名残の梅花―2021年2月 東京公演―

森田美芽

三宅坂の国立劇場の前庭には、様々な梅が咲き乱れ、寒の季節の彩を添えてくれる。その凛として立つ、匂うやかな花の如き文楽公演、今回は二部「吉田屋」と「寺子屋」を見る。

『曲輪ぶんしょう』
 口、睦太夫、勝平、ツレ錦吾。睦太夫は真面目に、誠実に取り組んでいるのがわかる。ただこのように、大阪の廓の風情、大阪ことばの情のやり取りと言ったレベルになると、それだけではない力が必要になる。勝平はよくリードして、その機微を利かせ、錦吾も華やかに盛り上げる。勘次郎の仲居お鶴は丁稚かしらがうつる。玉彦のお亀もお福らしく、勘介のお松も併せて楽しく見せる。紋秀・紋吉の権太夫、獅子太夫もたっぷり見せる。この掛け合いが楽しい。

 咲太夫が伊左衛門を語る。この、大店の放蕩息子、気位高く見栄っ張りというこの風情をリアリティを持って語れるのは、いまはこの人しかあるまい。「七百貫目の借銭背負ってびくともせぬ」と空威張りする、だが、「変はつたはおれが身の上」あたり、さらりと語ってもその中に人には見せられぬ嘆きの響き。
 見事である。またそれをとりなして、うまくあしらえる吉田屋主人喜左衛門を籐太夫。「エエ浮世ぢゃな」あたりの情ある振舞いの美しさ。おきさを南都太夫、「ほんにそれいな」からの喜びで、好人物とわかる。夕霧は織大夫。恋にやつれ恋人を案じながらも、母としての気丈さ強さを見せる。この女が相手では、伊左衛門もたじたじ、いや、やり込められるのもコミュニケーションの一つか、
 そうした空気感、目に見えないやり取りの深さ、この師弟は大阪のかつてあった時空のはんなりした風情をそうやって再現してくれる。これは貴重な味わいである。合わせる燕三の呼吸、クドキの影を添えるように。また燕二郎のツレも出すぎずしっかり余情を加える。

 玉男の伊左衛門、出がそろりそろりと、夕暮れの風が紙衣の身に凍む零落の風情、そして店の前でのややためらいがちなさま、きっちりと性根を出す頼もしさ。勘壽の喜左衛門、こうした人物の奥深さと情を出す力はさすが。
 おきさは一輔、やや控えめな印象。そして清十郎の夕霧。三重のふすまの奥の出から、松の位の太夫の格と共に、この女の一途さ、「可愛い」と言えるほどの純粋さがまず感じられる。遊女であるが心は貞女、そういう理想を担った夕霧像を見事に描いている。心地よい余韻。

 続いて『菅原伝授手習鑑』「寺入り」希太夫、清馗。
 希太夫はこのところ安定して力を発揮している。それぞれの役柄、首の音を正確に守り、詞を丁寧に語る。それが実を結び、行儀のよい、隅々まで行き届いた浄瑠璃を語れるようになってきている。清馗も丁寧に沿い、支えているのがわかる。

 「寺子屋」前、呂太夫、清介。
 清介のオクリが厳粛に始まる。『菅原伝授手習鑑』のこの段だけという上演形態だと、観客の思いを一気にこちらへと向かわせる力が必要になる。

 呂太夫の「引き連れ」の産み字が、ここに広がるのが、芹生の里の地元の子らのための寺子屋ではなく、都と、宮廷と、道明寺、佐太村、筑紫へと広がる物語の時空の集約であり、ここに源蔵と松王が集まるのが偶然ではないことが、その言葉の背後に連なっている。
 「急ぎ行く」のは千代、その影を残しつつ、戸浪が再びここに時間を取り戻す。

 「折からに」ですぐ空気が変わり、「立ち帰る主の源蔵、常にかはりて」の重々しさ、玉也の源蔵の出、その沈思のさまが只事ではない。ここでまた源蔵の視点に引きこまれる。「色蒼ざめ内入り悪く子供を見回し」で、子供たちを見回すところが、また不機嫌さが際立つ。
 「世話甲斐もなき、役に立たず」もだが、「思ひありげに見えければ」の一言から戸浪が受けて、「性ない人と思ふも気の毒」が響いてくる。序段で源蔵を支え、共に戦う同志の戸浪は、ここでもしっかりと現実を見ている。そして小太郎の顔を見て、「忽ち面色和らぎ」の感情の動きストレートすぎるほど。でも、それほど追い詰められていたのだとわかる。
 「ムム、それもよし、よし大極上」のクレッシェンドが、逆に次の不安を掻き立てる。
 戸浪が気づく。「なほもつて合点行かず」ここで人形は首を上げる。さすがの戸浪。源蔵の説明は、なんと短絡的なことか。身代わりになりそうな子を見つけ、その子が誰であるかを確認することもなく、「天道の控へ強気にや」と、身替りにすることを決めてしまう。「一旦身替はりで欺きこの場さへ逃れたらば、直ぐに河内へお供する思案。いま暫くが大事の場所」と、源蔵の性根の最も大事なところが十分に響いてくる。

 戸浪の「待たんせや」が「待た、ん、せや」だろうか。
 「悪者」「顔は」と詞の節目を明確に、心の戸惑いと不安がよぎる。源蔵の方も「そこが一、かばちか。生き顔と、死に顔は、相好の変はるもの。」ここでも大事を決行しようとしながら、その不安を一つずつ自分に言い聞かせて克服していこうとするようだ。そうあってほしい、だがそううまくいくとは限らない。
 母親の方まで手にかける覚悟へと自然に高まっていく。だから「母御の因果か」「報いはこちが火の車」「追っ付け回つて来ませう」が痛く沁みる。そして源蔵が、小太郎の首を打ったその胸の内も。

 夫婦の愁嘆から、「かかる所へ春藤玄蕃」で一気に緊張が高まる。今ここにある危機。なのにすぐ「後には大勢村の者、付き従うて」でまた弛緩させる。ユーモラスな村人たち、権威を見せびらかす玄蕃、そこに松王が立ちはだかる。この村人たちもそれぞれが自己主張している、ツメ人形だがそれぞれの個性がくっきりと出る語りの力強さ。
 玉助の松王は、駕籠から出て、少しよろけ、杖をつく。少しわざとらしく見えてしまう。「ほかに菅秀才の顔見知りし者なきゆゑ」の「ほかに」と「なき」を強調し、この場での絶対的な存在であることを知らしめ、源蔵夫婦に敵対する。「一人(いっちにん)づつ」で、一人も見逃さないぞ、と迫る、「退つ引きさせぬ釘鎹、打てば」で夫婦の危機の大きさを示す。「胸轟かすばかりなり」は本当に心臓が早鐘を打つ緊張状態。

 その直後に「腕白顔に墨べったり」などと全く異なる調子が出てくる。この転換の楽しさ。
 だが子どもたちが全て帰ってしまうと、いよいよ追い詰められる。玄蕃は権威をかさに着ているだけだが、松王は実に抜け目なく攻めてくる。「ヤアその手は食はぬ」からのイキの詰んだ迫り、思わず源蔵も売り言葉買い言葉のように、「ヤア要らざる馬鹿念」から「追っ付け見せう」と、それこそ逃げられないところに追い詰められる。机の数を数えるところも,

 怒鳴りつけて戸浪を怯えさせるところだが、ここも強すぎず、だが言い逃れを許さない抜け目なさ。戸浪が言い抜ける詞も上ずっている。「こなたは手詰め命の瀬戸際」がまさにそうなっている。そして「奥にはばったり」の様子が、松王の立場に変わる。

 源蔵は「しっかりと見分せよ」と挑戦的に語る。
 無論、松王の出方で彼を切るつもりである。だが松王の方は、そんな彼の意図を読み切ったように、周りを固めさせる。「今浄玻璃の鑑にかけ、鉄札か金札か、地獄極楽の境」鉄札、地獄、境の語が残るように語り、松王のもう一つの性根、我が子をわざと源蔵の手にかけさせるという意図が、ここではこの奸智の蔭に隠れている。

 この絶体絶命の危機、戸浪の祈願が一途でこの緊張を際立たせる。その後の「眼力光らす松王が」のところで「コリヤコレ菅秀才の首討つたは、」のあとの「紛ひなし、相違なし」が、山城系、たとえば越路太夫の、「コリヤコレ」以下を少し抑え、「紛ひなし、相違なし」を冷静に語るやり方に比べ、今回の呂太夫は「コリヤコレ」から強く、そして源蔵に向かって「紛ひなし」を力が抜けたように、玄蕃に向かう「相違なし」を、気を取り直したように強くいう。
 これは祖父十代若太夫のやり方であり、どちらかと言えば理知的な造形の山城系に対し、泥臭いが松王の葛藤の深さを表し、源蔵夫婦にちらとそれを見せてしまう、そういう弱さをも見せている。そして「これよりお暇給はり」で明らかに声の調子が変わる。もしかしたら、ここで気づかれるかも、と思うほどに。

 は籐太夫、清友。籐太夫もこうした詞の切れ目の一つ一つが明確で、そこから話と節の流れが変わることがよくわかる。そして千代の正体も松王のモドリも、ごく自然な流れになる。その中で千代のクドキをたっぷりと「嬉しう思ひませう」などで泣き、「叱った時に」でも利上げ、「どうマア内へ」でまた泣かせる。「可哀やその身の不仕合せ」でたたみかけ、「何の因果に」でこの悲しみをぶつける高ぶりを見せる。

 それに対し松王が諫め、源蔵に小太郎の最期を聞いて、誇らしげに笑い、泣く。そのあたりの運びは見事であった。桜丸に言及するところも説得力があるが、まるで松王役の芝居をしているというか、役者がセリフを語っているように聞こえた。「いろは送り」は少し音が上に上がりきらない。このあたりの声の使い方が、切場を語っていく時の課題であろう。

 今回の呂太夫の語りで教えられたこと。人物が変わるたびに、その人物の視点が見え、物語の見え方が輻輳的になる。
 源蔵にとっての物語と、松王にとっての物語の、千代にとっての物語。それは後半を語った藤太夫にも受け継がれる。浄瑠璃の密度が違う。大声が出ているとか、美声であるとかではなく、正しく表現された浄瑠璃ならば、その一言一言のうちに、これだけの世界を表現できるのだ。

 人形では、千代と戸浪がやや弱い印象。もちろん簔二郎も清五郎もよく使い、特に破綻はない。だが、千代も戸浪もそれぞれに強さのある人物で、その描き方がこれからの課題であろう。
 玉也の源蔵は直情な人柄が伝わる。玉助の松王は、スケールが大きいが、感情表現がやや荒いというか、ここは肚で泣くところではと思う。玉輝の春藤玄蕃は実にそれらしい存在感ある遣い方。玉誉の御台所は上品で背筋の伸びた美しさ。玉翔のよだれくりは楽しい。簔之の小太郎はいじらしく、清之助の菅秀才は高貴な出自をうかがわせる良い出来。

 新町の廓の正月も、親が子を忠義のために殺すという論理も、私たちの日常からは遠ざかっていく。
 ただ、彼らの舞台を見るとき、それらが体感できる形で残っている奇跡を思う。失われれば、復活させることはできない。だから、彼らの日々の努力の中に、その名残を少しでも伝えることができればと思う。

 コロナとの日常の中にも、新たな日々の中にも、その大切なものがなお保たれることを祈りつつ。

掲載、カウント2021/3/26より)