苦難のかたち―2021年錦秋公演―

森田美芽

文楽の時代物の主人公は例外なく男である。にもかかわらず、女性こそが影の主人公である物語がままある。というよりも、男だけの論理の世界で、人の追い詰められる理不尽を受け、その矛盾に苦しみ、何とかその中で生き抜こうとする女性たちこそが、この文楽の物語を、いまも生きたものとして伝える縁なのかもしれない。今回、日が経つにつれ、その思いが胸の奥に刻まれてさらに深いところに届くような感慨を抱いた。

第二部『ひらかな盛衰記』 「大津宿屋の段」靖太夫、錦糸、ツレ錦吾。
靖太夫の詞。とりわけ権四郎の饒舌が、働き者で武骨だが孫への愛に溢れる人物像がしっかり伝わってくる。この人物の造形がしっかり届くので、これ以降の段に一貫した人物像が見える。錦糸の糸が底支えする。
そしてこの段で最も印象的な清十郎のお筆。「大津宿屋の段」から「逆櫓」までの転変、敗れた木曽方に仕える男と女、わけても、ただ一人ですべての苦労を負わなければならなくなった彼女の運命が痛ましい。

「大津宿屋」で、お筆は慎重にならざるを得ない。偶然隣り合わせた隣客が、気の良い船頭の一家であると知っても、心を許さない。追手がいつ来るか、常に警戒し、その緊張を隠せないでいる。
その夜、番場忠太らの追撃に、ほぼ女一人で立ち向かい、男4人を相手の立ち回りを見せる。しかし父は忠太に切られ、駒若君は首を討たれる。その直後、取り違えた子であるとわかったが、あまりの心労に山吹御前も亡くなってしまう。しかし彼女には嘆く間もない。まだあたりには敵が忍んでいる。

主の遺骸、父の遺体、そして取り違えられた子の始末、駒若君の行方、全てが彼女の肩にかかってくる。絶望してもおかしくない中で、彼女は毅然と、山吹御前の遺骸を伐り倒した笹竹に載せ、運ぼうとする。女一人で、必死に引こうとする。「お筆の笹引」と呼ばれるこの段の哀切。咲太夫が語り、燕三が合わせる。清十郎が、女の細腕に、重すぎるほどの亡骸を引く。詩情などとは言えない。彼女の耐えている重さが、我が事のように迫ってくる。至高の一段。

それを思う時、次の「松右衛門内」で、その出からの憂いの風情、沈んだ表情、「妻恋ふ鹿の果てならで、難儀硯の海山と、苦労する墨憂き事を数書くお筆が身の行方」のマクラ一枚が、ずしんと胸に堪える。呂太夫、清介の、なんという説得力。お筆の苦難の何重にも重なる思いのうちに、巻き込まれた権四郎一家の悲劇が立体的に揺るぎなく構成される。
お筆は子との再会を待ちわびている親に対して、最も残酷なことを言わなければならない。でも彼女の思いは、あくまで無念の内に亡くなった主の山吹御前と、主君の後継者である若君のことしかない。ここに権四郎の一家との致命的なすれ違いがある。
お筆は勇気を振り絞って、「その夜に敢へなくなり給ふ」といった途端、もはや二人の耳にはその言い訳も届いていない、とそこまで感じさせる詞の間。一方で、お筆がその夜のことを、苦しみながら絞り出す「悲しみやら苦しみやら、私一人が背たら負うた身の因果」は、彼女の辛い独白であるが、おそらくそれは権四郎たちには届かないだろう。それほどの悲しみ、「祖父は声こそ立てねども」の気合の二撥。「涙を老いに噛ん交ぜて、咽に詰まれば咽かえり」の痛ましさ、理不尽に取り違えられ、奪われた我が子の命、その怒りと悲しみの表現。
権四郎の「女子黙れ」以下の詞の勢い、飾らぬ言葉だから、篤実な、しかし気も手も早い船頭として、板子一枚下は地獄の生業を生きてきたと感じさせる玉也の権四郎の造形。勘彌の娘およしの直情さ。そして松右衛門(実は樋口次郎兼光)と再会。ようやく彼女は味方を得た、という安堵が伝わる。しかしまだ、彼女には、父の敵を討つ、という使命が残っている。息つく間もなく、彼女は妹を尋ねるために出ていく。
そして玉男の樋口の出の大きさと凛々しさ、権四郎を黙らせる迫力。それでも、悲しみを隠せない権四郎の泣き笑い。
この段に集約される思いを通して人物を描く、このところ、呂太夫の充実ぶりは素晴らしい。こうした「情」と核の必要な切場で、精神的な深みを、また劇的な大きさを、自在に表現して余すところがない。いまこそ「切」の字にふさわしい時ではないか。
そして「逆櫓の段」睦太夫、清志郎。清志郎の手強さ、三味線の迫力。睦太夫はそれに流されず、段切れの「さらば樋口」まで丁寧に語る。

 

第三部、 「団子売」は三輪太夫、希太夫、津國太夫、南都太夫、聖太夫(後半薫太夫)、文字栄太夫。清友、團吾、寛太郎、錦吾、清方。三輪太夫や清友をここに使うのはもったいない気もするが、人形の玉勢(杵造)、簑紫郎(お臼)にとっては何と心強いことか。すっきりとして、しゃれた語り口、はんなりと柔らかく響かせてくれる三味線。二人の掛け合いが楽しい。

続いて『ひらかな盛衰記』四段目、「辻法印の段」藤太夫、團七、ツレ清允。32年ぶりの上演。
藤太夫は辻法印のキャラクターを生かしながら、お筆との対比の面白さを芝居気たっぷりに楽しませてくれる。合わせる團七の余裕。辻法印は玉佳、こうしたキャラクターの遣い方も手に入ってきた。
「神崎揚屋の段」千歳太夫、富助、ツレ寛太郎。こちらも国立文楽劇場では32年ぶり。その故越路太夫を追うように語る。梅ヶ枝の心の昂揚と落胆、そして追い詰められた彼女が、「無間の鐘」になぞらえて手水鉢を打とうとする、その迫力は見事。ただ、こうした四段目では、強さだけではない、もう一段の色気ともいうべき何かが欲しい。
この梅ヶ枝を遣うのは勘十郎。無間地獄といい、輪廻も地獄も信じていた昔の人にとって、究極の二択というべきもの。梅ヶ枝は恋する男の故に、自分の身を永遠に犠牲にすることを決断する。髪を振り乱し、柄杓を構えて手水鉢をきっとにらむ。その姿は、狂気を思わせる。もともと傾城になったのも夫のためだから、心はいつも、彼のためにというところからぶれない強さがある。その強さが華やかな秋の打掛をまとい、動くたびに銀のかんざしが揺れる。観客はいつの間にか、梅ヶ枝の思いに引き込まれていく、彼女の芝居にはそれだけのスケールと吸引力がある。一方、玉助の源太、どこがいいのか、と思わせる、自己愛過多のダメ男に見えるのは正しいのだが。

 

第一部、『芦屋道満大内鑑』の保名物狂、口碩太夫、燕二郎。行儀よい印象。織太夫の流れるような語りに、のどかな風景と保名の心象風景が重なる。藤蔵の糸の艶やかさ。ツレの小住太夫、清公は篤実に。

「葛の葉子別れ」、中、咲寿太夫(後半亘太夫)、清丈(後半友之助)。「隣柿の木」など随分滑らかに聴かせるようになった。
奥の錣太夫、宗助の哀切さが迫る。
「恥づかしや年月包みし甲斐もなく…」と、直接語ることをはばかる、と言い訳し、「我は誠は人間」で一呼吸おいて、「ならず」から、狐としての本性を表わしていく。
「死ぬる命を保名殿に助けられ、再び花咲く蘭菊の千年近き狐ぞや」で、一瞬で狐に使われる「毛繍(けぬい)」と呼ばれる衣裳に変わる。そして「夫の大事さ大切さ愚痴なる畜生三界は人間よりは百倍ぞや」と、狐でありながら人間らしい情を持つと知らせる。その優しさ、「恩はあれど怨みはなし」と、ただ、我が子が狐の子よとそしりを受けないように、案じる。生き物を殺すその癖を、自分のせいと感じて「釘貼り刺す如く何ぼう悲しかりつるに」と語るその痛ましさ、そして「名残をしやいとほしや」と離れ難く、寝ている童子を妖力で引き寄せる。このクドキの美しさと切なさ。

狐の方がよほど人間よりも、母として、妻としての情に満ちているのだ。命を救われた恩を忘れず、保名を愛し、生まれた子どもを大切に愛おしむ。だが別れは突然やってくる。葛の葉姫の姿を借りていた狐であることが全て明らかになる。この子がどんな目に遭うか、これから、大事に守ってもらえるのか、その不安と、別れなければならない哀しみが、見る者に涙を誘う。和生の至芸。他にも、紋臣の葛の葉姫の愛らしさと一途さが印象的。簑二郎の保名は色男から後半の変化がよい。勘壽の信田庄司や文司の妻も貫禄。

「蘭菊の乱れ」呂勢太夫、芳穂太夫、咲寿太夫、亘太夫、碩太夫。清治に率いられた三味線(清馗、友之助、清允、燕二郎)が地鳴りのように響き、私たちの見る世界と、もう一つ、隣接した別世界へと誘う。
ここでは葛の葉は、笠をかぶって万寿菊の柿色の衣裳。こちらは人間から狐へ戻っていく表現が細かい。「身は畜生の苦しみ深き」で、人間になろうとしてなれなかった苦しみが伝わる。最後に狐火を描いた「火炎」の小袖姿で決まる。

 

文楽が現代において問うものは、私たちの世が、一見理不尽な封建的な論理に追い詰められる個人の姿を通して、普遍的な人間の姿を見出し、そこに新たな意義を創造しうるかということだ。その要を担うのが太夫であり、そのトップが切語りと呼ばれる。 「切」の字の重さ。それは文楽座を率いる紋下たるべき資格を得た人、あるいはそうなるべき人、と理解している。その意味で、「切語り」となることは到達点ではなく、さらにそこからの高みへと歩まなければならない、その責を負う人であると私は解釈している。すでに得たところだけではなく、これからも、その道を歩み続ける人々に、私は拍手を贈りたい。

掲載、カウント2022/1/26より)