時は過ぎ行く―2021年4月公演―簑助千秋楽を観て

森田 美芽

 文楽と出会って、背筋が震えるほどの経験がいくつもあった。その中の一つが、吉田簑助の遣う女の人形だった。目を奪われる華やかさと動きの細やかさ、何よりも生きている、という感触。他の誰とも違う、天才とはこのことかと思った。
 その引退の報を聞き、驚きとも、悲しみともつかぬ思いが沸き上がった。そして4月24日、コロナ禍のため緊急事態宣言が発せられ、千穐楽が1日繰り上げられ、その最後の舞台を見るという幸運に与った。そして改めて、文楽の魅力とは何かを考えさせられ、しみじみと、文楽という特殊な人形浄瑠璃がもたらす美の深さを思った。

吉田簑助に引退の花束贈呈!!!
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 本来なら、これは正月の初春公演によく見る演目である。コロナ禍のため、本当に明日をも見通せぬ状況で、苦心を重ねたことの証左であろう。技芸員のお一人お一人の、日々舞台に立てるという強い思いが伝わってくる。

 『花競四季寿』錣太夫、芳穂太夫、希太夫、靖太夫、碩太夫、文字栄太夫、三味線は宗助、清馗、寛太郎、錦吾、燕二郎。景事ものとしては長く、四季ぞれぞれの風情と面白さを、錣太夫がドラマティックに、また時にユーモアを交えて、語りを率いてまとめる。宗助ら、音の寄せる波のような感覚が、「海女」の海辺に、また「鷺娘」の雪景色に広がる。

 「万歳」は太夫を簑紫郎、才蔵を玉勢。簑紫郎は貫禄と落ち着きが出て、玉勢も動きの中に性根が見える。生き生きとした遣いぶりは、幕開きにふさわしい。
 「海女」は勘彌と簑二郎が交替で。勘彌の海女の立ち姿の綺麗さ。蛸との絡みはユーモラスで笑いを誘う。ここの冒頭の三味線の合奏が美しい。明るい満月に「出てくる出てくる‥」の詞章が期待を抱かせるので、蛸のくだりが面白くなる。
 「関寺小町」が「海女」と前後半入れ替えで簑二郎と勘彌。ここは故文雀が得意としたところで、格という点では及ばないかもしれないが、小町の柔らかさ、昔を偲ぶ風情など、簑二郎がしっかりと自分の表現にしている頼もしさを感じた。
 「鷺娘」を清十郎。冬の凍てつく寒さのはずなのに、何と美しく、華やかで気高いこと。凛とした姿勢に、娘らしい愛らしさ。雪の花が開くように、時を忘れさせる、そしてまた、春を待つ心で、この幕を締めくくる。

 続いて『恋女房染分手綱』「道中双六の段」睦太夫、ツレ咲寿太夫、三味線勝平、ツレ清公。睦太夫はしっかりと、本田弥三左衛門、調姫、重の井の詞を語り分ける。流れも自然で、よく勉強しているのがわかる。
 道中双六のくだりでは咲寿太夫の声が清々しい。勝平がしっかりとリードするので、負けじと清公も併せる。ただ、競い合いではない。妥協のない瑞々しさが溢れる。

 「重の井子別れの段」咲太夫、燕三。重の井の詞に、この物語の全体像をしっかりと見せ、単なる子別れではない、義理に堰かれる重の井の心中を、また三吉の健気さが胸を打つように、燕三ともども、クライマックスの馬子唄まで計算された、浄瑠璃の構造を見るように思えた。

 和生の重の井はもはや持ち役といってよい。乳母の気概と気品、別れた子に対し、正面から向かい合う、それも心で涙を隠して。玉彦の三吉が出色の出来。健気で、大人びた顔を見せるたび、この年齢の子をこんな目に遭わせる運命の酷さを感じるほどに。調姫の玉峻(後半玉延)もまた、いたいけな少女が父母に別れる理不尽を感じさせる好演。
 文司の本田弥三左衛門は、全身赤の装束といういでたち、飄々とした風情の中に抜け目ない本性を持っている。宰領の紋吉、玉翔らも安定。勘介、玉路らの踊り子も愛らしい風情を見せた。紋臣は若菜のお福かしらでほっとさせる。

 思えば子どもが残酷な目に遭う、それも親の義理ゆえに、という悲劇の一つではある。ここで別れて、再び親子となることができるのだろうか。その余韻を残す舞台となった。

 第二部は『国性爺合戦』の半通し
 「平戸浜伝いより唐土船の段」掛け合いで、和藤内を希太夫、小むつを小住太夫、老一官を津國太夫、一官妻を南都太夫、栴檀皇女を咲寿太夫。三味線は、清志郎、清丈、清公。希太夫の声が肚に堪える。それは楽日でも変わらなかった。この人は地力をつけてきている。不自然なく、大団七のかしらに負けない語り。小住太夫は衒いなく真っすぐ。栴檀皇女に嫉妬するあたりも自然に聴かせた。
 津國太夫は年功、骨太の語り。南都太夫も品を崩さず、咲寿太夫は唐人ことばを一つ一つ確かめるように。そして清志郎率いる三味線が、よく揃った爽やかな音色で、まとまりある一段に仕上がった。

 「千里が竹虎狩りの段」口、亘太夫、清允。奥三輪太夫、團七。ツレ團吾、錦吾。
 口の亘太夫も声が安定し、清允ともども明晰に語りを印象付ける。奥の三輪太夫は余裕をもって楽しませてくれる。團七は簑助に次ぐ高齢だが、まだまだ腕は衰えず、弟子の團吾、錦吾とともに、かなり突っ込んだ気合を聞かせてくれる。ここはやはり虎が注目されるが、安心できる語りがあってこそ、である。

 「楼門の段」呂勢太夫、清治。簑助の出る場面で、一層期待も拍手も高まる。呂勢太夫は堂々と、この光景を描き出す。ただ、一官と和藤内の詞の音の変化がよくわからなかった。「一官はむせ返り楼門に縋り付き、見上ぐれば/見下ろして」にあふれる親子の対面、生き別れの20年がなお隔たりをもって迫るこの場をよく聞かせた。清治の、紛うかたなき手。どこまでも物語の軸をぶれさせない強さ。

 「甘輝館の段」呂太夫、清介。
 千穐楽、簑助の短い引退セレモニーが入ったため、少し割をくった形になっているが、この場の難しさはただ事ではない。近松特有の、字余り字足らずの語りにくい節付け、その中に親子の縁の深さとこれまで隔たるあまりの遠さを広がりで感じさせる。腰元の詞は軽快に笑いを誘う。
 甘輝の帰還から、母が前に出ての語り、その堂々たる態度と、一転して妻を殺そうとする甘輝の「止る母の詞には慈悲心こもり、殺す夫の剣の先には忠孝こもる。親の慈悲と忠孝に命を捨てよ女房」への流れが息もつかせない。そしてこの約束には、当人の命だけでなく、日本の誇りがかかっているのだ。錦祥女が追い詰められ、紅を流すと語るその詞の端に、もはや命を、という覚悟が見える。まったく不自然さなく、これだけの変化の中できっちりと性根を語り分け、その一つ一つ、理不尽と思えることも、胸に堪えるのだ。その曲の核を捉え、格ともいうべきものを、自ずから作り出している。
 この核となるものなしには、錦祥女の悲劇も、母の悲劇も伝わらない。
 この物語自体、エキゾチズムや日本の優越性などでは満足できず、義理のために死ぬという論理も共感できない現代人であるわれわれに、それを伝えるという至難の業を、彼は成し遂げている。

 「紅流しより獅子が城の段」籐太夫、清友。前半は一気呵成に、後半は甘輝との対決の重さと対比。籐太夫もまた、勢いや力だけでなく、両雄の格と人となりが迫ってくる。清友のサポートもあるが、語りに説得力が増し加わっている。

 人形では、玉志の和藤内が堂々と、スケールの大きさと無邪気さを表現して頼もしい。登場時は「普通の人」で、次第に武将らしい風格が出てくる。後半の玉助は、やんちゃな生命力と力感が魅力。ただ、甘輝と対峙する時、ふと力が抜けた時があるように見えた。一方、玉男の甘輝は風格と熱い思いで和藤内を圧倒する。老一官は玉輝、武骨な中に熱い忠義を秘める。勘壽の母はさすがに老練の風格と、後半「口にくわえて唐猫や」のくだり、片手遣いも母の気品を失わない。
 小むつの簑一郎は、立ち姿のしとやかさと備中鍬を振り上げる直情さをうまく表現し、清五郎はこせつかない動きで鷹揚さを見せた。勘市が安大人で釣船かしらの性根を利かせ、虎は今回も勘介と聞くが、その動きで楽しませてくれた。

 極めつけ、簑助の最後の役となった錦祥女。
 簑助の女には華やかさとエロチシズムがあるというが、この錦祥女では、凛として立つ女性の精神性の高さを感じた。弱さではなく、たおやかさ。2つの祖国、夫と父に引き裂かれ、孤独を背負って生きてきた彼女が、初めて自分の家族と出会った、その思いが胸を打つ。だが情に流されず、冷静に判断し、かつ夫を説得しようとするその姿勢には、自分を犠牲にする覚悟がうかがえる。
 この人は、なぜこれほど、女性の中にある多様性を見事に表現できるのか。その中に純な魂を見せられるのか。これが最後だからではなく、最後の最後まで、妥協することなくより高い表現を目指す、この人の技芸者としての生き方と一つになった思いがした。

 その後を遣ったのは一輔。この人も自ずからなる立女方の風格を身につけてきている。

 第三部は、小狐丸の話題性もあってか、若い女性が多い。そして必ず、特製の人形を写真に撮り、スタンプを押し、そのためのパンフレットを持ち帰る。
 きっかけは何であれ、文楽を見る、劇場に行く、そういう経験をしてもらうにはもってこいの企画である。ただ、その前の芝居が、なぜこの組み合わせなのかと不思議に思う。

 『傾城阿波鳴門』「十郎兵衛住家の段」口、碩太夫、燕二郎。前千歳太夫、富助。後靖太夫、錦糸。
 この物語を国立文楽劇場で上演するのは32年ぶりという。それが、現代的な価値観からかなり違和感があることも理由だろうが、何より、登場人物に共感しにくい。娘を思って突き放すお弓の葛藤はまだわかるが、父であるはずの十郎兵衛が、子どもの金を狙うという盗賊まがいのことをして、挙句娘を死に追いやるというのは、あまりに理不尽に思われる。

 碩太夫はアクセントを丁寧に、燕二郎ははずむようなイキで合わせる。
 千歳太夫は語れて当然、それだけの修練を経て、越路太夫の風を身につけてきた人だ。だが、なぜかこの日は、娘おつるの巡礼歌で調子が変わらず、詞が苦しく聞こえ、後半のお弓の独白に力が入りすぎているようで、カタルシスに至らないことが残念だった。
 後の靖太夫は語りにくいところだが、十郎兵衛の詞がよそよそしく、自分に娘と知らずのたくらみということが納得できる。だがお弓の詞も届かないし、これが義理に迫られた悲劇ということも、娘への思いも届かない。内容としても観客を引かせてしまうものだけに、靖太夫の良さが十分聞けないままに終わってしまった。錦糸もこのめったに出ない曲を見事に弾いていたのに。

 勘十郎のお弓、無論、隙のあろうはずがない。だが殊勲賞は勘次郎のおつるだろう。玉也休演のため代役は玉佳。こうした難しさをよくこなしたと思う。「小判がたんとある、アノ小判」あたりの性根の表出がよかった。

 『小鍛冶』 織太夫が稲荷明神、睦太夫が宗近、芳穂太夫が道成、ツレ小住太夫、亘太夫、
 三味線 藤蔵、清志郎、友之助、清允、清方。
 いつもと違う客層をどう引き付けるか。なれば真っ向勝負の織太夫、藤蔵の力で、義太夫節の迫力とその表現力の深さを伝えるほかはない。
 前半の宗近の詞が端正で、老翁の詞に格がある。後半は相槌のリズムが心地よく、舞台の全体を包み込む。清志郎はここでも、清廉な三味線を聞かせ、清方の胡弓が秋の夜につきづきしい。

 人形は、三条小鍛冶宗近を玉佳が力演。誠実にして凛々しく、動きに若々しさと強い意志を感じさせる。老翁実は稲荷明神を玉助と玉志が交替で。玉助はやや動きがせわしなく感じた。左は玉勢、足の玉路、しっかりと三人遣いの魅力を見せた。勅使橘道成は、前半文哉、後半紋秀。文哉はしっかりと見届けている。

 TEMPUS FUGIT(時は過ぎ行く)――慶応大学図書館の大時計に刻まれたこのことばが、心に浮かぶ。
 吉田簑助の、81年という驚くべき芸歴の中の、最後の25年を見ることができた幸いを思う。だが、その美は、文楽という比類ない人形浄瑠璃の中でしか生まれなかったことを同時に思う。

 人形が人間よりも人間らしいのは、その直接的な肉体性を離れ、人形遣いの手で再構築されたものだからだ。お初や小春、梅川と言った遊女たちのエロスとタナトスの中に見え隠れする義理と理性、八重垣姫のたおやかさと物狂おしさ、お園やおさんの「ゆるし」、お半やお染の、恋する少女の中の女の陰、今回の錦祥女のような、気高い精神性、それらを役に応じて描き出す、その核となる「永遠の女性」を表現できたのは、まさに浄瑠璃の詞章が正確に語られ、三味線が模様を伝え、その中で再構成された人間性だからだ。感性を通して入ってきたものが、正確に言葉と音楽によって整理され、なお憧れを掻き立てる。そういう文楽の構造の中で生き抜き、表現し続けた81年を、私たちは共にさせていただいた。そのことに感謝の他はない。そして発見された美は、一瞬にして時の中に崩れていく。
 美のはかなさ。そのあわいにあるものを、また見たい、感じたいと思って、私は舞台を見続けた。

 時には終わりがある。その、取り返しのつかない一瞬なればこそ、また時のなかにくずおれていくその時を愛おしみ、そしてまた、簑助が去った後も、この舞台のなかに、そうした奇跡との出会いが起こり続けるだろう。時は過ぎ行く、ただし、出会いの反復をもって。

掲載、カウント2021/5/4より)