二つの「俊寛」像に見えるもの

森田美芽

 初夏の東京・南青山、鉄仙会能楽研修所。かつて観世寿夫が舞ったその舞台で、能の柴田稔師と英大夫・清介が、それぞれの世界の「俊寛」を語る。

 能では、平家物語の俊寛が同時的に進行する。舞ごとが一切なく、「コトバ」と「謡い」のみで進行する、きわめて特異な演出。また面は満志作(江戸中期)の『俊寛』。そして俊寛のみが面を付け、あとの二人は直面。頭は黒頭。薄茶地模様の着付けに、黒の水衣と腰蓑といういでたち。都での栄華に比べ、零落し衰えたさまを見せる。
 柴田稔師は自身のブログで、こう述べている。
 「『俊寛』の面にも、傲慢で骨太の顔つきのものや、怒りの頂点に達して血管が膨れ上がったものとか、いろんな表情ものもがありますが、能『俊寛』を孤独の恐怖がテーマと捉えると、この憔悴しきった表情のこの面がいかにもふさわしいと思います。」

 能の「俊寛」の主題は、孤独であると彼は指摘している。そしてその解釈が全編を貫いているのを感じた。
 まずワキの赦免使の名乗りとアイの船頭が事情を語ってすぐに引き込み、続いて康頼、成経の二人の次第「神を硫黄が島なれば」から「二人が果てにて候ふなり」と嘆きの有様を見せる。成経の谷本健吾氏、康頼の長山桂三氏の、相対して、あるいは連れ舞のように、息の合った謡い。
 シテの登場。「後の世を、待たで鬼界が島守と」「なる身の果ての暗きより」「暗き道にぞ」と和泉式部の歌が引かれ、俊寛の境涯を表わす。二人が三熊野を勧請することを笑止とし、水を酒と二人をからかう俊寛。菊水の故事を引いて、その逆となった境涯を嘆く。ひたすらに都を懐かしみ、水の流れを自身の涙と見る、この謡いの内容と、彼らの直面する現実のあまりの落差、対比。そして3人の間の微妙な差、俊寛には二人との距離を感じる。同じ立場でありながら、ひたすらに神仏にすがることもしない。あるいはその「可愛げのなさ」が、清盛の勘に触ったのかもしれない、と思われた。

 後半、赦免使の到着、喜びと、一瞬で地獄に突き落とされるかのごとき絶望。何故二人は赦され、自分は赦されないのか、その理解しがたい非条理をひたすら嘆き、そして怒る。その面は哀しみだが、確かに怒りの眼差し。
 地謡のクセ「もとよりもこの島は」の「今生よりの冥途なり」が一層強く響く。観世銕之丞師を初め、銕仙会の方々の底力が、このような素人にも伝わってくる。
 康頼・成経が「よその嘆きをふり捨てて」舟に乗ろうとする。康頼がすがりつく俊寛の手をふりほどく。その残酷さ。命令の残酷さだけでなく、この康頼の心にも、俊寛への憎しみがあったのでは、それが瞬時に出たのではと思わされた。艫綱がぷっつり切れる。まるで俊寛の希望の糸が切れたように。
 船を見送り、一人残される孤独。平家物語の作者が、この世ながらの地獄といった、その孤独地獄こそ、俊寛の身に報いた因果、彼の招いた運命であるのではないか。音が消え、断ち切られた時間。しずしずと幕への引き込む歩みを身じろぎもせず見つめた。残された俊寛は、現身であればそのまま海に進んで自ら自死を遂げたのではとも思われ、あるいは亡霊となった俊寛が時空の彼方に消えていったとも見える。
 能には必ず、過去と現在をつなぐ穴のようなものがあると伺ったが、ここではその橋掛こそが、現世と来世を結ぶ橋であり、時空の穴のように思われた。 能の沈黙こそがふさわしい幕切れであった。

 続いて笠井賢一氏の解説ののち、素浄瑠璃。英大夫、清介の「平家女護島」鬼界が島の段。
 能のクライマックスに来る地謡のクセを謡がかりで冒頭に、その絶望と荒涼たる光景を見せる。
 近松が受け継いだもの、それは「この世ながらの地獄」という舞台設定である。 しかし同時に能と対比すると、近松の作劇の面白さ、近代の人間ドラマの作り方がよくわかる。柴田師は、「能では中世の政治劇、文楽では近世の人情劇」と語られているが、共通するものでまず気付くのは、俊寛が「われもあの姿かや」の、自己を自嘲的に見る、他者に対しても彼は冷徹に見ている。成経や康頼を、やや嘲笑している感じもある。そうした不遜さや自己を頼むレアリストであるところが感じられてならない。
 異なるところとしては、文楽では、能では鬼界が島の風景である千鳥を生身の女性としてと描き、彼女が成経と結婚することで、俊寛に父親的心情が生まれること。この俊寛の父性の現れが、前半の英大夫の眼目である。醒めた意識の俊寛に、若い千鳥と少将との結婚が華やぎを与える。水を酒に見立てる趣向は、ここでは若い二人を言祝ぐ婚礼の酒とされる、その秀逸な設定。そして千鳥の描き方の丁寧さ。これが後に、彼が命をかけて千鳥を救う前提となる。
 赦免使を二人にしたのも近松の筆。瀬尾という配役の妙。この居丈高な、権威をかさにきた者、とことん融通のきかない役人気質の非情さと丹左衛門の情け。しかし千鳥と先ほど契りを結んだばかりというのに、千鳥を伴うことができなければと3人は連帯して「思ひ定め」る。この連帯感は能にはない。しかしこのやり取りで、俊寛の妻が清盛に殺されたことを瀬尾が語ってしまう。
 千鳥の嘆き、鬼は都にと責める、死のうとまで思いつめたその純情に、俊寛は身代りを申し出る。弱り果てた俊寛が瀬尾と喧嘩のあげく彼を殺す。自ら罪を犯しここにとどまってでも千鳥を救おうとする、それは俊寛の極限の希望にほかならない。
 「三悪道をこの世で果たし」、近松はこの世にこそ地獄というのをしばしば描くが、この俊寛の孤独地獄に勝るものはないだろう。あえてそれを選ぶという決意、単なる自己犠牲ではない、自分の絶望を希望に転ずるための、究極の選択。しかし英大夫の俊寛は最後に「思い切っても凡夫心」からがさらにすさまじい。俊寛の人間としての心情、こんな零落の身となってさえ自己を頼むところ多い男が、思いがけず父がわりとなり、妻の死に心揺るがされ、人としての生身の心があふれ出たような、そんな叫びであった。
 清介の三味線は揺らぐところなく、そんな俊寛の人間ドラマを描き切った。物語の変わり目、人物の心情、怒りのタタキなど、実に的確に、かつ力強く物語を盛り上げ、そこに一人ひとりの人物を浮かび上がらせ、それ故に人間の悲劇としての英大夫の俊寛像を築きあげる、その最大の功労者であったといえよう。

 能と素浄瑠璃、どちらも濃密な語りと謡いの中で、浮かび上がってきたのは、俊寛の悲劇の現代性であり、その孤独の影であった。人の世の浮き沈みや運命などではなく、人が否応なしに直面せざるを得ない孤独であり、私たちはそれを影のように引きずっている。
 私たちが否定しようとも、だれもが通らねばならない絶対の孤独を、俊寛は象徴している。そして都に帰ることを赦された2人の上にも、さらに清盛の上にも、等しく死は訪れた。私たちの生きる現世こそ、その孤独を知り、かつ生き抜くことを求められている点では地獄であるのかもしれない。
 光溢れる初夏、係わりなく過ぎゆく群衆の中で、舞台の余韻が心の中で響いていた。救いはどこにあるのか? 私たちの希望はどこにあるのか?と。その答えは、一人ひとりの魂にだけ、向けられているのだと。

カウント数(掲載、カウント11/05/18より)