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越路大夫師匠宅へご挨拶に

PM1時30分に貴大夫君(茨城大学独文科出身)と京都の師匠の家に行った。
生憎お留守で、手紙を書き置きして、失礼した。
3週間程ハワイに行ってらしたので久しぶりのご機嫌伺いだ。
夜、お電話でご挨拶した。
私は最初、春子大夫師(たまに、女性の師匠だったんですか?と聞かれることがある)に入門したのだが、2年程で亡くなられたので、越路大夫師の門を叩いたのです。
石橋(池田市)の家に私は5年、貴大夫君は4年内弟子させていただきました。
入門当時、兄弟子は小松大夫兄一人でした。
師匠も兄もびっくりする程気さくな方で、ややこしいしきたりに煩わされることなく、スムーズな内弟子生活に恵まれました。

今日は《英大夫を囲む会》でした。

朝、教会の祈祷会に顔を出してから、国立文楽劇場へ『又助住家の中』の稽古へ。
小松大夫兄のお稽古の二日目。
終わってから、昨日より良くなったと言われた。
嬉しいことだ。
それから、囲む会の会場の肥後橋へ。
いやあ、愉しおました。
ボクの話とか義太夫教室も受けてますが、そのあとの寿司を食べながら、ビール、烏龍茶、ケーキを味わいつつワイワイ文楽談義やら世間胸算用やらを語るサロン的雰囲気が、誠に結構だんねん。
自分には場違いだよ、といいながら毎回顔を出してくださり乾杯の音頭を取って下さる三原大先輩、石原大先輩ご夫妻・・本当に感謝

ボクの本当の初舞台は、昭和43年1月末の朝日座でした。

役は、若手向上会での『忠臣蔵・一力茶屋場』の「力弥」でした。
由良の助が十九兄、おかるが小松兄、平右衛門が咲兄で、「力弥」の人形は紋十郎師匠に遣っていただきました。
『勘平切腹』は呂大夫兄が語ってられました。
朝日座の4階の日本間の稽古場で先代の喜左衛門師匠に全員揃って稽古していただきました。
小柄で飄々とした着物姿の師匠が下駄を脱いで襖を開けられた時のあの、カッと見開いた《眼》の形相は、未だに忘れることはできません。
あの、張り詰めた雰囲気・・。
ホンマに昨日のような感じがします。
さて、今日は小松兄に4月の役のお稽古をしていただきました。
「又助住家の段」の端場は以前、小松兄が何十年ぶりかで語られたものです。
その時は、寛治師匠にかなり熱心にお稽古していただいたそうです。
今日の僕はただただ小松兄の作品に対する思い入れと集中力にたまげておりました。
自分の甘さを痛感しております。

韓国公演から帰ってきた玉女ちゃんに会った。「エライ良かったらしいなア。エライ人気やったらしいなア」

と、彼の肩をポンポン叩いたら、あの人なつこそうな顔が「感激したワ。
そやけど、疲れたワ。
やっぱり外国行くと疲れるなあ・・。
焼肉も当分エエワ・・」と言った。
正直な人でんナア。
ボクの同期生は、故緑大夫さん(りっちゃん)、和生さん、簑太郎さん(とんちゃん)、玉女ちゃんだ。
ボクと和生さんは同じ歳。
3才下にりっちゃんがいた。
とんちゃんと玉女ちゃんは6つ年下だ。
『りっちゃんが、いた』と書いて・・、胸がつまります。
ボクの初舞台の時、学生服のツメ襟姿の『りっちゃん』(彼は半年後のデビューだった)が、ずーっと側にいてくれて、彼独特のお茶目な顔で、ニコニコと励ましてくれました。

春眠暁を覚えず・・

PM3時からの稽古のあと、共同通信社の記者に取材を受ける。
主に去年の《ゴスペル・イン・文楽》のことについてだ。
最近、日本の芸術、芸能方面でキリスト教に影響を受けたムーブメントが活発になっているらしい。
その一環としての取材だった。
稽古についてだが、最近はほとんど国立文楽劇場の稽古場でします。
師匠(越路大夫)の稽古の時は京都のご自宅までお伺いしますが、先輩諸兄による《お稽古》(「お」をつけるよう春子大夫師にやかましく言われた)は、我々のみの勝手稽古も含め、大体、国立劇場でします。
稽古部屋は4部屋。
初日近くになると部屋が混みます。