男たちの嘆き、女たちの悲しみ――4月公演「菅原伝授手習鑑」を見る

 細部まで理解しているはずのこの物語を、新たな視点で見せてくれた。それは、千代ではなく、松王の嘆きの意味を納得させてくれたことである。

 だが、英大夫の語りを聞いて、「ご夫婦の手前もあるわい」と千代をたしなめた一言で、松王丸の嘆きはもっと深い、と気づかされた。

 どうしても観客は、千代に直接的に感情移入してしまうだけに、この悲劇の中心にいる松王の嘆きの意味を思い起こさせるには、そうした世界観と性根を描ききる、太夫の物語への理解と力量が必要なのだ。
 英大夫の語りは、眼目の泣き笑い、いろは送りの技術的克服だけでなく、こうした物語の骨格を納得させてくれるものであった。

 これほど内容ある舞台であったにもかかわらず、私には、英大夫がまだまだいける、と思わずにおれなかった。
 彼は、文楽に呼ばれている。

森田美芽

 2002年4月公演は「菅原伝授手習鑑」の通し。菅原道真の1100年忌や、吉田玉男一世一代の菅丞相というふれ込み以上に、新しい息吹を感じる舞台となった。
 そして英大夫が、「寺子屋」を語る。
 「菅原」の長い物語で、一日の最後を飾る場面。多くの人の期待、技術的なハードルの高さ、40分もの息もつかせぬこの場を、20日の間連日勤め上げるという持続力。役場の大きさは、太夫としての課題の大きさ(スケールの大きい芸)に深く関わっている。

 結論からいえば、英大夫は期待通り、いな、期待以上であった。
 細部まで理解しているはずのこの物語を、新たな視点で見せてくれた。それは、千代ではなく、松王の嘆きの意味を納得させてくれたことである。

 吉田簑助の千代。松王に「女房なんでほえる」とたしなめられ、上手に行き、呆けたように座り込む、そのうつろな表情。この女は、わが子を犠牲にするという企みを聞かされた時、涙かれるまで泣き尽くしたのだろう。そしてその悲しみが現実となったいま、もはや、なにも心に届かない。
 わが子を殺すために寺入りさせ、その死に際を看取ることも、死に顔に対面することもできなかった。
 忠義のためと説得されて、他に取るべき道もないと頭では理解している。だが、彼女は失ったものの大きさに打ちひしがれ、義理と外面だけを考える夫に、しんと心が冷たくなるような悲しみを抱いている。

 戸浪なら、夫を励まし自分も覚悟して加担するか、納得できなければ、自分の手で子を連れ出して逃げるだろう。この女には、そんな底強さを感じる。
 勘寿の戸浪は、初段で、かつての宮仕えの気品と気概を残しながらも、自分自身あえて不義を犯す勇気をもった女であると感じさせた。そしていまは自分の選んだ男を支え、共に戦っていこうとする女である。
 だが、千代は違う。彼女は夫に従ってしか生きられない。にもかかわらず夫は、彼女の感情を無視し、それを表現することを許さない。わが子を失ったばかりか、あの「茶筅酒」で見られた嫁舅、相嫁同士の絆も忠義のためにと断ち切られてしまった。
 もしかしたら千代は、このあと松王に離縁状を叩きつけて去るかもしれない、と思わされた。それほど、千代の悲しみに同情されてならなかった。

 吉田簑助の千代は演じているのでも遣っているのでもない。千代の心を生き、また千代という女が生きているのだとしか思えなかった。

 だが、英大夫の語りを聞いて、「ご夫婦の手前もあるわい」と千代をたしなめた一言で、松王丸の嘆きはもっと深い、と気づかされた。
 「ご夫婦の手前もあるわい」とは、単に外聞を憚ったためでなく、源蔵夫婦に心ならずも寺子を殺させたことへの配慮である。
 なぜなら、彼自身がこの企ての張本人であるからだ。前の「佐田村」で父に勘当を受け、息子を身代わりに仕立てて寺入りさせ、源蔵を追い詰めて首を打たせる。その結果を自分が確認する。父として、これほど惨い仕儀があろうか。
 泣き笑いの哀しみが痛いほど伝わってくる。
 3つ子のなかでも時平に仕えたために悪役に廻らざるをえず、わが子の首をみても、平静を装い、泣くことも許されなかった。
 彼も心一杯で泣きたかったのだ。桜丸にかこつけてでなければ、泣くこともできないその孤独。千代にその悲しみは届いているだろうか。夫婦はもう一度、その絆を取り戻せるだろうか。
 「いろは送り」の美しさ、哀切さのなかで、再びよりそう松王と千代を見て、そんなふうに思わざるを得なかった。
 文吾はそうした孤独を生きた松王を大きく遣った。それも人間松王、息子の死を、覚悟はしていても受け止める嘆きをこらえきれないいたわしさを、十分に感じさせる好演であった。
 一暢の源蔵もまた、菅丞相との心のつながりを感じさせる誠実さをにじませた。

 文楽の中心は常に男である。こうした悲劇を自らの手で為さなければならない男の、義理の影に隠れた涙を描くことができなければ、この場の悲劇は安手なものになってしまう。
 どうしても観客は、千代に直接的に感情移入してしまうだけに、この悲劇の中心にいる松王の嘆きの意味を思い起こさせるには、そうした世界観と性根を描ききる、太夫の物語への理解と力量が必要なのだ。
 英大夫の語りは、眼目の泣き笑い、いろは送りの技術的克服だけでなく、こうした物語の骨格を納得させてくれるものであった。
 燕二郎の三味線も、「いろは送り」をはじめ、たっぷりと聞かせてくれた。一つ一つ、松王の思いや千代の悲しみを描き出すような三味線であった。

 この段全体としては、前を語った綱大夫、清二郎親子の、芯の通った語りと音色が、この悲劇を首尾一貫して描き出す力となった。
 敵役としての松王の存在感、とりわけ首実検の緊迫感を、あれほど強く感じさせたからこそ、後半の悲劇が一層心を打つものとなった。
 清二郎の、「腕白顔に墨べったり」のくだりのメリヤスの楽しさも、その緩急を心得たものであった。
 そしてまた、二段目の吉田玉男の菅丞相と吉田清之助の苅屋姫の別れの悲劇も忘れがたい。
 初段の苅屋姫は、初々しい恥じらいに満ちている。恥ずかしさでつい目を伏せがちになるが、本当は愛しい人を見ていたい、そんなまぶしさに満ちた眼差しである。
 だが、「杖折檻」では、愛しい人を苦境に陥れ、そのために父が失脚することとなった。その原因を作った者としての悔いのために、顔が上げられない。一段と眼差しを深くする。
 母の杖を受けながら、それより深い心の痛み。
 さらに追い討ちをかけるように、自分をかばってくれた姉が殺される。なぜ、一体誰が、その途惑い、悲しみ。
 そして段切れ、丞相を見送る眼差し。
 義理の親子であるために、罪責意識はなお深い。そして帝へのはばかりもある。
だが会いたい、一目見たい。父との今生の別れに、父を見つめる。
 運命の残酷さと、悲しみのうちに顔を上げ、見送る娘。
 清之助の苅屋姫は、自分にその原因があるとはいえ、もはやどうすることもできないほど大きくなってしまったその結果に翻弄されることとなった、女の悲しみそのものを表現しているかのように思われた。
 吉田玉男の菅丞相は、自分からは仕掛けない。彼自身が、悪に翻弄される正義そのものを象徴する。
 その彼が唯一見せる人間として、父としての感情が、伏籠を見つめる、その袖でさえぎる仕草である。万感の思いがこもる。しらしらと明けてゆく朝の光が見える。
 十九大夫の位と力を備えた語り、清治の一点の揺るぎもない妙音とが一つになり、三度四度とうねるように高まってゆく舞台。今もその感動が甦ってくる。

 この二段目全体でいえば、「杖折檻」での咲大夫、富助は、覚寿の品位と義理立てる母の嘆きを聞かせる。
 「生みの親の打擲は、養い親へ立つる義理、養い親の慈悲心は、生みの親へ立つる義理」の詞が見事に生きている。
 情に流されぬこの気丈さを納得させる、厚みある語りに、富助の音が冴える。
 文雀の覚寿の品位が舞台を引き締める。
また簑太郎の宿弥太郎は、粋であって親に弱い、悪事に加担するにはどこか不安のある不思議な敵役として魅力的である。

 「東天紅」の津駒大夫、清友。津駒は十分なおもしろさ。立田の前のためらいが美しい。
 宿弥太郎の小心さ、心の動きも伝わってくる。
 清友の音色の心深さ。
 英大夫のみならず、住大夫に代わり「桜丸切腹」を語る千歳大夫、嶋大夫の途中休演を代わった呂勢大夫もまた、同じ課題を担うことになった。
 呂勢大夫は最後まで声を保ち、清介のよいサポートで物語の起伏をよく描いたと思う。
 無論、菅丞相の重さを十分出すことはまだ課題であろうが、御台所の気品、源蔵の失意、希世の軽薄さなど、よく現していた。
 なお「筆法伝授」の口は津国大夫に龍聿と清丈が交替で勤め、二人とも音もしっかりしてきた。
 また「築地」は文字久大夫に喜一朗と団吾が交替で。文字久大夫は動きがあり、人物の描き分けも前回より進歩著しい。
 喜一朗は生き生きと力強く、団吾は繊細なれど芯のある音色で、よく太夫を生かした。
 これに対し、千歳大夫は、最初声があまりに苦しそうで危ぶんだが、千秋楽には見事に復調し、さらに切腹のくだりでは息をのんだ。
 だが、最も困難なのは、白太夫の嘆きの意味である。
 ここでは、主君を失墜させたという意味では、桜丸の切腹は免れ得ない。
 しかし、白太夫の七十の「賀の祝」をすることは主君の意志でありそれをおろそかにはできない。
 その迷いは、「車曳」で咲甫大夫がすでに明確に示している。白太夫は、それと知りつつなお息子を助けたいため、その許しを神に祈願し、求めようとする。
 だが、現れる兆候は、どれもそれを許さないものとしか思われない。死すべき運命から逃れることができないと、悲しい覚悟を決めざるを得ないのである。そこを納得させるのは難しい。

 千歳大夫は、白太夫と八重の泣きでそれを伝えようとした。
 そして段切れまで、弛緩なくこの父の嘆きを持続させたのは見事である。よく演じたと思う。
 だがこれは、師の越路大夫が引退の折に語った型であり、彼にはまだまだ上を目指してもらいたい。大きくなろうとする者には、克服すべき課題もまた大きいのだ。
 和生の桜丸は、自らの運命を受け入れた静かさが胸を打つ。だがもう一歩、桜丸の強い姿勢を見せて欲しかった気もする。
 紋寿の八重は、幼な妻のおぼこさ、やさしさ、愛らしさと、この悲しみの対比が見事である。

 これに先立つ「茶筅酒」の松香大夫と団七は、ほっこりと花のほころぶやさしさとでもいえようか。3人の嫁たちのむつまじさ、愛らしさ、一暢の白太夫の好人物ぶりを的確に描き、この悲劇の前に心休まるひとときを作ってくれた。
 「喧嘩」は千歳大夫にかわり文字久大夫、宗助。文字久大夫は語りが大きくなった。梅王と松王の描き方がうまい。
 そして玉女の梅王の力強さ。長男であるゆえに、最も屈折が少なく、それゆえ真っ正直に感情を表現する。動きも生き生きとしている。
 特に「切腹」の段切れで、そっと下手で簑太郎の春と手を合わせるところが、何ともいえない風情を感じる。

 あと、簡単に印象のみ記す。
 「加茂堤」では新大夫の松王がよい。力があり、重さが表現できている。
始大夫は安定感がでてきた。
 つばさ大夫、相子大夫はまっすぐに声を出している。
 貴大夫の桜丸と南都大夫の八重、さすがに一味違う。八重の愛らしさと幼さの表出が巧み。
 人形では文司の希世が巧み。御台所の亀次も的確。

 第二部の「車曳」では津国の時平の大笑いに自然に拍手が起こり、咲甫大夫の桜丸は切腹にいたる重要な伏線を、若々しく思いを込める。
 睦大夫の杉王丸も勢いある語り。
 「天拝山」の伊達大夫、寛治。幕開きの牛の講釈はこの人ならでは。
 一転して雷神に変身する後半は、虐げられる正義から復讐する正義への大転換。

 「寺入り」は呂勢大夫、清志郎と清馗。さわやかに、控えめに語り、弾く。
 勘緑の春藤玄蕃は、権力をかさに着るいやらしさまで見せる。
 紋若の小太郎のけなげさ、紋秀の菅秀才の行儀よさ。

 舞台が終わったあと、ずっしりとした手ごたえを感じた。
そして、これほど内容ある舞台であったにもかかわらず、私には、英大夫がまだまだいける、と思わずにおれなかった。
 祖父若大夫や,師越路大夫、亡き呂大夫らを受け継ぎつつ、なおそれにとどまらない、彼自身の「寺子屋」が、この後にまだ完成されていくような、そんな予感である。
 彼は、文楽に呼ばれている。
 その奥にあるものを、形をとって聞かせるために。
 そして私たちも、そのはるかな呼び声を聞くために、また劇場へと足を運ばずにおれないだろう。私たちを魅了してやまない、そこに結集された力と命の限りを尽くした舞台に出会うために。