時を貫く歩み 奈良・町屋の芸術祭 HANARART 2012「文楽の試み/建畠晢の現代詩を浄瑠璃で語る&お園のサワリ」を観て

森田美芽

 黄昏の色濃い葛城山のふもと、御所名柄の町並みを歩くと、なぜか不思議な懐かしさに駆られた。
 静かさ、人の手で観光の名で整えられる以前の昔の町並みと今の生活とが共存している落ち着き、その生活も、当たり前の人が当たり前の生活を営むにふさわしいスケールで。葛城は道を歩くというのがふさわしい。一つひとつの神社や寺というより、それらを結ぶ道を歩く中に、言葉にならない歴史と、歴史書に書かれる以前の人びとの生活の積み重ねが宿っている。
 物言わぬ自然と、社寺の佇まいのゆかしさ。長らく奈良県に住んでいたが、この里のことは寡聞にして聞かなかった。この機会がなければ訪れることも叶わなかったに違いない。
 訪れて初めてわかる、私たちが忘れていたもの、見失っていたものの価値を。

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 「奈良・町屋の芸術祭 HANARART 2012」のイベントとして、長柄神社を舞台に行われた「文楽の試み/建畠晢の現代詩を浄瑠璃で語る&お園のサワリ」との縁は、このような新しい絆を与えてくれた。
 豊竹英大夫、竹澤団吾のコンビに、いまは京都市芸大学長となった建畠晢氏、そして伴野久美子氏。
 長柄神社の拝殿に、見台と照明が置かれ、舞台の両脇に観客が座る。まるで建畠の「緑の劇場」そのままに、観客の半分は舞台に上げられて見られる立場になる。
 辺りに闇の帳が下りて、外で聞く人の姿は見えないのに、こちらは見られているという不可思議。通常はよくて正面から向い合うはずなのに、太夫と三味線を真横から見る、聞くという経験。
 
 英大夫の弟子の希大夫がきびきびと動き、解説に舞台準備にと奔走する。
 解説での「絵本太功記」による語り分けの実例、「忠臣蔵・大序」の語りは、彼の過ごしてきた10年あまりの修行を感じさせるものだった。

 そして英大夫、団吾の「緑の劇場」。
 その臨場性。否応なしに巻き込まれる。そして思いに逆らって観客席か舞台かに、身を置くことを迫られる。その気まずさというか、一種の恥かしさを超えるのは、やはり「訓練された俳優」たる彼らなのだ。
   建畠が自作の詩「悪趣味」を朗読する。
 「ダンダンダンと歌おうか」で床を踏み鳴らすパフォーマンスが、まったく違って聞こえてきた。
 以前は何かいらだち、自分を責める激しさのようなものを感じさせたのが、今日は見知らぬ人々の中でさえ、もどかしさよりも、あの能の歩みのハコビのように、儀式性を超えて私たちを一種見知らぬ感覚へと穴を開けて引き連れていくような感覚。それも悪意や絶望ではなく、何かに向かって自分が開かれていくような、時空に穴を開けるような、その足拍子。
 
 「パトリック世紀」は再び英大夫、団吾。これもまた、「誤解」を超えて開かれるものが、最初は「誤解」なくしては開かれないものが、私たちを捉える。
 その「意味」を見つけるために、またその「意味」を繰り返し問うためにこそ、私たちは佇むパトリックのように、打ち沈んだままではおれないのだ。

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 雷が遠くに光り、冷気に湿気が微妙に加わる中、「酒屋」お園のサワリ。大和五條をその故郷とするこの物語を、いままた大和の地で、そこに暮らす方々とともに聞く。
 その中の一人として。お園もまた、こんな一人であったのだと思う。茜屋の人びとも、お園の家族も、何の変哲もない庶民の一人であった。
 その名もなき人が、いまも私たちの心の琴線に触れる、そういう生き方、愛し方を示すことができる。
 文楽の美しさは、私たちもその中の一人である庶民の、生きた生活といのちの中から生まれてきた物語であり、言葉であることだ。それはこのイベントを手作りで、温かく来客を迎えてくださった御所名柄の人びとの温かさに通じる。

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 堺屋太一の実家である池口邸は、現在陶芸作家の畠中光炎・晃子ご夫妻が住み、アトリエとしている。古い町屋を生かし、そこに散りばめられるように置かれた現代アートの数々は、伴野氏のプロデュースによるもの。
 中庭には光がこぼれ、高い梁の土間には光炎氏の母堂である畠中幸代氏の勢いある書が配され、住む人と創造する人の営みが一つになる美しさと優しさが、しっとりと時を包む。
 ここで生きる人々、この地を愛する女性たちの手による営みが、新たな機会を得て動き出す。彼女たちの力が、古いものと新しいものを確かに結びつける。

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 イベントというものが、ともすれば一過性の行事となり「よかった」ですまされやすいものが、こうして静かな力となって、何かに向かおうとしているのを感じる。
 それは聞かせて頂いた私たちにも、始まっている何かである。葛城の道をたどる時、私は問うだろう。この道を歩いた過去の、今の人びとと共にある私たちは、どこに向かおうとするのだろうかと。

大阪キリスト教短期大学 学長

カウント数(掲載、カウント12/10/31より)