花の誘い――「落語と文楽のあやしい関係Ⅲ」

森田美芽

 千本桜の妖しさ、初役の魅力、コラボレーションの妙――今回のヘップファイブホール 現代を生きる古典シリーズ「落語と文楽のあやしい関係Ⅲ――猫と狐の揃い踏み」の魅力 を表せば、こう言えるのではないか。
 「義経千本桜」の魅力は、人間の世界に狐が闖入し、 人間の論理の身勝手さと狐の情愛を対比させる手法であるが、ことにこの四段目は、畜生 である狐が人間よりも父母の恩愛を知る存在として描かれることにより、同じ源九郎の名 を持つ人間と狐の関係の逆転を表し、それゆえにいっそうの哀れを感じさせる。人の身で 骨肉の争い、兄弟でありながらの誤解と不和、義経の表情にかげりが宿る。
 そうした人間 の悲しさを十分に描くドラマと、それをパロディ化した落語「猫の忠信」。バリエーション を先に、本編を後に、いま、油の乗り切った世代――落語は桂吉朝、文楽は英大夫、勘十 郎ら――が力をぶつけ合う。
 
 英大夫にとって、初役の千本桜「四の切」である。
 ホームページの彼の日記を見れば、 一つの段を作り上げてゆく、その苦労となみなみならぬ集中の跡がしのばれる。しかしこ れは、彼にとって遠くない将来、本役となることを射程に入れておかなければならない役 である。
 文楽では、50歳、60歳になっての初役は稀ではない。しかし本舞台にかけら れる時には、すでに十分な備えがされていなければならない。彼にとって、まことに重要 な機会である。
 
 狐が人間と同じ情と心を持つという非常理をこれほどまでに「詞」を通して語る困難。
 狐詞の技法を含め、高音での詞が多く、大夫としては大変な力を要するのは素人にもわか る。だが、人の情を表すのは英大夫の十八番である。
 詞の音の連なりの中に、確かな狐の 親への思いが芯のように通っている。その強さが声の中から響いてくる。清友の三味線は 場の力のあやしさを遺憾なく発揮する。最後のツレ弾きは清志郎。瑞々しい若さの勢いが 加わり、めまいのするような陶酔感が広がる。
 
 勘十郎の狐忠信の哀しさ。この場の狐忠信には、静と旅する時のりりしい武将の面影よ りも、本性の妖しさと、どこまでも親を求める思いの切なさを感じさせる。
 狐ならではの 激しい動き、客席を含め縦横無尽に動き回るダイナミックな動きには、理屈ぬきに魅せら れるものがある。だが、どれほど動いても、その思いが伝わってくる。
 動きが激しいほど、 その思いの切なさが身にしみる。こんな遣い方があったのか、と目を見張る思いであった。
 
 玉女の義経。この場の義経は、清和天皇の末裔である高貴の存在である。その品格と知 を備えた武将の役は、玉女の本領発揮である。動かずして伝える、中心を支える役所を、 彼は自分のものにしている。
 
 清之助の静御前。衣装は「道行」よりややおとなしく見えるが、「流しの枝」の菊の前と 同じものと聞く。義経の前で、しとやかに、愛されている女を感じさせる。
 この場の静は、 忠信の語りを聞く役である。観客の目は、忠信に釘付けである。しかし静は本当に聞き役 に徹している。全身で聞き、時折りうなずき、共感する。この静の聞く姿勢が舞台を作る のである。義経との信頼感、彼にとって、だれよりも心許せる「家族」の絆を感じさせる。 この絆が、義経に鼓を与えさせる。
 これで彼は、彼を引き裂いた朝廷の陰謀から自由にな ったのだ。この3人だけの舞台の密度の重さ。三人三様の人生を歩んできたことが、この 場に凝縮されている。
 
 初役の面白さは、その人がどのように浄瑠璃の言葉のなかからその役と段の性根を見出 していくか、その発見を共に出来ることである。この場を共にした者は、彼らのそうした 意欲と試み、その得られたものの確かさを感じずにはおれないかっただろう。
 
 こうした本編の魅力を知ることで、落語に描かれた人々の浄瑠璃熱、語りのすみずみに 配されたあそび、狐と猫を入れ替えるユーモアといった、われわれの先人の見事な「遊び」 の精神を理解できる。
 吉朝の実力が、100年あまり前の庶民が、どれほどこの浄瑠璃を愛し、 楽しみとしていたか、またそれをめぐる人々の哀歓を、さりげない生活感を、どれほど深 く共感させたことか。
 こういう、いわば立体感のある古典の楽しみ方を感じられるのは、 こうした異業種交流の成果といえようか。
 それも、こうした実力者揃いの舞台なればこそ の、芸のゆるぎない確かさと強さ、それに信頼感が花を咲かせる結果となったといえるの ではないか。
 
 いま、異業種交流が盛んに行われているか、それが演じる側にも見る側にも よりよい成果をもたらすためには、専門の分野での卓越した技量と見識が必要だ。そして それにどのようなテーマを与え、見るべきものにしていくか。今回は、企画力とプロデュ ースの大切さを思わされた。
 彼らが力を発揮し、なおかつ互いをより輝かせ、それを普段 文楽を見ないような人々にもアピールする場所と企画力が必要とされている。
 
 ヘップファイブホールは「現代に生きる古典シリーズ」でこうした古典を現代の視点で 切り込む企画において並びない力を発揮し、場としてのファイブホールの格を作り出して いる。
 これは一朝一夕にできない仕事であり、ホール側の見識と運営能力が問われる。
 プ ロデュースの伴野久美子氏は、舞台美術において現代美術家としての実力を発揮しつつ、 古典への確かな視覚と魅力を引き出す見識と企画力を持っている。今回も対談の背景の屏 風のはっとするような色使いに、千本桜の古典的調和に対する「破」の味わいを加えた。
 
 文楽の楽しみは、文楽を見ること、聞くことだけではない。その世界の広がりのなかに、 私たちの文化の根があり、そこに身を置く喜びもあるのだ。