「野崎村」競艶――2006年6月「文楽鑑賞教室」

森田美芽

 国立文楽劇場恒例の6月鑑賞教室は、中堅・若手が4班に別れその技芸を競い合う機会でもある。それぞれに特色ある持ち味、芸風、さらに技芸員同士の組み合わせの妙で、それぞれに異なる舞台の成果が競われるのが楽しい。そして聞きなれたはずの「野崎村」の難しさと豊かさをあらためて感じさせられた。4班のうち、A、B、Dの3つを見ることができたので、その印象をまとめておきたい。

 まず「五條橋」。
 A班では、咲甫大夫のよく伸びる美声が、くっきりと牛若丸の性格を描く。津国大夫は気骨ある弁慶の人となり。団吾は出だしから夜の五條橋の妖しさを弾き出す。勘市は「肌には練りの御袷、紅裾濃の御着背長・・」という両性具有の牛若、玉志は荒物といい忠節の武士の片鱗を見せる。
 B班は始大夫の牛若、高音も自然に使えるようになってきた。相子大夫の弁慶、声も大きく楽しい。喜一朗は力強く明快な音で率いる。玉佳の牛若は少年なれど男らしさの片鱗を見せ、勘緑は古怪でユーモラスな弁慶。
 D班は貴大夫が安定した音使いで牛若を、新大夫は大らかでダイナミックな弁慶を語る。三味線は弥三郎休演のため団吾が代演。紋臣の牛若丸は繊細で少女のような艶やかさがあり、幸助は力のこもった弁慶。
 恒例の解説は、相子大夫、清丈が、若者の感性を捉える表現で楽しく聞かせてもらった。

 眼目の「野崎村」。
 A班中を南都大夫、清志郎。南都大夫は自信を持って持ち前の端正な語りで基本に忠実な人物の語り分けが印象的。お光も久松もこの人らしく美しいが、小助にやや力が入る。
 奥は津駒大夫、清友と英大夫、清介、ツレ清丈。津駒大夫のお染のくどきの見事さ、15、6の少女が、恋を知ってあまりに一途に進もうとする、そのいじらしさ。世間知らずな、それでいて少年の子を宿している、肉体はすでに成熟しているというアンバランスさ。
 野崎村の眼目は登場人物一人ひとりの思いにある。それぞれの思いは美しい、またはもっともなことである。それが悲劇を生む。その過程を納得させるポイントは、何よりも親久作の存在である。英大夫を聞くと、なぜこれほど久作の思いが伝わるのだろう。義理の娘と主筋の少年を何とか添わせてやりたい、明日をもしれぬ命の婆に最後の喜びを見せてやりたい、世間の義理を立てねばならない、まして十の年からの恩ある主人に、義理を欠くわけにはいかないと、その親としての思いの切々とした語り。久松もお染もあまりに幼くうつる。お光の打って変わったいじらしさ、その献身の切なさが段切れの場に昇華する。
 三味線は清友、清介、ともに太夫を立て、巧みにリードする。
 B班は、新大夫、弥三郎休演により清志郎。新大夫は細部からでなく全体から浄瑠璃に 入っている。細かい語り分けがどうとかいうより、まず義太夫の世界に入っておおらか にそれを作り出すという印象を受けた。構えが大きい、とでもいえばよいだろうか。清志郎は二人の違う太夫によく合わせていく。
 奥の文字久大夫は、前半丁寧に筋を追っていて上達した、と思ったが、久作の詞が大きな課題。後半になると人物像が不鮮明になってくる。宗助の美音がさえる。
 千歳大夫は冒頭、越路大夫を彷彿とさせる語り。ただ気になったことだが、久作の詞がたたみかけるように早すぎるのではないか。感情移入する暇がなく段切れまでいってしまったように思う。清二郎はのびのびと弾いているという印象を受けた。
 D班の中は始大夫、清馗、奥は呂勢大夫、燕三と松香大夫、富助、ツレ龍爾。
 始大夫は努力家だが、小助と久作のやり取りのところがまだ課題が残るように思う。清馗は豊かな響きを持つ人であると思う。呂勢大夫は無論、お染のくどきが眼目。燕三の三味線は終始芯の通った音色で大夫を支えるのが耳に残った。
 逆に松香大夫は久作はこの人らしい味わいがあるが、言葉尻がきつく武家ふうに聞こえた。富助は他の人と異なる手で華やかに鋭く迫る。

 人形も、それぞれの師匠筋を反映してか、それぞれに特色ある動きとなった。
 A班の和生のお光と清三郎のお染は少ない動きの中で、品よく、それぞれの性根に迫る。幸助は小悪役も頼もしい。玉英のおよしも印象に残る。玉輝の久松も武家の出身を匂わせてよい。紋豊の久作、この人には自家薬籠中のものである。亀次の母お勝も危なげない。
 B班の清之助のお光は、師簑助の伝であろうか、鏡を前に化粧し、箒に手拭をかけてまじないをし、お染を突き放すと戸をぴっしゃり閉める。そうした動きの一つ一つに、お光の気持ちが伝わってくる。こうするしか戦えない、田舎娘の気性の激しさ、それに対する清五郎のお染、こちらは大店のお嬢さんらしく、おっとりと、そうした意地悪になすすべもない。よく受け、よく応えている。文司の久松もよい二枚目。玉女が久作というのはいささか気の毒な気もするが、相応の貫禄。駕籠かきの玉勢、紋吉はよく足拍子がそろって小気味よい。船頭の紋秀は細かい動作で笑いをとる。
 D班の勘弥のお光は丁寧だがもう少し全体をつなぐ呼吸というか、性根を積極的に出してほしい気がする。玉志の久松は、色気はあるがおとなしめ。勘市の小助は小物らしい風情。玉也の親久作は十分 簑一郎のお染は、愛らしさはあるが内側から燃焼するものがほしい。玉勢の船頭も舞台の呼吸をのみこんでいる。

 総体として、気品にまさるA班、芝居としてのおもしろさはB班、安定のD班とでもいえようか。それぞれの太夫、三味線、人形のリーダー格の特徴が出て、同じ「野崎村」でもこれほど違うのか、と思える楽しさがあった。反面、同じ舞台での三業の組み合わせがこれでいいのか?と思える点もあった。それぞれの芸風、芸格、個性の差、一人ひとりは力を出していても、舞台としての総合的な印象がもう一歩、という思いが残る。そしてやはり舞台のリーダーシップを取る太夫の存在がどれほど大きいかを思わされる。
 太夫にとっての野崎村の難しさは、人物の語り分け、詞と地、節のバランス、いずれをとっても総合力が問われることではないかと思った。太夫でも、お染やお光が良い人は久作が弱く、久作がクリアできても小助でつまずくといった具合に、すべての人物をその性根にふさわしく語る、あるいはその人物像に迫るというのはきわめて困難である。
 一人が一役であれば自分に合った役で何とかできても、すべての人物にふさわしい音使いで適切な語り口で語るというのは本当に困難である。それも、その人物の性根を掘り下げ、音と語りの中からそれと納得させるものがなければならない。それこそ彼ら、中堅若手の太夫たちの大きな課題といえる。さらに段切れの箇所は、朗々と美しい節付けを楽しませる箇所である。一段語ってきた最後で、さらに一音上がるという苦しさの中で聞かせなければならない。そのすべてを備えたとき初めて切場語りとしての資格を得ることになる。
 確かに、英大夫はそのすべての資質を備えている。これから彼に求められるのは、舞台全体を率いる力、一つの芝居を初めから終わりまで貫く主題を、末端の人形の介錯に至るまで徹底させ、観客に説得する物語世界の造形者となることではないか。
 客は太夫の語りだけを聞いたり、人形しか見ていなかったりする。だが舞台全体はその一箇所に反映して、納得できるものかどうかを感覚的に知らせてくれる。彼には、太夫の語りがもつそういう力を生かし続けてほしい。そしてまた彼に続く太夫たちにもそれを望みたい。自分の語りに全力を注ぐだけでなく、舞台全体を率いるだけの解釈と人間観に裏付けられた表現力と演出力を、と。
 私たちはいつも見えるところから始めて、見えないその力の全体にいざなわれる。語りの底力、それは虚構の中に真実を、現代のただ中に時代を超えた人間の情を、見る者すべてに知らせる力であるのだから。

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