春を呼ぶ声、呼び出だす者―「御霊神社で聴く義太夫と落語の会」―

「たとえ才能が無いに等しい者であっても、注意力を持続させることができるなら、選ばれた者だけが入ることのできる真理の王国の扉を開くことができる」(シモーヌ・ヴェイユ)
 神が呼んでいる限り、私はどこへでも行く。

森田 美芽

 真理を見出すための注意力、それが研ぎ澄まされる時がある。否、選ばれた者たちが集い、力ある者がその集中を発揮するところで、自然とそう導かれる。花冷えの雨の中、淀屋橋にほど近い御霊神社に集まる人々の中に感じたのは、そうした「注意力」の喚起というべきものだったのではないか。語る者にも聞く者にも、それが無意識のうちに喚起されるという恵み。
 
 英大夫はここ数年、毎年3月ごろの素浄瑠璃の会で、現状で届く限りの浄瑠璃の姿を利かせてくれる。それは私たちに本当に楽しみな春の呼び声である。
 
 桂雀松の「寝床」のリズム。一度はすねて義太夫の会を開かないという主が、周囲のとりなしで機嫌を直していく、その中で煙管に煙草を詰め、吸い、灰を落とす。その繰り返しの中で、少しずつ主の表情が変り、本当は語りたくて仕方がないのだ、という気持ちが溢れている。
 相手の方はあの手この手で機嫌を取る、長い長いクレシェンドの持続、それを作り出すのは、緊張というと語弊がある。ここはシモーヌにちなんで「注意力」と名づけよう。だれも聞きたくない旦那芸、聞かせたくてたまらない主、へそを曲げて店子にも使用人にも無茶を言う主の子どもっぽさと、そうされては困るが聞きたくない本音の町内の人々。
 こんなせめぎ合いを、だれしも経験するだろう。宮仕えのしんどさ、明らかにどうしようもない相手をヨイショしなければならないというしんどさ。結局いやいやながら町内の人々は自衛策をとり、眠ってしまうという体たらく。静かになっていく周囲を、自分に聞き惚れていると勘違いする主。そのおかしさ、いまもある、権力ある者の錯覚、そしてそれに振り回される人々の悲哀。
 そうした人物の思いに重ねて我が身を省みる、しかし笑わざるをえない、笑うことで現実の憂さを跳ね飛ばす、そんな語りの力を持つ雀松の力量を十分に聞かせていただいた。古典落語には、そうした時代を超えた人間のおかしさと哀れさを、共に合わせて笑い飛ばさせる力があるのだ。
 
 英大夫、清友の「寺子屋」。今回、これまであまり注目していなかった「いま浄玻璃の鏡にかけ、鉄札か金札か、地獄、極楽の境」という詞章の中に、まったく新しい響きを聞いた。
 
 これは無論首実検に臨む源蔵夫婦に向かって語られている。
 しかしここで、これは松王自身に向けても語られているのではないかと思った。主君のため、それも自分を信頼してくれたただ一人の人のために。しかしそのために自分は、最愛のわが子の命を奪い、身代わりにしようとしている。源蔵をわざといらだたせ、自分の目論見どおりに息子の命を奪わせようとする。そして差し出された首。
 本物なら、自分は主君を裏切ったことになる。偽物なら、自分は最愛の子を裏切ったことになる。どちらに転んでも彼にとっては地獄、「浄玻璃の鏡にかけ、鉄札か金札か」を深く問われているのは自分自身なのだ。その罪の意識が彼の詞の中に流れている。いや、無論ここは性根を割ってはいけない。
 しかしどうしようもなく、その悔いの意識が一本の芯のように通っている。父として、一人の人間としてのどうしようもない立場に立たされる松王の悲劇。その本質が、彼の詞から溢れるように迫ってきた。
 
 後に聞いた限りでは、英大夫自身はそうは意識していなかったという。
 だが私には、この物語の中に、イサクを犠牲に捧げようとするアブラハム、ひとり子を身代わりのいけにえとして捧げられた父の神のかたちを見出す英大夫自身の中から生まれてきた一つの、真実な語りの中に生まれてきたものと聞こえた。息子を死なせ、妻を嘆かせ、最も愛する者たちを裏切り、誤解され、それでも再び忠義を認めてもらえるかどうかもわからない危険な賭け、というより絶望的である犠牲。
 その残酷な運命を強いられた松王の悲劇であることを、この箇所から痛切に感じた。
 
 それゆえ、いろは送りになると、単なる美声の聞かせどころとしてでなく、1時間を越えるこの段全体の締めくくりとしての語りが響いてくる。そうした無残な犠牲の子へのあわれみと、それ故に自らを地獄へ落とした父、守ってやれなかった共犯の母、知らずと共犯になった夫婦、それぞれの負い目と悲しみを、むしろ淡々と描いて感動へ導いた。
 通常上演される形での、「夫婦は奥の戸ぴっしゃり閉め」からの変わりと違い、声にも余力がなくなり、一杯に声を伸ばすことなどできない。その中で滲み出てくるものが、「寺子屋」本来の語りであると思った。
 無駄な力の入らない、浄瑠璃本来の言葉の表現力、ここに至るまでの1時間あまりが、少しも長いと思わず、短いとも思わない。ただ言葉のそれ自体の力と清さが自然とその持続を作り出す。痛いような緊張ではなく、張り切った強さではなく、内側から自然と伸びてくる、十全の時間。
 
 彼が語ろうとするものは何か。
 雀松が私たちの眼前に見せてくれたように、遠い人々の人情の機微を、義太夫の技術と声を通して語りかける。解釈ではなく、完全な技術的配慮の世界。
 しかしそこにこそこうした人間の変らぬ本質が、知らぬ間に顕され、私たちの中にそうしたものへの感性、聞き取る力、そこへ向ける注意を作り出す。私たちは呼び出だされる。彼の声に、その語りに応じて、また清友の気合の一撥、気高く張り詰めた絃の叫びに。
 
 彼等もまた呼び出だされている。この企画は、サンケイリビングの一連の文化行事の企画における出会いと、人々の好意から生まれ、1年がかりで育てられた。あえてお名前を挙げれば、株式会社美々卯会長薩摩夘一氏、御霊神社宮司・園文夫氏、そしてサンケイリビングの森長かおる氏。そして力強い助っ人の小佐田定雄氏が、御霊文楽において見台開きにこの「寺子屋」が攝津大掾によって語られたという縁が明らかにされた。
 そう、われわれもまた、この予期せぬ偶然に呼ばれていたのだ。ここで出会うために、また聞くために。
 
 呼ばれている限り、どこへでも。英大夫の浄瑠璃にはそんな力がある。そこに人と言葉を呼び寄せる、そこに新しい場を作り出す。
 パリ、ストラスブール、東京、大阪と、所を変えつつも、普遍的な人間の真実を、日本の誇る完成された芸術的様式を持って、しかも初めての者にもなじんだ者にも、それぞれに納得するものを見出させる芸術の力を携えて。
 彼のそんな軽やかさと品位と情熱を持って、語られたことばは私たちの中にその注意力を呼び覚まし、そこへと私たちを導き続けるだろう。

カウント数(掲載、カウント08/04/01より)