津賀寿さんの人間国宝祝賀パーティー

一昨日、津賀寿さんの人間国宝祝賀パーティー@ニューオータニ、に参上!葛西アナの絶妙な司会のもと、津賀寿さんの感性の鋭さが招いた300人余りの祝宴。いろんな人に出会えて有意義でした。春駒師に連れられて僕の祖父のお稽古に来た時の様子を駒之助さんと思い出し語り。懐かしかった。

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半二の宇宙と曾根崎の夜―2023年4月公演に寄せて

森田美芽

『妹背山婦女庭訓』は近松半二の最高傑作の一つと言えよう。
そこには義理と情に引き裂かれる人間の悲劇が、超自然と人間関係の現実のない交ぜの世界を背景に描かれる。それも大和の四季と名所を効果的に配置し、全体として「半二の宇宙」とも形容すべき世界観が展開される。そしてそれを舞台で演じる時、個々の演者も全身全霊をもってその技芸を発揮することで、その小宇宙に新たな、いくつもの始まりが起こる。

錦秋文楽公演_B2ポスター_B1_4校

第一部序段「大序・大内の段」大阪では久しぶりのこの段、若手の修行場。亘太夫、薫太夫、碩太夫、聖太夫、小住太夫。三味線は燕二郎、清方、清允、錦吾。
亘太夫は真正面からぶつかる潔さの中にも詞をしっかりと聞かせ、薫太夫は素直に教えを守り、碩太夫は采女の詞が印象的、聖太夫はしっかりと自分の声を出し、小住太夫は一日の長。燕二郎の時おり聞かせる切っ先鋭い撥さばきが心地よい。

この場が出ることで、右に蘇我蝦夷子(文哉)、左に中納言行主(清五郎)、大判事(この場は玉翔)という対立の構図が視覚化され、その真ん中の帳を押し開けて出てくる采女(紋臣)の気品に圧倒される。

「小松原の段」若草山と小松原(飛火野のようにも見える)、秋の紅葉。

掛け合いで久我之助を靖太夫、雛鳥と采女を咲寿太夫、この二人の出会い、想いを交わし合う若さの美しさ、それをしっかりと聞かせる。咲寿太夫は、最後の采女の詞が届いているのが後の段への展開として重要。腰元小菊が南都太夫、桔梗が文字栄太夫、玄蕃を津國太夫、こんなところにもベテランの味わいは楽しい。合わせるのは團吾。安定感がある。

「蝦夷子館の段」口、亘太夫、清公。蝦夷子の詞の口さばきがよく、対する久我之助に清公の三味線が小気味よい。

、藤太夫、清志郎。雪の御殿。ここで蝦夷子という巨悪に対するめどの方(文昇)のいじらしさの対比、そして安倍中納言行主に陰謀を暴かれ、自刃するもその行主を殺し、父を超える悪の権化としての入鹿の登場。この入鹿の大望は帝位の簒奪である。『ここぞ大事』の大判事の決意。それらを必然の流れとして描き出す藤太夫、劇的構成力を増した清志郎の糸。人形では蝦夷子の文司はスケールと古怪さが前に出て、玉志の入鹿は自惚れの強さを感じさせる。

 二段目は零落した天智天皇の運命、采女の失踪、あばら家を御所と誤魔化す笑い、すべて序段からの、蝦夷子、入鹿親子の悪の繁栄との対比として描かれる。その流れがしっかりと受け渡される。
「猿沢池の段」は希太夫、寛太郎。ここで鎌足の子、淡海が何とも掴みどころのないキャラクターで出てくるのが後に生きる。
「鹿殺しの段」碩太夫、錦吾。ここは一気呵成に。三作の描き方が好ましい。「掛乞の段」靖太夫、清馗。貧乏所帯を隠れ家にする臣下の苦労も知らぬ気の官女や大納言(勘市)に絡む米屋(簑紫郎)の巧まざる笑いを生かす。

「万歳の段」咲太夫に代わり織太夫、燕三。ここをやりすぎず、万歳の楽しさと、後半の芝六と淡海のやり取りの緊張が明確。燕三と燕二郎の息の合った万歳。

「芝六忠義の段」千歳太夫、富助。ここで鹿殺しの詮議を巡り、三作が自身を父の身代わりとして訴人させ、引かれていく。また芝六が鎌足への忠誠のために我が子の杉松を殺す、という二重の悲劇の果てのどんでん返しが起こる。
忠誠の証のため我が子を殺すという論理は現代人には納得できない。しかも鹿の命が人間より重いのだから。その芝六の熱い忠節と苦悩を語ってやまない、千歳太夫の見事さ、富助の強さ。

お雉が我が子の処刑の時を刻む鐘の音に苦しむさまがいたわしい。勘弥のお雉の強さといじらしさ、玉彦の三作の健気さが胸を打つ。簑二郎の芝六は忠義のための苦悩の肚の底がさらにほしいところ。
鎌足の玉也は、これまた入鹿に対抗するだけの、一筋縄ではいかないその孔明かしらの見事さ。清十郎の淡海はつかみどころのなさが何とも言えない娘にとっての魅力となるのだろうと思わせる。

第二部は三段目

「太宰館の段」睦太夫、勝平。睦太夫は初日、声が不安定に聞こえたが、1週間後に聞くと長足の進歩。「根に持つ遺恨、互いに折れぬ老木の柳」の強さなど、大判事と定高の確執の深さと、それぞれ弱みを見せない意地の張り合い。そこに入鹿の、大人二人を手玉に取る邪知深さ。「入鹿の大臣寛然と、上段の褥より遥かに見下ろし」の傲慢さ。
二人の親のそっと見せる蔭。大笑いに拍手が起こった。勝平の手強さが出陣までを支える。玉翔の注進の動きが大きい。

三段目切、「妹山背山の段」

吉野の春は、長く厳しい冬を乗り越えた喜びのように、薄紅の桜が山一杯に広がる。だが舞台では、その桜を押し分けるように、中央を川が貫く。
桜の花の溢れる中でも、『義経千本桜』の「道行初音旅」のような、幻想的で陶酔感のある桜ではない。「川」は引き裂くものとして、容赦なく流れている。それを挟んで両側に2つの空間。それぞれの緊張あるやりとり。それらが並行して進む。
歌舞伎では「吉野川の場」とされ、文楽では「山の段」と呼ばれるこの段は、2つの交わらない世界の決定的な悲劇の象徴でもある。

主な登場人物の4人が4人とも、それぞれに苦悩を抱え、重い決断を迫られている。親は子の思いを誰より理解している。そうすれば相手の子がどんな選択をするかも予想できる。
この親たちは、知らぬ間に確執を忘れ、自分の子の願いを遂げさせるために相手の子の無事を願う結果となる。

まず脊山、久我之助の織太夫。舞台の華やかさに比べ、沈鬱な表情。その複雑な心境を描くのは藤蔵。

続いて妹山、雛の祭りの賑わいもなく、ひたすらに久我之助を思う雛鳥の一途さを、呂勢太夫、はんなりと響かせる清治。

大判事の出。呂太夫、清介。「花を歩めど武士の心の嶮岨刀して、削るが如き物思ひ」この一言一言の重みが突き刺さる。十分な息と強さでもって大判事の政治的な、さらに父としての苦境を表わす。定高に対し、「心解けるか解けぬかは、今日の落居次第」と呼びかける。

「身の中の腐りは殺いで捨つるが跡の養生」と言い、定高も「枝ぶり悪い桜木は切って接木をいたさねば、太宰の家が立ちませぬ」と答える。その覚悟のほどが知られる。そして定高は娘に「今そなたの心次第で…久我之助は腹コレ腹を切らねばならぬぞや」と迫る。愛するゆえに、相手を生かしたければ、自分が犠牲になるしかない、という迫りに、雛鳥は覚悟を定める。

一方脊山では、子の切腹の覚悟を前に、大判事は「天下の主の御ためには何倅の一任など葎に生ふる草一本引き抜くよりも」と言いながら、「子の可愛うない者が凡そ生ある者にあらうか」と、武士としての忠義と父の情の間に引き裂かれる。それをさらに深める久我之助の潔さ。一生の名残の愛する者の顔を見るよりも雛鳥を生かすことを願う息子。
織太夫の久我之介の清廉さが生きる。その偽りの花を見た妹山では、定高は娘の思いを貫かせ、娘の首を落とす。そして親同士は、子同士が純愛を貫き、さらに忠義に命を散らせたことを知り、嘆きに沈む。

呂太夫はこの場で、「大判事は細切れに一字一字に渾身の力を込めなければなりません。特に久我之助が腹を切って雛鳥が母親に首を斬られてからのひとことひとことが。『首ばかりの嫁御寮に、対面しょうとは、知らなんだ』」が特に難しいと語る。なぜなら、ここは四人のそれぞれの思いを、最終的に大判事が受け止めて代表し、そしてそれを入鹿征伐へと向ける、この段全体の主題を担っているからである。

雛鳥は単純と言えば最も単純である。彼女は愛する久我之助と結ばれることだけが望みである。母の定高は、それと共に太宰の家を守るという大義名分があるが、娘の幸福には変えられない。
久我之助は他を責めずただ自分が政治的責任を担って死なねばならないゆえに真っ直ぐにその論理に従い、同時に雛鳥を守ろうとする。しかし大判事は、政治的局面からは入鹿に一度降りながらその実は鎌足側であり、息子の忠節を誇りに思いながらも、父としては無残に息子を死なせたくはない。しかし最終的に入鹿を倒すためには、久我之助を生かしておくことはできない、という苦渋に満ちた判断をしなければならない。

現代人から見て「理不尽」という声が多い。
なぜ死ななければならないか、なぜ逃げないのか。それができないからこその悲劇であり、死んだ二人の純粋さは永遠に讃えられる。

織太夫の久我之助は派手さを抑えた廉潔さが前面に出て、呂勢太夫の雛鳥の一途さに打たれ、錣太夫の後室定高は、誇り高さと娘への思いに泣かされる。さらに「山」の4人の思いを全て受け止めて入鹿征伐を期する大判事の思慮と肚を語られる呂太夫の語りの深さ。咲太夫が出られない現在、一人一人の語りと三味線の全てを受け止め全てを生かしつつ、全体を把握し配慮した語りをリードする、まさに「紋下」の語りにふさわしい。

人形陣もすべて納得の出来。一輔の雛鳥、玉佳の久我之助の清冽さ、和生の定高の情が一層冴え、玉男の大判事は屈指の名演となった。
このように床、手摺ともにバランスの取れた名舞台はなかなか見られないと思った。

それというのも、やはり大序からの「通し」で、あるべき場所にあるべき語りがあり、その全体性を把握して、この悲劇の全体が成り立つことが見えるからだろう。そして夏に四段目を独立させたことが、吉と出るか凶と出るか、これは今後の「通し」上演の在り方を考えさせるものである。

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第三部『曾根崎心中』近松門左衛門の三百回忌とはいえ、春の宵に『曾根崎』はいささか季節外れというか、違和感がぬぐえない。ただ舞台成果は見事なものである。曾根崎の闇の深さの中に、お初の手が、その白い足が浮かび上がるように。

「生玉社前の段」三輪太夫、團七。お初のいじらしさ、徳兵衛の若さ、九平次の悪辣さ、少しも嫌味なく聞かせる力がある。
「天満屋の段」呂勢太夫、清友。死に向かうお初の覚悟、「徳様の御事なら」のお初の真実。だが気になったのは九平次の「どうで野江か飛田もの」に込められた悪意がもう少し強くてもよかったのではないか。

「天神森の段」芳穂太夫、希太夫、小住太夫、聖太夫と薫太夫が前後半で。錦糸、清丈、友之助、清公、清方。よく揃ったアンサンブルで、段切れへ向けての悲劇性が高まる。

勘十郎のお初に尽きる。徳兵衛は為助、健闘しているが、お初にリードされる徳兵衛になっている。玉輝の九平次の敵役が生きている。

『曾根崎心中』の好評さもあり、普段よりも夜の客足が多かったと聞く。しかし願わくは、半二の描いた大和の四季とその宇宙を味わう機会をより多くの方に持っていただきたかった。
特に「妹山脊山」は出る機会が少なく、キャスティングが難しい。私には、これこそ文楽ならではの世界であり、残し続けなければならない作品であると思うのだが。

掲載、カウント(2023/5/9より)