心より心に伝ふる花 ―2006年正月公演・「おおさか・元気・文楽」―

森田美芽

 この春はめでたいというのにいささかのためらいを感じる。
 吉田玉男の不在、それだけでも心痛むなのに、まして初芝居としてはいささか暗い内容の狂言が並んでいる。率直に言えば、楽しむというより、文楽を取り巻く内外を思わされることが多かった。
 その中で唯一朗報といえるだろう、鶴沢燕二郎の燕三襲名は、次の世代への芸の伝承に希望を抱かせるものであり、それにふさわしい充実した内容であったことを心から喜びたい。
 ただ、筆者の多忙のため、ついに「喜内住家」、「三十三間堂棟木由来」を見ることが出来なかったことを最初にお断りしておく。

 「寿式三番叟」は新年を寿ぐ厳粛な儀式である。96年以来、私が新年に見たのも5回目になろうか。
 文雀の翁、品格の高さは変わらないが、その荘重さ、辺りを払う雰囲気をつくるものが一回り小さくなったのではないかと思わされた。
 千歳は文司、このところ立役でめきめき腕を上げている。丁寧に遣っているが、やはり少し彼の持ち味と違うのではないか。三番叟は玉女、玉也。玉也が悪かろうはずがない。しかし玉女の三番叟があまりに適役すぎて、よく遣っているというレベルでは満足できないのが観客のわがままであろうか。
 十九大夫、富助らもこれといって問題があるわけではないが、あの、人形と床がひとつになって観客を陶酔へ導くような感覚ではなかった。むしろ高ぶろうとする感情を抑え、神への奉献という秩序へ向っているように。

 「桜鍔恨鮫鞘」を始めて見る。
 妻が夫の忠義を果させるために別の男に身を任せる。それも母も共謀して。
 哀れなのは娘。無邪気に母に甘え、父を望み、母の教えるままに書置きを口伝える。
 紋寿のお妻のいじらしさ、覚悟はしても娘に本音を明かす哀れさ、男の前で言いかねる辛さ、これほど思っているのになぜ男は気づかないのか。
 和生が誇りを踏みにじられた男の狂気を見せる。
 玉英の母の性根の描き方。簑紫郎の娘お半の哀れさ。玉志の実直さ。中、松香大夫、喜一朗。商家のたたずまい、夕暮れのわびしさ、十分な風情。切、綱大夫、清二郎。義理と狂気の狭間を描く確かさ。

 「妹背山婦女庭訓」
 簑助のお三輪を見るたび、娘であれ、女の身のうちに潜む恋の狂気のすさまじさを思い知らされる。
 お三輪は15歳かそこいらの町娘であるが、恋に陥った瞬間、一人の女になる。文楽の女たちの描き方は、親よりも相手、そこに情熱のすべてを注ぎ込むのが女であると。それを最も的確に見せるのが簑助である。

 清之助の橘姫、幕が開くと、その美しさにはっとさせられる。白いかつぎを取れば、あたりをはらう気品、誇り高さは、紛れもなく高貴の姫君である。その深窓の姫君があられもなく恋をあらそう風情のゆかしさ。

 玉女の求女、もはや師の代役ではなく本役である。瑞々しい若さと色気、それでいて大義を忘れぬ男の冷静、力強さ。玉女の若男かしらにはいつも清潔感が漂い、それが清之助の持つ清らかな冴え冴えとした風情とよく合って、勘十郎との時の、力のぶつかり合いとは異なる雰囲気が感じられてならない。

 英大夫は今月も道行のシン。道行から始まるこの場の造形力に圧倒される。森閑とした大和の大神神社、三輪の山々、それは大和の中でも最も古い伝承と自然を受け継ぐ場である。そこに始まる恋も、人の原初の熱い血を呼び起こす。安定した声、広がり。

 南都大夫の橘姫もよくうつる。彼も本来の力を出してきた。求女は始大夫と咲甫大夫、三味線は団七、団吾、清馗、清丈、龍爾。清馗の手、ふくよかな手によく響く音。

 「鱶七上使」口、相子大夫、清丈、後半睦大夫、龍聿。相子大夫の詞のはずむような息、睦大夫のまっすぐに背ののびた浄瑠璃の、それぞれの面白さを聞く。奥、伊達大夫、清友。この人の描く人物は、なんと血の通っていることだろう。漁師言葉、官女の戯れ、どれを聞いても生きている。的確に支える清友。

 「姫戻り」津駒大夫、寛治。細部まで丁寧に橘姫と淡海の思いを語る津駒大夫、要所を締める寛治の糸の美しさ。

 「金殿」咲大夫、燕二郎。底から響いてくるような強さを思う。なすすべなくいたぶられるお三輪の哀れ、そこから一転しての狂気、冷然とお三輪を殺す金輪五郎、そしてなお愛する者だけを求めるお三輪。見事な切場の格、ドラマの妙。燕二郎の迫力。

 玉女の鱶七の野性と豪胆、金輪五郎の大きさとダイナミックさ、力のこもる幕切れである。やはりこの人には、1日を締めくくる風格がある。

 千穐楽の3日後、NHKホールでの「おおさか・元気・文楽」を見る。
 通常の解説ではなく、葛西聖司アナウンサーが英大夫、清介、勘十郎の3人にインタビューする形で、太夫、三味線、人形のそれぞれの役割、この芝居での見せ場、表現のポイントなどの話をうまく引き出していく。さすがであると思った。
 演目は「新版歌祭文・野崎村の段」口、呂勢大夫、喜一朗、奥の前半を英大夫、清友、切は嶋大夫、清介、ツレ清丈。

 「野崎村」は美しい。何よりも一人一人の思いに真実がこもっている。だからこそお光の犠牲、お染の一途さ、久作にもお勝にも、この短い場面でも忘れられないものが生まれる。悪役の小助も、古い大阪弁の楽しさが溢れている。
呂勢大夫は小助のくだりをうまく聞かせ、英大夫は二人の娘の心の葛藤と、一方で喜劇となるおかしみを十分に楽しませ、極めつけは嶋大夫の段切れの「舟と堤は」。やはり語るべき人が語ることが、文楽の要だと納得した。耳から入るものだけで、その物語世界の中にすっと感情移入できる。
清介と清丈の三味線は、本当にここからすぐの寝屋川沿いの堤の早春の風情となって響いているように思えた。ただ会場の音響の加減か、三味線が少し遠く感じるときがあった。
 人形は文雀のお光が、周囲と一段違って見える。お染は簑二郎、いじらしくも愛らしい。久松は文司、もう少し意識せざる色気が出れば。紋豊の久作は親としての思いひとしお。簑一郎のお勝は、大店の御寮人の貫禄をもう少し出せればと思う。船頭は勘市、舞台が少し高くせっかくの見せ場が十分見えなかったのは残念。

 この1月に思うのは、全体として、それぞれの力は発揮されているのに、それが全体としてみたとき、何か不完全燃焼というか、割り切れない思いが残る。一人ひとりの役というより、その場、その狂言の中でのバランスと組み合わせが微妙に食い違っているのではと、ふと思った。
文楽ほど恐ろしい芸能は少ないのではないか。人間国宝がどれほどうまく語ろうとも、また遣おうとも、末端の一人が気を抜けばその芸は台無しになる。その意味で、最長老の芸でさえ、昨日今日入ったばかりの若者にその成功の可否が委ねられるという恐ろしさ、全力を尽くしてなお個人の努力だけでは届かないものにその全体がかかっているという偶然性の壁がある。
 舞台が総合芸術だというのは真理である。どんなに一人ひとりが全力を尽くそうと、相手により、観客により、その成果は変わってくる。力を尽くしても、どうにもならないものがあるという恐ろしさ。

 さらに、聖書にある、隠されているもので顕わにならないものはない、と。
私たちは人間国宝とか無形遺産という看板を見に行くのではない。そこで行われている、彼らの技芸のぶつかり合いが、私たちの心の中に何かを伝えてくれる、そのことに尊敬を払い、幾許かの代価を払ってそれを見るのだ。
 その尊さに様々な尊称が与えられるのであって、逆ではない。その正統を継ぐことの証しが襲名であり、その技芸の継承にほかならない。
 私はいつも、燕二郎の音の中に、どこがどうとはいえないが、師である五代燕三の音が深く伝わっているのを感じる。
 勘十郎が襲名のとき、名を預かって次代に渡すと語っていたと思うが、それと同じ姿勢を感じる。昭和34年生まれ、同世代の人がいよいよ継承の中心的な役割を担っていくということに、深い感銘を覚える。
 燕二郎は師の燕三から、昔の修行と精神を叩き込まれ、またそれによく従い、伝えるべきものを守ってきた。彼は次の世代にそれをどのように受け渡そうとするのか。
 文楽を取り巻く環境は厳しい。義理も情も、犠牲になることも踏みにじられていく、すべてが金で割り切られる世相の中で、文楽の主題である「情」をどのように伝えるのか。
 それはあらゆる芸術の主題でもある。
 「その風を伝えて、心より心に伝ふる花なれば、風姿花伝と名づく」という、余りに有名な一節は、すべての芸術の使命を伝えてあまりある。「心」より「心」へ、世代から世代へ、師匠から弟子へ、舞台から観客へ、彼らの伝えるその心の花束を、今日も受け取る者でありたいと心から願う。

カウント数(06/06/19設置)