井上達夫先生(法哲学)より感想

9/12(木)素浄瑠璃「絵本太功記十段目」@紀尾井小ホール。井上達夫先生(法哲学)より感想文をいただきました。ぜひ、ご覧くださいませ。〜
昨日の「絵本太功記 尼崎の段」の公演、素浄瑠璃としては、若太夫襲名後最初のものですが、それにふさわしい圧巻の公演でした。
「トップ・オブ・義太夫」のこの大曲を丸一段、「キング・オブ・義太夫」の若太夫師匠が、「キング・オブ・三味線」の鶴澤清介師匠と、まさに火花を散らさんばかりの掛け合いで大熱演され、猛暑の中、会場を満席にした聴衆も大喝采でした。
清介師匠の三味線の糸が一本、途中で切れてしまったのも、「アクシデント」というより、お二人の熱演のエネルギーの高さを示す驚異的ハプニングで、鮮烈な印象を聴衆に与えました。
「尼崎の段」の人形浄瑠璃を見たときの印象として、明智光秀(役名は武智光秀ですが、以下、羽柴秀吉も含め実名で記します)には、封建的臣従道徳を超えた国家的正義の視点があり、法哲学的にはそこが面白いと述べさせていただきました。
今回の素浄瑠璃でも、その印象は基本的には変わりません。
光秀が、自分の母・皐月を秀吉と間違えて、竹槍で刺し、皐月がもがき苦しみながら、忠節の義務を蹂躙した息子を譴責し、それに妻・操も同調して夫を諫めている中、光秀は、母と妻の諫言を斥けて、次のように返答します。
「ヤア猪口才な諫言立て、無益の舌の根動かすな。遺恨を重ねる尾田春長(織田信長)。勿論三代相恩の主君でなく我が諫めを用ひずして神社仏閣を破却し、悪逆日々に増長すれば武門の習ひ、天下のため、討ち取ったるは我が器量。武王は殷の紂王を打つ。北条義時は帝を流し奉る。和漢共に、無道の君を弑するは民を安むる英傑の志。女童の知る事ならず。退さりをらう」
光秀はここで、周の武王が殷の暴君紂王を討った例を挙げています。
これは、それより前の時代に、殷の湯王が夏の暴君桀王を討った例と並べて、中国では湯武放伐論と呼ばれ、天命に反した暴虐な君主を放伐して天命に適う新体制を樹立することを正当化する孟子の「易姓革命」論に連なります。
自分が誤って刺した母がもがき苦しみながら譴責するのを「猪口才な諫言立て」、「女童の知る事ならず」と撥ねつけるのは、「普通の日本人」なら、イデオロギー過剰で人情忘れた狂信家と感じるでしょう。
しかし、光秀の母・皐月も「普通の母」ではありません。
彼女は母子の愛情というような人情に訴えているのではなく、君主への忠節を絶対化する封建道徳(日本的意味における封建道徳で、中世ヨーロッパの封建道徳と同じではありません)のイデオロギーを、命がけで息子に説いているのです。
ここでは、皐月と光秀の間で、母子関係を超えた「思想的対決」がなされています。
光秀は暴君放伐思想を和漢共に通じるものと主張しています。
しかし、易姓革命論は中国儒学の中では有力思想となりましたが、日本では、「君、君足らずと雖も、臣、臣足らざるべからず」という臣従義務絶対化論が圧倒的に支配的でした。
戦国時代は、実際には「下剋上」を派手にやっていたわけですが、それを天命の思想(欧米の自然法論の儒教版)で正当化することはなく、下剋上をやっている武将も権力を勝ち取ったあとは、臣下に絶対的服従を押し付けて平然としています。
皐月は封建的臣従道徳を、それが現実には裏切られているにも拘らず、否、そうであるからこそなおさら、尊重されるべきものとして純粋に信奉し、それに反した息子の光秀を道徳的に断罪しています。
私はこれまでも何度か、文楽作品には近代性・現代性を感じさせる部分が少なくないという感想を師匠に述べさせていただきました。
「尼崎の段」の上記の箇所で、皐月と光秀が、母と子の情愛という人情の次元を超えて、「臣従道徳か天命による革命か」という思想的問題の次元で、峻厳かつ冷酷でさえある仕方で対峙・対決するというのは、義太夫戯曲作品がもつ近代性を鮮明に示す例であると思います。
児玉教授が解説で、この作品が書かれたのは1799年、18世紀の最後で、18世紀初めから始まった義太夫戯曲創作史の最後を飾るもので、義太夫の様々なテクニックと魅力を「全部盛り」にしていると述べられています。
正にその通りで、だからこそ、若太夫師匠もこの曲を「キング・オブ・義太夫」と呼ばれたのだと思います。
私はそれに加えて、1799年という年代にハッとさせられました。
同時代の欧米を見るなら、アメリカでは1775年に独立革命が始まり、1776年に独立宣言がなされました。
フランスでは、1789年にフランス革命が勃発し、1792年に王政が廃止され第一共和制が樹立されました。
本曲の作者、武内確斎が欧米でのこのような政治的変革を知っていたかどうかは分かりません(鎖国の世ですから、知らなかったと考える方が自然でしょう)。
しかし、欧米で旧体制を崩壊させる近代市民革命が始まりつつあった時期に、易姓革命思想に自らの命をかけただけでなく、そのために家族・親族まで犠牲にすることを厭わなかった人物として明智光秀を武内確斎が描いたというのは、偶然の一致にしても興味深いところです。
妄想を膨らまして言えば、東西で社会変革の「時代精神(Zeitgeist)」が個人の主観的意図からは独立に並行進化的に自己展開していたことを暗示するのではないか。
日本でも1853年にペリーの黒船が来航し、以降、幕末・明治維新の動乱が始まります。
旧体制を破壊して近代国家を樹立するプロセスが日本で始まる半世紀前に、この戯曲作品は変革の時代精神を先取的に暗示していたのではないか。
以上はあくまで妄想です。しかし、こういう妄想を誘うほどの近代性をこの作品は感じさせます。
私がここで「近代性」と呼ぶのは、単なる革命思想のことではなく、天下国家の在り方をめぐる思想問題が、人情問題を超えた独立の重要性をもつものとして、家族関係の中をも貫通する意義を与えられているという点です。
以上の基本的な点を述べた上で、今回の公演の山場に触れさせていただきます。
母・皐月との「思想的対決」において人情に流されることを冷厳に拒否した光秀も、我が子・十次郎があたら18年の命(満年齢で言えば17年の命)を父の思想に殉じて捨て逝く様を目前にして、さすがに、我が子への愛という人情の力に一瞬押し流されます。
「……さすが勇気の光秀も、親の慈悲心子ゆゑの闇、輪廻の絆に締めつけられ、こらへかねて、はら、はら、はら、ゝゝゝゝ 雨か涙の汐境、浪立ち騒ぐ如くなり」
この「はら、はら、はら、ゝゝゝゝ」という光秀の慟哭を臓腑から絞り出すように痛切に師匠が語られたとき、「おとなしい東京の聴衆」が座る観客席から割れんばかりの拍手が起こりました。
まさに「大落し」。
思想の論理に拘りたい私も落とされ、目頭を熱くしてしまいました。
「師匠、御見事」と言いたいですね。
ただ、この後、ただちに場面は秀吉と光秀の対峙へと転じ、光秀は思想の論理に立つ「勇気の光秀」に戻ります。
ここの転換、「大落し」が見事であっただけに、大変難しいところだったかと思います。
しかし、師匠は、「大落し」で泣かされていた聴衆を、決然とした「語りのギア・チェンジ」により、庭の松によじ登って敵の軍勢を見極める「勇気の光秀」の気概の高さへと、一挙に引き上げられました。
自己の思想に道連れにしてしまった家族の犠牲に慟哭する人間的感情を心の奥底に封印して、再び思想のための闘いに屹然と立ち向かう光秀の姿が最後に描かれていることで、この戯曲がもつ悲劇性がより深く、より鮮烈に浮彫されます。
そのために、この最後の場面転換を違和感なく聴衆に受け止めさせる義太夫の技が問われるかと思います。
「大落し」の見事さに隠されがちかもしれませんが、師匠の「大引き上げ」の技にも感服した次第です。
最後に一点。
皐月を母子の情愛の次元を超えて、息子の光秀と思想的に対決する女性だと私は言いました。
しかし、アフタートークで、師匠が、これまで何度もこの曲を演じてきたが、年を取るにつれ、婆さんの皐月に面白みを感じるようになったという趣旨のことをおっしゃり、それを聞いて、私もハッとしました。
皐月もまた光秀への母としての愛情を心の奥底に秘めているのではないかと私も感じ始めています。
光秀は皐月を秀吉と間違えて竹槍で刺しましたが、これはそうなるように皐月がわざと仕組んだのではないか。
光秀の母の死については、歴史上は色々な説があるようですが、それは別として、この戯曲作品の本公演では省略されている部分から考えると、皐月は旅の僧が秀吉で、息子の光秀が秀吉を追って隠れていることを知っていたと推測できるふしがあります。
だとすると、皐月はこのまま生きていてもいずれ自分は逆賊の母として残酷に処刑される可能性を自覚しており、どうせ死ぬなら、愛する息子の手にかかって死にたいと思ったのではないか。
皐月が正体を現した秀吉(役名、久吉)に対し、次のように言います。
「ナウ久吉様……武智が母は逆磔にかかって無残の死を遂げしと、末世の記録に残してたべ。それもやっぱり倅めが可愛さゆゑの罪滅ぼし……」
ここで皐月は、臣従道徳に反した息子の罪滅ぼしを語る一方で、秀吉に対し、「お前たちに逆磔で殺される前に、私は可愛い倅の手で死なせてもらいましたよ。私の死体を逆磔にして見せしめにしたいなら、どうぞお好きにやってください」という皮肉をぶつけているようにも今感じています。
師匠の皐月解釈をいつか機会がありましたらご教示賜れば幸いです。
先代若太夫を超えて進化を目指すという師匠のプロジェクト、着実な一歩を既に踏み出されていること、しかと見届けました。
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