闇を超えて、時を重ねて

森田美芽

 10か月ぶりに、大阪に文楽が帰ってきた。それだけで、心が浮き立ち、じっとしていられなくなる。本当に長かった。コロナ感染拡大防止のため、三部制の上演、しかも劇場内の座席は、まだ半分以下しか使えない。それでも交互の座席は大変見やすく、隣の人に迷惑をかける心配も少ない。床前の私の特等席は当分お預けだけれど。
 幕開き三番叟は上演中毎日、舞台を清める儀式である。舞台の成功をもたらす超自然的な力への祈念。それは私たちの祈りでもある。これから始まる、分秒まで厳密な、洗練された動きと語り、にも拘らず一瞬先に何が起こるかわからない舞台という危うい現実を前に、数時間の先に陶酔と喝采が生まれる奇跡を、この向こうに見ようとする。

 第一部は『源平布引滝』。「矢走の段」亘太夫、錦吾。力強く、メリハリの利いた亘太夫の語り。行儀のいい錦吾。小まんは勘弥、白旗を守ろうと男どもを相手に必死の応戦。そして湖を見る眼差しに決意が宿る。亀次の忠太はもちろん憎さげな男を的確に遣う。
 「竹生島遊覧の段」気合の入った團吾の三味線。小住太夫(前半)が宗盛、語りだし、品格、なかなかに聞かせる。左衛門の文字栄太夫は詞に力がこもる。実盛は津國太夫。思慮深く肚を見せない強さ。小まんは南都太夫。「死んではどうにもならぬ命」から「今日はいかなる悪日ぞ。」の女の嘆きが沁みる。碩太夫は小細工なし。
人形は、宗盛が紋秀。品位のいる役を堂々と遣う。左衛門は文哉。女をいじめる役回りもうまく性根を見せる。
 「九郎助住家の段」中、咲寿太夫と友之助(前半)。咲寿太夫は「づきが廻っても高ぶけりさせぬ」などの泥臭い表現がまだ落ち着かないところもあるが、まずは序盤の物語をしっかり聞かせた。友之助の支えも大きい。
 次、靖太夫、錦糸。片腕の発見から実盛と瀬尾の詮議。たとえば「世に連れて変はる住居や憂き思ひ」など、情景と心情の描写が一つになるところや、「気疎い物ぢゃ」のあたりの詞の間など、まだ改善の余地はあるが、瀬尾の大笑いなど、破綻なくまとめている。「詞なければ」のあたりに情を込めた。ただ、瀬尾に迫られ「のっぴきならぬ手ごめを見るより」は女房なのか九郎助なのかわかりにくかった。錦糸の安定感と美音。
 奥、呂太夫、清介。瀬尾が引っ込んで、実盛の物語。物語る力の違いを感じさせる。一途に母を求める太郎吉、老の逸徹の九郎助、娘を思う老母らを納得させなければならない、それを説得する、実盛の重厚さ。聞きながら、その光景が繰り返される、朗々たるその語りの力。小まんの無念も、ここに至る源氏の無念も、琵琶の湖に起こったことが、もう一つのその後の平家の運命とも重なるように。それはさらに、切り落とされた片腕をつなぐと死者が蘇るという奇跡までも納得させる。いつもながら、清介との掛け合いの間合いの見事さよ。
 瀬尾の再登場から、錣太夫、宗助。敵役の瀬尾が、実の娘の小まんの息子にわざと討たれる、その豪胆さも十分に聴かせる。宗助は亡き寛治の手と音を受け継ぐ。綿繰馬に跨る少年が、やがて実盛を討つことになる予言。ここは平家物語の一節からの創作だが興味深い。実盛は日の光が似つかわしい美丈夫として描かれるが、後に白髪を墨で染めて合戦に挑み瀬尾の孫に討たれる未来がここに語られる。物語は太夫によって、過去と未来が重なる、不思議な時間として白日の下に明かされる。それを見おろす琵琶湖と比叡は、悠久の時のなかに静かに佇み、人の営みの因縁とはかなさを見下しているように思える。
 人形は、玉男の実盛の、圧倒的な男振りと貫禄。二股武士でありながら、実に情けを知る武将のりりしさ。九郎助は文司、師匠の文吾の晩年を思わせる、父性の温かさとしたたかさをよく表す。簑一郎の女房は、気丈で思いやりに満ち、紋吉の矢橋仁惣太も一癖ある風情。勘次郎が倅太郎吉をりりしく遣い、清五郎の葵御前はゆったりした品格がある。瀬尾の玉也は極めつけといってよい。

 第二部の『新版歌祭文』は、冬の午後の少し弱い光を感じさせる。は睦太夫、勝平。
 睦太夫は安定感をもって語れるようになった。だが、小助の引っ込みの、「おれがコウ担げて…言ひ分ないはずぢゃ」の間がなんとも長く感じる。まだ一人一人の呼吸と、彼の語り口が合っていないような感じといったらいいか。勝平はそのあたりの呼吸もうまく合わせてくれる。
 続いて呂勢太夫、清治。声も安定し、緩急も自在に語れる。お染のクドキが切に迫る。言葉もいらない清治の糸。後半が咲太夫、燕三。久作の説得力とお勝の貫禄。ただ、おみつの母のくだりは、何か中途半端で見えないことの対比が効きにくい。段切れはやはり高音の伸びがもう一つで、この人の力でいま、聞くべき段を聞かせてほしい。連れ弾きは燕二郎。師弟の息の合った華やぎ。ただ、ここは亡き寛治の弾いていた彦六系の手であったか。
 人形では清十郎のおみつが、前半のコミカルな演技と細かい業、後半の尼姿の対比と変化で、聖なる自己犠牲という主題を明確にする。久松は文昇。ややたよりない性根を生かす。和生の久作は白太夫かしらの親心そのもの、勘壽がおみつの母の哀れをくどくなく表し、簑紫郎の小助は三枚目の敵らしく笑いを取り、玉翔が儲け役の船頭で一際喝采を受ける。簑助のお勝。この人が舞台にいるだけで、舞台が変わる。一日も長く勤めていただきたい。

 『釣女』太郎冠者を藤太夫、場を盛り上げる愛嬌たっぷり。大名を芳穂太夫、生真面目に勤める。美女を希太夫、淑やかで美しい。醜女を三輪太夫、最後に全部持っていく。三味線は團七以下、清馗、清公、清允の心地よいユニゾンが繰り返され、笑いを呼ぶ。玉佳の太郎冠者、主役にも余裕が出てきた。玉勢は形がよくさわやか。紋臣の美女もかぐわしく自然な動き。勘弥が最後に醜女を、なんとも愛らしく遣うので、これはフグ扱いは気の毒と思わせる楽しさ。
 これは狂言に由来する演目だが、狂言の道行という手法で距離も時間も一気に飛び越えてしまう。時を超える、大名も醜女も個人名はない。いつでも、だれでも起こり得るという、現在が未来への反復を含む関係の中でのドタバタ劇。太郎冠者を醜女が追いかけていくオチを楽しみながら、なるほど男も女も見かけで動いたらあかん、と言われているように思う。ルッキズムとストーキングというのは時代を超えてあるものだが、それがまるで現在の、たとえば吉本新喜劇などにもつながってくるように思える。

 第三部は『本朝二十四孝』は、やや変則的な上演。
 「道行似合の女夫丸」から始まる。睦太夫、靖太夫、亘太夫、碩太夫、生徒も、友之助、錦吾、燕二郎、清方。これも不思議な道行で、濡衣の方は亡き夫と瓜二つの勝頼との道行に、亡夫の面影を見るが、勝頼の方はそうではない。いわくありげな様子を楽しむ。睦太夫、美声だが「氷を渡る信濃路へ…」のあたりで上の声に届いていない。碩太夫は「昔を偲ぶ流行歌」あたりしっかり声を出しているがまだ一本調子。
 「景勝上使の段」希太夫が長足の進歩、清丈もしっかりと聞かせる。
 「鉄砲渡しの段」芳穂太夫、清志郎。前後がないとわかりにくい段だが、それでも聞かせたのは芳穂太夫の力だろう。清志郎もここはしっかりと押える。
 「十種香の段」千歳太夫、富助。ただ、ソツなくというのではない、やはりそれ以上に、物語と詞の美しさが問われるところだと思う。その点で、さらなる飛躍を期待したい。
 「奥庭狐火の段」織太夫、藤蔵。ツレ寛太郎、琴清公。狐火が妖しく舞う。それだけで客席は異空間にいざなわれる。この段では、三味線が妖しさを表すのに、太夫は真っ向勝負のようなところがあり、その戦いに、織太夫が挑んでいる。
 この物語は元々の仕掛けがややこしすぎてどうもわからない人も多い。両家を巻き込む陰謀と、それに立ち向かうのは、ただ自分の愛する人を助けたいという、単純極まりないお姫様の思いだけ。そこにすべての情熱が注がれ、この物語を私たちに引き付ける。その中で、奇跡が起こる。
 八重垣姫が、恋する相手を救うために、今度は狐に憑依される。諏訪法性の兜のもたらす奇瑞。狐に憑かれた姫は、ここかしこと跳び、回旋し、のたうち回る。ここは、勘十郎の至芸に酔いしれるところだが、それだけではない。私たちの先祖が昔、暗闇に感じていた畏怖、異類と魑魅魍魎の跋扈する闇の中に、姫の一筋なる思いが光をもたらし、狐たちをも従えて、闇を切り裂く。差し初める東雲の光に、彼女が諏訪の湖を渉る姿が重なる。
 濡衣は簑二郎。彼女の見えない一面もうまく表出している。勝頼は玉助、色男ぶりが際立つ。謙信は玉志、またスケールの大きさが出ている。勘市は景勝、文七の強さも印象的。玉誉の白須賀六郎、簑太郎の原小文治もきびきびと小気味よい動き。玉輝は花守り関兵衛で、少し為所が少ないか。

 コロナの感染拡大防止のためにこうした三部方式を取ること自体は責められないだろう。ただ、演目と配役が難しい。また2時間ほどで完結する演目に限られるなら、通し狂言はどうなるのだろう。特に今年4月に公演予定だった、『義経千本桜』の場合、もし序段が省略されたら、通しそのものの意味がなくなるのではと危惧する。今後、このような公演形態のままでいくのか、それとも以前のようにできるのか、あるいは、別の形もありうるのか、不安は消えない。
 ただ、文楽そのものは、幾度も闇を通って、そのたびに奇跡のように甦ってきた。困難に襲われるたびに、忍耐し、ひたすら芸を磨きつつ時を待つ。本公演もまたそのように、力を充実させて、この困難の時を乗り越えてこられた技芸員の方々の覚悟と強い使命感を感じた。願わくは、この充実をもって来春の公演を迎えられますように。

掲載、カウント2020/11/23-2より)