新たな境地へ―2020年9月公演 第3部 絵本太功記 十段目―

森田美芽
 なんと清冽な、清廉な舞台。誰も、自分が、自分がではなく、一人ひとりが確実にその役割を果たし、全体をドラマとして成立させる。実は太夫のイニシアティヴがそれを成立させていることを気づいた者は至福の時間である。

 「夕顔棚」睦太夫、清志郎 力の入る一段。睦太夫、久々の舞台に、安定したところと、チャレンジングな姿勢を見せる。節もきちんと、声も出ている。だが、皐月の言葉がまだそこだけ不自然。しかし「捨つべきものは弓矢ぞ」など、しっかり伝わっている。
 そして、「『三国一の悲しみ』と知らぬ白歯の孫嫁が」の孫嫁のところが、上の音で届くべきところはまだ届いていないが、それを届かせようとする彼のチャレンジ精神を感じた。「老母は何か心に頷き」での短い決意がまだ不十分。この皐月の性根がしっかり描こうとしている造形。ただ、真柴久吉が武張りすぎるか。清志郎のサポートもいい。登場人物の陰りやイキを弾き分け、しかも清々しい。勘寿の皐月が、武家の女の気概と誇りを失わずここにいることが伝わってくる。その造形が一貫している。簔二郎の操は、出のしとやかさと母らしい風情の移り行きも自然。

 「尼ヶ崎」前、「呂勢太夫、清治。呂勢太夫は一年あまりのブランクを経ての復帰。だが、声に頼りすぎず、ひねらず、正攻法の浄瑠璃で、十次郎の若さゆえの純粋さとその悲劇を描き切る。『鎧の袖に降りかかる 雨か』と「涙の」ですぐに世界が切り替わる。
 ただ本調子でないと思えるのは、「胸は八千代の玉椿」など、彼ならもっと高いところへ届くだろうに、それが出きらないところ。ここは一輔の初菊のいじらしさ、後ろ姿の可憐さが光る。そしてまた、皐月の述懐のところも聞かせてほしい。清治は、焦らず、大きく構えて太夫を支える名人芸。

 、呂太夫、清介。「ここに刈り取る」から、これまでの呂太夫と違う。「夕顔棚のこなたより」の「こなた」のイキが詰む。「現れ出でたる」の「現れ」が「矢声」と呼ばれる高音。それが無理なく届く。「光秀」の「み」からカンの声と、立て続けにくる。皐月のクドキでは、「たとへがたなき人非人」の「ん」が決して力まないのに正しく止まる。「不義の富貴は浮かべる雲」の節の美しさ。「主を殺した」は「ころし」までがカンで、「た」が地声に戻る。「天罰」の「天」もまた。

 操のクドキ、「お諫め申したその時に」の「その時」の重さ、「知らぬこと」の切なさが胸に迫る。そして「諫める泣いつ一筋」に、で地に戻る。光秀の「声荒らげ」以下はむしろ冷静に。光秀の玉志も毅然として大きい。

 十次郎の戻りから、「ヤア言ひ甲斐なき見方の奴ばら。シテ四王天田島頭は」の肚。さらに「妹背の別れ愛着の」の切ない語り。大落としの「堪へかねてはらはらはら雨か涙の汐境、波立ち騒ぐ如くなり」でクライマックスに持っていく。
 久吉の出から皐月の最期「可愛さゆゑの罪亡ぼし」の本音など、最後は三味線の熱演だが、段切れまで実に弛緩なく、物語の全体が耳を通してしっかりとはいってくる。だから人形が生きている。初菊は最後に十次郎の亡骸に黒髪を切って供え、そのはかなさを伝える。
 これは武将であり父である男の悲劇と、母であり自らの道義心に従う女たちの世代を超えた悲劇でもある。その全体が、しっかりと音の仕分けを通して聞こえてくる。浄瑠璃とはいかに精密で劇的なるものかを今回改めて聞かせていただいた。

掲載、カウント2020/11/23より)