響き、鬼、誘惑 ―2022年狂言風オペラ特別公演―

森田美芽

 2002年から続いてきた「狂言風オペラ」の試みが中断して丸2年になる。コロナの影響で様々な可能性が閉ざされ、スイスからのクラングアート・アンサンブルも来日できなくなり、公演の中止が2度重なって、何とかしたいという関係者たちの願いが、事態を動かすことになった。
今回の特別公演は、3年前に見た「フィガロの結婚」とはまた違う、魅力と新たな創造の世界を立ち上げることになった。「狂言風オペラ」と題していても、ポイントは「特別公演」の方である。本当に「特別」な舞台は、衝撃的だった。
文楽魔王

狂言
前半は各ジャンルの競演。まず狂言は「仏師」
山本義之氏の「田舎者」の鷹揚な風情、善竹隆平氏の憎めないすっぱの愛嬌。それだけでと笑いの世界に引き込まれてしまう。 さらにその言葉の明快で、身体と心にしみこんでくるような響き。テンポの心地よさ。ここでは二人が対等で、その言葉の応酬も、互いに引かず、自分を出そうとする。対話する言葉の豊かさ。すっぱが仏師と称して騙すために、何度も仏のポーズを変えるたびに笑いが広がる。結末まで予測できるのに、なぜこんなに楽しいのだろう。


続いて、大槻文蔵師の仕舞『蘆刈』より「笠の段」。すらりと伸びた姿勢に、揺るぎなく、しかも軽やかな舞の手、滑らかに舞台上をすべるように進む足、その確かな一つ一つの動きが、装束も面もなくとも、特定の人格の表現を超えたものを示していると、しかもそれが抵抗なく意識に伝わってくることに驚いた。
こうしたことは初めてではない。しかし、磨き抜かれた能楽師の方の持つ身体性は、人間の身体の持つ極限の存在感を抱かせる。静かで、淡々として、極限まで無駄を、自分を見せようとする自己意識を、わざとらしい自分の「工夫」も、全てを削ぎ落したところに成立する、この上ない身体そのものの表現。そこから感じられるのは、一つの宇宙を持っておられて、その中に全く違う時空が、その身体を通して見えてくるような、それも具体的な何か、とさえ名状できない、言葉では表現できないけれど、確かにある、そういう「何か」そのもの。
それは文蔵師がおそらく、70年になんなんとする修行を経て作られた声と身体を通したその「何か」を、これしかないという形にまで昇華されていると思われた。

地謡は武富康之氏、大槻裕一氏、稲本幹汰氏。若々しくよく揃い、複雑な節でありながら真っすぐに届く声。それが文蔵師の謡と響き交す時、背後に沈黙が広がり、その声が静かに能楽堂全体を包み込む。充実の舞台。

義太夫節
続いて呂太夫、友之助の「艶容女舞衣」酒屋のさわりに、勘十郎のお園。
友之助の三味線がこれまでになく響いてくる。もともと非常に美しい音を持っている人だが、それに加えて「浄瑠璃を語る、太夫に語らせる」間、あるいは音の幅というか、そうしたものが伝わってくる。こうした「切場」に相当する箇所は、太夫に語らせるのに技術が必要である。そうした経験を積む貴重な機会となったのであれば素晴らしいことだ。

そして呂太夫の極めつけのお園。いつもは宗岸や婆や半兵衛など、他の人物の気持ちや性格の語り分けとその情の交錯が魅力だが、ここではただ、お園の悲しみと、一途な思いだけが胸に染みわたる。
やや声の調子が悪いのかとの懸念は、そうではなく、お園の心情表現のためにわざとそういう発声にしていたとのこと。
お園の孤独、どれほど思いやりに囲まれていても、その中心にいる自分は、半七を愛しながら、半七からは同じようには愛されていないという、どうしようもなさ。諦めでも、支配でも、押し付けでもない、ただ純粋に半七を思うことだけが残る。

さらにそれを具現化するのが桐竹勘十郎の「お園」。
彼はどうしても動きのある役で目立ってしまうが、その本質は、役のそれぞれの性根を的確につかみ、表現していることである。だからこのお園では、「憂き思ひ」「いまごろは半七つぁん、どこにどうして」「恨みつらみは露ほども」といった心情が痛いほど伝わる表現。
暗い橋掛かりに姿を見せ、黄昏の町に婚家へと重い足取りで向かう時の不安、さわりに入ってからも、その憂いの表情、後ろぶりの決まりさえも、それは彼女の悲しみである。それは簑助師のそれとも、故文雀師のそれとも違って、その視線に、その憂いの中にひたすらな半七への思いをこめているお園だった。
それはまさに、呂太夫の語ろうとしたお園の姿であった。言葉が人形の身体を取って、まるで生きているように、人間以上に迫る文楽の秘奥を垣間見た気がした。

洋楽
そして、河野克典氏と穴見めぐみ氏による、シューベルトの‘Nacht und Traume’。彼だけが舞台上に立たず、階の下で歌う。
全く違う、洋楽の発声。これは空間に広がる声、そしてドイツ語の原詩を知らない者の耳には、その響きと、哀調を帯びた密かな哀しみが迫ってくる。短い歌の中で、一つの完結した世界を表現する、歌曲の本質が迫ってくる。

ここまでですでに1時間25分が経過。時間を忘れる陶酔の時であった。前半に、狂言、能、義太夫節、洋楽の歌曲と、4種類の声の使い方を聞いて、それぞれの迫力、表現力の違いを感じ、さらにその多様さが、不調和を生み出すことなく、この空間を包み、さらに延伸し広がっていく。声の、謡の、語りの、歌の、それぞれに完成された体系性を持つこれらの表現が、互いを主張するだけではなく、その内的延引性が互いを引き合い、高め合う。

魔王
後半の「魔王」、まず河野氏のバリトンで、正統派のシューベルト「魔王」。これが短い中に一つの楽劇としてイマジネーションを掻き立てる。魔王の子どもへの語り掛けは3回、次第にトーンを変え、凄みを増し、やがて焦れるように、強引に子どもを連れ去る。それが、まるでいざなうように、自分から悪に向かわせるような誘惑的な語りかけに聞こえた。
それに対し、父親のそっけないこと。子どもの必死の訴えを聞けないのは、魔王が見えない、つまり、様々なそうした超自然とのふれあいを信じない大人になっているからなのか、それとも魔王と取引でもしたのか、とさえ思いが及んだ。魔王の“Ich liebe dich.” のなんと誘惑的に響いたことか。
穴見めぐみ氏のピアノの三連符が、不安を掻き立て、その恐怖の背景を見事に描く。
義太夫版「魔王」
それに対し、人形を入れた義太夫版「魔王」においては、それは人間界と隣接して人間に働きかけ、時に悪をもたらす別世界の生き物とは違っていた。赤松禎友師の鬼の恐ろしさ。

この鬼の面は「大悪尉」であったか。ならば、解説によれば強く恐ろしげな老人という意味である。能における「鬼」は実は多様である。「安達原」のように人間の悪が凝って鬼になったのか、自分自身が悲しい運命をもってそうなってしまったのか、もはや人間の心をなくしたのか、それらの物語によって異なる面がある。あえてこの面を使ったのは、あるいは冥府の使いという意味であったのかとも思えた。昔はしばしば神隠しという現象が言われた。自然が人を飲み込むような恐怖を象徴しているともいえる。

「魔王」の原題は‘Erlkönig’即ちエルフの王、つまり西洋社会においてキリスト教に駆逐された土地伝説の中の精霊や神々、人間に対し時に暴力的な関わりをする、という恐怖がある。それは日本の伝承の中にも同様のものがあるが、少なくとも19世紀ごろまで、西洋社会もそうした恐怖にさらされていた。
そうした恐怖においては共通するものがあるかもしれないが、「魔王」は人格的な悪としての誘惑者であり、「鬼」は非人格的な脅威の対象か、人格的な破壊者なのかがここでは不分明であるが、あえて言えば、赤松氏はある意味、前者の解釈を取られたように思う。その対比が、この舞台で明確に感じられた。

義太夫での「魔王」、子への呼びかけは「若」、鬼は子にだけ見える恐怖の対象であることは変わりないが、どちらかと言えば、呂太夫の語りは、父の子への愛情が感じられるゆえの悲劇であることを伝え、勘十郎の遣う父は、馬の工夫もさりながら、息子を守ろうとする情愛深い父としてのキャラクターが明確である。
子役は簑紫郎が代役で、労しく愛らしい、それゆえの悲しみが伝わる。勘十郎の、先のお園に加え、この父親、やはり天才的な表現力と言わざるを得ない。
竹澤團吾の三味線の構成力も光った。父と子、大いなる悪に対する恐れという東西に共通の主題を得て、なおその解釈と世界は広がった。

この舞台は、それぞれの良さを集めただけではなく、その中から新しい萌芽が確かに生きていて、それを包み込むように大槻能楽堂の舞台があり、その中心に、大槻文蔵師が凛として立って、この多様な表現を結ぶ求心力となっておられたと思った。
場の力、異なる伝統の力、それらが出会うところに、過ぎ行かせてはならない感動が生まれる。その重なり合う中に飛び散る火花は、私たちを新たな創造へと導いてくれるのだ。

掲載、カウント2022/3/25より)