曽根崎の闇を貫く――国立文楽劇場、6月「文楽鑑賞教室」より

 中堅と呼ばれる人たちの底力を知らされた。
 彼らは、伝えられてきたものを消化して現代に提示し、その感覚を共有するだけのものを備えている。
 そこに「魔」を感じさせる。
 だが、見る側に、その「魔」を受け止める力が失われつつある。それは、死をもってしても失いたくない真実が、命かけて悔いない愛があるという感性が失われつつあるということではないだろうか。

森田美芽

 「曽根崎心中」には、人を酔わせる力がある。
 ほかのどの狂言とも違う、不思議に人を引きずり込む魅力がある。観客は、いつのまにかお初と徳兵衛に感情移入し、まるで彼らと同じ情熱に引き込まれ、惨たらしい結末までも一種の陶酔感に包まれ、幕が下りてもなおその熱さが体を去らない。
 舞台と一体化したような感覚。それが、物語の分かりやすさとか、単純さという言い方はしたくない。

 それは、たった一昼夜の出来事である。
 第一、お初には、徳兵衛と心中しなければならない義理はない。
 九平次とて、徳兵衛を死に追いやると知っていたら、そこまで人を欺いただろうか。だが、理屈ではない。というより、そこに理屈を超えて、人を痺れさせる感覚が起こされる。それは、舞台の上のお初と徳兵衛だけでなく、人形遣いにも、太夫と三味線にも、観客一人一人までも巻き込んでいく、官能にも似た力である。

 そうした力を秘めた曽根崎の深い闇路を、見出すことができるかどうか。
 国立文楽劇場、6月恒例の「文楽鑑賞教室」、前後半の2部、今回初役を演じる彼らは、そうした課題を負わされている。そして彼らは、その期待に十分応えた。

 前半(B班)、簑太郎のお初のなんという美しさ。「生玉」で徳兵衛を案じて駆け出るさま、「天満屋」で徳兵衛を打ち掛けに隠して店に招じ入れるさま、九平次に悪態を返す場面、ひとつひとつ、自信に満ちた美しさにはっとする。
 徳兵衛と縁の上と下で、心ひそかに交わす約束の、なんというひたむきさ。
 そして前半少し押さえ気味だったかと思われるほど、無駄な動きをせずお初の純真さを印象付けて、「天神森」でそれらを解き放つかのように見せる動きのはなやかな美しさ。このお初にとって、この心中は、自分たちの愛の勝利だと感じさせた。
 世間に負けたのではなく、むしろ胸をはって世間を見返してやろうとさえ言っているような、この女の強さ。そしてそれに呼応するかのように、玉女の徳兵衛は、「春を重ねし雛男」を納得させる男の色気を感じさせた。
 汚れない、わるびれない若さ。九平次の悪巧みにやすやすとかかりながら、それでもひ弱さは見せない。単なるおめでたい善人ではなく、恥を知る男。
 自らは恥を漱ぐためでも、自分についてきてくれるお初に、心からの愛おしさを感じ、もはや死ぬことにためらいはない。
 それでも、いざ刃を向けたときの心の逡巡。お初を殺すことを一瞬ためらうさまに、お初への思いを感じた。両者とも、隅々まで人物が生きている、その確かさを感じる。

 そしてもう一人、玉也の九平次は、特筆に価する。その憎々しさ、粋気取り、この憎まれ役が成立しないと、徳兵衛の悲劇もお初の思いも完成しない。その点で、玉也はこの難しい役を見事に演じ、舞台を納得させた。亀次のお玉も雰囲気を納得させる。

 それに対し、後半(D班)清之助が見せてくれたのは、まったく対照的なお初であった。
 それは、やさしさのゆえに運命に流されながら、その最期に思いもよらぬ強さを見せる、簑太郎のお初とはまったく違った強さを持つ女であった。
 簑太郎のお初には迷いがない。
 彼女は遊女であっても、自分を卑下することは微塵もない。徳兵衛を愛することも、自分の愛するものにまっすぐに向かっていく強さと美しさがある。
 これに対し清之助のお初は、細やかに徳兵衛の気持ちに同調していく。もしかしたら彼女は、その親たちの苦境を心に感じて、遊女に身を落とすことを同意したのかもしれない。相手の苦しみを相手以上に感じてしまうようなやさしさのゆえに、この女はその美しさや聡明さにもかかわらず、自分を追い詰めてしまったのかもしれない。
 だから、同じ「天満屋」でも、簑太郎の場合は「わしを可愛がらしゃんすと、お前も殺すが合点か」が、清之助のお初は、「徳さまに死なれて、生きていると思いやるか」が印象に残る。
 「徳様、わしも一緒に死ぬるぞや」は、簑太郎のお初にとっては、この場でのごく自然な決断であり、清之助のお初にとっては、「生玉」の「三途の川は塞くひとも塞かるる人もござんすまい」からの覚悟が自分の中に甦ってきたように思われた。

 その官能の表現に、思わず身の奥が震えた。
 そしてあなたこなたを思いやりながらも、最期にようやく自分の意思を見出し、たとえ親を泣かせても、この恋だけは捨てることができない、という自己発見と決意が、「天神森」の「はよう殺して殺して」なのだ。
 和生の徳兵衛は、「生玉」の出のうきうきした頼りなさ、「天満屋」の沈痛な決意、「天神森」のお初を思いやる情愛と、それぞれの出に性根をにじませる、誠実さのまさる徳兵衛と思われた。

 九平次は文司。危なげないが、もう少し悪の強さを見せてもよいと思う。
 簑二郎の女中お玉、芸達者なところを見せる。

 B班の「生玉」は貴大夫、弥三郎。貴大夫は詞に不安はないが、「一つなる口、桃の酒」というような、ふくよかな色気が欲しい。
 弥三郎は的確で芯ある音。
 「天満屋」は津駒大夫、清介。お初のくどきなどは津駒大夫の最も得意とするところであろう。ただ、お初が生きるためには、九平次の憎たらしさ、おどおどする亭主、朋輩女郎の善意と気遣いなども聞かせなければならない。
 たった一言にも、その人物が出るかどうか、ここが津駒大夫の正念場ではないだろうか。
 清介の三味線は、はんなりした色町の雰囲気や、段切れの切羽詰った思いまで、見事に描き出す。
 「天神森」では始大夫がお初、新大夫が徳兵衛。始大夫は高音に課題を残す。
 新大夫も、もう少しゆとりというか、色気が欲しい。
 三味線は宗助、喜一朗ら。華やかに幕切れを作り出す。

 D班は、「生玉」が松香大夫、燕二郎。
 松香大夫は円熟した語り口の厚みを聞かせる。さりげないようで、存在感ある語り。
 燕二郎は過不足なく、妙音を聞かせてくれる。

 そして「天満屋」の英大夫、清友。一連の舞台で、初めて心底安心して聞けたような気がする。どこも危なげない。いな、その声に、言葉の一つ一つに、安心して身を委ねることができる。
 その語りにのせて、お初が、徳兵衛が生きて動き出す。
 大声を出すこともなく、長々としたさわりを聞かせるのでもない。

 だが、この名作の難しさーーおそらく、この舞台で最も難しいのは太夫であろう。
 注目されるのは人形であり、三味線は野沢松之輔の良い手がついて聞かせどころが多い。なのに太夫は、どこまでもさりげなく、しかも情を込めて語らねばならない。詞と節の一つになったような流れるような美しさと、短い詞による人物の描き分け。今回ほどその難しさを知らされたことはなかった。
 そして英大夫が、こうした近松の世話物の世界を描くに十分な備えができていることに、改めて驚嘆の念をもった。
 清友は息の合ったところで、微妙な音色の変化を十分聞かせてくれた。

「天神森」は、南都大夫のお初、咲甫大夫の徳兵衛。
 改めてこの道行きの難しさを感じた。
 南都大夫は若手では最も美しい高音を使える一人であろうと思うが、その彼にして、これほど高音部で苦しんでいる。努力家の始大夫が精一杯勤めても難しかったのが改めて納得できた。
 咲甫大夫はやや低めの音域で、言葉もはっきりと語る。
 三味線は、シンが清二郎、2枚目が団吾。清二郎はこの道行きを美しくまとめ、団吾もさわやかによく弾いた。 この舞台で、改めて中堅と呼ばれる人たちの底力を知らされた。
 彼らは確かに、伝えられてきたものを自分なりに消化して現代に提示し、その感覚を共有するだけのものを備えている。
 そこに「魔」を感じさせる。
 だが、見る側に、その「魔」を受け止める力が失われつつあることは、どうしようもない事実である。それは、死をもってしても失いたくない真実が、命かけて悔いない愛があるという感性が失われつつあるということではないだろうか。
 言葉がわからないから字幕を出す。
 しかし字幕で字の形を見ても、この厳しい義理の論理、面目を失うことの意味、言葉に出すことの重みが伝わるのだろうか。

 この国では、いったいいつから人生は、計算して設計して、成功だけを求めるものになったのだろう。
 5つや6つのころから、否、生まれる前から、決まった道を通り失敗しないようにとだけ、自分の生を計算どおり運ぶことだけを考えるものになったのか。
 時間を管理し、要領よく運ぶものになってしまったのか。
 そんな人間に、恋に狂い死ぬことは、文字通り理解不能な愚かさであろう。
 そこでは死とは、偶然招きよせられた不運にすぎないのだ。

 でも「曽根崎」の闇を貫く官能性は、私たちに語りかける。生とはそれだけで終わるものはないのだと。それは、私たちの生が、その上に立っている不可思議さであると。
 もし私たちに人生が、偶然に与えられその間できるだけうまくやり過ごすものにすぎないなら、私たちはただ死に行く身を楽しませるだけでよいのかもしれない。
 しかし、S.キェルケゴールが語ったように、私たちを私たちであるようにと定めたものがあるなら、私たちの人生は、勝手気ままに設計するものではなく、その見えざる神に向かい、その関わりの中で位置付けられるものでなければならない。その私たちの生きることの土台にこそ目を向けよと。
 生とはそこに一人一人、かけがえないものとして創造されるものにほかならない。

 そこに彼等の人生と、芸と、私たちの人生の切り結ぶ出会いがある。
 舞台で出会う一瞬の闇と光。そこに賭けた人生の重さと表現されたものの重み。

 私が彼らを愛するのは、まさにそのことを確かめることであると。人生は、やり過ごすものではなく、価値あるものに向かうその過程そのものであると。