花を惜しめど―2019年夏公演、素浄瑠璃の会―

森田美芽

 国立文楽劇場の夏公演は、「忠臣蔵」の大入りで幕を閉じた。今回の公演は、残念ながら1部の親子劇場を拝見できず、また全体を俯瞰することは十分ではないので、一部分の印象の記録に止めたい。
 その「忠臣蔵」は最も人間ドラマとして共感を得やすい五段目から七段目であり、また演者もそれに応える好演であった。

4月文楽公演-B2ポスター
 五段目「山崎街道出合いの段」小住太夫、勝平。小住太夫はまだここの勘平と弥五郎の語り分けに苦心しているが、ここで果たすべき両者の胸の内はよく届いた。勝平は若手をよくサポートしている。
 「二つ玉の段」靖太夫、錦糸。胡弓は燕二郎。靖太夫はよく勉強しているが、老人の詞が少し早い。錦糸は闇夜の出来事であると耳で納得させる響き。燕二郎の胡弓が切ない。
 六段目「身売りの段」あえて苦言を呈するなら、切場語りをここに配する理由がわからない。出来を云々する方が咲太夫に失礼である。ただ、「煩はぬやうに灸据ゑて、息災な顔見せに見てたも。ヤ」「アイ」このやり取りだけで胸を詰まらせる語り、「我が胸を二つ玉で撃ち抜かるるより切なき思ひ」ですべてを語る三味線を、若手は心して学ぶべきと思う。
 「勘平腹切」呂勢太夫、清治。
 抜擢というべきか、挑戦というべきか。呂勢太夫は、声から義太夫節への転換が求められるところ。その意味で言うなら、成果は未だ途上、というべきか。何より、ここは「忠臣蔵」全段の中で最も人間的な同情を観客が感じるところである。そして勘平の無念が、この物語の後の展開に通底していかねばならない。
 その意味で文字通り切場語りが一座の責任を負って語り、観客に納得させなければならないところではないか。勘平の命を懸けた申し開きからの、婆の絶望がまだ甘いと感じた。清治の、「玉の緒も切れて儚くなりにけり」の一撥の表現力を思うにつけ、ここがこの人の正念場ではないかと思えてならない。
 七段目「祇園一力茶屋の段」打って変わって華やかな舞台に、掛け合いの太夫が並ぶ。南都太夫の亭主は明快な語り口、希太夫の伴内は綺麗すぎた。仲居の亘太夫と碩太夫は真っ正直な語りがかえってユーモラスで好もしい。十太郎の津国太夫、喜多八の文字栄太夫、弥五郎の芳穂太夫、性根が明快で由良助と好対照。力弥の咲寿太夫、さわやかな色気。そして籐太夫の平右衛門。生き生きと忠義に燃える、「口軽」と由良助にあしらわれても、彼の本質を理解している、その魅力を十分に描いた。また、おかるの津駒太夫も、遊女としての色気と、勘平を思う切なさと、どちらも十分な語り口。

 三輪太夫の九太夫と呂太夫の由良助の掛け合い。差しつ差されつ、目に見えない肚の探り合いが続く。お互いがお互いを知り、ちょっとやそっとで騙される相手ではないことを知っての丁々発止、皮肉が飛び交い、相手をあてこする言葉の刃が切り結ぶ。
 この二人の語りの深さ、詞の力に瞠目する。呂太夫の由良助の造形の的確さ。遊興の時の頼りなさと、本心を見せるところでの抜け目なさの対比。そして最後の、九太夫を捕えて、溜めた怒りを吐き出すタテ詞の迫力と真情が、観客を巻き込む。ここに、茶屋場の全てがかかっている。
 由良助の、主君と部下たちへの思いのこもったこの詞に、忠臣蔵全段を通しての「怒り」が代表されている。それを納得させる語り、この男の大きさを描く呂太夫の自在な表現力と肚。これこそが「忠臣蔵」世界を支える、男の器量であると。

 人形では、簑助のおかるの、二階座敷での色気は奇跡を見るよう。六段目と階下での一輔のおかるは、健康的な娘の代表。和生の勘平は辛抱立役としての色気はあるが、今少し激情があってもよい。
 弥五郎の玉勢が好演。亀次の与市兵衛の哀れさがひとしお。玉輝の斧定九郎は色気よりも悪の凄み。簑二郎の女房が、「身売り」での思い残し、「腹切」でのいわくありげな立ち姿、段切れの嘆きと、この場の中核となる働き。玉也の原郷右衛門、古武士の風格。一文字屋才兵衛、玉誉しか見られなかったが、小気味よく遣っている。
 勘壽の九太夫のが、敵役の本領を示す。これがなければ。文司の伴内、洒脱さも感じさせる。玉志の平右衛門、奴らしい身軽さに熱い思いを秘めた良い男。玉翔の力弥、若さの力。そして初役というのが驚きの勘十郎の由良助。前半の色気と酔態から後半の怒りまで、性根を違えず巧みに本心を出す凄みまで、飽かずに楽しんだ。

 第3部『国言詢音頭』。夏の夜のけだるい切なさと、それを断ち切る狂気の交錯。
 「大川の段」睦太夫、清志郎。菊野の詞に不自然さが残るが、若党伊平太は力強く、全体にまだ課題を残す語り。じっくり性根は語るが、「心の寝刃研ぎ澄まし」への盛り上げをさらに期待する。清志郎、場面や心理の変りも的確に導く
「五人伐」中、織太夫、藤蔵。「蛍火に」はこの段全体の主題でもあるから、ここでその拡がりを感じさせてほしい。先代呂太夫の2000年夏の語りと比較しては申し訳ないが、その境地を目指すべきと信じる。
 、千歳太夫、富助。胡弓清允。前半の初右衛門の偽りの寛大さと菊野を巡る人々の絡みを丁寧に、そして「秋の風」以降の五人伐のすさまじさを語り、恐怖を畳みかける三味線。本水を使った段切れに、闇の中に浮かぶ初右衛門の青白い顔。玉男の底力。清十郎の菊野は、前身の哀れさを忍ばせ、勘弥の仁三郎の色男ぶり。紋臣のおみすはうぶな町娘、玉助の伊平太は一本気なところが強い。

『忠臣蔵』を三分割する時、その背景となる季節と合うというメリットに気づいた。確かにこれは初夏から夏の風情を伝えている。ただ、四段目までで高師直を遣った者が七段目の由良助を、塩谷判官を遣った者が勘平とは普通は聴かない。また四段目切の「判官切腹」の担当者が「身売り」というのも不思議な限りである。
 配役のアンバランスが一層ひどくなっているように思う。これは次年度にも課題となるだろう。

 8月17日、「素浄瑠璃の会」。現在の最高峰による至上の語り。素浄瑠璃によって明らかになる、義太夫節の底知れない魅力と、繊細にして劇的な物語の宇宙。大阪市立大久堀裕朗教授の明快な解説により、今回の3作品の背景と「風」の系譜がよくわかる。
 まず呂太夫、清介による「一谷嫩軍記」『熊谷陣屋の段』。久堀教授によれば、並木宗輔の絶筆であり、「筑前風」と呼ばれる、非常に複雑で細やかな節使いによる語りの技術が求められることに注目する。

 耳を傾ければ、これまで聞き逃していた、細かく複雑な節の変化が展開され、それが物語の地の文となって、物語世界を構成しているのがわかる。その結果、詞の一つ一つの響きが、実に重層的に、しかも人物像が明確にされ、この浄瑠璃全体の構成が浮かび上がってくる。
 相模に向かって「手疵少々負うたれども」という、「少々」の間でその心の揺れを、父の情を表現する。青葉の笛のところでは、「すゝめに随ひ藤の方涙にしめす、歌口も、震うて音をぞ、すましける。」このしめす、の巧さと強さ。
 続く「歌口も」で、藤の方の嘆きと孤独を実感させる。首実検では、抑えに抑えた熊谷の本音がほとばしる。「花によそヘし制札の面。察し申して討ったるこの首。御賢慮に叶ひしか。但し、直実過りしかサ御批判いかに」に向けての感情の高まり、そして相模の嘆き。また弥陀六の魅力的な造形、「播州一国那智高野、近国他国に建置きし施主の知れぬ石塔は、皆これ弥平兵衛宗清が、涙の種とサ御存じ知らずや」の立て詞の切れの良さ。こうした積み重ねがあって、段切れの「十六年も一昔。ア夢であったなア」が痛く染みる。

 呂太夫は、正統な義太夫節の系譜を継ぐ者として、後世への模範を示し、また聴く者には、義太夫節のドラマとしての造形をまざまざと見せ、現代に通じる情を心に響かせ、1時間20分近いこの力作を、一部の弛緩もなく語りおおせた。
 また清介の三味線の小気味よさ。どんどん深くドラマに惹きつけていく力と技の数々。呂太夫を引っ張り、さらに深いところへ語らせていく、このコンビネーションにも惹きつけられた。

 続いて咲太夫・燕三による『義経千本桜』「川連法眼館」こちらは「西風」の代表作。咲太夫の実力通り、狐に人間以上の人間らしさを語らせる、浄瑠璃の妙味を一杯に引き出し、その一つ一つが手本となる、渾身の語り。燕三、狐の怪しげな表現もまた、ツボを心得た三味線の役割。燕二郎の連れ弾きがしっかりと師匠の音を追ってているのがわかる。

 千歳太夫は「ひらかな盛衰記 神崎揚屋の段」どちらかと言えば正統の三段目語りを目指す彼としては珍しい、「大和風」の代表曲。合わせる富助も迫力ある三段目を得意とする。この二人がどのようにこの柔らかく華やかな四段目を語り、弾くのか。
 出だしから、神崎揚屋の人々のきびきびした動きが見えるよう。お筆と梅ヶ枝の対話の語り分け、梅ヶ枝と源太のやりとりでの源太の性格づけ、そういったものが丁寧に、忠実に語られている。ただ、梅が枝の必死さは伝わるが、その中に、女性らしい柔らかさ、というより、潜む色気のようなものがあればと思う。何か、伝わってくるものがストレートすぎて、あとに積み重なって響くような、そんな風情が欲しいと思う。
 富助は、前半は強く大胆に、後半は華やかに高音を効かせて、香り立つような場面を描き出す。連れ弾きは勝平。
 「花を惜しめど花よりも」の詞章を思い起こす。一人ひとりの演者が持つ「花」を、いまこの時でなければならない花を惜しむ。そして彼らが、その健康を守られ、実りの秋にさらに豊かな実を結ばんことを。

カウント数(掲載、カウント2019/08/22より)