扉を開く――2002年ゴスペル・イン・文楽によせて

森田美芽

 二度目というものは難しい。一度目は何もかも手探り状態で、上演すること自体が奇跡のように思われた。二度目はそうした努力や苦労の一切が、いわば「当たり前」になってしまって、その上で前回より以上の成果を求められる。その意味で「ゴスペル・イン・文楽」もまた、大きな試練を受けた。しかしそれは、一度目に増して「扉を開く」こころみとなった。その意義を記しておきたい。

 まず、前回は英大夫自身が主催者であり、文楽の仲間とキリスト教会始め多くの支援者たちのいわば手作りの活動であった。今回は熊本、東京、大阪、その全てが主催者も公演形態も異なる。
 熊本では、地元のカトリック・プロテスタント双方の教会が協力して「ゴスペル・イン・文楽実行委員会」を結成し、教派を超えた協力体制の中で「巡礼阿波の鳴門」と「ゴスペル・イン・文楽」を上演した。つまり教会の伝道活動の一環として、またキリスト教の日本文化への受肉の試みとして位置づけられた。
 東京では、紀尾井ホールと英大夫の共催で「団子売り」と解説そして「ゴスペル・イン・文楽」。これは紀尾井ホールが従来やってきた文楽の実験的試みとしての延長線上にあるものと考えられる。
 そして大阪では、ヘップホールの「現代に生きる古典シリーズ・落語と文楽のあやしい関係友情編」とされた。これは古典芸能を新しい感覚で見せる伴野久美子氏の先鋭な企画力によるものだが、ここでは古典芸能を深く掘り下げることで新しい可能性を見出そうとする主題が見出される。
 実はさらに、この間に国立演芸場の企画で、「日本の話芸に見る聖夜」の中で、素浄瑠璃で「イエスの生涯」を語っている。これが「国立」でなされたこと、さらに彼の「ゴスペル文楽」なしには成り立たない企画であったことは見落としてはならない。
 キリスト教と日本文化、古典としての文楽と新作としての可能性、ここにはあまりに多くの要請がある。そして二度目であるゆえに、前回見た人が足を運んでくれるとは限らない。そんな不安の中で、熊本、東京、大阪での8公演すべてが大入りであったことは特筆に価する。そしてそれ以上に、今回のゴスペル文楽が開いたものは、新たな可能性の扉である。

 私が見たのは12月24日、大阪ヘップファイブホールでの最後の公演。まず落語の桂吉朝氏との対談、というより吉朝氏が司会者となって英大夫にゴスペル・イン・文楽の意義、内容などについて実に柔らかく語らせる。吉朝氏は2年前の「落語と文楽のあやしい関係」以来のお付き合いと聞くが、相手の力を認め、相手を尊敬し、その相手の力を引き出すなんと見事な話芸であろう。
 2人の間には水墨の手を連想させる鮮やかな絵。これはプロデューサーの伴野氏の作品であろう。そのシンプルさと勢い、気品の高さが、この二人の静かな、されど力ある者同士のぶつかり合いになんとふさわしいことか。
 そして「ゴスペル・イン・文楽」。幕開きは今回新しく創作された受胎告知の場面から。
 マリアの登場。なんと生き生きとした娘であろう。マリアは14,5歳の乙女であったと想像されるが、婚約した喜びに輝きながらも子供らしさを残し、おきゃんなところも感じさせる当たり前の娘。それが突然、過酷な運命に見舞われる。地にひれ伏し、意を決して立ち上がる。そのときマリアは乙女から一人の人間になった。
 そしてイエスの誕生。我が子を抱き上げ、頬を寄せる。母となったマリア。その凝縮された時間の中に、マリアの人生が表徴される。少女・人間・母への変化を、清之助は見事に表現した。
 イエスの成長と物語を、ナレーション風に処理し、下手につめ人形一体で表現する。桐竹紋秀は巧みにその詞を人形で伝えた。
 嵐の海の場面。稲妻が走り船はゆれ、大嵐にうろたえる弟子たち。そこにイエスが登場し、手を上げて嵐を静める、神としてのイエスの力強さを示す。「汝らの信仰はいづくにありや」と問う。威厳に満ちたイエス。このあと再びつめ一体でのナレーション。

 最後の晩餐からペテロの裏切り。最後の晩餐をイエス一体で描く。無論ただ一人でも、紋寿のイエスは弟子への眼差しひとつ、連行される時の体の向き一つでそのシチュエーションを納得させる。紋豊のペテロは、なんと一途でなんと哀れな男であることか。このペテロの叫びが見る者の心に同化する。人間くさい、わたしたちの代表のような小心者のペテロ。
 十字架のイエス。ここもいわば十字架の苦悩を象徴的に表現する。「山に立ちたる十字架の」という地の文と、「父よ彼らを赦したまえ」という詞の部分との見事な連結が、イエスの悲劇を導いていく。「一天にわかに」から「我が神我が神」の叫びは、何度聞いても圧巻である。イエスの血を吐くような叫びを、英大夫は力の限り語る。「我が霊を汝の御手に委ねん」でがっくりと落ち入る。その死によって十字架が完成される。
 復活。イエスの弟子が3日目の朝の出来事を説明し、ペテロとイエスの再会となる。しかしペテロは恐れおののき、復活を信じることができない。イエスの手に触れ、初めて信じる。このペテロは疑いのトマスとは違う。トマスは自分を信じていた。しかしペテロはイエスを裏切った自分への負い目がある。その負い目を、イエスが癒された。ペテロにとっての復活の意義は、まさしく裏切った自分が赦され、再びイエスの前に立てるようになることであったのだ。それが彼らが世界中に遣わされて行くことへとつながる。それは、ここから。この赦しと癒しのメッセージからクリスマスが始まっていることの象徴でもある。マリアも登場し、光の中でのフィナーレ。
 初演に比べ、各場面での洗練度は増し、劇的な起伏も見せ場も増えた。舞台装置も効果的であり、背景からの出がどれも印象的であった。
 太夫が3人になったことで、声に厚みがで、表現に奥行きがでた。貴大夫は無論だが、新大夫が予想以上に健闘していた。ただ、筆者の主観であるが、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は一人で語った方が、イエスの神に見捨てられた絶対的な孤独を伝えられるのでは、と思った。
 三味線も清友が確かな技量で大夫陣を支え、喜一朗は的確に前に出る音でサポートした。
 しかしこれほどの成果を得ながら、さらにと望んでしまうのは酷であろうか。もしいいうるとすれば、写実と象徴を使い分けてイエスの生涯の何を表現するのかによって、「ゴスペル・イン・文楽」は今後大いに変わってくる。共に生きるイエス、身代わりとなったイエス、罪に打ち勝ったイエスという、その生涯にわたる主題に明確に迫る表現が、語りと、人形の間で、また人形同士の間で、また違った可能性があるように思われた。
 特に復活の場面は、まだまだ洗練の余地があるように思う。それはまさに、「型」をつくる作業である。
 「ゴスペル・イン・文楽」が開いた扉・・それは、カトリックとプロテスタントの間にある扉であり、日本の文化とキリスト教の間の扉であり、古典と現代という扉である。そしてその相反する2つのものを繋ごうと無理やり折衷するのでなく、文楽としてもキリスト教としても、一見対立するものが、これ以外にはないという形で深められたからこそ、その深い一致点を見出すことができたのだ。
 彼は自ら、「神は自分に太夫としての修行をさせるためにゴスペル・イン・文楽を与えられた」と位置づける。妥協を許さない過酷な文楽修行、二神に仕えることを許さないキリスト教、彼の中でそれは共に、なくてはならない生命の本質である。なればこそ、彼の信仰は、内心に隠すものでなく、彼自身の天職によって語られ、公けにされねばならなかった。
 その唯一の魂の表現であるものが、どうして魅力的でないはずがあろう。多くの人を巻き込み、力を受け、より大きな力として人々の魂に食い入っていく、その中で私たちは、私たちの隠れた自分の心と出会い、より自分自身に近くなっていく。今回のゴスペル文楽を見た人は、ある人は亡き人への思いを感じ、ある人は言葉の背景に思いを寄せ、ある人はペテロに自己投入していく・・様々な思いをこの場で共有し、共に喜ぶことができた。観客一人一人がより真実な自分自身をこの劇空間から携え、思いを新たにして帰ることができた。ゴスペル・イン・文楽の魅力はそこにある。見る者が、いまこの芸術的創造の場に居合わせ、自ら参与するものとなり、そこに新しい創造の世界が生み出される。ゴスペル・イン・文楽が開いてくれた扉、それは私の心のうちにあったのだ。

 その可能性は、さらに国際的にも広がるだろう。今回、大阪公演で特筆すべきは、外国人の若い観客が、当日券を求めて並び、用意された英訳の床本をもとに楽しんでおられたことだ。それが普遍的なことであれば、必ず通じる。文楽自身にそれだけの底力があり、聖書という普遍的主題と出会うことで、新たな創造の扉が開かれた。それは文楽自身の歴史にも、大きな意味を持つであろう。