意味の迷宮―近松半二「本朝廿四孝」の世界

森田美芽

 半二の作劇法のひとつに、対位法がある。一人の人物はもう一人と符合し、裏表あるいは真実と影の関係に対比される。
 さらに男の野心と女の恋、親の義理と犠牲になる子。こうした関係が輻輳して繰り返され、劇としての序破急を作り出す。
 一見親不孝なならず者が実はこの上ない親孝行者であったり、貧しい百姓に身をやつした男が実は重臣となり、車遣いは君主の子で武家の嫡男が実は家臣の取替え子である。

 同じ名を持つ2人の弾正は、長尾と武田を治める執権同士。
 一人の人間はその一人に留まるのでなく、だれかの影であり、もう一人の自分、ドッペルゲンガーである。
 近代の自己意識は自分を唯一の人間としてしか意識しない。半二の世界では、人は二つの可能性をもち、そのどちらでもあり、どちらでもない。そこに人間の運命を見る。

 私は私であって、なおかつもう一人の私がそこにいる。自分がたどるはずの運命を誰かが肩代わりし、自分が遂げることの出来なかった愛を誰かが実現する。その陰でそれらのすべてを操る陰の演出家が存在する。
 運命が回転し、人は思いもよらぬ方向へと自分の生を向けられる。
 その中で、無垢なる者が犠牲となっていく。
 痛ましい犠牲、愛の重さ、それらをこえて歴史を作り出す力の本質が存在する。

 わけても二段目、勝頼切腹の段の痛ましさ。自ら死を選んだ運命の青年。彼は自分が本当は誰であるかを知っていたのだろうか。知っていてなお自死を選んだであろうか。誰が自分を死に至らしめた張本人であるか、その陰謀をはかったのは誰か、彼は誰一人責めず、ただ自分を犠牲とすることで、彼を死に至らしめたものの惨さを無言で非難している。
 彼だけが、負い目なしに純粋であることができる。若さの純粋さと老獪の対比。

 もう一つ、この物語は、濡衣の運命の物語でもある。
 将軍暗殺の真犯人の娘、武田の奥女中として贋勝頼と通じ、しかも真の勝頼とともに長尾のスパイになる。彼女の正体は物語のなかで謎に包まれていながら、実は自らが契った贋勝頼への貞女であり、その点で八重垣姫と恋の表裏を演じている。
 彼女は自らの恋人に生き写しの、しかもいまは別の姿に身をやつしている、自分の恋人がそのために死んだ主君の息子と同志の関係で、しかも使命を果たすために、いまの主君の八重垣姫を利用しようとする。
 実はこの女こそ、陰の主役という気がしてならなかった。

 半二のもう一つの主題は、土地の神と伝説即ち土地の力、そして女の恋の情念のもつ力である。
 『妹背山婦女庭訓』の大和、『奥州安達原』の奥州、『日高川入相花王』の熊野、そしてお三輪、清姫の恋と犠牲。そして「廿四孝」では、諏訪の神と八重垣姫。

 いくつもの屈折を経た関係のなかで、唯一真実に思われるのは八重垣姫の勝頼への一途な愛である。
 彼女はそのゆえに狐に憑かれ、あられもない狂態を示す。昔の人は、高貴の姫君が、恋に憑かれて狐憑きになることを、下世話な意味でも面白がったに違いない。
 だが、高貴の姫といえど恋する上は何の変わりもない。
 何より「例へ狐は渡らずとも、夫を想ふ念力に神の力も加わる兜」これが奇跡の意味である。男の権力への野心が引き裂いた世界を救うのは、女の一途な恋の情念である。

 これに比べて、勘助住家のくだりは、どうしても現代では受け入れにくい感覚が残る。
 孝行者の弟より、ならず者の兄を偏愛する母。そのゆえに自らの愛児を捨てさせられる弟。その彼も、忠義を全うするために自分の子を殺す。この場で心底感情移入できるのは、紋寿の遣ったお種であった。

 舞台そのものについては、いろいろと心に堪えるものはあったが、それを越えて一つに繋ぐ主題がまだ見出せていないので、印象のみを記す。

 まず吉田簑助の八重垣姫。正直言って、やはり、多くを望んではならないのだ、と思わされた。
 確かに美しい。だが、以前なら、じっと座って控えている時でさえ、なにかみなぎるものがあった。役になりきったその緊張感、性根ともいうものが、それを支える精神性が確かにあった。いまは、それが見えなかった。
 だが、体は動いている。よくあれほどまでに回復できたと思う。いや、それだけではない。「狐火」の激しさ。単なる約束事ではない、あの動き。
 それを支えたのは、練達の左遣いと気鋭の足遣いの力ではなかったか。

 『狐火』の左は前半が清之助、後半が蓑太郎、簑助門下の最精鋭にして次代の立女方の二人。師匠のどんな動きにも瞬時に的確に反応し、師匠をサポートする。何の不自然さも感じさせないばかりか、まるで八重垣姫自身が動き出しているように、その動きから目が離せない。
 後半の足の簑紫郎。若さと情熱そのままに、激しい動きは最後まで衰えない。何という師弟の絆、そこに生まれるものの美しさ。そして段切れの狐を従えてのきまり。
 玉佳、紋秀、紋若、簑次。一糸乱れぬその美しさにため息をつく。これは簑助一門の総力を示した「狐火」であると思った。

 玉女の武田信玄、勘寿の長尾謙信。玉女は一筋縄ではいかぬ法体の信玄の大きさと智謀を、勘寿は腹に一物の謙信の老獪さを描く。和生の高坂妻唐織、武家の奥方の品位と、それでいて夫の策謀に加担する冷徹さがよい。
 勘弥の越名妻入江、八汐首の意地悪さと悪のおかしみ。玉女の高坂弾正、大きく品位あり。文司の越名弾正、金時の強さと単純さ、よい性根を表現している。彼らは十分に力を発揮した。

 簑太郎の常盤井御前、奥方の品位と母の思い。
 勘緑の村上義清、武人の荒々しさと抜け目なさを大きく遣う。
 清之助の盲勝頼、出色の出来。この青年の純粋さがこの物語の要諦である。
 玉也の板垣兵部、陰謀をめぐらしながらどこかそれに徹しきれず、息子を亡くしたと聞いて嘆くあたりに人間味を感じさせる。
 玉輝の花守り関兵衛実は斎藤道三、まだ謎めいたこの人物を描ききれてないが、実直に遣っていると見た。

 床では、「諏訪明神百度石」の咲甫大夫の開口一番がしっかりと聞けた。声に厚みも出てきたように思う。
 車遣いや供侍の演じるのは若手3人組、相子大夫、つばさ大夫、睦大夫。こうした動きのある詞では相子がうまい。つばさは声を少し痛めているようだが、まっすぐに声を出そうとする姿勢がよい。睦はどの役のときもよく勉強している。
 始大夫、新大夫、短いがしっかりと語っている。三輪大夫、さすがにこの短い場で存在感を出す。松香大夫はこうした人物像を的確に描く地力がある。

 「桔梗が原の段」口、貴大夫、弥三郎。伊達大夫、寛治の前場で選ばれたのであろう。前受けを狙わず、忠実で丁寧、実力派の両者にふさわしい。
 貴大夫はとりたてて美声というわけでないのに、ふと気づくと物語の世界に引き込まれているのを感じる。
 伊達大夫、寛治は無論持ち味が自在に現れているのだが、伊達の声も衰えが隠せないし、寛治もかつての馥郁たる音色の妙にかげりがある。

 「景勝下駄」は失礼ながら省略。(十分集中できなかったので)
 「勘助住家」住大夫はこうした情味と義理の内容を語るのは確かに地力であろう。だが、最前列の中ほどにいて、やはり不分明に聞こえる部分があった。さすがに詞は見事。錦糸の三味線はあでやかに美しい。
 後半の十九大夫、清治。十九大夫は段切れの言葉のたたみかけるような強さはあるが、それが十分なカタルシスに至らないのは、内容のせいでもあろうか。清治の三味線はこうした迫力を十二分に堪能させてくれる。

 二部、信玄館。御簾内の咲甫大夫、喜一朗。マクラも明確で気合の入った語り。「村上上使」英大夫、宗助。
 英は声も語りも好調。短くとも、村上義清、常盤井それぞれの思いを的確に伝える。村上の武辺者ながらの抜け目なさ、常盤井を追い詰めるやりとり、朝顔を切る風流。
 「勝頼切腹」は綱大夫、清二郎。清二郎の三味線が印象深い。そしてこうした複雑なからくりの上のからくりといった内容なら、綱大夫にふさわしい。

 四段目、「道行似合の女夫丸」津駒大夫はこの場の中心。さすがに聞かせるものがある。
 津国大夫は道行き向けの声ではないが真正直。団七、清友ら、息の会った美音を合わせる。

 「謙信館景勝上使」文字久大夫、清太郎。文字久も努力し、真面目に語っているが、人物の描き分けなどあと少し、という気がしてならない。
 「鉄砲渡し」呂勢大夫、清志郎。最初、呂勢には首をかしげた。何かが違う。無論この場は、ここだけ別の流れであるため、処理しにくいと思ったが、どうも十分人物の性根が見えなかった。

 「十種香」嶋大夫、清介。さすがに嶋大夫の十八番、たっぷりと聞かせてくれる。「呼ぶは生あるならいぞや」の美しさと切なさ。ここでも清介の三味線が光る。

 「奥庭狐火」千歳大夫、燕二郎。単に声がかすれて聞き苦しいというのでない、なにか無理やりに作って押し出している声で、八重垣姫の一途さも神の奇跡も伝わってこない。期待される人だけに、いまは十分自重してほしい。

 全体として、成果は十分あったものの、何か、もう一歩突き抜けた何かに届いていない気がする。
 もう水は杯に溢れんばかりになっている。あと一滴で、すべてが変わる。そんな時が近づいているように思われてならなかった。