木枯らし、迫る足音――2006年12月文楽鑑賞教室及び12月公演

森田美芽

 1年は早い。特に慌しく、多忙な師走に、幸いな時を得て、この公演を見る僥倖にまみえた。東京の12月は、若手公演としての意義を心に留めねばならない。それは何より、次代を担う彼らの試金石である。本公演より一つ上の役を経験することにより、確実に彼らが次代の切語り、三味線格、また人形座頭としての格を備えていくために、避けることを許されない試練である。また、正味12か13日間とはいえ、継続して演じることの中で、やはり著しい成長があるので、本来は一度見た印象だけでは論ずべきでないことを心に留めつつ、書き留めておきたい。

 まず、『義経千本桜』「堀川御所」「伏見稲荷」「渡海屋・大物浦」
 「堀川御所」口を始大夫、団吾。始大夫はきっちりと基本に忠実な語りをする。このところ気合の入った三味線を聞かせる団吾と共に、よい幕開きを作り出す。
 奥を文字久大夫(後半呂勢大夫)、燕三。文字久大夫は最初、20代の義経と50代の川越が同年代に聞こえた。だが、途中から、燕三に引き出されたかのように、彼の持ち味が出てきて、語りも滑らかに自然になってきた。やはり燕三の大夫を立てる力は大きい。
 後、芳穂大夫、龍爾。芳穂大夫ははっきりした声質がよく通る。勢いをもってためらいなく語る姿勢がよい。この場の弁慶の力感溢れる遣い方に合っていた。龍爾は音の骨格がしっかりとしてきた。

 「伏見稲荷」松香大夫、喜一朗。松香大夫は手堅く聞かせるところを押えた語り。亀井・駿河と弁慶の対立に義経の孤独が際立つ。静を託し、自らの姓名を与えるところは、すでに死を覚悟しているかのように思えた。このところ、ベテランの味を見せている。喜一朗は芯が一本通ったような頼もしさを感じた。
 「渡海屋・大物浦」は、口を咲甫大夫(後半新大夫)、清志郎。人物の変わり目を丁寧に語ろうとしている。清志郎とは息のあった浄瑠璃になる。中を新大夫(後半咲甫大夫)、清二郎。この二人は、将来ここを語るべき人である。新大夫は途中で声が苦しくなっていた。その試練を正面から受け止め、越えていってほしい。
 奥、千歳大夫、清介。節の安定、風の継承、そういったものでは並ぶ者もないほどによく勉強していると思う。局の気品、安徳帝の幼いながら「十善の君」の風情、知盛の修羅地獄、だが、やはり声の出が少し気になった。
 これらの場では、いずれもすでに切場や格上の大夫を弾いている三味線の力量を感じさせられた。燕三は確実にサポートして太夫の力を引き出し、清二郎は挑むように、清介は構え大きくどっしりと受け止める形で、着実に太夫を語らせる力を感じた。喜一朗にも、団吾にもその姿勢を感じる。三味線の力の大きさを改めて感じた。
 人形では、まず玉女の知盛が期待通り、いや、それ以上の出来であった。確かにまだ、幽霊の引き込みでもたつく。刀の扱いがスムーズでない部分もある。しかし、姿勢は崩れず、体が崩れない、大きな人形を大きく遣って、いささかの不安定も感じさせない。
 これこそが立役遣いの根幹である、と思う。玉女はまずまっすぐに役にはまる、その中から役の性根がにじみ出てくる。今回の知盛でも強くそれを感じた。この知盛は、次代の立役、座頭としての試金石であるが、その力を十二分に示したと思う。
 和生のおりう実は典侍局、師文雀の後継者としての力量を示さねばならない役。おりうのまめまめしさや母としての気遣いはよいが、その底に天皇の乳母としての品位をどう出すか。典侍局としての性根を現してからは、手順や遣い方に不安はないが、「いかに八大竜王…」のくだりでの師の威厳に迫れるかが課題であると思う。
 幸助の相模五郎は悪役らしい不敵さと後半のきびきびした動きが印象的。亀次の入江丹蔵、一瞬にして知盛の悲劇を伝える手堅さ。玉誉の安徳帝、品位と気高さを出せるのがよい。簑次の船頭はユーモラスな表情が楽しい。

 初段では玉也の義経が立役遣いとしての地力を見せ、玉英の卿の君は上品でおっとりした武家の娘らしさと夫を救うため身を捨てるけなげさが印象的。勘弥の静御前は形も美しく、特に伏見稲荷の縛られた姿も美しくこなした。ただ今回、幕開きのときの静の眼差しが、なぜか人形に見えてしまった。目線の使い方も課題であろうか。
 勘十郎の川越太郎。この人には珍しく、老の立役肚で、派手な動きもなく、思い入れも最小限、なのに泣かせる。その、わずかに顔を背けるしぐさに、娘を犠牲にしなければならなかった父の嘆きを込める。私見だが、ここで文字久大夫の語りまで変わったように感じた。勘緑(後半玉志)の弁慶は、力感と英雄性とやんちゃさに溢れる魅力的な大きさ。玉勢の土佐坊正尊は形も勢いもしっかりして見ものである。簑二郎の狐忠信、もう少し妖しさを見せてもよいが、この場だけでは難しいだろう。亀井六郎を清三郎、駿河次郎を清五郎、好一対の人物像をきちんと見せる。逸見の藤太を玉佳、うまく見せてくれる。立役陣の層の厚さを感じる。

  [鑑賞教室Aプロ]

「伊達娘恋緋鹿子・火の見櫓の段」床は貴大夫、南都大夫、睦大夫、靖大夫、三味線は清丈、龍爾、寛太郎。お七を一輔が遣う。こちらは床でも大夫にベテラン級がいるので、若手の三味線はその後を追っていく。清丈が落ち着いたよい三味線になってきた。寛太郎も舞台度胸がある。一輔はこうした女方を十分に遣うが、髪を振りながら進み、櫓に登るあたりは、手順以上のものを出してほしい。
 「文楽解説」をつばさ大夫、清丈、一輔。つばさ大夫は正攻法、清丈は持ち味、一輔は定番でも彼らしさが出て楽しい。

 『恋女房染分手綱』「道中双六の段」三輪大夫、清友、ツレつばさ大夫、寛太郎。冒頭の本田弥三左衛門の詞の関東なまりも面白い。三輪大夫は安心して聞けるだけのものをもっている。調姫の頑是無さ、若菜の動き、三吉の生意気さまでも。清友も確実に入るべきところに収まる三味線。つばさ大夫も寛太郎も父親のような彼らに必死でついていく姿勢が気持ちよい。

 「重の井子別れの段」英大夫、錦糸。英大夫はすでに3度目である。今回は体調がなかなか整わず、苦しかったと聞く。だが舞台を聞く限り、そんな不安は微塵もない。
 詞と地合と節とが切れ目なく続く語りの難しさを改めて聞いた。その中で、重の井が三吉をわが子と知り、別れてしまってからの年月を嘆く。母親として自分を責める、その思いが突き刺さってくる。わが子を突き放さねばならない、忠義の重さ。肩を落として行こうとする三吉に、母として精一杯の言葉をかけ、金子を渡そうとする。それを拒む三吉の誇り、その詞のかげに母への思い、素直になることも許されないその苦しさが伝わってくる。
 本来選ぶことの出来ないものを選ばされる、そんな運命の残酷さが迫ってくる。英大夫はこうした人の思いの何重にも重なる陰影を見事に描き出す人である、と改めて思った。錦糸は無論、繊細ではんなりとした美音と確実な間で英大夫をあるべきところに導いた。

 重の井は紋豊。この人の人形は職人芸であると思う。弥三左衛門も遣えば重の井も遣う、それも役の性根を明確に遣ってみせる。今回は特に、大名の乳母としての品位と格の高さを重んじた遣い方のうちに、わが子への情愛を見せる。段切れの鏡を使った別れなどはやはり見事としかいいようがない。紋吉の三吉は、前半がこまっしゃくれた馬子の風情を見せ、後半はまだいたいけな11歳の子どもとしての顔を見せた。
 本田弥三左衛門を文司、合格点。宰領は紋秀、簑紫郎。少し意地悪そうなところもうまく遣う。調姫を勘次郎。顔を見せて遣うのは初めてか。緊張しているが、よく頑張っていたと思う。踊り子を玉翔、玉誉、左右に対照性が楽しい。腰元若菜は和右、お福も愛らしくうまく遣う。

 今回、自分も体調不完全なままで見聞きしていたので、十分意の尽くせないところがあるが、今回最も強く感じたのは、足音である。三番叟の、一日を始める溌溂とした足音、知盛幽霊の引き込みの足拍子、雪の中を進むお七、そして三吉の足取り…それらの中に、確かに彼らの時代が迫っている足音を聞く。着実に、そして力強く。
 彼らに必要なのはまず経験であり、そうした場を与えられることであろう。大阪でも若手会が開かれ、勉強の機会となっているが、本当は10日以上続けてやらねば、課題を発見するだけで終わってしまうのだ。願わくは、大阪でも若手公演が継続して行われる機会が与えられることを望む。また、今回Bプロを見ることが出来なかったので、次代の四段目語りとしての津駒大夫、女方遣いとしての清之助の成果を確認できなかったのは残念である。

 新しい年に、彼らの努力と試行錯誤が、よりよい形で舞台に生かされ、文楽の命をさらに燃やしてくれることを期待してやまない。

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