四位一体、四つの共鳴―2022年2月公演より―

森田美芽

『平家女護島』「鬼界が島の段」の冒頭ほど、凄まじい孤独と絶望を感じさせる作品は稀ではないだろうか。能では舞事の一切ない、甘さの全くない語り事である。それを踏まえた近松の文章に、呂太夫が息を吹き込む。「鬼ある処」「今生よりの冥途なり」「憔悴枯稿のつくも髪。」と、この世の地獄のあり様を描いて見せる。感傷など入る余地もない絶望的な状況で、しかもこの絶望が3年続いている。その凄まじさが否応なしに伝わってくる。呂太夫の語りは、その甘さを断ち切る、安易な気休めもないという状況を、声を通して伝える。安定した、中音の音域で、言葉の一つ一つの中に遠くまで届くような広がりを感じる。生身の私たちの世界との距離を作り出す。
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一転して、少将の恋物語の浮き立つような思い、千鳥の健康的なエロスが匂い立つような語り。あの絶望からの救いは、康頼の頼む宗教より、女性の生命力の力だと感じる、よどみない詞の数々。「面白うて哀れで伊達で殊勝で可愛い恋」に見られる、俊寛の年かさらしい思いやりが自然に伝わる。

一転して赦免船の到着、そして自分の名がないことの、再度の絶望。ここで3人が対立してしまうという構造の残酷さ。その地獄を耐えてきた同志の間柄にひびが入る、その絶望。さらに二転して、能登守教経の赦しが告げられ、すべてが報いられるとの喜び。
俊寛、康頼、少将夫婦、それぞれが未来を信じることのできるはずだった。それが再び絶望に突き落とされる。確かに瀬尾の言う通り、赦免された罪人のほかは乗せられない。だから丹左衛門も説得するように促したのだ。流人の三人は、瀬尾を敵として団結するが、権力に再びねじ伏せられる。ここでわかるのは、あくまで千鳥は人の数に入れてもらえない、差別という現実。
千鳥は嘆き悲しむ。恋を知り、夫婦となる。それまで一人であった者が、もう一人ではいられなくなるという絆を知り、千鳥はただ嘆き、恨みをぶつける。海女らしいストレートな、飾りのないクドキ。その嘆きを見た俊寛は、自分の代わりに千鳥を船に乗せようとする。「枯れ木のいざり松」のような体で、瀬尾に立ち向かい、丹左衛門の制止を振り切り、恨みの刀を向ける。

船を見送り、「思ひ切つても凡夫心、岸の高見に」の絶望。もはや声は届かず、野たれ死んでも誰にも看取られない。それほどの絶対的な孤独。
ここに冒頭の地獄の究極の姿が現れる。赦免船を迎えるという希望も一切絶たれ、共に分かち合う者のない、打ち捨てられるという絶対的な孤独を自ら選ぶという絶望。これこそが地獄だと、近松は書きたかったのだろうか。彼の浄瑠璃の段切れには、そうした人の世で巡る地獄の例えが多く出てくるが、これほど痛ましいものはないと思えるほどに。

その絶望の大きさを、希望と絶望の二転三転の中で確かに描ききった呂太夫。筆者が聞く限りでも、おそらく6度か、それ以上の経験を経て、こうした近松の描こうとした人の世の絶望と地獄を描き切るに至った。清介の糸が、的確に、その起伏に沿って物語世界を描いてやまない。詞の端々に決まる一撥一撥の気合と繊細の妙味。酔わせるよりもその世界から遠ざかるような、義太夫節独特の、段切れの広がりも。

人形では、玉男の俊寛は、登場時にはそれほど憔悴していないように見えてしまう。確かに表情はうつろで、はるかに見る視線も強くはない。
だが、その生命の根はいまだ枯れてはいない。孤島での生活に疲れ果ててはいても、その思いはまだ都にあり、それが彼を生かしている、そうした造形に見えた。なればこそ、妻が清盛に殺されたという嘆きが、千鳥と成経のために島に残るという選択が意味をもつ。玉男の造形は、そうした俊寛の「希望」の意味と「絶望」の変化を見事に描いている。
成経は文哉、若さゆえの一途さを感じさせるさわやかさ。康頼は玉翔、しっかりした存在感を示した。千鳥の勘彌は健闘。健康的な輝きとそれゆえの真っすぐな怒りが伝わる。瀬尾は玉助で見たが、敵としての強さとふてぶてしさが印象的。丹左衛門は代役の簑紫郎、形よく決まるが、情けの武士としての性格をより強く対比させると面白いのではないか。

観客も息を詰めて見守る、その緊張の後に『釣女』でほっと息をつく。『平家女護島』で人間の業の凄まじさを覗いても、それは長時間続けることは難しい。フェミニズムの視点からは批判されようが、あまりに典型的なルッキズムには笑ってしまうよりほかはない。

芳穂太夫が表情豊かに、この太郎冠者の面白さを語る。こちらもつられて笑いそうになる。小住太夫は端正なはずの大名の本音が聞こえてくる。そこで碩太夫の美女が出てくるが、どうも本当にお人形さんのようで、個性とか人となりが感じられない。そうした性根を出している。
だから締めに登場する南都太夫の醜女が実にチャーミングで、千鳥のように生きた女性として輝いている。
一方、錦糸の率いる三味線は、こうした景事でもあくまで義太夫節としての格を保とうとする。前受けを狙わない、派手に畳みかけることなく、一糸乱れぬユニゾンで淡々と舞台を進める。文司の休演で太郎冠者を玉助が代わる。瀬尾とは逆に、自然と愛嬌が滲み、芝居としての楽しさが出る。玉勢の大名は形よくさわやかな中に、大名らしい品位が垣間見える。紋吉の美女は愛らしく、清五郎は醜女の愛嬌と、一転しての執念を巧みに遣った。

呂太夫は語る。
「お客さんは、喜怒哀楽を巧みに演じる『意思のない人形(木片)』に自分を投影しつつ、己の想像力によって喚起される『私』自身の物語に出会うわけです」
人形は、それ自体では何の表情もなく、感情も表さない。ただ、太夫の語りを通して、それが感覚として入ってくる。だから、人形が生きた人間のように見えるのは、感覚と想像力の相乗効果によるものである。特に聴覚は微妙に感情を聞き分ける。物事の真実を直観的に把握する。それが私たちの中の記憶と結びつき、無意識のうちに感情の共鳴を作り出し、それが人形を通して、その「何か」を見出させるのだ。今回の舞台を見てその感を強くした。

だから、文楽は人形が注目されやすいが、その木偶に命を吹き込み、物語の中のその人物として感じさせるのは、太夫の語りであり、共に創る三味線である。
その声が、節が、詞が、生きた人間としての感情を聴くものの中に、自分自身の過去や現在、経験した感情を呼び起こす。だから文楽は大人の娯楽であり、年を重ねることで浮世の苦しみを味わうほどに共感できるようになる。

私たちは人形の演技を見るとき、それがうまいとか、人間のようだと感じ、次に、肩を落とし、肩を震わせるその姿に、言い表しがたい感情の高まりを理解する。でもそれを見いだせるのは、自分自身が死ぬほど悔しいとか、悲しいとか、裏切られて辛いとか、そんな感情を感じたことがあるからだ。
だから、文楽で感動するというのは、そうした、眠っている自分の感覚や感情を見出して、それを人形の演じるところに重ねてみる、そこで自分自身の経験した感情を反復することではないだろうか。

「反復」はキェルケゴールの鍵となる概念の一つだが、自分の中にあるものが、他者の中にも、自分の外にもあることを知って納得する、また一度経験したことを、再び見出すことである。それは未来に向かっての投機とも呼ばれる。過去を過去としてでなく、現在に見出し、その意味を新たに創造していく。そういう精神の営みを私たちは経験しているのだ。この舞台との出会いは、そうした観客の側の精神を通して感性される。

文楽の舞台は三業の闘いである。時にそれは、それぞれの思惑を超えたぶつかり合いと、新しい何かの生まれ落ちる場所となる。それこそは三業一体としての文楽だけが可能な創造性であり、芸術としての深みである。だがそれを見る観客は、そこに一人一人が意味を見出し、感動を作り出す。三業一体ではなく、観客を含めた四位一体こそが、文楽の舞台に出会う妙味である。そうした喜びを再発見させていただいた。コロナを乗り越えて務められるすべての技芸員の方々への感謝を込めて。

掲載、カウント2022/2/23より)
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