9月9日を前に 森田美芽
「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時・・・(聖書、コヘレトの言葉3章1、2節)
9月9日、重陽の節句が近くなると、思い起こさずにおれない、というより、いまだ整理できない思いがこみあがって来る。
豊竹呂大夫の3回忌を前に、あの時には語ることもできなかった悲しみと、今になって感じられる彼の存在の大きさ、これからの文楽のことなど、取り留めないまま書き連ねておこうと思う。私には、義太夫の歴史や風を語る力はない。ただ、素人の耳にも鮮やかに残されているあの出会いの意味をもう一度考えてみたい。
この夏、日本を離れ、日本語を耳にすることも使うこともない環境で、彼の「道行初音旅」を聞いたとき、その日本語の美しさと力強さに、改めて感嘆させられた。
力と気品、そして古典としての厳然たる規矩を供えた語り。言葉が詩となり物語となり、目前に海が広がり、あまたの兵船が赤幡に彩られ、陸には白幡が翻る、絵のような風景がさっと広がる。
血なまぐさい戦いが、もののふの凛然とした戦姿とその潔さに変わる。そうした言葉の魔術のような義太夫節。さらに、それが彼の30代でなされた業績であることを思うとき、さらなる感嘆の念を禁じずにおれない。
言葉の意味と、音と、感情がひとつになり、物語を形作る、古典としての文楽の厳しさと風格、そして何よりも、確かな技術に裏打ちされた魅力的な声。
そこには、われわれの先祖が生み出した、誇るべき文化的伝統が、厳然として現代に存在しうる、その理由の全てが存しているように思えた。
その彼の最後の日々に間に合ったことを幸運を呼ぶべきであろう。たった一度耳にしただけなのに、それはいまも、心に迫る深い充実と内容を持っている。あの「楼門」「殿中刃傷」「盛綱陣屋」「碁立」「政岡忠義」「帯屋」その「白鳥の歌」ともいうべき「国言詢音頭」・・・
個人的には、最初に呂大夫を意識したのは、平成8年正月公演の「政岡忠義」である。この話は歌舞伎でも当代中村鴈次郎の政岡で見たことがある。
だがそのとき、我が子を失った政岡の口説きの嘆きの深さ、「三千世界に子を持った親の心は皆一つ」という、知っていた筈の言葉が痛く胸に突き刺さり、いつまでも消えないような感覚に襲われた。
それは自分自身が子を持つ立場になったからその気持ちに感情移入できたせいかと思えたが、そうではなく、感情移入させる語りのせいであったことにあとで気づいた。
このとき私は、言葉が言葉として、その意味以上の感覚を呼び覚まし、それが聞くものの人生の感覚と重なって感動を引き起こすということを、初めて体験したのだった。
それについて4月公演で聞いた「碁立」。歌舞伎の時には気づかなかった、人物造形の深さと時代物のスケール、強さ。きっぱりと力強いその語りが、通奏低音のように響き、切場の十九大夫・清治につながっていったのを、忘れることはできない。
「楼門」については、それこそこれが模範演技、とでもいうものを聞かせてもらった。
そのマクラにいくつかの型があり、そのどちらも十分に語りうると聞いた。風という形のないものに命を与える、あるいはそれの持つ意味を語りの中で伝える、それが語り手の責務であると知らされた。
親子の情と義理のせめぎ合い、父との絆と武家の奥方の気概、相反するこれらの論理の衝突を描きつつ納得させること、時代物の大きさと課題の難しさを教えられたのもこの人の語りだった。
晩年、体の不調を押して語っていた、その緊張がそうさせたのか、内から収斂する力が語りににじみ出て、何ともいえない迫力がこもっていた。
あの「帯屋」の奥、前半を英大夫が、後半を彼が語り分けた、高槻の地方公演。その2日後の尼崎公演から彼は休演し、弟子の呂勢大夫が代演した。天の情けとも言うべき出会いであった。
前半のコミカルな部分を英大夫が、たっぷりと笑わせた後の彼の、長右衛門の沈痛な述懐に、たたみかけるような燕二郎の三味線がかぶさる。この物語が、この男の秘密から始まったこと、そしていま、かつての心中相手と身代わりのように、14歳のお半との心中を決意する男心の動きが、どれほど切実に感じられたことか。
呂大夫といえば時代物が第一に心に浮かぶが、このとき舞台は、英大夫とのコンビネーションや、吉田簑太郎らの人形の見事さも加わって、忘れがたい舞台として心に刻まれている。
世話物の中の的確な人物描写、詞の力。
大阪で見た最後の本格的な時代物は、99年11月の「盛綱陣屋」の後だった。この物語を、いま感動とか共感を持って見られる人は少ないだろう。
骨肉の争い、武士の体面、わが子を犠牲にする計略、いかに時代物の名作と謳われても、進んで見たいとは思えない作品の一つだった。
しかし、このとき、十九大夫―清治、呂大夫―富助で聞いたこの物語は、武士の論理のむごさ、家族の絆を引き裂かれるその悲しみと、意気に感じるもののふの志の潔さが、段切れの近江八景を読み込んだ詞章の中から鳴り響いてくるように思えた。
あれが呂大夫の真骨頂であったと思う。
そして2000年夏、「国言詢音頭」の「五人伐」の端場。あれが「白鳥の歌」となるとは、われわれも、そして本人も思ってもみなかっただろう。
あの、けだるい夏の夜、人を狂気に陥れる廓の色恋のやるせなさ。舞台を見終えて劇場を出たところで、偶然呂大夫に出会い、思わず「ご体調はいかがですか」と声をかけてしまった。
「あまりよくありません」と。それが私にとっては2度目の、そして最後に交わしたことばだった。
東京公演の「忠臣蔵」の初日、彼は逝ってしまった。「七段目」の平右衛門を演じるはずだった。55歳、あまりに早すぎる死。
どれほど無念であっただろう。あの声をもう二度と聞くことはできない。師匠の越路大夫にとっても、自分より30歳以上も年下で、将来の文楽を背負って立つはずの彼が先立ってしまうとは思わなかっただろう。
その越路大夫も鬼籍に入り、泉下で愛弟子と、語り合っているのだろうか。
私が呂大夫から学んだもの、それは文楽の、義太夫節の芸の深さ、底知れなさであり、それが同時に現代に生きる芸術であるということ、そして言葉というものの底力であった。
300年間伝えられてきたものが、いま、生きて私たちの心を揺さぶる、それほど力ある言葉のわざであることを、これほど痛切に感じさせた人はいない。
それは、彼が戦前と戦後をつなぐ転換点にいる一人であったからと思われる。
呂大夫は、豊竹咲大夫、鶴沢清治らと共に、戦前の文楽の系列に直接に連なる、そしてその最良の伝統を受け継ぐ一人であった。
英大夫らその後の世代との決定的な差は、呂大夫らは、いわば、幼少期から選ばれてその伝統を受け継ぐものとなったのに対し、英大夫らは、成人した後に、自ら発見して自覚的に選んだことである。
社会的にも、彼らは一度、文楽以外の価値観と世界を経験し、その上で選んだ。自らのうちに、時代に背を向けて何かを作り出す、あるいは受け継ぐことを見出すことが必要だった。
自由な社会と団塊世代の反逆の洗礼を受け、その中で文楽の価値を新しく見出し、再構築しなければならなかった。
彼らの間の差は、入門年齢の10年以上の開きとなって表れている。呂大夫と英大夫は、実年齢では2歳しか違わないにもかかわらず、それが、彼らの置かれた立場を決定的に違うものとしている。
そして何より、呂大夫の入門当時に、義太夫節は少なくとも、人々を感動させる芸として今よりずっと社会的に認知されていた。
その価値観が崩れ、義太夫節なり文楽がその現代における存在意義を示していかねばならなかった。また、彼ら自身も、自らの受け継いだ伝統の意味を問い直し、継承していくべきものを見出さざるをえなかった。
呂大夫の語りの中には、そうした厳しい自己への問い直しの結果継承されてきた、伝統というものへのゆるぎない信頼と確実性があったのではないだろうか。
義太夫節のもつ体系と論理を実践の立場から確認し、そのよりよきものを、私たちの目に見える形で示してくれたという点で、彼の業績は大きい。
呂大夫について、私の非力では、語り尽くせないことが多すぎる。ただ、生き残った者は、先立った者の意志と事業を継いでいかねばならない。
今、英大夫に求められるのは、確かに、呂大夫のもっともよきものを受け継ぐこと、とりもなおさず、義太夫節の正統を受け継ぎ、それを次世代に伝えていくこと、そしてその成果を、社会的に認知されること、新たな文楽の存在意義を示すことである。
彼はその大きな責任を担っている。
この数年、彼の進境は著しく、課題とされた男性の詞の表現も強くなり、人物造形に深みが出てきた。あと一歩を望むなら、時代物の品格とスケールを備えた語りを、と言いたい。
とりわけ正統な技術的継承については、いま、発声においても音使いにおいても、正しい技術の継承には、大きな課題がある。
ことに太夫には。芸は風邪引きではないから、いくら汗を流してもそれだけで良くなるものはでない、といったのは岡鬼太郎であったか。
確かに、どんなジャンルでも、正しい指導と同業のプロ集団による厳しい批判が作り出す水準の維持が絶対的に必要なのだ。
いまの文楽で、どこがどう問題なのかは詳細にはいえないが、少なくとも、「よくやった」「がんばっている」以上の成果を聞き分けるよい観客、見巧者、聞き巧者(そんな言葉があればだが)が必要であろうと思う。これは私自身への自戒も含めて、彼らの努力を正当に評価し理解する努力が必要であろう。
第二に、文楽の社会的意義について。
それは、世界でもっとも美しい言語芸術のひとつであり、人類にとってかけがえのない財産であること。
その中に、日本人が持つ義理と人情の葛藤という、もっとも普遍的な人間的主題が、見事なまでに表現されているという芸術性の高さ。
そして、志ある生き方を示していること。
この便利さのみを追求する世の中で、あえて50年も60年もかけて芸の完成を追及するという生き方の尊さ。それを伝えていくことが、彼らに課された責務であることを思う。
呂大夫は、海外公演で、人々が各自の感性でそれを感じ、ダイレクトに反応してくれることを評価していた。
彼は、文楽というものが、掛け値なしに人類にとっての普遍的な価値あるものであることを自覚し、またそれを世界に発信しうる人物であった。
いま、私たちは、その重さを改めて自覚すると同時に、私たちの受け継いでいるものの本質を見直し、伝えていかねばならないのではないか。
文楽は、生きた人間による、本当に一代限りの、表現低術である。それだけに、活きた形で伝承していくことは難しい。
だからこそ出会える美しさ、一度限りの感動がある。それが単なる一時の興奮、一時の気晴らしに終わらないのは、その芸術水準の高さによる。
呂大夫の舞台に出会えたことは、私にとって生涯の宝である。そして英大夫が、彼の弟子たちが、若い技芸員たちが、力を合わせてこの芸を守り続けてくれることを期待し、応援してやまない。
それが、泉下にいる呂大夫と、師匠の越路大夫に報いる最高の道であろうと信じる。