。知っていてなお自死を選んだであろうか。誰が自分を死に至らしめた張本人であるか、その陰謀をはかったのは誰か、彼は誰一人責めず、ただ自分を犠牲とすることで、彼を死に至らしめたものの惨さを無言で非難している。
 彼だけが、負い目なしに純粋であることができる。若さの純粋さと老獪の対比。

 もう一つ、この物語は、濡衣の運命の物語でもある。
 将軍暗殺の真犯人の娘、武田の奥女中として贋勝頼と通じ、しかも真の勝頼とともに長尾のスパイになる。彼女の正体は物語のなかで謎に包まれていながら、実は自らが契った贋勝頼への貞女であり、その点で八重垣姫と恋の表裏を演じている。
 彼女は自らの恋人に生き写しの、しかもいまは別の姿に身をやつしている、自分の恋人がそのために死んだ主君の息子と同志の関係で、しかも使命を果たすために、いまの主君の八重垣姫を利用しようとする。
 実はこの女こそ、陰の主役という気がしてならなかった。

 半二のもう一つの主題は、土地の神と伝説即ち土地の力、そして女の恋の情念のもつ力である。
 『妹背山婦女庭訓』の大和、『奥州安達原』の奥州、『日高川入相花王』の熊野、そしてお三輪、清姫の恋と犠牲。そして「廿四孝」では、諏訪の神と八重垣姫。

 いくつもの屈折を経た関係のなかで、唯一真実に思われるのは八重垣姫の勝頼への一途な愛である。
 彼女はそのゆえに狐に憑かれ、あられもない狂態を示す。昔の人は、高貴の姫君が、恋に憑かれて狐憑きになることを、下世話な意味でも面白がったに違いない。
 だが、高貴の姫といえど恋する上は何の変わりもない。
 何より「例へ狐は渡らずとも、夫を想ふ念力に神の力も加わる兜」これが奇跡の意味である。男の権力への野心が引き裂いた世界を救うのは、女の一途な恋の情念である。

 これに比べて、勘助住家のくだりは、どうしても現代では受け入れにくい感覚が残る。
 孝行者の弟より、ならず者の兄を偏愛する母。そのゆえに自らの愛児を捨てさせられる弟。その彼も、忠義を全うするために自分の子を殺す。この場で心底感情移入できるのは、紋寿の遣ったお種であった。

 舞台そのものについては、いろいろと心に堪えるものはあったが、それを越えて一つに繋ぐ主題がまだ見出せていないので、印象のみを記す。

 まず吉田簑助の八重垣姫。正直言って、やはり、多くを望んではならないのだ、と思わされた。
 確かに美しい。だが、以前なら、じっと座って控えている時でさえ、なにかみなぎるものがあった。役になりきったその緊張感、性根ともいうものが、それを支える精神性が確かにあった。いまは、それが見えなかった。
 だが、体は動いている。よくあれほどまでに回復できたと思う。いや、それだけではない。「狐火」の激しさ。単なる約束事ではない、あの動き。
 それを支えたのは、練達の左遣いと気鋭の足遣いの力ではなかったか。

 『狐火』の左は前半が清之助、後半が蓑太郎、簑助門下の最精鋭にして次代の立女方の二人。師匠のどんな動きにも瞬時に的確に反応し、師匠をサポートする。何の不自然さも感じさせないばかりか、まるで八重垣姫自身が動き出しているように、その動きから目が離せない。
 後半の足の簑紫郎。若さと情熱そのままに、激しい動きは最後まで衰えない。何という師弟の絆、そこに生まれるものの美しさ。そして段切れの狐を従えてのきまり。
 玉佳、紋秀、紋若、簑次。一糸乱れぬその美しさにため息をつく。これは簑助一門の総力を示した「狐火」であると思った。

 玉女の武田信玄、勘寿の長尾謙信。玉女は一筋縄ではいかぬ法体の信玄の大きさと智謀を、勘寿は腹に一物の謙信の老獪さを描く。和生の高坂妻唐織、武家の奥方の品位と、それでいて夫の策謀に加担する冷徹さがよい。
 勘弥の越名妻入江、八汐首の意地悪さと悪のおかしみ。玉女の高坂弾正、大きく品位あり。文司の越名弾正、金時の強さと単純さ、よい性根を表現している。彼らは十分に力を発揮した。

 簑太郎の常盤井御前、奥方の品位と母の思い。
 勘緑の村上義清、武人の荒々しさと抜け目なさを大きく遣う。
 清之助の盲勝頼、出色の出来。この青年の純粋さがこの物語の要諦である。
 玉也の板垣兵部、陰謀をめぐらしながらどこかそれに徹しきれず、息子を亡くしたと聞いて嘆くあたりに人間味を感じさせる。
 玉輝の花守り関兵衛実は斎藤道三、まだ謎めいたこの人物を描ききれてないが、実直に遣っていると見た。

 床では、「諏訪明神百度石」の咲甫大夫の開口一番がしっかりと聞けた。声に厚みも出てきたように思う。
 車遣いや供侍の演じるのは若手3人組、相子大夫、つばさ大夫、睦大夫。こうした動きのある詞では相子がうまい。つばさは声を少し痛めているようだが、まっすぐに声を出そうとする姿勢がよい。睦はどの役のときもよく勉強している。
 始大夫、新大夫、短いがしっかりと語っている。三輪大夫、さすがにこの短い場で存在感を出す。松香大夫はこうした人物像を的確に描く地力がある。

 「桔梗が原の段」口、貴大夫、弥三郎。伊達大夫、寛治の前場で選ばれたのであろう。前受けを狙わず、忠実で丁寧、実力派の両者にふさわしい。
 貴大夫はとりたてて美声というわけでないのに、ふと気づくと物語の世界に引き込まれているのを感じる。
 伊達大夫、寛治は無論持ち味が自在に現れているのだが、伊達の声も衰えが隠せないし、寛治もかつての馥郁たる音色の妙にかげりがある。

 「景勝下駄」は失礼ながら省略。(十分集中できなかったので)
 「勘助住家」住大夫はこうした情味と義理の内容を語るのは確かに地力であろう。だが、最前列の中ほどにいて、やはり不分明に聞こえる部分があった。さすがに詞は見事。錦糸の三味線はあでやかに美しい。
 後半の十九大夫、清治。十九大夫は段切れの言葉のたたみかけるような強さはあるが、それが十分なカタルシスに至らないのは、内容のせいでもあろうか。清治の三味線はこうした迫力を十二分に堪能させてくれる。

 二部、信玄館。御簾内の咲甫大夫、喜一朗。マクラも明確で気合の入った語り。「村上上使」英大夫、宗助。
 英は声も語りも好調。短くとも、村上義清、常盤井それぞれの思いを的確に伝える。村上の武辺者ながらの抜け目なさ、常盤井を追い詰めるやりとり、朝顔を切る風流。
 「勝頼切腹」は綱大夫、清二郎。清二郎の三味線が印象深い。そしてこうした複雑なからくりの上のからくりといった内容なら、綱大夫にふさわしい。

 四段目、「道行似合の女夫丸」津駒大夫はこの場の中心。さすがに聞かせるものがある。
 津国大夫は道行き向けの声ではないが真正直。団七、清友ら、息の会った美音を合わせる。

 「謙信館景勝上使」文字久大夫、清太郎。文字久も努力し、真面目に語っているが、人物の描き分けなどあと少し、という気がしてならない。
 「鉄砲渡し」呂勢大夫、清志郎。最初、呂勢には首をかしげた。何かが違う。無論この場は、ここだけ別の流れであるため、処理しにくいと思ったが、どうも十分人物の性根が見えなかった。

 「十種香」嶋大夫、清介。さすがに嶋大夫の十八番、たっぷりと聞かせてくれる。「呼ぶは生あるならいぞや」の美しさと切なさ。ここでも清介の三味線が光る。

 「奥庭狐火」千歳大夫、燕二郎。単に声がかすれて聞き苦しいというのでない、なにか無理やりに作って押し出している声で、八重垣姫の一途さも神の奇跡も伝わってこない。期待される人だけに、いまは十分自重してほしい。

 全体として、成果は十分あったものの、何か、もう一歩突き抜けた何かに届いていない気がする。
 もう水は杯に溢れんばかりになっている。あと一滴で、すべてが変わる。そんな時が近づいているように思われてならなかった。

魂を呼ぶ声――2001年夏公演によせて

 まるで、英大夫の声が、死者の魂に呼びかけ、亡き呂大夫がそれに応え、その魂の交流が、彼に新しい団七像を作り出させたかのように思われた。

 義平次の伊達大夫、いまやこの人のほかに、こうした汚れ役、庶民の悪のいやらしさをここまで表現できる人はいまい。義平次を作り出しているのではない、義平次そのもの。
 そして要所要所を決める寛治の三味線。もはや「遊ぶ」ともいうべき余裕の表情。こうした名人に支えられて、英大夫は鮮烈な団七を創造しえた。

 簑太郎の向こうには、父勘十郎が重なる。私は勘十郎の団七を見たことがない。
 だが、大胆にして細心、隅々まで計算された簑太郎の団七には、父を受け継ぎつつ父を超えようとする意欲がみなぎっている。 玉女には、義平次を遣う師匠玉男が。玉女のなかで、立役として長年鍛え上げられた技が、力が、師のリードに合わせ、それを受け止め、共に一つの舞台を作り上げていく。

 先人を、死者を越えていく、というより、それを心に置きつつ、対話し、自己の創造の原点としていく。
 儀式としての慰霊などではなく、文楽が、その芸の伝承の働きそのものが、そうした生ける者と死せる者をつなぐ、私たちの根本的な精神の営みを表わしているのではないだろうか。

森田美芽

 日本では、8月は死者の月である。真昼日の強烈な日差しがじりじりと照りつけ、あえぐ ように家路をたどれば、夕刻の凪の蒸し暑さ。
 命の弱ったものから容赦なく残った力を奪 っていく、残酷なまでの大阪の夏。

 夏祭の起源は、疫病や風水害をもたらす、あらぶる、 祟る神を鎮めるためであった。
 古代には、その神は多くは遺恨を持って死ななければなら なかった人間であった。現代でも、かの戦争での、原子爆弾での、また戦地での夥しい死 を見送った夏。
 そして盂蘭盆会。死者の、祖霊と現世の者が出会い、しばしの交わりを持 ったのち、火に送られてまた死者の国に帰っていく。自らの命の根源に触れる季節である。

 文楽の夏公演を見ながら、そうしたわれわれの先祖の過ごした夏に思いをいたした。
 考 えてみれば、第一部は金太郎という身近なヒーローだが、彼は山姥と武将の間に出来た超自 然的力の持ち主であり、『鼠のそうし』は異類の悟りであり、二部の「日蓮上人御法海」は 中世の死生観というふうに、われわれの日常を超えた力との交わりを扱っている。

 そのな かで、そうした世界に最も遠いように見える「夏祭浪花鑑」が、まるで見えない力に導か れているように、そうした死者との関わりを思い出させた。

 第一部の「金太郎の大蜘蛛退治」では、清之助の金太郎、玉輝の鬼童丸、玉志の源頼光。
 清之助の金太郎は、腹掛けこそしているが、かしらは鬼若、13,4歳であろうか、少年 の持つ力の不思議さ、生命力にふさわしい遣い方。
 玉志も着実で、危なげない。
 玉輝は力 のいるこの場の蜘蛛を、怪異に見せる実力者。文楽を始めて見る子供たちも、この蜘蛛を たった3人であれほど自在に操っていることに驚異の念を持ったに違いない。
 つまり、文 楽における金太郎は、子供向けの絵本にあるほのぼのとした自然児ではなく、異形の力を 受け継ぎ怪異と戦う超自然的なものの系列に置かれることを納得させた。
 三輪大夫、南都 大夫、呂勢大夫、相子大夫、清介、清太郎、清馗、清丈。清々しい床。

 「鼠のそうし」鼠の若様の願いは、人間になること。彼はそのために、自分の正体を隠 して人間の姫君と結婚しようとするが、婚礼の夜、はからずも鼠であることを露呈してし まう。
 それも食欲という、どうしようもない弱さのゆえに。
 性と食、生あるものの宿命、その弱さ。それをどう超えてゆくかが悟りの意義である。
 彼は高野山に向かい、出家を願うが、その先は猫の上人。
 彼は、自分の運命を変えること はできないという事実を、自分と自分の属する者たちの中で、受け止めなおし、承認する。
静かに極楽浄土へと導かれていく。
 一暢の鼠、軽やかにして気品あり。玉也の郎党、ひょうきんな味わい。人形は手堅い出 来である。
 嶋大夫、津駒大夫、貴大夫、睦大夫に団七、清友、団吾、龍聿。劇的な起伏が 少ない、地味な芝居だが、それも子供向けとはいいながら、内容ある舞台を作り出してい る。

 第二部は40年ぶりという「日蓮上人御法海」と「勧進帳」。

 まず「日蓮上人御法海」。貧しさゆえに殺生禁止の区域で魚を捕ったため捕われた漁師勘 作の一家の悲劇。
 今日中に身代金を整えなければ勘作は処刑される。
 そこへ勘作の子を100 両で引き取る話がもちあがる。これ幸いと喜ぶ母、いじらしい倅経市。
 玉一郎がこのとこ ろ子役でも力を発揮し始めたのが嬉しい。
 玉也の本間六郎左衛門、実直な武士の、それで も自分の子のために人をだます悲しみを感じさせる。
 お伝が帰ってきて真相を知った母は 自分の早合点を嘆き、ついに自害する。
 勘寿の勘作母、息子を救いたい一心で、よく確か めもせず孫を犠牲にした嘆きのいたましさ。
 玉女の勘作。人形で死者の雰囲気を出す。一 目で生気がないのがわかる。
 たった一日のうちに、夫も子も姑まで失ったお伝の嘆き。
 文 雀はこうした悲劇の母親像が見事。
 玉男の日蓮上人が出て、それで大団円。水葬の亡骸を鵜がついばむ。題目の奇跡は、今 日では救いとは呼べないかもしれない。だが、人が生きるために他の生あるものを犠牲に せざるを得ない、そして死ねば逆に自分も他の生あるものの糧とされる。生あるものの宿 業。
 昔の人は、そこに慰めを見出したであろうか。
 中、千歳大夫、燕二郎。切、綱大夫、 清二郎。
 さすがに浄瑠璃の骨格を備えた語り。ただ、千歳大夫には、声を大切にして欲し い。

 「勧進帳」太夫と三味線がこれほど並ぶのは壮観である。
 十九大夫、咲大夫、清治は磐 石の構え。呂勢大夫も健闘している。
 文字栄大夫、新大夫、始大夫、咲甫大夫の四天王。 それぞれの持ち味が出ている。
 富助以下の三味線も一糸乱れぬ呼吸。
 文吾の弁慶、玉幸の富樫、紋寿の義経。
 実力派同士の顔合わせで、見ごたえある舞台と なった。

 文吾の弁慶は貫禄、玉幸の富樫は、頑固な忠義者。
 清之助の伊勢、勘弥の駿河、 清五郎の片岡、形よくさわやか。亀次の常陸坊は存在感がある。

 「夏祭浪花鑑」なんと大阪らしい芝居であろうか。なんの超自然的なこともない、市井 の底辺に生きる人々、男伊達という生き方。
 今でいえば極道と思われるが、いささか意味 が違う。
 今も昔も権力に泣かされるのはもっとも弱い庶民だが、それを助け権力と戦うの が男伊達である。
 いまも大阪弁で言うところの「やんちゃ」。彼らには彼らのおきてがある。
 男が立たないとは彼らの世界の恥辱である。それは、恩や義理ある人を裏切らないことで あり、弱い者をいじめる小悪をこらしめることであり、仲間内の義理を守ることである。
 それが、確かに大阪の庶民にとっての一つの美学であり容認された生き方であったのは、 そんなに遠いことではない。
 むしろ今のように、個人が個人だけの力で生きて行けるよう な社会の方がまれであろう。
 そして現代は、お金の力が人の結びつきに代わり、義理も恩 も考えずにすむという点で、こうした生き方は理解不可能になりつつあるのかもしれない。
 外部と内部のない、世間のない、自らの欲望しか見えない現代人のメンタリティーには遠 いものかもしれない。

 「住吉鳥居前」口、津国大夫、弥三郎。津国大夫の語りが心に触れてくる。大阪の下町 の庶民の風情を情深く描く。
 泥臭い、だが庶民の生活感と心情に触れる語り。「江戸を見ぬ 者と牢にはいらぬ者は男の中の男じゃないわい。」という三婦の親父らしさ、お梶の女房ぶ り。弥三郎も手堅い。
 後、松香大夫、喜左衛門。三婦の表現が見事。
 こうした味わいはや はり年功か。
 玉幸の三婦。こうした下町の親父を描いては逸品。一暢のお梶。団七と徳兵 衛をさばく姉御肌のきっぱりしたところが小気味いい。
 こっぱの権、なまの八は勘緑、清 三郎。いきいきとバランスよく遣っていて楽しい。
 大鳥佐賀右衛門は幸助。権力を嵩に来 たいやなやつ、という役どころをうまく遣った。
 文吾の一寸徳兵衛。団七と張り合うとこ ろが若々しい力に満ちている。
 「釣船三婦内」口、文字久大夫、喜一朗。丁寧で、祭りの浮き立つような気分が出てい る。
 磯之丞と琴浦の、すねたじゃれあいが、ほほえましく感じる。「据え膳と河豚汁を食わ ぬは男のうちではないわい。」などと強がるあたりが、いかにもおぼっちゃんである。
 勘寿 がいい味を出している。
 琴浦は和生。傾城といっても、うぶな生娘にも見える。
 三婦の女 房おつぎには紋寿。亭主の気性を飲み込み、下の者からは姉さんと慕われる、しっかり女 房の典型である。
 簑助のお辰。日傘に日差しを避けながら、扇子をゆったり動かす。今回のお辰は、鉄火 と心意気の極道の妻というより、やさしさ、女らしさを併せ持つ面がより強く出ていた。
 磯之丞を預けられないといわれ、三婦に立ち向かう心意気。
 色気があるゆえ義理を欠くか もしれない。
 思い余って鉄弓を顔に押し付ける。
 その一瞬のためらいが、心の震え、この 女の、いじらしさとけなげさを思わせる。そして傷ついた顔を、そっと隠す恥じらいも。
 切の住大夫、錦糸。さすが、こうした世話場を語らせては、右に出るものはない。
 奥を咲 甫大夫、清志郎の若手に取らせ、一気呵成に幕切れへと導く。
 咲甫は人物の変わり、勢い などよく勉強している。あとはこうした世話物の風情をよりよく学んで欲しい。
 「長町裏」。前にこの芝居がかかった97年夏、この場の団七は呂大夫、義平次は相生大 夫であった。その見事さを忘れることはできない。
 文楽は古典。そして古典には、ゆるぎ ない権威と正統がある。
 呂大夫も相生大夫も、その古典としてのあるべき姿の一つを、納 得させてくれた。文楽は、取り返しのつかない人をなくしたのだ、といまさらながら思い 知らされている。
 そして今回、呂大夫の弟のような英が団七を語る。簑太郎と玉女がダブ ルキャストで団七を遣う。
 今、伸び盛りの中堅層の、花ある競演。
 この舞台を聞いて、不思議なことだが、私には、英大夫が、故呂大夫と呼び交わしてい るような気がした。
 今回の英大夫は、4月の又助以来の「男」の表現の集大成のようであ る。
 低く強い男の声で、瞬発力と持久力をもち、男らしさ、耐え忍ぶ強さ、爆発する強さ を表現する。
 そして掛け合いの呼吸、大きさ、幾重にも重なった思いが、彼としての団七 の表現を示している。
 男として侮辱され、出自をけなされる悔しさ、それでも親だからと 必死に耐え忍ぶ。
 そして堪忍袋の緒が切れる、その瞬間の絶妙さ。
 一度はとどまりながら、 「毒食わば皿」となってしまう。

 ゆっくりとしたメリヤスにのせて、スローモーションで 見せるような殺し場。
 「ちょうさじゃ、ようさじゃ」という掛け声と共に、花道からつめ人 形のかつぐ神輿が出てくる。
 まるで、この場面全体が、真夏の夜の夢であるかのような錯 覚を抱いた。
 その祭りの喧騒に紛れ、しかしふと心づく。
 「悪い人でも舅は親」の叫び。
 な ぜこの手にかけてしまったのか。
 祭囃子の焼け付くようなリズムが、暑さが、理性を失わ せる。
 心の奥では願っていたかもしれない、しかしそれを自分の手で、勢いで、犯してし まったという、その悪夢のような瞬間。後悔、戸惑い、恐れ、おののき、それらのすべて が込められた一言。
 それはまるで、英大夫の声が、死者の魂に呼びかけ、亡き呂大夫がそ れに応え、その魂の交流が、彼に新しい団七像を作り出させたかのように思われた。

 義平次の伊達大夫、いまやこの人のほかに、こうした汚れ役、庶民の悪のいやらしさを ここまで表現できる人はいまい。
 義平次を作り出しているのではない、義平次そのもの。

 そして要所要所を決める寛治の三味線。もはや「遊ぶ」ともいうべき余裕の表情。
 こうし た名人に支えられて、英大夫は鮮烈な団七を創造しえた。

 そして人形。玉女の団七は大きさと勢いを、簑太郎の団七は、男の色気と無念をより強 く感じさせた。
 簑太郎の団七は、隅々まで解釈が行き届いており、些細なふりでも団七の 心情を強く感じさせる。
 碇床でのさわやかな登場も、徳兵衛との立引きも、義平次との必 死のやりとりも。
 その刺青の体が、極道の無残さよりも、色気を感じさせる。
 これは、簑 太郎の感性と技術と創造的意欲が作り出した団七である。

 これに対し、玉女の団七は、な によりもその呼吸が、その勢いが団七そのものである。まっすぐに団七という役にはまっ ている。
 そして簑太郎の向こうには、なぜか父勘十郎が重なるように思われた。私は勘十郎の団 七を見たことがない。
 だが、大胆にして細心、隅々まで計算された簑太郎の団七には、父 を受け継ぎつつ父を超えようとする意欲がみなぎっているように思えた。
 そして玉女には、 義平次を遣う師匠玉男が。これが、師匠の弟子に対しての最大の贈り物。
 玉女のなかで、 立役として長年鍛え上げられた技が、力が、師のリードに合わせ、それを受け止め、共に 一つの舞台を作り上げていく。
 玉男の義平次。師匠もまた、愛弟子に伝えようと持てるものを出し切る。
 だが、それ以 上に、簑太郎にも玉女にも、十分に遣わせ、その表現を十分に引き出させる。
 なおかつ自 在に義平次を遣う。
 その中に生まれるものが、彼らの団七を生かしめている、そんな風に 思われてならなかった。

 こうして、文楽の芸は受け継がれてゆくのだろう。
 だが、それだけではない。彼らはも う一度、それを自分の手で受け取り直し、創造し直すのだ。
 彼らを生かしめている命の根 元を、芸という彼らのいのちを。

 死者を越えていく、というより、それを心に置きつつ、 対話し、自己の創造の原点としていく。
 儀式としての慰霊などではなく、文楽が、その芸 の伝承の働きそのものが、そうした生ける者と死せる者をつなぐ、私たちの根本的な精神 の営みを表わしているのではないだろうか。
 そんな思いに心を熱くしつつ、また夏を送る。

3つの物語――「勧進帳」再発見(南座公演)

南座公演の「勧進帳」は、中堅・若手がいま、与えられている課題をどのようにこえていくかを確かめることのできた舞台であった。彼らのうちにみなぎる力と、挑戦への思いが、この一期一会の舞台を作り出した。

この3つの物語
の出会いの要は、弁慶である。弁慶の性格にリアリティが感じられること、一見無理な設定でも、それを納得させるなにかを感じさせること。この弁慶は、玉女(人形)の、次代の立役としての試金石でもあった。

玉女は、延年の舞など、洒脱なおもしろみやゆとりには欠けるかもしれないが、六方の引き込みの迫力といい、弁慶の大きさ、立役の風格を十分に感じさせる好演であった。

英の弁慶(太夫)。……富樫ならば何の問題もなかっただろう。だが、最も苦しい音域で、たたみかけるような立詞が続く弁慶。息の使い方、声の使い方、30年を超えるキャリアをもってしても、困難な課題であったと思う。しかし、……とりわけ津駒の富樫との丁々発止の問答の、息もつかせぬ迫力を、忘れることができない。三段目語りとしてのステップを、彼は、一つ越えることができた。

清治の三味線が、舞台の全体を率いる。英大夫の言葉を借りれば、「磐石の間」。名手清治なればこそ、初役の太夫も人形も、安心して力を出し切ることができたと思う。

森田美芽

 「勧進帳」とは、なんと美しいのだろう。登場人物は男ばかり、魅力的な色恋も目を見 張るような派手な仕掛けもない。しかし、久しぶりにそのおもしろさを再発見した。
 20 01年7月、この南座公演の「勧進帳」は、中堅・若手がいま、与えられている課題をど のようにこえていくかを確かめることのできた舞台であった。彼らのうちにみなぎる力と、 挑戦への思いが、この一期一会の舞台を作り出した。

 「勧進帳」は、3つの物語の出会いである。
 一度は英雄とされながら、兄に裏切られ落剥 の身となった悲劇の武将義経の物語。
 悲運の主義経に忠節を尽くす弁慶の物語。
 そしてそ の主従との出会いで、生涯一度の職務命令違反を犯す官吏、富樫の物語。
 この3つの物語 の出会いの要は、弁慶である。弁慶の性格にリアリティが感じられること、一見無理な設 定でも、それを納得させるなにかを感じさせること。この弁慶は、玉女の、次代の立役と しての試金石でもあったと思う。

 まず簑太郎の富樫の登場。人物の骨格、人柄、一目でわからせる要を得た遣い振り。さ わやかな出。知、勇ともに優れ、心ある武将の風情を描き出す。人形の遣い方が大きい。
 清之助の義経。出てきただけで、義経の孤独が痛いほど伝わってくる。
 兄に裏切られ、 部下たちをこのように苦労させる、主である苦悩とそれを担う孤独。それでいて、若々し い色気を失っていない。清之助は気品ある若武者のこうした悲しみを、どうしてこうも的 確に表現できるのだろう。花道の引き込みも、富樫に会釈し、はっとして笠で顔を隠す仕 草も美しい。

 玉女の弁慶は、一言で言えば、義経の信頼に応えようとする誠実さを第一に出した弁慶 である。
 富樫は、義経を哀れと思ったからでなく、この弁慶の、心で泣きながら主を杖で 打つ、それほどまでの忠節に心を揺さぶられたのだ。
 もしこの弁慶に出会わなかったら、 彼は有能な官吏として、忠実に職務を果たしはするが、面白みのない人物として終わった に違いない。
 あるいは、富樫自身も、心ひそかに、義経主従に惹かれていたのかもしれな い。
 自分を認めず、こんな田舎に埋もれさせている無能な上司への反抗の気持ちを持った のかもしれない。
 弁慶の、理屈も計算もない、ひたすらな献身と純情が、彼にそうした気 持ちを起こさせた。それを納得させる弁慶であった。
 無論、まだ延年の舞など、洒脱なお もしろみやゆとりには欠けるかもしれないが、六方の引き込みの迫力といい、弁慶の大き さ、立役の風格を十分に感じさせる好演であった。
 左の玉志、足の玉佳も健闘した。

 英の弁慶。
 今回の彼の課題は、声で弁慶の「男」を感じさせること。声は驚くほど真実 を表わす。
 十分な声量、太く強い声を出す瞬発力と持久力、そして弁慶の一途な忠節を表 現すること、富樫ならば何の問題もなかっただろう。
 だが、最も苦しい音域で、たたみか けるような立詞が続く弁慶。
 息の使い方、声の使い方、30年を超えるキャリアをもってし ても、困難な課題であったと思う。

 しかし、迫ってきたものは、弁慶の忠節、問答の強さ、気迫、それを最後までもちこた えること、そして掛け合いの太夫の全体をまとめること、それを彼はやり遂げた。
 とりわ け津駒の富樫との丁々発止の問答の、息もつかせぬ迫力を、忘れることができない。
 三段 目語りとしてのステップを、彼は、一つ越えることができた。

 富樫は津駒。
 持ち前の美声のみならず、うまさが加わってきた。
 そう、簑太郎とともに、 弁慶にだまされたふりをする、情けを知る男としての器量、富樫の深みを感じさせる描き 方である。この富樫あればこそ、この弁慶あり。見事な出来であった。
 義経は呂勢。
 呂勢 はこの日3度目の舞台だが、声に衰えもなく「道中双六」の美しさ、「吃又」の口の人物関 係に加えて、この落剥の武将を切実に語った。

 番卒、四天王は新、咲甫。いずれも歯切れよい語り口で、すみずみまで明確に聞こえる。 声が十分に響く。人形の玉輝、簑二郎、幸助、亀次、それぞれに性根を伺わせる。
 そして清治の三味線が、舞台の全体を率いる。
 英大夫の言葉を借りれば、「磐石の間」で ある。そこに一点の曖昧さも乱れもない。絶対の信頼関係。
 名手清治なればこそ、初役の 太夫も人形も、安心して力を出し切ることができたと思う。
 宗助をはじめとする若手の三 味線陣(清太郎、清志郎、清馗)も、何の不安も迷いもなく、力いっぱい付いていけばよ い。その音色が清々しい。
 この成功の第一の功労者は清治であることは疑いない。

 彼らのひたむきな芸のぶつかり合いが、彼らの総力が、新しい舞台を作り出した。
 この 物語を生かそうとする力が、古い物語に命を与えた。
 次代の三段目語りへ、切語りへ、座 頭へ、立女方へ、伸び行く力が理屈ぬきに充実となる。
 この幸福な出会いを、七夕の夜の、 年に一度の逢瀬のように待ち望んで、そして与えられた。

 文楽を見る喜びはここにあった。