無垢なる犠牲――文楽とクリスマスの出会い 2000年クリスマス公演「ゴスペル・イン・文楽」に寄す

大阪キリスト教短期大学 森田美芽

 クリスマスと文楽――?ずいぶん妙な取り合わせ、と思われるかもしれません。日本の伝統芸能として300年の伝統を持つ文楽と、イエス・キリストの誕生を祝う、西洋のお祭りが、どうして?

 実はそこに、深い出会いがあります。人間の真実な魂という出会いの場が。

 文楽では、300年前の日本人が、現実の矛盾や封建社会の壁にぶつかって、真実に悩み、そのなかで自分を犠牲にし、義理に泣き、親子の絆に殉じる・・今にも通じる、人間としての真実な姿、美しさ、悲しさをこれほど深く描いている人形芝居は、世界に類を見ないものです。

 今回、上演される「艶容女舞衣」(はですがたおんなまいぎぬ)、通称「酒屋」のヒロインお園もそのひとりです。

 彼女は嫁にきて3年になりますが、夫の半七には以前からつき合っている三勝(さんかつ)とう女性がおり、お園にはまったく無関心です。しかし彼女は、夫を愛し、しゅうとやしゅうとめに仕え、外泊をくり返す夫の帰りを、ひたすら待っています。

 「今ごろは半七さん、どこにどうしてござろうぞ」で始まる有名な酒屋のサワリでは、お園は、「去年の秋の患いに、いっそ死んでしもうたら…」皆まわりはうまくいっていたのに、と未練がましい自分を恥じたりもしています。

 半七は、たまたまある殺人事件に巻き込まれ、せっぱ詰まって、三勝と心中行に向います。それでも彼女は、残された夫の、三勝との間にできた子を、我が子と抱きしめ、半七の遺書に書かれた「未来は妻」というお園宛ての書き置きに「ほんまのことでござんすかいなあ」と涙を流して喜ぶのです。

 なんで? そんな女いまはおれへんで――なんて言わないで、ぜひ見てください。なぜ、このお園が、大阪の人によって愛されてきたか、わかります。彼女のひたむきな献身と純粋さはひとのこころを打たずにはおきません。

 さて、クリスマスと言えばイエス・キリスト、そしてその母マリア。マリアもお園と同じく、処女でした。しかし彼女は、ただ優しい、清らかな女性というだけではありません。

 誰ひとり経験したことのない、天使からの「受胎告知」に、とまどいながらも、勇気をもって神に従い、ひとりの男の子を生みました。彼女の孤独な、しかし勇気ある決断によって、全世界の救い主となるイエス・キリストをこの世に迎えることができたのです。

 この世に救いと希望をもたらす神の子の誕生を祝うクリスマス、そのかげにある女性の勇気、献身の尊さ。そしてイエス自身も、この地上に愛としをもたらすために、犠牲になって十字架の上に無残な死を遂げます。

 しかしイエスは復活し、この地上のすべての悪、罪に打ち勝って私達に神の愛と希望の勝利を告げられるのです。

 無垢なる犠牲という一つのテーマによって、今日、文楽とクリスマスが出会います。この新しい試みが、私たちを新たな感動へといざなってくれるでしょう。