カテゴリー別アーカイブ: 美芽の“呂”観劇録

もう一人の「辻」―2022年夏公演―

森田 美芽

呂太夫、清介の『花上野誉碑』「志度寺の段」を見て、また、眩暈のする感覚に襲われた。三味線が低く、その旋律を繰り返している。太夫は、「南無象頭山金毘羅大権現」「南無金毘羅大権現」と繰り返す。
その狂気のような激しさで全身全霊を込めて祈るのは、清十郎の乳母お辻。馬鹿げている、これは仮病で、伯父の指示で口のきけないふりをしているだけなのに、と、心のどこかで冷笑していたはずが、あまりの迫力に、お辻の哀れさ、執念、狂気じみた激しさに、それを忘れ、夢中で見つめ、思わず拍手してしまう。
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文楽の、いわゆる切場というのは、現代のわれわれから見れば不自然なことも多い。だがそれにも拘らず、というより、理不尽で不自然なことだからこそ、現実を超えたリアリティを直接的に感覚に知らしめ、納得させるものがある。この「志度寺」においてもそれを感じ、同じ名を持つヒロインで、前に呂太夫・清介コンビで上演された『摂州合邦辻』の「合邦住家の段」における玉手御前(本名はお辻)をふと思い出した。

両者はともに忠義のために命を懸ける烈女であり、周囲の制止も聞かず暴挙に及ぶ。そして刃に刺されて死ぬ。しかし玉手御前はあくまで自分が書いたシナリオのための暴挙であり、その目的は夫高安左衛門尉通俊への忠義のために継子の俊徳丸の命を助けることであり、激しければ激しいほど、その奥にどうしても自分を刃で刺させなければならない理由とそのための計算がある。
それに対し乳母のお辻は、盲目的な母性愛と、そのために自分を金毘羅大権現への犠牲とする。彼女自身はあくまで坊太郎の病気の本復を願うためであり、薬も祈祷も効かず、最後の手段として金毘羅大権現に祈誓をかけ、そのために胸に刃を突き立て、水垢離を取りながら必死の祈りを捧げるのだ。だからこそ内記が真実を告げた時、お辻は「艱難辛苦も水の泡」と絶望する。その絶望の深さが痛々しくも哀れである。

無駄死にというなら、これほどの無駄死にはないとさえ思える。思えば、出の時から、彼女は断食のためやつれ果て、しかも底に自害の覚悟を定めていたことになる。主君の、またその子の敵討ちのためなら、何という痛ましい犠牲であることか。
彼女が最期に見る金毘羅大権現の降臨も、彼女の一念が引き寄せた幻影ではないかとさえ思える。それほどこの物語は、お辻の一念のみがそのリアリティを与えている。そして、その絶望からの遥かな希望への転換を生み出したのが、この彼女の一念なのだ。そのことを納得させられるか否かがこの芝居の成否を分ける。そしてそれを可能にしたのが、演者の力である。

の希太夫、人物を的確に語り分け、その性根を示す。「昔の姿いつしかに」の節の綺麗さ、民谷源八の死の無念、「志度の浦風に、磯浪寄せる如くなり」も、切場へのよき備え。清友の丁寧な導きで全く不安なく聞ける。

、藤太夫、藤蔵。「泣く泣く立つて行く」のマクラからの菅の谷の思い、「そなたのその親切が、届かいで何とせう」が響く。その後の森口源太左衛門の悪人ぶりがよい。坊太郎に向かって「業晒しめ」と罵詈雑言、だがどれほど高慢であっても、所詮田舎武士の性根が分かる。藤蔵も力を籠め、方丈の貫禄、菅の谷の気品、団右衛門の軽薄さなど、スケールの大きい描き方である。

、呂太夫、清介。前半の、お辻の坊太郎への思いを込めた語り掛け、「いかに頑是がないとても」と嘆きつつ、父の無念、侍の子たる誇り、何としても敵討ちさせたい、なればこそこの不始末は、との思いがあふれ出る。
だからこそ、桃を盗んだ言い訳を見て「よう盗んでくださった」と矛盾したような、しかしそう言わずにはいられない思いが伝わる。ふっと笑いが入る。一転してかの水垢離の場面も、この思いが一念としてあればこそ、というのが伝わる。清介は、「合邦」の時と似て、ここも三味線の独壇場ともいえる場面が続く。清介の、弛緩なくクライマックスに持っていく、またその強さを維持する集中。

呂太夫の語りは、この集中を生み出している。見る者をも引き込み、異なる次元の論理を否応なしに納得させる、不思議な強さ。息を詰める、太夫は語っているが、その語り自体に呼吸と意識と声が一つの方向に向かって揺るぎない世界を作り出すその集中。そして切場語りとして、この二つの「お辻」の狂気の中の真実と救いを描き出す力を強く感じさせられた。

そしてお辻の人形を初役で遣う清十郎も、武家の誇り、親の縁の薄い子への母性溢れる優しさ、それだけでない、狂気に至るその一念を見事に遣った。
その目に見えた金毘羅大権現が彼女の真実であろう。坊太郎の後の敵討ちの成功に、彼女は直接関わってはいない。なのに彼女がそれを実現させたように思える。狂気の中の真実、絶望の中の希望。不思議な弁証法がここに成り立つ。
この三業一体の「集中」の生み出した時空の奇跡。それにしても、清十郎の「戦う女」の強さの表現はどうだろう。『ひらかな盛衰記』のお筆以来、「気品」「清らかさ」だけではない女の強さがさらなる深みを増し、この人の表現がさらに広がっていることを、長年見ている身にも本当に喜ばしく思われる。

人形では、森口源太左衛門を玉志と玉助が交代で遣い、悪の力を見せる。槌谷内記を簑二郎。形は美しくすっきりと遣うが、この訳は源太左衛門に対抗する大きさと肚をもっと感じさせてよい。菅の谷は勘弥休演で紋秀が代わったが、なかなかの好演。うち萎れた風情にも奥方の品格がある。坊太郎は簑太郎が遣い、後半の成長をきっちりと見せる。

打ち出しに『紅葉狩』。コラボ企画で小烏丸の人形が小狐丸と並んでロビーに展示され、歌舞伎でも同じ演目で比較できるようになっている。床は呂勢太夫、芳穂太夫、南都太夫、聖太夫、薫太夫。三味線、錦糸、清馗、錦吾、燕二郎、清允と、華やかで陶然たる旋律の妙。何も考えずに没入できる喜び。

更科姫を一輔、左を簑紫郎、足を簑悠。前のしとやかな深層の姫君から、後半の悪鬼への変化が見事。初めてこれを見た1999年11月、主遣いは故一暢、左は清之助時代の清十郎、一輔は懸命に足を遣っていた。次に2006年11月には、主遣いは清十郎、一輔は左遣いであった。今回、その一輔が主遣いとして更科姫を遣うのを見るのは感慨深い。世代を繋ぐ人形の伝承の有様を見ることができた。

平惟茂は、前半玉助、後半玉志。玉助は華やかで見栄えがし、玉志は武人たる風格を見せる。山神は玉勢。動きは悪くないが、後半の足拍子が少しずれ気味なのが気になった。
腰元は紋吉、勘次郎。明るく楽しいが、もう少し両者の首の性根をはっきり出してもよいのかもしれない。
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第二部『心中天網島』。文楽劇場の本公演でこれを見るのは、もう6度目になる。1997年7月、2000年11月、2006年11月、2009年11月、2013年11月、2015年4月、2019年11月。しかもそのほとんどが、「河庄」は住大夫、「大和屋」は咲太夫と、極めつけの芸を見、また聞いてきた。今回、咲太夫を除き一気に太夫が若返り、その真価を問われることになった。

「北新地河庄の段」中、睦太夫、勝平。前、呂勢太夫、清治。後、織太夫、清志郎。確かにそれは「世界」が違うとしか言いようがない。
住太夫の「河庄」は、冒頭から運命の重さを、その地名に込められた世界の意味を、胸に刻みつけていた。300年前の大坂の商家で、その幾重にもなる義理と親子の絆の縛めの中で生きるということが、どんな意味を持つのか、治平衛の愚かさと見える行為も、小春の死への思いも、孫右衛門の義理も、全てが必然であると聞こえる語りで、誰も真似のしようもない、住大夫独特の世界だった。それが強烈すぎて、まだ客観的な評価ができないのはわかっている。だから、感じたことだけを記しておきたい。

義太夫節としては、睦太夫も呂勢太夫も織太夫もそれぞれ正攻法の浄瑠璃であり、音程や語り分けもしっかりと基本を守っている。
睦太夫は当初声を痛めていたようだが、後半改善された。マクラの詩情の一言一言を丁寧に語り、浄瑠璃の骨格を作り出す。ただ、高音部の発音が不安定に聞こえる時があった。正確に、ということを心がけているのは分かるが、まだ余裕がない感じ。「御堂様の太鼓」「茶屋の段梯子」「紙屑屋のおんごく」が響いてくるような大坂の町の広がりが感じられるよう、これからも精進してほしい。勝平はこれらの変化に忠実に伴う。

清治の三味線の響き。色町の翳りよりも、これから二人が踏み迷う道の暗さと小春の純情を糸に載せて、呂勢太夫が語りだす。
「小春に深く大幣の、腐り合ふたる御注連縄」のやるせなさ、「魂抜けてとぼとぼうかうか」のリアリティ、「覗く格子の奥の間に」のはっとするような間。孫右衛門が小春に「心中する心と見た」と言い切る鋭さに、小春が真実を語りだす(と思わせる)説得力。小春の「その恥を捨てても死にともない」に小春の二重の翳り。

そしての織太夫、太平衛、善六のくだりはさすが。
だが、詞が速すぎてついていけない。治平衛の愚かさ、あるいは恋の盲目状態は見事だが、孫右衛門の落ち着き、弟のみまらず一門を配慮する重みにはまだ。あるいは「擲かれうが蹴られうが、そこをぢっと辛抱せずば、この条の客への義理が立つまい、立つまいがの、小春殿」の叫びが、遠く壁となって小春の前に立ちはだかるような悲しみ。清志郎、華やかで、いたわしい、その手の二重性。

「天満紙屋内の段」
、咲寿太夫、後半小住太夫、寛太郎。咲寿太夫は「天神橋」のリズムが心地よく、商家の日常、人々の動き、人物が生きている。小住太夫は泰然とした風情が聞こえる。寛太郎の手の人の思いに沿う優しさ。

、錣太夫、宗助。おさんの強さと健気さが生きる語り。長いおさんの詞に、その決意と誇りを滲ませ、憂いと情に満ちたおさんの造形が見事。対比しての治平衛の前半の情けなさもうまいが、夫婦仲が強まった後の五左衛門の詞が耳を離れない。段切れのおさんの「桑山飲ませてくだされ」の哀切も。宗助の「着物づくし」の美しさ、哀しさ。

「大和屋の段」咲太夫、燕三。この段は謎が多い。なぜ身請けがすんだはずの小春が、太和屋で治兵衛と会えるのか、それも二人が死ぬであろうことが想像できるであろうに。しかしその風情は美しい。咲太夫の調子はやや低いが、それでもこの段の構造は誰よりも理解している。
人が変わったようにきっぱりとした治平衛の詞、兄の不安と子の姿にも、もはや引き止める力がないのが分かる。その森々たる夜の深さと、真夏なのに感じる寒さを描く燕三の糸。

「道行名残の橋づくし」三輪太夫、睦太夫、津國太夫、咲寿太夫、文字栄太夫、團七、團吾、清丈、清公、清方。

三輪太夫の小春、なおもおさんへの義理を立てようとする健気さ。誰のためにもならないのに、死を選ばざるを得ない苦しみ。死は救いであろうか。そうした近松の眼差しさえも感じられる。團七の優しさと團吾の緊張感の対比。

人形ではまず、勘十郎の小春。目に見える華やかさや器用さを押さえ、小春の内面を描こうとする姿勢。「河庄」での内面の深さに性根を置く遣い方が目を引く。玉男の治平衛、こちらも色気よりも、幼ささえ感じる一途さ。
それに対し玉也の孫右衛門の大人の男としての貫禄と思いやりの厚み、和生のおさんは誇り高い商家の女あるじだが、治平衛のために着物を出して数えていく時、唯一の装身具と言える簪を抜いてその荷物に入れる時の哀しげな風情が愛おしい。
五左衛門は勘壽。いつもは婆に回るこの人が「にべもない昔人」の頑固さと計算高さを見せる。太兵衛は文司、このあたりの憎まれ役も的確。善六は簑一郎、軽薄さと調子の良さ。玉誉の下女子、おっとりしたところと、こましゃくれたところと。

 

コロナの影響で、舞台の充実に比してまだ客足は乏しいが、徐々に戻りつつある。そして劇場で舞台を楽しむ余裕というか、雰囲気の温かさが戻ってきたように思う。
まだ飲食ができないことや歓談を慎むなど、以前のような娯楽としての雰囲気はまだ戻りきらないものの、多くの方がコロナの中でも、節度を保ちつつ舞台を共に楽しむ日々を思い出しておられることの尊さ。再び劇場が閉鎖される日々があってはならないと思う。そのための工夫と戦いは続くけれど、ひとたび幕が上がれば、すべてを忘れて没入できる舞台が保たれていることの尊さ。そして再び、通しで『千本桜』や『忠臣蔵』の世界を堪能できる日の来たらんことを祈念しつつ。

掲載、カウント(2022/8/16より)

「三つの春、新たな道」―2022年4月・切場語り昇格初公演

森田美芽

文楽劇場の春は、華やかな舞台こそがふさわしい。文楽座命名百五十周年と銘打って『義経千本桜』『摂州合邦辻』『嬢景清八嶋日記』『蝶の道行』と見応えある狂言、そして豊竹咲太夫の文化功労者顕彰、何よりも、三人の切場語りの誕生。ようやく、と待ち望んだ春の到来。

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第一部、『義経千本桜』二段目「伏見稲荷の段」から四段目「道行初音旅」「川連法眼館の段」に繋げる。無論筋だけ追えば、三部制の二時間半ほどにまとめなければならないからとは言うものの、やはり『千本桜』の世界全体の構成から言えば不自然であり、単に筋が通ればよいというものではないと思う。序段の堀川御所での悲劇や二段目の大物浦での試練と知盛との対決や、三段目の巻き込まれた一家の悲劇があって、四段目が輝くのだが。

「伏見稲荷の段」、靖太夫、清志郎。清志郎は物語の始めに緊張感と妖しさを作り出す。
「昨日は北闕の守護、今日は都を落人の」の義経主従の身の転変を、靖太夫が低く、品格をもって語りだす。舞台には下手に紅梅白梅の凛たる姿、伏見稲荷の鳥居、静御前のクドキに、義経主従の存在感が増す。文哉(前半)の武蔵坊が「ハッと恐れ入りけるが」の表情が本当に悔いに満ちて、玉誉(後半簑太郎)の駿河次郎が、鼓を忠信に渡す仕草が丁寧。

「道行初音旅」切語りに昇格した錣太夫をシンに、忠信を織太夫、ツレは小住太夫、碩太夫、文字栄太夫。宗助に率いられ、勝平、寛太郎、清公、清允。桜の肩衣、桜の吉野山の遠景。フシオクリがとりわけ高く華やかに旅の広がりを伝える。「慕ひ行く」の碩太夫の一声。錣太夫の静の嫋やかさと芯の強さ、この人の実力を遺憾なく発揮する。
艶物語りというだけでなく、道行に込められたそれまでのドラマの重さを踏まえた、情ある語りの艶やかさ、深みを感じさせる。織太夫は物語に兄の無念を込める。太夫三味線ともども、ここに至る悲劇の重なりを忘れさせる一幕。

「川連法眼館の段」中、呂勢太夫、錦糸。錦糸の、何と艶やかで、憧れと思いに満ちた音色。呂勢太夫はこの場の格を保ちつつ、詞の多いこの場を、性根を違わず語る。「八幡山崎」のくだりの美しさ、悲劇に伴うこの艶やかさに魅了される。

、咲太夫、燕三。これを最後という覚悟の語り。分けても忠信の長い詞、身の上を明かし鼓に両親を慕う切々たる思いの詞の重さ、「アッと申して去なれませうかい」に至る長いイキの生かし方、すべてが見る者聞く者の基準になるだろうと思える語り。これが「切場語り」の意味なのだと改めて思う。それを語らせる燕三の、狐の躍動も親子の情も見事に描き出す構成力。

勘十郎の狐忠信の至芸。「伏見稲荷」の登場から、この物語の蔭の主人公である狐の親を求める物語が、まさに家族の絆を求める義経と重なる。普段なら「道行」の登場での狐の動きを「伏見稲荷」で見せるなど、全段を通じて狐の動きの中にその性根を構造的に表現する。段切れの動きも歌舞伎のようにケレンで見せるというよりも、狐としての自己を余すところなく表現できる大きさと喜びを感じさせる。獣でありながら人間よりも人間らしい情を、という主題にふさわしい遣い方。
対する静は簑二郎が健闘。仕草の美しさ、型の決まりなどよく研究しているのがわかる。ただ、「道行」でも主従という関係でいうなら、静が「主」の貫禄を見せないと芝居にならない。この場では特に、狐忠信が圧巻過ぎて、忠信のワンマンショーと見えてしまう。そうではなく、勘彌の義経ともども、その悲劇の経糸を通す貫目が必要なのだと思う。他では清五郎の忠信の涼やかで端正な使いぶり、紋吉(後半玉翔)の亀井六郎が一癖ありそうで、勘市の逸見の藤太の鼻動きの軽妙さも印象に残る。

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第二部、『摂州合邦辻』 「万代池の段」
合邦を三輪太夫、俊徳丸を希太夫、浅香姫を南都太夫、入平を津國太夫、参詣人と次郎丸を咲寿太夫、三味線は清友と清方。
この段があることで、物語の全体が凝縮される。この物語の焦点が玉手御前の個人的な恋愛云々の問題ではなく、天王寺という土地と仏教の精神性であることが明確になる。

三輪太夫は合邦道心の、教化の愛嬌と力強さと温かさを語り、思わず耳を傾けさせる年功の確かさ。もっと評価されてよい人だといつも思う。希太夫は「前世の戒業拙くて」以下の詞の綺麗さに代表されるように、俊徳丸の絶望と零落の中でも品位を失わない姿勢を印象付ける。「思ひ切つても」の嘆きが一層労しい。
南都太夫が浅香姫の心の動き、どこまでも俊徳丸を慕う思いを好演。津國太夫は若々しさとは言えなくとも、奴の一途な忠誠心にふさわしい。咲寿太夫は参詣人と次郎丸の音程を変え、無理ない発声で三輪太夫との掛け合いを聞かせる。清友の音色の奥行の深さ、一人一人に沿った弾き方を、清方はツレ弾きで懸命に追う。折り目正しく正確なリズムで今後が期待される。

合邦住家の段 中、睦太夫、清馗  、呂勢太夫、清治   呂太夫、清介
睦太夫は楷書の芸。隅々まで行き届いているが、「差別」は「しゃべつ」と発音した方がよいのではないか。大阪言葉の味わいの深さへあと一歩。合邦の詞「アアいやいや、涙は出ねど」の意地と娘思いの両面もよく聞かせた。清馗は講中のしゃべりの調子さえ心地よいリズム。
呂勢太夫、玉手のクドキは当然ながら、合邦の父親としての心情の詞が深く染み入ってくる。「無念で身節が砕けるわい」「思ひ切るに切られぬということはないわい」などの怒りの気色、必死でなだめる母親、それを聞かぬ娘、の構造が見事に描かれる。清治の糸が常にも増して、僅かな一撥ですら、その揺らぎに応じないものはない。こうして高められた思いが、切の字を受けた呂太夫の語りに受け継がれる。

呂太夫の『合邦』の特色についてはすでに昨年末の「玉手の水、俊徳丸の道」で書いているので、ここでは詳細よりも、この舞台独自の経験を記しておきたい。

呂太夫は、玉手の俊徳丸への恋ではない、と言い切る。それは床本を見れば、原作を見れば明らかである。玉手が意識しているのは、夫であり元々は主である高安左衛門丈通俊、どちらも血のつながらない継子二人の確執を、義理の母である自分がどう関わるか、である。
だが、見る人の多くは玉手が俊徳丸に恋をしている、と想像している。なぜそうなるのか。それこそは作者の仕掛けた逆転劇の妙である。玉手が俊徳丸に言い寄る姿、浅香姫との乱闘(?)、それらは真実に見えなければならない。そうでなければ父は怒りのあまり娘を刺し殺すという凶行に至ることはできない。玉手の中には、そうした周囲の人の思惑、人柄、それらを知って自分の描いた結末へと運ぶ、冷徹な計算がある。
しかしその計算、計画そのものが、ある種の狂気に満ちていると思われる。「寅の年寅の月・・・の肝の臓の生血」で癒されるなど、現代人は当然だが、昔の人でも、いささか苦しい設定であり、理論的に納得できる話ではない。ただそれを納得させるのは、「奇跡」という一回性と、玉手の情熱である。自らを殺させ、相手を救う、恋と言われればそれと紙一重の情熱。それを人は恋と錯覚するのだろう。

しかし、その犠牲に至る玉手御前の思いの純潔さがなければ、実はこの逆転のような犠牲は成り立たない。そうした逆転劇が、この「天王寺」における仏の救い、合邦が語る「地獄極楽は元来一つの世帯、善悪邪正不二といふ仏の教へはコレコレこの天王寺」の具体化である。悪が善に、邪恋が献身に、逆様事が善知識になるために、意外にも、この玉手の思いは純潔でなければならない。つまり、純粋な忠義(それも夫への)でなければならない。

呂太夫が「忠義」であるとの立場をとるのは、そうした浄瑠璃世界の逆説を表現することを理解しているからではないか。そこで初めて、この物語は単なる個人の悲恋ではなく、天王寺という寺に込められた仏の救いの教え、それを取り巻くこの地の力と一体になる。
呂太夫はこの浄瑠璃の全体性を把握しつつ、この玉手御前に込められた仏教的逆説を昇華し、表現するに至った。これこそが、切語りとして、半世紀を超える修行の中で鍛えられ、そしていま開花した、義太夫節としての合邦の世界の表現である。祖父若太夫の全身全霊を打ち込んだ語り、故越路太夫や住大夫に受け継がれた情の語り、それらに加えて、まさに物語世界に昇華する、それも舞台全体を率いて、その共同幻想に巻き込む、まさに「切語り」にふさわしいスケールと総合性を備えている。

他にも耳に残るのは、父合邦の側から見れば、二箇所の詞の山場。父にとっては狂気の娘を刺す、「これが坊主のあろうことかい」の繰り返し。ここまでの玉手の狂乱に応じる嘆きと悲しみで、それが深いほど、娘のモドリの告白が唯一無二のものとなる。
「オイヤイ」の二回目は、稲妻のように天を裂く。娘を理解できなかった無念と、自分だけを悪者にして夫と義理の息子を立て婚家に尽くそうとした娘を誇らしく思う気持ち、だが、その娘に手をかけたという悔い。それらが一体となって詞が突き刺さってくる。

清介の超絶技巧に酔わされる。初日はここで拍手が来て、中日以降には少し抑えめながら、この義太夫の詞章が、この三味線と渾然となり、得も言われぬ境地を作り出す。
玉手が恋をしているという解釈は、むしろこの陶酔感から来るのではないだろうか。理性で抑えきれぬものが撥先から溢れ、なおも理性で保とうとする語りと戦い合うような、不思議な経験。「合邦」のここを聞くとき、身内にそうした情念に共感が生まれるのを感じる。上手いとか下手とか、そうした態度を忘れさせる、さらにそれが人形の確かな技術と相まって、ここにしかない舞台と客席の一体感が生まれる。この全体性と一体性が、演劇をライブで鑑賞することの妙味である。それを引き出した呂太夫・清介の両者にはただただ感嘆するほかはない。

玉手御前は和生、気品を崩さず凛とした姿勢は師匠譲り。「恋ではない」という姿勢を貫く。
だからこそ「物狂い」的な場面がリアルに感じられる。合邦は玉也、こちらも持ち役。今回は正宗かしらの頑固一徹さがよく見えた。それでいて娘への思いが溢れることが端々にわかる。女房は勘壽、婆ならこの人、その切ない娘への愛。俊徳丸は玉翔の代役もよく遣っていたが、玉佳は足取りの覚束なさに思わずこの人の悲劇を思い、なおも道を求める求道者としての苦悩もにじませる好演。浅香姫は紋臣、前半は姫の気品を重視し、玉手とやり合うところは客席から笑いが漏れるほど徹底している。
奴入平は玉勢、後半簑紫郎。玉勢は姿よく凛々しく、簑紫郎は忠義に燃える賢明さが見える。次郎丸を亀次、この短い登場だけで、「合邦住家」の玉手の弁明を納得させなければならない難しさをこの人は確実に見せてくれる。

第三部、『嬢景清八嶋日記』 「花菱屋の段」藤太夫、團七。
まず團七が遊女屋の華やぎを、また女房が出てくると、その気ぜわしさ、長が出てくると鷹揚さと、雰囲気の変化が糸で描かれる。藤太夫は巧みな詞の変化を楽しませ、造形も伝わる。糸滝の哀れ、肝煎佐治太夫の軽みと熟練、糸滝の述懐に一同が涙を誘われる一瞬の沈黙が美しい。思えば残酷な話だが、人の情けに助けられ、ほっこりする一段。
花菱屋女房の文司がいい味を出している。結局この人もそんなに悪人でないと思わせる。長を玉輝、洒脱で経験豊富で、何のかのと言いながらも女房を愛しく思っている好人物。肝煎佐治太夫を玉志、又平かしらだが、様々な修羅場をくぐり抜けてきた大人の賢さに情が加わる。

「日向嶋の段」切、千歳太夫、富助。千歳太夫は幕開きからの約二十分、景清の嘆きと回向のさまをただ一人立ちあげ、保持する。その孤独と矜持の果ての日々、「春や昔の春ならん。」に重なる肩に沿えた梅と首からかけた平重盛の位牌。「業に業を果たいても」に滲む無念さ。臓腑を絞る嘆き。千歳太夫のここまでの修行の年月の現れを感じた。
佐治太夫と糸滝の登場。糸滝の造形がやや幼く感じた。娘と知りつつ「親でないぞ」の思い入れ、子であると認めても突き放す意地と誇り。だが一転、娘が自分のために身を売ったことを知り、「孝行却つて不孝の第一」という、己れの矜持の末路を見る。千歳太夫は筒一杯の語りで、景清の悲劇を描き出し、富助の撥が冴えわたり、悲劇の骨格を大きく描く。
人形では、景清は先代から受け継いだ玉男の持ち役の一つ。回向の二十分の持続を構えを崩さない大きさ、娘への思いを逆に表す矜持、最後には重盛の位牌を落としたのか、落ちたのか、今回は自ら運命を手放したように見えた。
糸滝の哀れさと健気さ、武家の娘たる誇りと父への思い、十四歳の乙女の大人びた純真さを表わす清十郎の清冽さ。文昇の軍内、簑一郎の四郎、いずれも出は普通の庶民と見せて戻りからの雰囲気の変化が見事。

『契情倭荘子』「蝶の道行」。織太夫、芳穂太夫、亘太夫、聖太夫、薫太夫に藤蔵、團吾、清丈、友之助、錦吾、燕二郎。助国を玉助、小巻を一輔。
織太夫は力まずとも心地よく響かせる。芳穂太夫もしっかりと哀れさを出すが、高音部に課題が残るか。六挺の迫力。幻想的な背景に、青を基調とした衣裳の二人の舞。文楽ならではの飛翔を伴う舞だが、もの寂しさが残る。確かに、『景清』と『蝶の道行』ではカタルシスというよりやや重い雰囲気のまま残ってしまうのが残念な気がする。これは演者の責任ではないのだが。

「切語り」とは、あらゆる伝承を踏まえ、自己の個性を長年にわたって磨き、それらが一体化するところに生まれる。正統でありながら個性的、これしかない、と思わせる語りの唯一性、そして若手や次の世代の模範として受け継がれるべき語りの模範となるもの。 呂太夫は、令和の若太夫に向けて、力強い一歩を踏み出した。その新たな門出の春を心から祝したい。

掲載、カウント(2022/4/24より)

響き、鬼、誘惑 ―2022年狂言風オペラ特別公演―

森田美芽

 2002年から続いてきた「狂言風オペラ」の試みが中断して丸2年になる。コロナの影響で様々な可能性が閉ざされ、スイスからのクラングアート・アンサンブルも来日できなくなり、公演の中止が2度重なって、何とかしたいという関係者たちの願いが、事態を動かすことになった。
今回の特別公演は、3年前に見た「フィガロの結婚」とはまた違う、魅力と新たな創造の世界を立ち上げることになった。「狂言風オペラ」と題していても、ポイントは「特別公演」の方である。本当に「特別」な舞台は、衝撃的だった。
文楽魔王

狂言
前半は各ジャンルの競演。まず狂言は「仏師」
山本義之氏の「田舎者」の鷹揚な風情、善竹隆平氏の憎めないすっぱの愛嬌。それだけでと笑いの世界に引き込まれてしまう。 さらにその言葉の明快で、身体と心にしみこんでくるような響き。テンポの心地よさ。ここでは二人が対等で、その言葉の応酬も、互いに引かず、自分を出そうとする。対話する言葉の豊かさ。すっぱが仏師と称して騙すために、何度も仏のポーズを変えるたびに笑いが広がる。結末まで予測できるのに、なぜこんなに楽しいのだろう。


続いて、大槻文蔵師の仕舞『蘆刈』より「笠の段」。すらりと伸びた姿勢に、揺るぎなく、しかも軽やかな舞の手、滑らかに舞台上をすべるように進む足、その確かな一つ一つの動きが、装束も面もなくとも、特定の人格の表現を超えたものを示していると、しかもそれが抵抗なく意識に伝わってくることに驚いた。
こうしたことは初めてではない。しかし、磨き抜かれた能楽師の方の持つ身体性は、人間の身体の持つ極限の存在感を抱かせる。静かで、淡々として、極限まで無駄を、自分を見せようとする自己意識を、わざとらしい自分の「工夫」も、全てを削ぎ落したところに成立する、この上ない身体そのものの表現。そこから感じられるのは、一つの宇宙を持っておられて、その中に全く違う時空が、その身体を通して見えてくるような、それも具体的な何か、とさえ名状できない、言葉では表現できないけれど、確かにある、そういう「何か」そのもの。
それは文蔵師がおそらく、70年になんなんとする修行を経て作られた声と身体を通したその「何か」を、これしかないという形にまで昇華されていると思われた。

地謡は武富康之氏、大槻裕一氏、稲本幹汰氏。若々しくよく揃い、複雑な節でありながら真っすぐに届く声。それが文蔵師の謡と響き交す時、背後に沈黙が広がり、その声が静かに能楽堂全体を包み込む。充実の舞台。

義太夫節
続いて呂太夫、友之助の「艶容女舞衣」酒屋のさわりに、勘十郎のお園。
友之助の三味線がこれまでになく響いてくる。もともと非常に美しい音を持っている人だが、それに加えて「浄瑠璃を語る、太夫に語らせる」間、あるいは音の幅というか、そうしたものが伝わってくる。こうした「切場」に相当する箇所は、太夫に語らせるのに技術が必要である。そうした経験を積む貴重な機会となったのであれば素晴らしいことだ。

そして呂太夫の極めつけのお園。いつもは宗岸や婆や半兵衛など、他の人物の気持ちや性格の語り分けとその情の交錯が魅力だが、ここではただ、お園の悲しみと、一途な思いだけが胸に染みわたる。
やや声の調子が悪いのかとの懸念は、そうではなく、お園の心情表現のためにわざとそういう発声にしていたとのこと。
お園の孤独、どれほど思いやりに囲まれていても、その中心にいる自分は、半七を愛しながら、半七からは同じようには愛されていないという、どうしようもなさ。諦めでも、支配でも、押し付けでもない、ただ純粋に半七を思うことだけが残る。

さらにそれを具現化するのが桐竹勘十郎の「お園」。
彼はどうしても動きのある役で目立ってしまうが、その本質は、役のそれぞれの性根を的確につかみ、表現していることである。だからこのお園では、「憂き思ひ」「いまごろは半七つぁん、どこにどうして」「恨みつらみは露ほども」といった心情が痛いほど伝わる表現。
暗い橋掛かりに姿を見せ、黄昏の町に婚家へと重い足取りで向かう時の不安、さわりに入ってからも、その憂いの表情、後ろぶりの決まりさえも、それは彼女の悲しみである。それは簑助師のそれとも、故文雀師のそれとも違って、その視線に、その憂いの中にひたすらな半七への思いをこめているお園だった。
それはまさに、呂太夫の語ろうとしたお園の姿であった。言葉が人形の身体を取って、まるで生きているように、人間以上に迫る文楽の秘奥を垣間見た気がした。

洋楽
そして、河野克典氏と穴見めぐみ氏による、シューベルトの‘Nacht und Traume’。彼だけが舞台上に立たず、階の下で歌う。
全く違う、洋楽の発声。これは空間に広がる声、そしてドイツ語の原詩を知らない者の耳には、その響きと、哀調を帯びた密かな哀しみが迫ってくる。短い歌の中で、一つの完結した世界を表現する、歌曲の本質が迫ってくる。

ここまでですでに1時間25分が経過。時間を忘れる陶酔の時であった。前半に、狂言、能、義太夫節、洋楽の歌曲と、4種類の声の使い方を聞いて、それぞれの迫力、表現力の違いを感じ、さらにその多様さが、不調和を生み出すことなく、この空間を包み、さらに延伸し広がっていく。声の、謡の、語りの、歌の、それぞれに完成された体系性を持つこれらの表現が、互いを主張するだけではなく、その内的延引性が互いを引き合い、高め合う。

魔王
後半の「魔王」、まず河野氏のバリトンで、正統派のシューベルト「魔王」。これが短い中に一つの楽劇としてイマジネーションを掻き立てる。魔王の子どもへの語り掛けは3回、次第にトーンを変え、凄みを増し、やがて焦れるように、強引に子どもを連れ去る。それが、まるでいざなうように、自分から悪に向かわせるような誘惑的な語りかけに聞こえた。
それに対し、父親のそっけないこと。子どもの必死の訴えを聞けないのは、魔王が見えない、つまり、様々なそうした超自然とのふれあいを信じない大人になっているからなのか、それとも魔王と取引でもしたのか、とさえ思いが及んだ。魔王の“Ich liebe dich.” のなんと誘惑的に響いたことか。
穴見めぐみ氏のピアノの三連符が、不安を掻き立て、その恐怖の背景を見事に描く。
義太夫版「魔王」
それに対し、人形を入れた義太夫版「魔王」においては、それは人間界と隣接して人間に働きかけ、時に悪をもたらす別世界の生き物とは違っていた。赤松禎友師の鬼の恐ろしさ。

この鬼の面は「大悪尉」であったか。ならば、解説によれば強く恐ろしげな老人という意味である。能における「鬼」は実は多様である。「安達原」のように人間の悪が凝って鬼になったのか、自分自身が悲しい運命をもってそうなってしまったのか、もはや人間の心をなくしたのか、それらの物語によって異なる面がある。あえてこの面を使ったのは、あるいは冥府の使いという意味であったのかとも思えた。昔はしばしば神隠しという現象が言われた。自然が人を飲み込むような恐怖を象徴しているともいえる。

「魔王」の原題は‘Erlkönig’即ちエルフの王、つまり西洋社会においてキリスト教に駆逐された土地伝説の中の精霊や神々、人間に対し時に暴力的な関わりをする、という恐怖がある。それは日本の伝承の中にも同様のものがあるが、少なくとも19世紀ごろまで、西洋社会もそうした恐怖にさらされていた。
そうした恐怖においては共通するものがあるかもしれないが、「魔王」は人格的な悪としての誘惑者であり、「鬼」は非人格的な脅威の対象か、人格的な破壊者なのかがここでは不分明であるが、あえて言えば、赤松氏はある意味、前者の解釈を取られたように思う。その対比が、この舞台で明確に感じられた。

義太夫での「魔王」、子への呼びかけは「若」、鬼は子にだけ見える恐怖の対象であることは変わりないが、どちらかと言えば、呂太夫の語りは、父の子への愛情が感じられるゆえの悲劇であることを伝え、勘十郎の遣う父は、馬の工夫もさりながら、息子を守ろうとする情愛深い父としてのキャラクターが明確である。
子役は簑紫郎が代役で、労しく愛らしい、それゆえの悲しみが伝わる。勘十郎の、先のお園に加え、この父親、やはり天才的な表現力と言わざるを得ない。
竹澤團吾の三味線の構成力も光った。父と子、大いなる悪に対する恐れという東西に共通の主題を得て、なおその解釈と世界は広がった。

この舞台は、それぞれの良さを集めただけではなく、その中から新しい萌芽が確かに生きていて、それを包み込むように大槻能楽堂の舞台があり、その中心に、大槻文蔵師が凛として立って、この多様な表現を結ぶ求心力となっておられたと思った。
場の力、異なる伝統の力、それらが出会うところに、過ぎ行かせてはならない感動が生まれる。その重なり合う中に飛び散る火花は、私たちを新たな創造へと導いてくれるのだ。

掲載、カウント2022/3/25より)

四位一体、四つの共鳴―2022年2月公演より―

森田美芽

『平家女護島』「鬼界が島の段」の冒頭ほど、凄まじい孤独と絶望を感じさせる作品は稀ではないだろうか。能では舞事の一切ない、甘さの全くない語り事である。それを踏まえた近松の文章に、呂太夫が息を吹き込む。「鬼ある処」「今生よりの冥途なり」「憔悴枯稿のつくも髪。」と、この世の地獄のあり様を描いて見せる。感傷など入る余地もない絶望的な状況で、しかもこの絶望が3年続いている。その凄まじさが否応なしに伝わってくる。呂太夫の語りは、その甘さを断ち切る、安易な気休めもないという状況を、声を通して伝える。安定した、中音の音域で、言葉の一つ一つの中に遠くまで届くような広がりを感じる。生身の私たちの世界との距離を作り出す。
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一転して、少将の恋物語の浮き立つような思い、千鳥の健康的なエロスが匂い立つような語り。あの絶望からの救いは、康頼の頼む宗教より、女性の生命力の力だと感じる、よどみない詞の数々。「面白うて哀れで伊達で殊勝で可愛い恋」に見られる、俊寛の年かさらしい思いやりが自然に伝わる。

一転して赦免船の到着、そして自分の名がないことの、再度の絶望。ここで3人が対立してしまうという構造の残酷さ。その地獄を耐えてきた同志の間柄にひびが入る、その絶望。さらに二転して、能登守教経の赦しが告げられ、すべてが報いられるとの喜び。
俊寛、康頼、少将夫婦、それぞれが未来を信じることのできるはずだった。それが再び絶望に突き落とされる。確かに瀬尾の言う通り、赦免された罪人のほかは乗せられない。だから丹左衛門も説得するように促したのだ。流人の三人は、瀬尾を敵として団結するが、権力に再びねじ伏せられる。ここでわかるのは、あくまで千鳥は人の数に入れてもらえない、差別という現実。
千鳥は嘆き悲しむ。恋を知り、夫婦となる。それまで一人であった者が、もう一人ではいられなくなるという絆を知り、千鳥はただ嘆き、恨みをぶつける。海女らしいストレートな、飾りのないクドキ。その嘆きを見た俊寛は、自分の代わりに千鳥を船に乗せようとする。「枯れ木のいざり松」のような体で、瀬尾に立ち向かい、丹左衛門の制止を振り切り、恨みの刀を向ける。

船を見送り、「思ひ切つても凡夫心、岸の高見に」の絶望。もはや声は届かず、野たれ死んでも誰にも看取られない。それほどの絶対的な孤独。
ここに冒頭の地獄の究極の姿が現れる。赦免船を迎えるという希望も一切絶たれ、共に分かち合う者のない、打ち捨てられるという絶対的な孤独を自ら選ぶという絶望。これこそが地獄だと、近松は書きたかったのだろうか。彼の浄瑠璃の段切れには、そうした人の世で巡る地獄の例えが多く出てくるが、これほど痛ましいものはないと思えるほどに。

その絶望の大きさを、希望と絶望の二転三転の中で確かに描ききった呂太夫。筆者が聞く限りでも、おそらく6度か、それ以上の経験を経て、こうした近松の描こうとした人の世の絶望と地獄を描き切るに至った。清介の糸が、的確に、その起伏に沿って物語世界を描いてやまない。詞の端々に決まる一撥一撥の気合と繊細の妙味。酔わせるよりもその世界から遠ざかるような、義太夫節独特の、段切れの広がりも。

人形では、玉男の俊寛は、登場時にはそれほど憔悴していないように見えてしまう。確かに表情はうつろで、はるかに見る視線も強くはない。
だが、その生命の根はいまだ枯れてはいない。孤島での生活に疲れ果ててはいても、その思いはまだ都にあり、それが彼を生かしている、そうした造形に見えた。なればこそ、妻が清盛に殺されたという嘆きが、千鳥と成経のために島に残るという選択が意味をもつ。玉男の造形は、そうした俊寛の「希望」の意味と「絶望」の変化を見事に描いている。
成経は文哉、若さゆえの一途さを感じさせるさわやかさ。康頼は玉翔、しっかりした存在感を示した。千鳥の勘彌は健闘。健康的な輝きとそれゆえの真っすぐな怒りが伝わる。瀬尾は玉助で見たが、敵としての強さとふてぶてしさが印象的。丹左衛門は代役の簑紫郎、形よく決まるが、情けの武士としての性格をより強く対比させると面白いのではないか。

観客も息を詰めて見守る、その緊張の後に『釣女』でほっと息をつく。『平家女護島』で人間の業の凄まじさを覗いても、それは長時間続けることは難しい。フェミニズムの視点からは批判されようが、あまりに典型的なルッキズムには笑ってしまうよりほかはない。

芳穂太夫が表情豊かに、この太郎冠者の面白さを語る。こちらもつられて笑いそうになる。小住太夫は端正なはずの大名の本音が聞こえてくる。そこで碩太夫の美女が出てくるが、どうも本当にお人形さんのようで、個性とか人となりが感じられない。そうした性根を出している。
だから締めに登場する南都太夫の醜女が実にチャーミングで、千鳥のように生きた女性として輝いている。
一方、錦糸の率いる三味線は、こうした景事でもあくまで義太夫節としての格を保とうとする。前受けを狙わない、派手に畳みかけることなく、一糸乱れぬユニゾンで淡々と舞台を進める。文司の休演で太郎冠者を玉助が代わる。瀬尾とは逆に、自然と愛嬌が滲み、芝居としての楽しさが出る。玉勢の大名は形よくさわやかな中に、大名らしい品位が垣間見える。紋吉の美女は愛らしく、清五郎は醜女の愛嬌と、一転しての執念を巧みに遣った。

呂太夫は語る。
「お客さんは、喜怒哀楽を巧みに演じる『意思のない人形(木片)』に自分を投影しつつ、己の想像力によって喚起される『私』自身の物語に出会うわけです」
人形は、それ自体では何の表情もなく、感情も表さない。ただ、太夫の語りを通して、それが感覚として入ってくる。だから、人形が生きた人間のように見えるのは、感覚と想像力の相乗効果によるものである。特に聴覚は微妙に感情を聞き分ける。物事の真実を直観的に把握する。それが私たちの中の記憶と結びつき、無意識のうちに感情の共鳴を作り出し、それが人形を通して、その「何か」を見出させるのだ。今回の舞台を見てその感を強くした。

だから、文楽は人形が注目されやすいが、その木偶に命を吹き込み、物語の中のその人物として感じさせるのは、太夫の語りであり、共に創る三味線である。
その声が、節が、詞が、生きた人間としての感情を聴くものの中に、自分自身の過去や現在、経験した感情を呼び起こす。だから文楽は大人の娯楽であり、年を重ねることで浮世の苦しみを味わうほどに共感できるようになる。

私たちは人形の演技を見るとき、それがうまいとか、人間のようだと感じ、次に、肩を落とし、肩を震わせるその姿に、言い表しがたい感情の高まりを理解する。でもそれを見いだせるのは、自分自身が死ぬほど悔しいとか、悲しいとか、裏切られて辛いとか、そんな感情を感じたことがあるからだ。
だから、文楽で感動するというのは、そうした、眠っている自分の感覚や感情を見出して、それを人形の演じるところに重ねてみる、そこで自分自身の経験した感情を反復することではないだろうか。

「反復」はキェルケゴールの鍵となる概念の一つだが、自分の中にあるものが、他者の中にも、自分の外にもあることを知って納得する、また一度経験したことを、再び見出すことである。それは未来に向かっての投機とも呼ばれる。過去を過去としてでなく、現在に見出し、その意味を新たに創造していく。そういう精神の営みを私たちは経験しているのだ。この舞台との出会いは、そうした観客の側の精神を通して感性される。

文楽の舞台は三業の闘いである。時にそれは、それぞれの思惑を超えたぶつかり合いと、新しい何かの生まれ落ちる場所となる。それこそは三業一体としての文楽だけが可能な創造性であり、芸術としての深みである。だがそれを見る観客は、そこに一人一人が意味を見出し、感動を作り出す。三業一体ではなく、観客を含めた四位一体こそが、文楽の舞台に出会う妙味である。そうした喜びを再発見させていただいた。コロナを乗り越えて務められるすべての技芸員の方々への感謝を込めて。

掲載、カウント2022/2/23より)
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春の芽吹きのように―2022年初春公演―

森田美芽

春の芽吹きのように、黒土にわずかに顔を見せたばかりの緑が鮮やかに薫るように、その時は少しずつ着実に近づいている。コロナの蔓延が、人々に劇場への足を遠のかせているいま、それでも途切れることなく、彼らの舞台は続き、その技芸の高みへと近づいている。
私にとっては27度目の初春公演。人は変わる。しかし、演目は人を新たに、繰り返される。時は巡りつつ、一人ひとりの内に、かけがえないものとして積み重ねられる。

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第一部、『寿式三番叟』翁を呂勢太夫、千歳を靖太夫、三番叟を小住太夫と亘太夫、ツレに碩太夫と聖太夫(後半薫太夫)三味線は錦糸、清志郎、寛太郎、清公、燕二郎。
人形は、翁を和生、千歳を勘市、三番叟は玉勢と簔紫郎。格を重んじつつ、意欲的な配役。
呂勢太夫はこの翁の格を保ちつつ、祝祭と祈りの荘厳さを示す。靖太夫は千歳に瑞々しさが欲しい。三番叟の二人は勢いと共にユーモラスな雰囲気も出ている。錦糸は鈴の段の14回のユニゾンもあまり緩急を目立たせず、それでいて人形にはたっぷりと、呼吸を合わせて遣う楽しさを見せるよう、心憎い演出。和生の翁は師を彷彿させる品格と穏やかさ、勘市の千歳は軽やかに、簑紫郎と玉勢はリズムよくテンポよく、また掛け合いの楽しさ、息の合った遣いぶりで客席を楽しませる。若々しい弾けぶりよりも、三番叟の福の種を蒔くことの大切さを、その歩みと動きに込めながら。
『菅原伝授手習鑑』「寺入りの段」芳穂太夫、清丈。芳穂太夫は詞がしっかりしている。今回、千代の詞で「これはマア御留守かいな」の一言に、初めてそれが持つ重みを感じた。あるいは「大きな形して後追ふの」の後の「か」の一言に込められたものが強く感じられた。ただ千代と戸浪の差がはっきりしないのと、地のさばきが時に荒く感じるところがある。清丈は淡々とその深さを伝える。

「寺子屋の段」前、錣太夫、藤蔵。この「前」での情の表現の豊かさ。戸浪の優しさ、源蔵の変化、「労しや浅ましや」の真情、小太郎を身代わりと決意してからの二人の苦悩、また「退つ引きさせぬ釘鎹、打てば/響けとうちには夫婦」などにじわじわ追い詰められる二人の苦悩を垣間見せる、情味豊かな前場。藤蔵のアシライの巧みさと強弱の幅。
、咲太夫、燕三。「ご夫婦の手前もあるわい。」はやや低く、あまり強めない。泣き笑いも含め、全体に抑えた中に哀切なる思いが籠る。いろは送りでは「散るぬる命是非もなや」の一節が全体を担うように。燕三はその薄闇の悲しみの色を滲ませる。
和生の源蔵、直情径行な忠義者。そして菅丞相から委ねられた筆法伝授の一巻をしっかりと祈念するところが、全段を通した源蔵の性根を明確に出している。一輔の戸浪はしっかり者の女房、だが母性というよりキャリアウーマンの顔が時折覗く。玉男の松王、動かずしてその性根を見せる風格と、父の嘆きの対比。勘彌の千代が好演。御台所の紋吉(後半玉誉)、情の深さを感じさせ、菅秀才は玉征(後半勘昇)で前半はおっとり、後半はきちんと品格を見せる、よだれくりが玉彦(後半勘介)で笑いを取り、玉峻の小太郎が健気で、簔之の下男三助は下手でしっかり芝居をしている。文哉(後半紋秀)の春藤玄蕃の小役人ぶりもいい。

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第二部、『絵本太功記』
「二条城配膳の段」掛け合いで光秀を三輪太夫、春長を津圀太夫、森の蘭丸を咲寿太夫、十次郎を碩太夫、中納言を南都太夫、勝平の三味線がドラマ性を描き出す。実際、主君を殺すということがどれほど重いか、母さつきが命を賭けて諫めるほどの重大事なのだ。咲寿太夫が蘭丸を勢いよく、その忠義心をよくあらわし、津國太夫の春長が肚に一物あり、南都太夫は中納言のさばきがうまく、三輪太夫の光秀は、なぜ主君殺しに至ったかを納得させる語り。碩太夫はまだやや単調だが衒いのない語り。

「夕顔棚の段」藤太夫、團七。最初に近在の百姓たちの表情、誇り高き老女、集まる女たち、謎の旅僧、十次郎の初陣。偶然ではない、その深さを、籐太夫は奥深く語ることができる。それにしても皐月の「戦場のこと聞きとうない、アアいやいや情けなやの浮世や」の何と響くことか。女たち三代の交流を團七がたおやかに奏でる。

「尼ヶ崎の段」前、呂勢太夫、清治。十次郎と初菊。「残る莟みの花一つ」からの十次郎の痛ましい決意から、「鎧の袖に降り掛かる」がまさに降りかかる雨の風情。それ以上に響くのは「嫁女、可哀やあつたら武士を」の嘆きである。この構成力、清治の糸が冴える。
、呂太夫、清介。「ここに苅り取る真柴垣」からの光秀の、一歩ずつ近づいてくるその迫力。そこから一転しての、母殺し。だがここで、皐月の詞がこれほど沁みようとは。「内大臣春長」の「春」にアクセント、つまり主君殺しをあくまで認めようとしない母は、苦しい息の下から「人非人」を息子に届くように言う。「不義の富貴は浮かべる雲」でその儚さを強調し、「百万石に勝るぞや」で道を説き、「主を殺した天罰の報ひは親にもこの通り」ここに、分かり合えない母と息子の悲劇がある。
この母の頑迷さ、光秀の見ている現実を認めない強さに対し、光秀はあくまでその必然性を主張する。そして十次郎の帰還。畳みかけるように「ヤイ光秀、子は不憫にはないか、可哀いとは思はぬかやい」と母は責め立てる。この義と義の対決、和解できない理の闘いに対し、何より十次郎の死への痛みが彼を決定的に動かす。
「さすが勇気の光秀も」から「雨が涙の汐境」でクライマックスに達する。実に、三業ともここがこの舞台の頂点としてこの上ない昂揚を覚えた。あとは汐が引くように、物語としては収斂していくのが見える。終始母皐月の重みを感じる舞台、そして光秀の、私怨ではない、男として武士としての義と誇りのゆえに、主君殺しを決意するその悲劇の全体から生まれるドラマの骨格を見事に描いた呂太夫、それにさらなる迫力を備える清介の三味線の縦横さ。

人形ではまず、勘十郎の光秀。悲劇の武将の骨柄、父としての嘆き。今回はその強さの中に大オトシへの緊張の高まりが素晴らしい。簔二郎の妻操、クドキの前に光秀に一礼する型、あれは姑の皐月への礼ではなかったか。あえて文七かしらの夫をいさめるという迫力が今一歩。
紋臣の嫁初菊。愛らしく、恋に憧れるような前半。後半、契ったばかりの夫を失うという悲劇を経ての覚悟への変化が著しい。玉佳の十次郎、スケール大きくさわやかな遣いぶり。すべての人から惜しまれる清らかさ。勘壽の母皐月。夕顔棚の隠居の中に見せる矜持、命がけで息子をいさめる迫力。この手強さがなければ、この舞台は生きない。玉志の久吉、実は光秀と対抗する強さとスケール。前半の旅僧姿にもその雰囲気が漂う。

 

第三部、『染模様妹背門松』ここでは大晦日の一日の内に起こる悲劇。「生玉の段」希太夫、清馗、ツレ亘太夫、清方。希太夫はこの若い二人のままごとのような恋路を、またその中で義理をわきまえた久松の苦悩を、「結ぶ互ひの悪縁も」から転じる調子に活かす。また善六の詞も明確。清馗はこうした大阪の町人世界の風情を的確に弾く。

「質店の段」千歳太夫、富助。冒頭、子の着物を質に入れる母の詞が利いている。そして久作の登場と、息子を諫めるその一言一言が響く。「今日を真つ直ぐに暮らすこそ人間なれ」が芯のように通っている造形。富助はこうした人々の心に寄り添うような三味線。

「蔵前の段」織大夫が病気休演で藤太夫と宗助。父の情けある言葉より、白骨の御文様よりも、久松と共に死ぬしかないという世間の壁に涙を誘う。お染のクドキもたっぷりと、宗助の澄んだ音色が冴える。
清十郎のお染と勘彌の久松。実にバランスがよく情味のある、しかしまだ幼いと感じさせる二人。清十郎は首を自在に遣い、簔助のそれを彷彿させる。しかし清十郎のお染は、14歳くらいだろうか、幼さゆえの一途さが迫る。勘彌の久松も然り。善六の出番が少なく簑一郎は少し気の毒。清五郎の質入れ女房がそれらしい。玉也の久作に年齢の重み、文昇はおかつで元気なところを見せる。玉輝の太郎兵衛もいい味を見せる。
通例、正月狂言は人が死なないようにということで、お染の亡骸を見せる演出は私も初めてである。通常は善六との絡みで、久松と逃げることが多い。

 

『戻駕色相肩』「廓噺の段」睦太夫、靖太夫、希太夫、咲寿太夫、小住太夫、文字栄太夫、清友、團吾、友之助、錦吾、清允。浪花次郎作を玉志、吾妻与四郎を玉助、かむろは簔二郎。
平成17年(2005年)以来の上演。次郎作の大阪と与四郎の江戸を対比で見せ、かむろの京を添えて華やかに仕上げる。三味線も軽やかに、はんなりと優しい。追い出しには相応しいだろうが印象が薄いのは否めない。

公演の終盤になって、呂太夫、錣太夫、千歳太夫の3人が切語りに昇進するとの報が入った。遅きに失した感はあるが、それでも大きな一歩である。この3人はすでに切場を語っており、その成果を挙げている。しかし「切」となることは、切の字が許されることは別の意味がある。名実ともに義太夫節の正統、これでなくてはという芸の境地を見せ(聞かせ)続けていくことであり、あらゆる意味で、格と規範が求められるのだから、責任は重い。今回の3人はそれぞれに、その重みを感じさせる舞台であった。その中で呂太夫の語りは、まさに義太夫節の正統を継ぐものであり、古典を現代に生かすものである。これからの一つ一つ語りに注目したい。

掲載、カウント2022/1/31より)