カテゴリー別アーカイブ: 美芽の“若”観劇録

かくも長き不在―2021年国立文楽劇場7月公演―

森田 美芽

 この災厄は、いつ終わるのだろう。多くの人がそう思い、そして無事を祈る。あまりに長いその忍耐の時に、心が倦み疲れ、まして夏の無聊を慰めてくれる浪花の夏祭も中止または縮小とあれば、この猛暑と悪疫に立ち向かう心の憩いすら見当たらない。
だから、劇場に向かう。そこにいる人々が、その圧倒的な熱量が、心の底にとどまる氷塊を溶かしてくれることを期待して。

第一部は恒例の「親子劇場」。今年の演目は『うつぼ猿』『解説 文楽ってなあに?』『舌切雀』。最初に亘太夫による約3分の解説。子どもにも真っすぐ通じる、ということは、本質的で、しかも子どもの世界を広げるものでなければならない。その困難への挑戦を力強く思う。

 『うつぼ猿』は、狂言よりも猿曳の深い情愛、やさしさ、猿の無邪気さの描出に目が行く。

籐太夫の猿曳が情愛にあふれ、芳穂太夫が愚かだが後味悪くない大名を、津國太夫が両者の間で悩む太郎冠者を子どもたちにも届くように、丁寧に語る。初舞台の聖太夫、薫太夫らも、最初は恐々声を出していたような感じが、「俵を重ねて面々に」など、負けじと声を張っていたのに好感を持った。三味線は清友がシンで、團吾、友之助、燕二郎、清方と、手堅くまとめる。人形では文司の猿曳がやはり温かさを感じさせ、文哉の大名も嫌味なく、紋吉の太郎冠者が悲哀を感じさせ、猿は勘介・玉路で、愛らしい猿の仕草に温かい拍手が起こる。

『解説 文楽ってなあに?』簑太郎と勘次郎。内容はいつもの人形解説。やはり客席からでは人形の首の面白さが見えにくい。そこだけでも拡大した映像を出した方がよいかもしれない。
『舌切雀』は、小住太夫、亘太夫、碩太夫という若手トリオ。小住太夫のお竹は達者なところを聞かせ、亘太夫は人の良い爺そのままに、親雀の碩太夫は、まだ声の使い方が単調に聞こえる。いまや中堅の清志郎が三味線を導き、清丈清公、清允らを引っ張る。なんと心地よく、その勢いが心に届くことか。

親雀は貫禄十分だが、小雀たちは実に愛らしい。翼を広げていっぱいに踊る姿で、前半の不気味さも中和される。もちろん、筋立がやや単純すぎるきらいはある。おそらく文楽を見に来る子どもたちは、少なくとも小学校3年生以上という感じの子が多いから、これでは内容的に物足りないと感じるのではないだろうか。すると見どころは、やはり葛籠の中の化け物との対決ということになるが、大蛇、怪鳥、骸骨、それに今年の時事ネタは大谷翔平。オリンピックにしなかったのは、やはりコロナに苦しむ人の多い大阪での配慮か。玉助の婆が悪役らしく、勘市の爺の人の良さと正反対。紋秀の親雀が貫禄十分。勘次郎の子雀が愛らしく、勘介、玉路、和馬、簑之らも総踊りと宙乗りで沸かせる。

 第2部「生写朝顔話」の半通し。こうした場合、よく出る「宇治川蛍狩の段」を略し、「薬売りの段」「浜松小屋の段」を入れる。そうすることで、この物語全体の印象がはっきりと違ったものになる。
 「明石浦船別れの段」 清治の糸が、一瞬で月明りに惑う夜の海に誘う。呂勢太夫は「せめて慰むよすがもと、掻き鳴らしたる糸調べ」に、深雪の思いの深さ、会われぬ苦しみを感じさせる。そして思いがけない出会いとつれない別れの嘆きを見事に描く。
深雪の勘十郎の思い詰めた積極性と阿曾次郎の和生の歯切れの悪さが対照的簑悠の船頭、最初は両手の表情が堅い。船上の二人、異なる思いと時間が流れるのがわかる。途中から、主人の行動に困り、照れるところがうまくなった。
「薬売りの段」希太夫、勝平。はずむ息、明るくよく響く音。「かたげて走る」などのリズムの変わりや、『行こか参らんしよか』の唄、桂庵の長い口上の面白さもよく勉強している。
笑いの一幕のようで、手を消毒したり、参詣人が集まると「密です」の看板を出す。このあたり簑一郎がうまく遣った。

続いて「浜松小屋の段」呂太夫、清介。零落した深雪の出。いまならタブーの障がい者いじめ、禁止用語のオンパレード。それほどの屈辱を受けながら、なお生きようとする深雪の執念と、その誇り。乳人浅香もまた、辛苦を重ねてここに出てきたとわかる。深雪のためらい、名乗ることのできない苦しみに、浅香もまた、嘆きのうちに故郷の母の死を告げる。深雪が、自らの境涯を嘆き親を苦しめたことを悔いる、そして浅香との再会。しかしそれを妨げる輪抜吉兵衛。立ち回りのメリヤスが入り、瀕死の浅香が生き別れの親のことを告げ、「大井川の段でなぜ戎屋徳右衛門が自害するのかの理由がここで語られる。
その痛ましさ。実は、この場が出ることで、初めてこの物語の輻輳するドラマの奥行が見える。深雪がストーカー的に阿曾次郎を追いかけることばかりが目につくが、実は深雪自身がこの恋を貫くために、自らも危険にさらされたり、遊女に売られかけたり、散々な目に遭う。それを助けるのが、実は阿曾次郎ではなく、こうした家来たちの忠義の物語であり、また生き別れの娘と父の絆、深雪を介して、会うことのできなかった二人が冥途で出会うという伏線が引かれる。

深雪と阿曾次郎の恋の陰にある、家臣たちの、それも二代にわたる忠誠の証。その犠牲の上に、彼女の恋は後に成就する。そのもう一つの主題、親子と主従の絆の深さを見せることができたのは、言うまでもなく、呂太夫の的確な浄瑠璃世界の把握に基づく確かな語りである。とりわけ、一度は身を偽って突き放した浅香に向かって呼びかける詞、「浅ましい浅ましいこの形で」の一言に息を飲み、「海山超えて憂き苦労」が迫ってきた。「お果てなされた母様の死に目に遭わぬのみならず」の嘆きが深まる。ここで呂太夫は、わざと調子をいなした声で絶叫する、その詞の一つで、深雪の苦悩が、また浅香の、亡き母の嘆きまでが一つになる。それを包み込むような、浅香の芯の通った強さと優しさ。一切を解さずただ己が欲望にのみ忠実な吉兵衛。その的確な人物描写を支える、哀れな二人の運命に寄り添うような、清介の糸。
簑志郎の輪抜吉兵衛、悪役の性根、ふてぶてしさの描出が見事。勘彌の浅香は、前半動きが少ない所も、思いやりと忠義に溢れ、後半の女丈夫の強さで芯の通った乳人像を描いた。

「嶋田宿笑い薬の段」の南都太夫、清馗がよく動く明快な詞で面白く聞かせる。南都太夫は萩の祐仙のおかしみを語り、清馗は人物の表情まで見えるような達者な三味線。
、咲太夫、燕三。切場ではないが、ここは咲太夫しかない、という配役。今回、徳右衛門の性根がよく見えたので、祐仙の軽薄さがより際立った。しかし笑い薬の笑いが、今回は長く感じてしまった。客席の反応が静かすぎるせいもあるが、笑いが舞台を包んで客席を揺るがすような、そんな広がりにならない。それは私たちの中で、あまりに長く、笑うことが許されなかったためだろうか。
祐仙といえば勘十郎の持ち役のように思えていたので、簑二郎の祐仙は驚きだったが、舞台を広く使い、自在に動き、笑いが止まらない表現もきっちりこなす。ただあとは自分の役柄への自信のみかと見た。

「宿屋の段」前段と打って変わって、阿曾次郎、この場では駒沢の深いもの思いに始める。深い余情をたたえた富助の糸に導かれ、千歳太夫も駒沢の詞に情を込める。朝顔の女が深雪と気づき、それとなく彼女をかばい、助けようとする、ただそれが深雪の熱量に比べ、あまりに冷静なように感じさせるところは、また彼も狙われる身のゆえであるとわかる。去り際の「テ残念至極」の詞に底力を感じた。ただ、徳右衛門の詞がやや世話に傾いたように感じた。

「大井川の段」靖太夫、錦糸。
ここからは一気に結論に向かう。こんな艱難辛苦を経てまで恋い慕う夫を目の前にしていながら、なぜ気づかなかったのか。深雪の口惜しさ、そしてここで情熱を爆発させる強さを、靖太夫は一気呵成に語る。錦糸は終始冷静に背景を描く。
ここでいつも徳右衛門が自害することが解せなかったのが、先の「浜松小屋」と結びついて、徳右衛門の人物像も深まる。今回の勘壽の徳右衛門は、その人の良さがどこから来たのか、父としてどのような思いであったかも感じさせる好演。
そして勘十郎の深雪。極めつけともいうべき簑助師の「朝顔」を受け継ぎ、その一途さ、情熱、零落しても誇りを忘れず、芸人となって自らの境涯に恥じらうところも見事。和生の阿曾次郎が、深雪に引きずられるようで、しっかりと自分の公的な立場をわきまえつつ行動している冷静さと賢明さ、そしてふと見せる優しさが、この人らしい。玉彦の手代松兵衛、簑太郎の下女お鍋もちょっと笑わせるところがよく、玉輝の岩代は骨のある敵役で、阿曾次郎の苦衷を理解させる出来。玉勢の奴関助もさわやかな印象。

第三部『夏祭浪花鑑』極めつけ、夏の定番。あまりの名作で、しかも夏の暑さを吹き飛ばすような力演で、おそらく誰もが引き込まれるエネルギーに満ちている。
様々な浪花の夏の風情を背景に、祭りの興奮と狂気が交錯する中での殺人事件。その背景は、高津神社の夏祭である。その近しさゆえに、大阪人はこの物語を愛し、また親しむ。今なら半グレなのだろうが、そこに貫かれる意地は、いまも大阪の地に脈々と伝わる。しかし、「内本町道具屋の段」を省略したことで、やはり物語が単純になりすぎたきらいはある。
「住吉鳥居前の段」口、碩太夫、錦吾。碩太夫は声も大きく、精一杯の姿勢はいつも気持ちよい。まだ声は一色しか出ないという感じ、特に釣船三婦のような貫禄は難しい。「丸う捌いた男伊達、美しいので気味悪く」の変化はまだ。錦吾は落ち着いてしっかりと弾いている。
、睦太夫、團七。睦太夫は安心して聞ける。多様な人物の語り分けなど、自然に流れる。三婦だけでなく、団七も徳兵衛も、さらにこっぱの権やなまの八などにも、血が通う。ただ、碩太夫もそうだが、大阪の香りというか、そういう感覚的な部分まで求めるのは難しい。かつて故小松太夫でここを聞いたとき、住吉の風情、町の賑わい、住吉の反橋に響く蝉の声や日差しの暑さ、さらに黄昏の町の香りまで感じたことがある。浄瑠璃の生活世界とは、そういう時空の広がりを包むものであることを知らされた。これは作り事であっても、現在に通じる感覚を伝えているのだと思う。團七はそうした懐かしさを心に描かせる魅惑的な糸。
「釣船三婦内の段」口、咲寿太夫、寛太郎。磯之丞と琴浦のやり取りが、何とも言えずつきづきしい。「据ゑ膳と鰒汁を喰はぬは男のうちでは」の強がりなど、思わず微笑んでしまうほど。寛太郎の突っ込み、まるで会話をしているかのような的確さで入る。
、錣太夫、宗助。この人は、切れ味よりも情の深さが勝る。お辰の詞も、そのイキだけでなく、夫の顔を立て、周囲を立てる気遣いや、夫の面目を失わせないでよかった、という感情が伝わる。これは清十郎のお辰の表現にも当てはまる。簑助師のお辰の気風のよさや潔さよりも、そうしたいじらしさや、恥じらいといった風情が伝わってくる。また義平次のアクの強さも。宗助もこの人とのコンビネーションが板についている。構成の確かさ、ふとした感情の表し方も。
「長町裏の段」団七を織太夫、義平次を三輪太夫、三味線は藤蔵。
必死で追いかける団七、この憎々しい義平次。義理の親子とはいえ、義理と金に絡んだ対立、しかもこの義平次のブラックな表情。団七をいたぶる意地の悪さ、挑発。草履で顔をはたく、ここまでやられては黙っていられない、追い詰められていく団七が切れ、「毒喰はば皿」とついに刃を向ける。その怒りを生み出し、また挑発する三輪太夫のうまさ。織太夫は、団七が怒りを溜めていき、それが切れる一瞬の凄まじさを爆発させる。
丸胴に刺青、長い手足、不思議なバランスで、その大きさ、ダイナミックさが強調される。
しかし殺し場は、スローモーションのようにゆっくりと、そして義平次のしぶといこと。泥にまみれても、この人は簡単に死にそうにない。その団七と義平次が絡み合う向こうで、過ぎていく夏祭の提灯。いまも西成区の生根神社に残るこの「だいがく」は、古い祭りの形を表わしている。そして「ちょうさ、ようさ」の掛け声とともに現れる神輿のスピーディなこと。人形遣いが神輿の台を振り回すように、人形もそれにつれて振り回される。その騒ぎに紛れて逃亡しようとする団七。「八丁目、差して」が圧倒的。
人形では、玉男の団七が圧巻。この不器用な男の生きざまを共感させる遣い方。玉也の三婦の貫禄と、積み重ねてきた経験の重さ。お梶の一輔も小気味よく、玉翔のこっぱの権と玉誉のなまの八もいいコンビ。清五郎の磯之丞はほんまにぼんぼんやなあと感じるし、紋臣の琴浦は健気で品のよい娘のよう。亀次の佐賀右衛門のうまさ、一目でその性根がわかる。勘昇(後半玉征)は倅市松を愛らしく遣い、玉延(後半玉峻)の役人もしっかりと見せる。一寸徳兵衛は玉佳、玉男の団七と並んで引けを取らないスケールが出てきた。おつぎは簑二郎と勘彌の変わり(所見時は簑二郎)でどこかに「極妻」を経験した柔らかさ。玉志の義平次の憎々しさが、このドラマを最高潮に盛り上げる。
夏が終わる。そしてまた、忍耐の日々が始まる。
「失われたものはかえってこない
何が悲しいったって、これほど悲しいことはない」

(中原中也『黄昏』より)

 ひとたび失われれば帰ってこない。それほど大切なものを私たちは与えられているのだ。文楽に限らず、この国を支えてきた人々の業が、仕事が、暮らしが。分けても、舞台芸術が「不要不急」のように扱われ、また人々にも、それがなくて済ませられる贅沢のように、甚だしくは諸悪の元凶のように扱われ、それほどでなくても、人々の心から、それを受け止める余地が失われていったことは否めない。
そうした文化の「不在」に対して、私たちは次第に鈍感になりつつある。「去る者は日日に疎し」と言わんばかりに、目からも遠ざかる者に我々は冷淡である。また多くの人々が、その日の暮らしに、また病のための困難に、「それどころではない」状況にある。だからこそ、残さなければならないものがある。
今回、この舞台を見て、そして呂太夫の浄瑠璃を聞いて、改めて思ったことがある。文楽の時代物は、必ず主従の絆、親子の絆を無残に引き裂くものがあり、運命に翻弄される人間の苦しみがある。そうした根底にある浄瑠璃の文法ともいうべき世界観がある。そのうえで私たち現代人が共通に感じる悲哀や情が表現されるのに共感する。呂太夫の浄瑠璃を聞く時、その根底的な確固たるその世界の文法、世界観とそれを表現する音韻の法則としての節使いや語りの技法が揺るぎなくあって、その上に彼の理解した、普遍的な人間性を備えた登場人物の理解の表現がある。だから、江戸時代のことなのに、いま目の前に起こっているように、しかも全く違う世界観を描いているのに、今の世の人の思いに通じるものとして伝わってくる。それが古典としての厚みであり、語りの芸としての義太夫節の本筋であるから、どの演目であっても、その基本がきちんと、素人にも伝わってくる。驚くべきことと思う。
これがまた、残さなければならないものの一つであることに間違いない。
「不在」ではない、いま彼らはここに生きて、そして大切なものを守っているのだから。それはまた、これからも私たちすべての命を伸びやかに生かし、輝かせるものであるから。

掲載、カウント2021/8/12より)

時は過ぎ行く―2021年4月公演―簑助千秋楽を観て

森田 美芽

 文楽と出会って、背筋が震えるほどの経験がいくつもあった。その中の一つが、吉田簑助の遣う女の人形だった。目を奪われる華やかさと動きの細やかさ、何よりも生きている、という感触。他の誰とも違う、天才とはこのことかと思った。
 その引退の報を聞き、驚きとも、悲しみともつかぬ思いが沸き上がった。そして4月24日、コロナ禍のため緊急事態宣言が発せられ、千穐楽が1日繰り上げられ、その最後の舞台を見るという幸運に与った。そして改めて、文楽の魅力とは何かを考えさせられ、しみじみと、文楽という特殊な人形浄瑠璃がもたらす美の深さを思った。

吉田簑助に引退の花束贈呈!!!
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 本来なら、これは正月の初春公演によく見る演目である。コロナ禍のため、本当に明日をも見通せぬ状況で、苦心を重ねたことの証左であろう。技芸員のお一人お一人の、日々舞台に立てるという強い思いが伝わってくる。

 『花競四季寿』錣太夫、芳穂太夫、希太夫、靖太夫、碩太夫、文字栄太夫、三味線は宗助、清馗、寛太郎、錦吾、燕二郎。景事ものとしては長く、四季ぞれぞれの風情と面白さを、錣太夫がドラマティックに、また時にユーモアを交えて、語りを率いてまとめる。宗助ら、音の寄せる波のような感覚が、「海女」の海辺に、また「鷺娘」の雪景色に広がる。

 「万歳」は太夫を簑紫郎、才蔵を玉勢。簑紫郎は貫禄と落ち着きが出て、玉勢も動きの中に性根が見える。生き生きとした遣いぶりは、幕開きにふさわしい。
 「海女」は勘彌と簑二郎が交替で。勘彌の海女の立ち姿の綺麗さ。蛸との絡みはユーモラスで笑いを誘う。ここの冒頭の三味線の合奏が美しい。明るい満月に「出てくる出てくる‥」の詞章が期待を抱かせるので、蛸のくだりが面白くなる。
 「関寺小町」が「海女」と前後半入れ替えで簑二郎と勘彌。ここは故文雀が得意としたところで、格という点では及ばないかもしれないが、小町の柔らかさ、昔を偲ぶ風情など、簑二郎がしっかりと自分の表現にしている頼もしさを感じた。
 「鷺娘」を清十郎。冬の凍てつく寒さのはずなのに、何と美しく、華やかで気高いこと。凛とした姿勢に、娘らしい愛らしさ。雪の花が開くように、時を忘れさせる、そしてまた、春を待つ心で、この幕を締めくくる。

 続いて『恋女房染分手綱』「道中双六の段」睦太夫、ツレ咲寿太夫、三味線勝平、ツレ清公。睦太夫はしっかりと、本田弥三左衛門、調姫、重の井の詞を語り分ける。流れも自然で、よく勉強しているのがわかる。
 道中双六のくだりでは咲寿太夫の声が清々しい。勝平がしっかりとリードするので、負けじと清公も併せる。ただ、競い合いではない。妥協のない瑞々しさが溢れる。

 「重の井子別れの段」咲太夫、燕三。重の井の詞に、この物語の全体像をしっかりと見せ、単なる子別れではない、義理に堰かれる重の井の心中を、また三吉の健気さが胸を打つように、燕三ともども、クライマックスの馬子唄まで計算された、浄瑠璃の構造を見るように思えた。

 和生の重の井はもはや持ち役といってよい。乳母の気概と気品、別れた子に対し、正面から向かい合う、それも心で涙を隠して。玉彦の三吉が出色の出来。健気で、大人びた顔を見せるたび、この年齢の子をこんな目に遭わせる運命の酷さを感じるほどに。調姫の玉峻(後半玉延)もまた、いたいけな少女が父母に別れる理不尽を感じさせる好演。
 文司の本田弥三左衛門は、全身赤の装束といういでたち、飄々とした風情の中に抜け目ない本性を持っている。宰領の紋吉、玉翔らも安定。勘介、玉路らの踊り子も愛らしい風情を見せた。紋臣は若菜のお福かしらでほっとさせる。

 思えば子どもが残酷な目に遭う、それも親の義理ゆえに、という悲劇の一つではある。ここで別れて、再び親子となることができるのだろうか。その余韻を残す舞台となった。

 第二部は『国性爺合戦』の半通し
 「平戸浜伝いより唐土船の段」掛け合いで、和藤内を希太夫、小むつを小住太夫、老一官を津國太夫、一官妻を南都太夫、栴檀皇女を咲寿太夫。三味線は、清志郎、清丈、清公。希太夫の声が肚に堪える。それは楽日でも変わらなかった。この人は地力をつけてきている。不自然なく、大団七のかしらに負けない語り。小住太夫は衒いなく真っすぐ。栴檀皇女に嫉妬するあたりも自然に聴かせた。
 津國太夫は年功、骨太の語り。南都太夫も品を崩さず、咲寿太夫は唐人ことばを一つ一つ確かめるように。そして清志郎率いる三味線が、よく揃った爽やかな音色で、まとまりある一段に仕上がった。

 「千里が竹虎狩りの段」口、亘太夫、清允。奥三輪太夫、團七。ツレ團吾、錦吾。
 口の亘太夫も声が安定し、清允ともども明晰に語りを印象付ける。奥の三輪太夫は余裕をもって楽しませてくれる。團七は簑助に次ぐ高齢だが、まだまだ腕は衰えず、弟子の團吾、錦吾とともに、かなり突っ込んだ気合を聞かせてくれる。ここはやはり虎が注目されるが、安心できる語りがあってこそ、である。

 「楼門の段」呂勢太夫、清治。簑助の出る場面で、一層期待も拍手も高まる。呂勢太夫は堂々と、この光景を描き出す。ただ、一官と和藤内の詞の音の変化がよくわからなかった。「一官はむせ返り楼門に縋り付き、見上ぐれば/見下ろして」にあふれる親子の対面、生き別れの20年がなお隔たりをもって迫るこの場をよく聞かせた。清治の、紛うかたなき手。どこまでも物語の軸をぶれさせない強さ。

 「甘輝館の段」呂太夫、清介。
 千穐楽、簑助の短い引退セレモニーが入ったため、少し割をくった形になっているが、この場の難しさはただ事ではない。近松特有の、字余り字足らずの語りにくい節付け、その中に親子の縁の深さとこれまで隔たるあまりの遠さを広がりで感じさせる。腰元の詞は軽快に笑いを誘う。
 甘輝の帰還から、母が前に出ての語り、その堂々たる態度と、一転して妻を殺そうとする甘輝の「止る母の詞には慈悲心こもり、殺す夫の剣の先には忠孝こもる。親の慈悲と忠孝に命を捨てよ女房」への流れが息もつかせない。そしてこの約束には、当人の命だけでなく、日本の誇りがかかっているのだ。錦祥女が追い詰められ、紅を流すと語るその詞の端に、もはや命を、という覚悟が見える。まったく不自然さなく、これだけの変化の中できっちりと性根を語り分け、その一つ一つ、理不尽と思えることも、胸に堪えるのだ。その曲の核を捉え、格ともいうべきものを、自ずから作り出している。
 この核となるものなしには、錦祥女の悲劇も、母の悲劇も伝わらない。
 この物語自体、エキゾチズムや日本の優越性などでは満足できず、義理のために死ぬという論理も共感できない現代人であるわれわれに、それを伝えるという至難の業を、彼は成し遂げている。

 「紅流しより獅子が城の段」籐太夫、清友。前半は一気呵成に、後半は甘輝との対決の重さと対比。籐太夫もまた、勢いや力だけでなく、両雄の格と人となりが迫ってくる。清友のサポートもあるが、語りに説得力が増し加わっている。

 人形では、玉志の和藤内が堂々と、スケールの大きさと無邪気さを表現して頼もしい。登場時は「普通の人」で、次第に武将らしい風格が出てくる。後半の玉助は、やんちゃな生命力と力感が魅力。ただ、甘輝と対峙する時、ふと力が抜けた時があるように見えた。一方、玉男の甘輝は風格と熱い思いで和藤内を圧倒する。老一官は玉輝、武骨な中に熱い忠義を秘める。勘壽の母はさすがに老練の風格と、後半「口にくわえて唐猫や」のくだり、片手遣いも母の気品を失わない。
 小むつの簑一郎は、立ち姿のしとやかさと備中鍬を振り上げる直情さをうまく表現し、清五郎はこせつかない動きで鷹揚さを見せた。勘市が安大人で釣船かしらの性根を利かせ、虎は今回も勘介と聞くが、その動きで楽しませてくれた。

 極めつけ、簑助の最後の役となった錦祥女。
 簑助の女には華やかさとエロチシズムがあるというが、この錦祥女では、凛として立つ女性の精神性の高さを感じた。弱さではなく、たおやかさ。2つの祖国、夫と父に引き裂かれ、孤独を背負って生きてきた彼女が、初めて自分の家族と出会った、その思いが胸を打つ。だが情に流されず、冷静に判断し、かつ夫を説得しようとするその姿勢には、自分を犠牲にする覚悟がうかがえる。
 この人は、なぜこれほど、女性の中にある多様性を見事に表現できるのか。その中に純な魂を見せられるのか。これが最後だからではなく、最後の最後まで、妥協することなくより高い表現を目指す、この人の技芸者としての生き方と一つになった思いがした。

 その後を遣ったのは一輔。この人も自ずからなる立女方の風格を身につけてきている。

 第三部は、小狐丸の話題性もあってか、若い女性が多い。そして必ず、特製の人形を写真に撮り、スタンプを押し、そのためのパンフレットを持ち帰る。
 きっかけは何であれ、文楽を見る、劇場に行く、そういう経験をしてもらうにはもってこいの企画である。ただ、その前の芝居が、なぜこの組み合わせなのかと不思議に思う。

 『傾城阿波鳴門』「十郎兵衛住家の段」口、碩太夫、燕二郎。前千歳太夫、富助。後靖太夫、錦糸。
 この物語を国立文楽劇場で上演するのは32年ぶりという。それが、現代的な価値観からかなり違和感があることも理由だろうが、何より、登場人物に共感しにくい。娘を思って突き放すお弓の葛藤はまだわかるが、父であるはずの十郎兵衛が、子どもの金を狙うという盗賊まがいのことをして、挙句娘を死に追いやるというのは、あまりに理不尽に思われる。

 碩太夫はアクセントを丁寧に、燕二郎ははずむようなイキで合わせる。
 千歳太夫は語れて当然、それだけの修練を経て、越路太夫の風を身につけてきた人だ。だが、なぜかこの日は、娘おつるの巡礼歌で調子が変わらず、詞が苦しく聞こえ、後半のお弓の独白に力が入りすぎているようで、カタルシスに至らないことが残念だった。
 後の靖太夫は語りにくいところだが、十郎兵衛の詞がよそよそしく、自分に娘と知らずのたくらみということが納得できる。だがお弓の詞も届かないし、これが義理に迫られた悲劇ということも、娘への思いも届かない。内容としても観客を引かせてしまうものだけに、靖太夫の良さが十分聞けないままに終わってしまった。錦糸もこのめったに出ない曲を見事に弾いていたのに。

 勘十郎のお弓、無論、隙のあろうはずがない。だが殊勲賞は勘次郎のおつるだろう。玉也休演のため代役は玉佳。こうした難しさをよくこなしたと思う。「小判がたんとある、アノ小判」あたりの性根の表出がよかった。

 『小鍛冶』 織太夫が稲荷明神、睦太夫が宗近、芳穂太夫が道成、ツレ小住太夫、亘太夫、
 三味線 藤蔵、清志郎、友之助、清允、清方。
 いつもと違う客層をどう引き付けるか。なれば真っ向勝負の織太夫、藤蔵の力で、義太夫節の迫力とその表現力の深さを伝えるほかはない。
 前半の宗近の詞が端正で、老翁の詞に格がある。後半は相槌のリズムが心地よく、舞台の全体を包み込む。清志郎はここでも、清廉な三味線を聞かせ、清方の胡弓が秋の夜につきづきしい。

 人形は、三条小鍛冶宗近を玉佳が力演。誠実にして凛々しく、動きに若々しさと強い意志を感じさせる。老翁実は稲荷明神を玉助と玉志が交替で。玉助はやや動きがせわしなく感じた。左は玉勢、足の玉路、しっかりと三人遣いの魅力を見せた。勅使橘道成は、前半文哉、後半紋秀。文哉はしっかりと見届けている。

 TEMPUS FUGIT(時は過ぎ行く)――慶応大学図書館の大時計に刻まれたこのことばが、心に浮かぶ。
 吉田簑助の、81年という驚くべき芸歴の中の、最後の25年を見ることができた幸いを思う。だが、その美は、文楽という比類ない人形浄瑠璃の中でしか生まれなかったことを同時に思う。

 人形が人間よりも人間らしいのは、その直接的な肉体性を離れ、人形遣いの手で再構築されたものだからだ。お初や小春、梅川と言った遊女たちのエロスとタナトスの中に見え隠れする義理と理性、八重垣姫のたおやかさと物狂おしさ、お園やおさんの「ゆるし」、お半やお染の、恋する少女の中の女の陰、今回の錦祥女のような、気高い精神性、それらを役に応じて描き出す、その核となる「永遠の女性」を表現できたのは、まさに浄瑠璃の詞章が正確に語られ、三味線が模様を伝え、その中で再構成された人間性だからだ。感性を通して入ってきたものが、正確に言葉と音楽によって整理され、なお憧れを掻き立てる。そういう文楽の構造の中で生き抜き、表現し続けた81年を、私たちは共にさせていただいた。そのことに感謝の他はない。そして発見された美は、一瞬にして時の中に崩れていく。
 美のはかなさ。そのあわいにあるものを、また見たい、感じたいと思って、私は舞台を見続けた。

 時には終わりがある。その、取り返しのつかない一瞬なればこそ、また時のなかにくずおれていくその時を愛おしみ、そしてまた、簑助が去った後も、この舞台のなかに、そうした奇跡との出会いが起こり続けるだろう。時は過ぎ行く、ただし、出会いの反復をもって。

掲載、カウント2021/5/4より)

名残の梅花―2021年2月 東京公演―

森田美芽

三宅坂の国立劇場の前庭には、様々な梅が咲き乱れ、寒の季節の彩を添えてくれる。その凛として立つ、匂うやかな花の如き文楽公演、今回は二部「吉田屋」と「寺子屋」を見る。

『曲輪ぶんしょう』
 口、睦太夫、勝平、ツレ錦吾。睦太夫は真面目に、誠実に取り組んでいるのがわかる。ただこのように、大阪の廓の風情、大阪ことばの情のやり取りと言ったレベルになると、それだけではない力が必要になる。勝平はよくリードして、その機微を利かせ、錦吾も華やかに盛り上げる。勘次郎の仲居お鶴は丁稚かしらがうつる。玉彦のお亀もお福らしく、勘介のお松も併せて楽しく見せる。紋秀・紋吉の権太夫、獅子太夫もたっぷり見せる。この掛け合いが楽しい。

 咲太夫が伊左衛門を語る。この、大店の放蕩息子、気位高く見栄っ張りというこの風情をリアリティを持って語れるのは、いまはこの人しかあるまい。「七百貫目の借銭背負ってびくともせぬ」と空威張りする、だが、「変はつたはおれが身の上」あたり、さらりと語ってもその中に人には見せられぬ嘆きの響き。
 見事である。またそれをとりなして、うまくあしらえる吉田屋主人喜左衛門を籐太夫。「エエ浮世ぢゃな」あたりの情ある振舞いの美しさ。おきさを南都太夫、「ほんにそれいな」からの喜びで、好人物とわかる。夕霧は織大夫。恋にやつれ恋人を案じながらも、母としての気丈さ強さを見せる。この女が相手では、伊左衛門もたじたじ、いや、やり込められるのもコミュニケーションの一つか、
 そうした空気感、目に見えないやり取りの深さ、この師弟は大阪のかつてあった時空のはんなりした風情をそうやって再現してくれる。これは貴重な味わいである。合わせる燕三の呼吸、クドキの影を添えるように。また燕二郎のツレも出すぎずしっかり余情を加える。

 玉男の伊左衛門、出がそろりそろりと、夕暮れの風が紙衣の身に凍む零落の風情、そして店の前でのややためらいがちなさま、きっちりと性根を出す頼もしさ。勘壽の喜左衛門、こうした人物の奥深さと情を出す力はさすが。
 おきさは一輔、やや控えめな印象。そして清十郎の夕霧。三重のふすまの奥の出から、松の位の太夫の格と共に、この女の一途さ、「可愛い」と言えるほどの純粋さがまず感じられる。遊女であるが心は貞女、そういう理想を担った夕霧像を見事に描いている。心地よい余韻。

 続いて『菅原伝授手習鑑』「寺入り」希太夫、清馗。
 希太夫はこのところ安定して力を発揮している。それぞれの役柄、首の音を正確に守り、詞を丁寧に語る。それが実を結び、行儀のよい、隅々まで行き届いた浄瑠璃を語れるようになってきている。清馗も丁寧に沿い、支えているのがわかる。

 「寺子屋」前、呂太夫、清介。
 清介のオクリが厳粛に始まる。『菅原伝授手習鑑』のこの段だけという上演形態だと、観客の思いを一気にこちらへと向かわせる力が必要になる。

 呂太夫の「引き連れ」の産み字が、ここに広がるのが、芹生の里の地元の子らのための寺子屋ではなく、都と、宮廷と、道明寺、佐太村、筑紫へと広がる物語の時空の集約であり、ここに源蔵と松王が集まるのが偶然ではないことが、その言葉の背後に連なっている。
 「急ぎ行く」のは千代、その影を残しつつ、戸浪が再びここに時間を取り戻す。

 「折からに」ですぐ空気が変わり、「立ち帰る主の源蔵、常にかはりて」の重々しさ、玉也の源蔵の出、その沈思のさまが只事ではない。ここでまた源蔵の視点に引きこまれる。「色蒼ざめ内入り悪く子供を見回し」で、子供たちを見回すところが、また不機嫌さが際立つ。
 「世話甲斐もなき、役に立たず」もだが、「思ひありげに見えければ」の一言から戸浪が受けて、「性ない人と思ふも気の毒」が響いてくる。序段で源蔵を支え、共に戦う同志の戸浪は、ここでもしっかりと現実を見ている。そして小太郎の顔を見て、「忽ち面色和らぎ」の感情の動きストレートすぎるほど。でも、それほど追い詰められていたのだとわかる。
 「ムム、それもよし、よし大極上」のクレッシェンドが、逆に次の不安を掻き立てる。
 戸浪が気づく。「なほもつて合点行かず」ここで人形は首を上げる。さすがの戸浪。源蔵の説明は、なんと短絡的なことか。身代わりになりそうな子を見つけ、その子が誰であるかを確認することもなく、「天道の控へ強気にや」と、身替りにすることを決めてしまう。「一旦身替はりで欺きこの場さへ逃れたらば、直ぐに河内へお供する思案。いま暫くが大事の場所」と、源蔵の性根の最も大事なところが十分に響いてくる。

 戸浪の「待たんせや」が「待た、ん、せや」だろうか。
 「悪者」「顔は」と詞の節目を明確に、心の戸惑いと不安がよぎる。源蔵の方も「そこが一、かばちか。生き顔と、死に顔は、相好の変はるもの。」ここでも大事を決行しようとしながら、その不安を一つずつ自分に言い聞かせて克服していこうとするようだ。そうあってほしい、だがそううまくいくとは限らない。
 母親の方まで手にかける覚悟へと自然に高まっていく。だから「母御の因果か」「報いはこちが火の車」「追っ付け回つて来ませう」が痛く沁みる。そして源蔵が、小太郎の首を打ったその胸の内も。

 夫婦の愁嘆から、「かかる所へ春藤玄蕃」で一気に緊張が高まる。今ここにある危機。なのにすぐ「後には大勢村の者、付き従うて」でまた弛緩させる。ユーモラスな村人たち、権威を見せびらかす玄蕃、そこに松王が立ちはだかる。この村人たちもそれぞれが自己主張している、ツメ人形だがそれぞれの個性がくっきりと出る語りの力強さ。
 玉助の松王は、駕籠から出て、少しよろけ、杖をつく。少しわざとらしく見えてしまう。「ほかに菅秀才の顔見知りし者なきゆゑ」の「ほかに」と「なき」を強調し、この場での絶対的な存在であることを知らしめ、源蔵夫婦に敵対する。「一人(いっちにん)づつ」で、一人も見逃さないぞ、と迫る、「退つ引きさせぬ釘鎹、打てば」で夫婦の危機の大きさを示す。「胸轟かすばかりなり」は本当に心臓が早鐘を打つ緊張状態。

 その直後に「腕白顔に墨べったり」などと全く異なる調子が出てくる。この転換の楽しさ。
 だが子どもたちが全て帰ってしまうと、いよいよ追い詰められる。玄蕃は権威をかさに着ているだけだが、松王は実に抜け目なく攻めてくる。「ヤアその手は食はぬ」からのイキの詰んだ迫り、思わず源蔵も売り言葉買い言葉のように、「ヤア要らざる馬鹿念」から「追っ付け見せう」と、それこそ逃げられないところに追い詰められる。机の数を数えるところも,

 怒鳴りつけて戸浪を怯えさせるところだが、ここも強すぎず、だが言い逃れを許さない抜け目なさ。戸浪が言い抜ける詞も上ずっている。「こなたは手詰め命の瀬戸際」がまさにそうなっている。そして「奥にはばったり」の様子が、松王の立場に変わる。

 源蔵は「しっかりと見分せよ」と挑戦的に語る。
 無論、松王の出方で彼を切るつもりである。だが松王の方は、そんな彼の意図を読み切ったように、周りを固めさせる。「今浄玻璃の鑑にかけ、鉄札か金札か、地獄極楽の境」鉄札、地獄、境の語が残るように語り、松王のもう一つの性根、我が子をわざと源蔵の手にかけさせるという意図が、ここではこの奸智の蔭に隠れている。

 この絶体絶命の危機、戸浪の祈願が一途でこの緊張を際立たせる。その後の「眼力光らす松王が」のところで「コリヤコレ菅秀才の首討つたは、」のあとの「紛ひなし、相違なし」が、山城系、たとえば越路太夫の、「コリヤコレ」以下を少し抑え、「紛ひなし、相違なし」を冷静に語るやり方に比べ、今回の呂太夫は「コリヤコレ」から強く、そして源蔵に向かって「紛ひなし」を力が抜けたように、玄蕃に向かう「相違なし」を、気を取り直したように強くいう。
 これは祖父十代若太夫のやり方であり、どちらかと言えば理知的な造形の山城系に対し、泥臭いが松王の葛藤の深さを表し、源蔵夫婦にちらとそれを見せてしまう、そういう弱さをも見せている。そして「これよりお暇給はり」で明らかに声の調子が変わる。もしかしたら、ここで気づかれるかも、と思うほどに。

 は籐太夫、清友。籐太夫もこうした詞の切れ目の一つ一つが明確で、そこから話と節の流れが変わることがよくわかる。そして千代の正体も松王のモドリも、ごく自然な流れになる。その中で千代のクドキをたっぷりと「嬉しう思ひませう」などで泣き、「叱った時に」でも利上げ、「どうマア内へ」でまた泣かせる。「可哀やその身の不仕合せ」でたたみかけ、「何の因果に」でこの悲しみをぶつける高ぶりを見せる。

 それに対し松王が諫め、源蔵に小太郎の最期を聞いて、誇らしげに笑い、泣く。そのあたりの運びは見事であった。桜丸に言及するところも説得力があるが、まるで松王役の芝居をしているというか、役者がセリフを語っているように聞こえた。「いろは送り」は少し音が上に上がりきらない。このあたりの声の使い方が、切場を語っていく時の課題であろう。

 今回の呂太夫の語りで教えられたこと。人物が変わるたびに、その人物の視点が見え、物語の見え方が輻輳的になる。
 源蔵にとっての物語と、松王にとっての物語の、千代にとっての物語。それは後半を語った藤太夫にも受け継がれる。浄瑠璃の密度が違う。大声が出ているとか、美声であるとかではなく、正しく表現された浄瑠璃ならば、その一言一言のうちに、これだけの世界を表現できるのだ。

 人形では、千代と戸浪がやや弱い印象。もちろん簔二郎も清五郎もよく使い、特に破綻はない。だが、千代も戸浪もそれぞれに強さのある人物で、その描き方がこれからの課題であろう。
 玉也の源蔵は直情な人柄が伝わる。玉助の松王は、スケールが大きいが、感情表現がやや荒いというか、ここは肚で泣くところではと思う。玉輝の春藤玄蕃は実にそれらしい存在感ある遣い方。玉誉の御台所は上品で背筋の伸びた美しさ。玉翔のよだれくりは楽しい。簔之の小太郎はいじらしく、清之助の菅秀才は高貴な出自をうかがわせる良い出来。

 新町の廓の正月も、親が子を忠義のために殺すという論理も、私たちの日常からは遠ざかっていく。
 ただ、彼らの舞台を見るとき、それらが体感できる形で残っている奇跡を思う。失われれば、復活させることはできない。だから、彼らの日々の努力の中に、その名残を少しでも伝えることができればと思う。

 コロナとの日常の中にも、新たな日々の中にも、その大切なものがなお保たれることを祈りつつ。

掲載、カウント2021/3/26より)

戦い続ける勇気を―2021年初春公演―

森田美芽

 正月というのに、いつもの華やぎとはほど遠い、国立文楽劇場。総力を挙げて感染防止対策を行い、技芸員一人一人も自覚をもって務めている。異様な緊張を背負いながらの公演であることが痛いほど感じられる。
 文楽を本格的に見始めて四半世紀になる。その中で、毎年の初春公演が、晴れやかさと慣れ親しんだ行事に彩られて、特別な感慨を与えてくれることを疑ったことはなかった。だからこそ、劇場でのひとときがどれほど貴重なものであったかを知らされる。
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第一部は凛冽たる『菅原伝授手習鑑』三段目。
 「車引の段」。鮮やかな紅白の梅があふれる舞台。睦太夫がしっかりと梅王の詞を、芳穂太夫が桜丸の苦しい胸の内を語る。この浅黄幕の前でのやり取りは、決して聞きやすいものではない。にもかかわらず、その性根の確かさと、語尾まで明確に語られたその詞が、この一家の巻き込まれた悲劇を明確にし、そして兄弟の対立という痛ましい現実、父親の七十歳の賀の祝という重大事を前にした一家の絆を取り戻せるかという瀬戸際であることを伝えてくれる。様式美というものの、劇の根幹は詞にある。そしてその詞が、確実に内容にふさわしい音遣いと風格をもって語られる時、その意味が時代を背景に重みをもって迫ってくる。文楽での太夫の詞とは、それほど確かな重みをもつものだということを改めて知らせて頂いた。
 杉王丸の碩太夫がいかにも金棒引きという感じで、津國太夫の時平はたっぷりと悪の凄みを大笑いで聞かせる。藤太夫はこの場の松王の遺恨をしっかりと骨太に語る。清友の絶妙のバランスが、紅白の梅の艶やかさにつきづきしい。

 「茶筅酒の段」。一転してのどかな佐太村の風景。三輪太夫と團七の、ほっこりとさせる、音の温かさと優しさ。いつも三人の嫁の炊事姿に笑みがこぼれる。そこにふと不安を抱かせる、息子たちの不在と「陰膳」。

 「喧嘩の段」。小住太夫と寛太郎(後半は亘太夫と友之助)。動きがあって楽しいが、兄弟同士の遺恨はやや直情的。

 「訴訟の段」。靖太夫、錦糸。ここから白太夫の性根が変わったように見える。だが、まだ真実は隠されている。それが指間からこぼれるように目に留まる。靖太夫も成長したと思う。まだ白太夫の格は難しいとしても。錦糸は泰然と、その向かうべきところに向かっている。
「桜丸切腹の段」を千歳太夫、富助。今回は息子に死を迫る父の思いが堪えた。息子を助けたいという思いと、管丞相への忠義の板挟みの苦悩が切に迫る。富助の切っ先が冴える。

 桜丸を簑助が遣う。覚悟のさまを動かずしてそのすべてを伝える簑助の至芸。そして息子に腹切刀を突き付ける父の凛冽たる悲しみは玉男の父性。取り乱し、涙にくれる可憐な八重は清十郎。梅王の玉佳の力強さと直情、簑紫郎の車引の桜丸も愁いを伴う色気。玉志の松王が柄も大きく、玉輝の時平は悪のスケールを見せ、千代と春の相嫁の仲睦まじさは簑二郎、清五郎ともに気持ちよく見られた。

第二部 『碁太平記白石噺』
「浅草雷門の段」口、南都太夫、團吾。なんと生き生きと、自在に見せて計算しつくしたアドリブ。「ソーシャルディスタンス」「いつもより多く」「大イリュージョン」等々。なのに少しも押しつけがましくなく、楽しい。團吾も息の合った掛け合いを聞かせる。
 奥に切語りが来ることの方が異様である。咲太夫と燕三。確かに面白いし笑わせてくれる。「オオ善哉善哉」の繰り返し、「当時我らすかんぴん」、のイキ、「こいつあやつぱり夢かいな」の調子、本当にもったいないと思いながら聞いた。

 人形では、勘市の豆蔵どじょうが細やかな動きと愛嬌で憎めない。観九郎は玉勢、これも悪者なのに子故にどじょうに騙されるところが憎めない。娘おのぶを簑紫郎が代役で遣う。人を疑うことを知らない、だが一途な思いを秘めた少女を的確に遣った。

 「新吉原揚屋の段」呂太夫、清介。入相の鐘、廓の灯、女たち、その時は緩やかに、また華やかにたゆたうさまを模様で描く三味線の妙。そして呂太夫の語りの業。
 時々、義太夫節には破格というか、正統の大阪言葉以外の言葉の面白さを聞かせるところがある。ここでは東言葉というよりも東北弁の面白さ。それと、宮城野の機知と位ある言葉、純朴さと洗練の対比。純朴さは下品にならず、洗練されても情味はなくならない。
 宮城野の詞には、幼くして故郷を離れざるを得なかった者の悲しみと望郷の念が重なり、おのぶにはただ一人姉を尋ねてこなければならなかった強い決意が伝わる。二人の女の詞の中に込められたその背景まで広がっていく。そして大黒屋惣六の情理に満ちた詞。物語としての構成は単純だが、情で聞かせ、見せ、呂太夫の詞の技術と重さが光る一段となった。

 人形では和生の宮城野太夫は堂々たる貫禄で妹への情の細やかさを見せ、玉也の惣六も世の中の酸いも甘いも嚙み分けた大人の魅力。勘次郎の禿しげりも好感の持てる遣いぶり。
 
 続いて『千本桜』「道行初音旅」。昨年4月、ここで見られるはずだった。それが今回は、鶴澤清治師匠の文化功労者顕彰記念公演と銘打たれている。呂勢太夫、織太夫ら美声の太夫が語る義太夫の言葉のイマジネーションと6挺の三味線の、天から降ってくるような音の圧倒的なあふれ。フシオクリの「道行」に特有の誘うような旋律に、「慕いゆく」の一言で、客席は一瞬で花の吉野に連れ行かれる。その中ですっくと立つ、静御前の美しさに目を奪われる。一輔の初々しく清らかな静御前。
 一転して下手より狐の登場。植え込みの陰に隠れると、早変わりで玉助の忠信が、せり上がりで登場する。スケールの大きな遣い方で、忠信が忠義厚いだけでなく手練れの武将であることを見せる。二人のバランスの良さ。二人の連れ舞いの弾むような足取り。恋人ではなく主従、しかも男の正体は狐なのに、この不思議な感覚は何だろう。

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 「道行初音旅」が昼の道行であるのに対し、同じく名作と呼ばれても、第三部の『妹背山婦女庭訓』の「道行恋苧環」は七夕の夜の道行である。浅黄幕を切って落とすと、舞台は三輪山のふもと、ご神体である三輪山の黒々とした影に、参道の灯篭と星の光が点々と続く。そこから地響きをもって迫りくるような迫力で、フシオクリも少しバリエーションが入る。先ほどは忠信の物語をスケール大きく語った織太夫が、今度はお三輪の情熱を語る。ライバルの橘姫は芳穂太夫、求馬に希太夫と揃い、三味線は藤蔵がシンで5人の中堅若手を率いる。
 最初に紋臣の橘姫。愛らしく品のある仕草。しかし心は求馬だけを探している。そこへ勘彌の求馬が苧環の糸を辿って出てくる。求馬への恋の告白。求馬もまんざらではない。夜ばかりの通ひ路と、三輪山伝説と重なる詞章。そしてお三輪の登場。生き生きとした動き、田舎娘らしい直情さを遣うのは勘十郎。一人の男を巡って争う女と女。野暮ったい田舎娘が「女庭訓」を説き、高貴なお姫様が「恋は仕勝ち」と本音で争う。そして3人で舞う。男女の中を花に擬える詞章の響きが重なる。

 「鱶七上使の段」籐太夫、清志郎。籐太夫は入鹿の傲岸、鱶七の豪胆、官女との絡みなどの様々な要素を的確にこなし、物語の運びが楽しいと感じさせる。入鹿の大笑いはなるほどと聞かせたが、最後まで力のコントロールしてほしい。全体にまだ力が入りすぎているところがある。清志郎は冒頭やや線細く感じるところもあったが、安定して一段全体に目配りして弾いている。

 「姫戻りの段」希太夫、清丈。桜の肩衣がつきづきしい。「露踏み分けて橘姫」あたりの節が丁寧で、柔らかく自然に語れている。橘姫のいじらしさに対し、求馬の腹黒さが出ているのが良い。そこから橘姫の「命にかけて為果せませう」の決意がきっぱりと伝わる。清丈も勘所をよく押さえているとわかる三味線。

 「金殿の段」錣太夫、宗助。錣太夫はたっぷりと美声で語る。いじめの官女は、今回は人形はやや大人しめだが、そのためにお三輪の無念からの感情高まりに対し、鱶七には同情すらないのかと思わせる。宗助はさすがに的確に引き締める。
 ここはやはり勘十郎のお三輪の独壇場である。疑着の相を表すところは、かんざしを跳ね飛ばしての力演。だが、舞台全体として見た時、やはりお三輪だけに目が行き過ぎてしまう。紋臣の橘姫と勘彌の求馬が上品でたおやかなだけに、その対比は面白いが、そこを惜しいと感じる。文司の入鹿は悪の大きさだけでなく気の短いところがよく見えた。鱶七は玉志(後半玉助)。これこそ豪胆で大きな荒物遣いの魅力。勘壽の豆腐の御用はお手の物。

 『妹背山婦女庭訓』は奈良を舞台にした壮大な物語であり、いくつもの犠牲の果てに入鹿討伐が成し遂げられるという積み重ねの中に、このお三輪のかなわぬ恋が最も重要なモチーフとなっている。すべてのピースが揃っても、この純な田舎娘のひたむきな恋がなければ、そして男に裏切られと知って相手の女への嫉妬に狂うことがなければ、巨大な悪を滅ぼすことはできない。
 ただ、四段目だけだと、その全体性を感じることは困難で、お三輪が哀れで終わってしまう。千本道行も然り。「菅原」ももまた。それでもまだ、一段を通しているだけましかもしれない。いったい、一日の中に物語世界の全体を味わうことのできる「通し狂言」は復活できるのだろうか。

 劇場の立場からは、コロナ禍の中での舞台には、細心の注意を払っても未知のことは多い。一方一歩手探りであった公演の形態も、少しずつノウハウを積み重ねていくことができてきた。その中での方向性はやや見えてきたかという段階で、まだまだ、完全な形にはほど遠い。しかし、常なる賑わいには遠くとも、舞台という非日常を通して、私たちに戦い続ける勇気を与えてくれていることを忘れてはならない。
 同じ不安を抱きながら、技芸員の方々は、舞台と楽屋という密な関係のただなかで生きている。その彼らが身体を使って、声を出して、危険を冒しながら届けてくれているものを、どうしてないがしろにできよう。表現するという行為自体が、命がけの冒険であるいま、私たちは彼らの語るもの、作り上げるものを、どうしてないがしろにできよう?芸術は私たちの生きる力、生きる喜びであり、人生に不可欠なものである。その意味をこうして生きて見せてくれる方々と共にいるのだ。
 未来が不確かであればこそ、いま、確かに持っているしるべを胸に、手探りであっても、光のある方へと歩み続けなければならない。行きつけるとか、確かに成功できるとか、そうした保障はないにもかかわらず。この悪疫が露呈したことは、私たちの人生そのものが、一寸先は闇という状況を歩いていることであり、それでも生きる限りはその方向へ歩み続ける努力をしなければならないということだろう。

 ひたすらに、技芸員の方々、劇場の方々、全ての関係者の無事を祈りつつ、その日を待ち望みたい。

掲載、カウント2021/1/30より)

再びの「すしや」、さらなる高みへ

森田 美芽

2020年12月17日、東京、紀尾井小ホールにおける素浄瑠璃公演「豊竹呂太夫『すしや』に挑む」を聞く。
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冒頭に、児玉竜一早稲田大学教授の短い挨拶。いがみの権太は関西では普通名詞であること、最大の山場は権太のモドリ、維盛の運命、そして「師匠は権太を捕まえに来る」と、わずか5分で今日の見どころと主題、これに賭ける二人の演者の姿勢まで伝えてくださる。

遠目にはグレーの肩衣、青磁色の袴の清やかさ、祖父譲りの見台。
「春は来ねども花咲かす、娘が漬けた鮓ならば、なれがよかろと買ひに来る 風味も吉野」、文字で読めば数秒、そこに付けられた節の複雑さ。産み字の語尾の節、イキと間、これらは口伝通りと言う。その口伝の確かさと重さ。いつの間にか、目の前に吉野下市の賑わい、年頃の娘と母の微笑ましい掛け合いが浮かんでくる。

権太の出。ふと気づく。「門口より乙声で 『母者人』」が、思ったほど強くない。以前はかなり低く、力を込めているのがわかったが、いまはそれほど力を込めなくても、自然体で、それこそ権太のたくらみや眼差しや足取りまで見えるように思える。
「竈の下の灰(はーい)まで」の一言にその性根を見せる。そして母の「聞きやこの村へ来て居るげなが、互ひに知らねばすれ合うても、嫁姑の明き盲目」というキーワードがさらりとはめ込まれる。

そして権太の母を騙す語り口の絶妙なこと。嘆きながら「目をしばたたあああき」の間合い、また「大盗人にあーーひました」という真に迫った語り口、「しゃくりイイイ、イイイ上げても出ぬ涙」で客席に笑いが自然と起こる。「どうで死なねばなーりますまい」で母親の心が動くのを見せて、ついに母親に金を出させるのに成功する。その母親の甘さ、婆のかしらの人のよさがそのまま表れている。

弥左衛門が帰り、弥助と名付けている維盛に、上市に逃げるように迫る。ここで弥左衛門が維盛の父重盛に昔恩を受けたことを告白する。原作では弥左衛門は盗賊、重盛が唐の硫黄山に送る祠堂金を奪った罪を許されたことになっているが、改作では金を盗まれた被害者になっている。ここでは改作版。

お里の誘いを退け、そこに若葉の内侍の登場。「神ならず仏ならねばそれぞとも知らぬ道をば往き迷ふ」に驚く。そこで景色が変わる。
険しい道、慣れない長旅、北嵯峨の庵からここまでの彼女の道のりの厳しさ、疲れ果てた彼女の絶望的な状況が偲ばれる。一方、維盛はお里と馴染みながらも妻への義理を立てる。その二人が奇跡的に出会う。二人の戸惑いが、あまりに意外でとっさにわからないことに表れる。それと知っての「ナウなーつーかしや」が痛く沁みる。
そして小金吾の死を嘆く哀切と、「若い女中の寝入り端」以下の感情の激するところの対比、維盛の「親どもへ義理にこれまで契りし」がいとも淡々と、突き放したように聞こえる。なればこそ、次の、お里のさわりとの対比が生きる。

前半は詞の区切りを明確に、お里の、維盛一家への遠慮を感じさせながら、「可愛らしい、いとしらしい」には切ない恋心をにじませ、「雲井に近き御方へ」はまた産み字で、「鮓屋の娘が惚れらうか」が、彼女の思いの深さとこの不条理の酷さが強く響く。
「情けないお情けに預かりました」は少し早く、むしろあっさりと語る。それがむしろ、娘の哀れさを一層伝える。

ここからの場面の変化が際立っている。落ち延びていく維盛内侍、「ご運のほどを危うけれ」に三味線のタタキ、権太は金の入った鮓桶を抱えて追って行き、お里が焦って「ソレソレソレソレたつた今」のリズムが心地よい。その急に対する梶原の出の威厳、弥左衛門一家の七転八倒との対比。婆と弥左衛門の桶の取り合いで少し和ませ、そしてついに権太が維盛の首と妻子を捉えての出。
権太と梶原の問答は、梶原の「あつぱれの働き」「スリヤ親の命は櫓られても、褒美が欲しいか」の詞で、悪の勝利を明白にわからせる。「私にはとかくお銀」は、さらりと語られるのに、そこに権太の性根よりも、ここに賭けた権太の複雑な思いが滲む。
おそらく人形のある本公演なら、この「縄付き引つ立て立ち帰る」でその性根を見せるのだろうが、消え入るようなその語尾に、権太の苦しさが見える、そして弥左衛門が刃を突き立て、血を吐く叫び。

弥左衛門の口惜しさ、息子への怒りと息子ゆえの悲しさ、「弥左衛門歯噛みをなし」からの詞の強さとタタキ、その怒りと悲しみが深いほど、「胸が裂くるわい」が堪える。そして権太のモドリ。苦しみをこらえての詞、一文笛。自分の妻子を身代わりにと、「縛り縄、かけてもかけても手が外れ」から「チチ血を吐きました」の叫びは舞台と客席を一つにする。
それを聞いた弥左衛門の嘆き。さらに、逢うことのできなかった孫と嫁が失われたことの痛み。家族でありながら、顔すらも知れない嫁と孫、それを同時に差し出した息子の本心。それを知れなかった自分、弥左衛門の「ヤレ聞こえぬぞよ権太郎」にこもる力が、この一家の悲劇の深さを表す。

それに引き換え、あまりに達観した様子の維盛、ところがこの述懐、「逢うて別れ逢はで死するも皆因縁」のくだりが、実にリズミカルに語られ、この「千本桜」全体の主題と重なる。かと言って悟りしましたのでない。頼朝の陣羽織を「ずだずだに引き裂いても」をつぶ読みするのに応えて衣を裂こうとして気づく、そこに父の恩報じと知り、どこまでも父の蔭を逃れることのできない運命を悟る、この維盛の複雑さに心が至ったのは私には初めてであった。
しかし、その直後の、権太の嘆き。「思へばこれまで衒つたも後は命を衒らるる種と知らざる浅ましイイイイイ」その絶望は計り知れない。すべては父のため、父の忠義のためと妻子を犠牲にしたのに、それすらも全く無意味であったと。これを描いた、作者の残酷なまでのリアリティが、その無念から伝わってくる。

ここからは段切れへ向けての急速な展開。父は息子の臨終にも立ち会わず内侍を伴い出で立とうとする。そこまで深く傷つけられた親子の、最期の別れ。華やかな旋律に載せて、この悲劇の幕を閉じる。

なんとよく出来た浄瑠璃だろう。この権太を創造した作者の巧みさというより、源平の争いの蔭に犠牲になった庶民を代表させる、この悲劇的造形をなんと言えばいいのだろう。
そして浄瑠璃としての完成度の高さ。登場人物一人一人の性根と役割がこれほど個性的に立てられていて、しかもずっと聞いていると、一人一人の中にある悲劇の伏線からその成就までが一つの線のように導かれ、この場においてそれらが交錯し、悲劇としての必然を作り出している。それらが耳を通し伝わってくる。

そして呂太夫にとっては、二十数年ぶりの素浄瑠璃での「すしや」一段。
実はその時、やはり劇的構成と権太の性根に感じ入ったが、今回さらに、何気ない詞の運び、細かい節付け、三味線とのバランス、それらを含めての円熟を感じた。
いたずらに力を籠めずとも、自然に語りながら、何とも言えない感触と余韻を残していく。複雑な人物構成なのに、語りの中で生きた感情がぶれずに交錯する。その語りの全体が、三味線と共にドラマの構成を見事に再現して、聴く者一人一人の感性や感情とぶつかり合い、心を揺さぶる。

これが、呂太夫が長らく目指してきた芸の真骨頂の一つの成果であろう。25年間、彼の語りを聞いて、義太夫節とはこれほど奥深く、人を感動させるものかと、改めて思わされる夜であった。

掲載、カウント2021/1/5より)