「狂言風オペラ特別公演」へ美芽氏の感想(旅日記)

昨日、大阪での公演、無事終了。森田美芽先生から早速、感想がよせられました。許可を得て掲載させていただきます。長文です。
「狂言風オペラ特別公演」お疲れ様でした。様々な個性がそれぞれの長所を十分に表現し、その表現のあわいに新しい時空が生まれる、そんな感がありました。
まず、今回は狂言の方は「仏師」だけでしたが、これがものすごく効いていました。山本義之氏の「田舎者」の鷹揚な風情、善竹隆平氏の憎めないすっぱの愛嬌、たっぷりと笑いの世界に引き込まれました。
続いて、大槻文蔵先生の仕舞「笠の段」。すらりと伸びた姿勢に、揺るぎなく、しかも軽やかな舞の手、滑らかに舞台上をすべるように進む足、装束がなくとも、などというレベルではなく、一つの宇宙を持っておられて、その中に全く違う時空か
その身体を通して見えてくるような、それも具体的な何か、とさえ名状できない、言葉では表現できないけれど、確かにある、そういう「何か」そのものでした。
大槻先生はおそらく、70年になんなんとするご修行を経て作られたお声と身体を通して、その「何か」を、これしかないという形にまで昇華されているのだと思います。
そして師匠の「艶容女舞衣」酒屋のさわりのところですが、友之助さんの三味線が、これまでになく響いてきました。もともと非常に美しい音を出される方ですが、それ以上に、「浄瑠璃を語る、太夫に語らせる」間というか、幅というか、そうしたものを
感じました。これまであまり格上の太夫さんと組まれたことが少ない彼にとって、本当に「切場」における間合いの大事さを知る機会でもあったと思います。
そして師匠の極めつけのお園。いつもは宗岸や婆や半兵衛など、他の人物の気持ちや性格にも行き届いた表現をお聞かせいただいているのですが、今日は本当に「お園」に浸らせていただきました。
ただ、お園の悲しみと、一途な思いだけが胸に染みわたります。ちょっとお声の調子が悪いのかな、と思いましたが、そうではなく、お園の心情表現のためにされていたのだということ、改めて納得しました。
お園の心情については私には別の考えもありますが、お園の憂き思ひ、というものが、理屈抜きで感得させられます。
そして今日驚いたのは、勘十郎さんのお園の表現力です。勘十郎さんは、動きのある役やキツネの役の見事さはたびたび言われますが、お園の心情が痛いほど伝わる、これは簑助師匠のそれとも、文雀師匠のそれとも違うお園でした。
河野先生のNacht und Traume , 周到に準備された歌曲であり、本当に、浸っている間に終わっていました。
ただ、前半に、狂言・能・義太夫節・洋楽の歌曲と、4種類の声の使い方を聞いて、それぞれの迫力、表現力の違いを感じました。その多様さが、不調和を生み出すことなく、この空間を包み、さらに広がるのを心地よく聞かせて頂きました。
後半の「魔王」、まず河野先生のバリトンで、正統派のシューベルト「魔王」。これが短い中に一つの楽劇として、ものすごくイマジネーションを掻き立てました。
魔王の子どもへの語り掛けは3回、そして焦れるように、強引に子どもを連れ去ります。それが、まるでいざなうように、自分から悪に向かわせるような誘惑的な語りかけです。
それに対し、父親のそっけないこと。子どもの必死の訴えを聞けないのは、魔王が見えない、つまり、様々なそうした超自然とのふれあいを信じない大人になっているからなのか、それとも魔王と取引でもしたのか、と思わされます。
Ich liebe dich. のなんと誘惑的なことでしょう。
それに対し、人形を入れた義太夫版「魔王」においては、それは人間界と隣接して人間に働きかけ、時に悪をもたらす別世界の生き物とは違いました。
赤松先生の鬼の恐ろしさが、ずっと残っており、その鬼が何かが今日のテーマになりました。
「鬼」それも私は、「安達原」の鬼を連想しました。
人間の悪が凝って鬼になったのか、自分自身が悲しい運命をもってそうなってしまったかはわかりません。あるいは冥府の使いであるのかもしれません。
そうした「魔王」と「鬼」の対比が、この舞台で明確に感じられました。師匠の語りは、その中で父の子への愛情が感じられるゆえの悲劇であることを伝え、勘十郎さんの父は、馬の工夫もさりながら、やはり情愛深い父としてのキャラクターが明確です。
しかし子役かしらは簑紫郎さんですが、労しく愛らしい、それゆえの悲しみが伝わります。勘十郎さん、先のお園に加え、この父親、やはり天才的な表現力を持たれていると思いました。
今日の舞台は、それぞれの良さを集めただけではなく、その中から新しい萌芽が確かに生きていて、それを包み込むように大槻能楽堂のお舞台があり、その中心に、大槻文蔵先生が凛として立っておられる、という印象が残りました。

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