沈黙の溢れ、日長き桜―国立文楽劇場2019年4月公演―

森田美芽

 歴史は夜作られる。そして夜の深さに広がる静寂。一部と二部でこれほど趣向の異なる演目でありながら、その主眼は夕刻から夜なのだ。

 桜と四条河原と城。文楽劇場の四月公演は、スケールの大きな時代物、じっくり効かせる世話物、そして三大名作と、文楽のエッセンスが揃った舞台。ことに「忠臣蔵」通しと銘打って、3公演に亘って全段を上演する試み。これには賛否両論あるが、それはそれとして、舞台成果を客観的に見ていきたい。
Print
 第一部『仮名手本忠臣蔵』大序より「城明け渡し」まで。
 大序は毎回、若手の精一杯の語りが楽しみ。最初は亘太夫、小細工のない堂々とした語り。錦吾は端正で生真面目。
 二番手の碩太夫、声は若いが詞を大切に語っている。真正面からぶつかっていく姿勢が清々しい。若狭助と師直の最初の諍いをきちんと語る。清允も臆せずその緊迫感を伝える。小住太夫は高音にやや苦しむも、「女好きの師直」などが伝わる。
 燕二郎、「目利き」の後の一撥のキマリは師譲りか。咲寿太夫、清公。清公は一日の長あり。安定した響き。咲寿太夫は「御錠意の下侍」などはっとさせられた。

 この場では玉勢のすずやかな足利直義、簑紫郎の顔世の、品位と共に清涼感のある存在感が印象に残った。

 続く「恋歌の段」。
 師直を津国太夫、顔世を南都太夫、若狭助を文字栄太夫、三味線は團吾。津国太夫の師直の憎々しさ、「よい返事聞くまでは」の底強い悪のいやらしさ。南都太夫の顔世の、この場の追い詰められた苦衷、文字栄太夫の若狭助も直情らしさを聴かせる。
 短いが、ベテラン揃いで、ツボを押さえた語りと気合を込めた團吾の三味線。

 二段目「桃井館力弥使者の段」
 芳穂太夫、清丈。最近省略されていた「梅と桜」の久々の復活。芳穂太夫もあまり力を入れ過ぎず、しかし冒頭の奴詞はなめらかに、本蔵の堅苦しさ、戸無瀬の娘への配慮など、大人の浄瑠璃。
 ただし加古川本蔵の詞はいま一歩。梅桜にももう一段の風情を求めたい。
 清丈の三味線は、音色も撥を下すタイミングも実に的確なサポートができるようになったことが感慨深い。奴関内は和馬、可介は簑之、なかなか面白い一対。

 「本蔵松切の段」
 三輪太夫、清友。ベテランはやはり違う、と思わされる。本蔵の詞が段違いに響く。本蔵と若狭助の間の緊張、若狭助の覚悟、それを直接諫めることはできないと知る本蔵の老獪さが伝わってくる。
 それらの深みが響き合うように、幾重にもその思いを見通せるような清友の三味線。

 玉助の力弥の爽やかさ、凛々しさ。さすがに小浪が惚れ込むのもわかる。紋臣の小浪の初々しさ、愛らしさ。その中に武家娘の強さも。戸無瀬は簑一郎。この場だけだとその重みがわかりにくいが、気の利いた母の思いやりもうまく見せた。

 三段目「下馬先進物の段」
 小住太夫、寛太郎。小住太夫は抜擢に応える。
 伴内の詞が、意識して動かそうとするが、まだ堅く声がかすれる時もある。師直と本蔵の語り分けはまだ課題が残る。まだ十分使える声域が狭いように思える。
 しかしこの場の性根をきちんと押さえたことは大健闘。寛太郎も動きのある三味線で導く。

 「腰元おかる文使いの段」
 希太夫、清馗。端正で折り目正しい希太夫の浄瑠璃に、ここは柔らかさ、広がりが加わった。「高砂の浦に着きにけり」など謡がかりも伸びやか。
 このおかるの造形が、後の悲劇の大きな鍵となるだけに、おかるの一途さが前に出た。伴内の詞にもう少し端敵の性根が出るとよい。清馗はこうした柔らかさ、色気もよく弾いている。

 「殿中刃傷の段」
 三段目の緊迫を、呂勢太夫、清治が描き出す。若狭助の勢い込んだ表情と、それをいなす師直。打って変わった師直に戸惑いを隠せない若狭助と、事情を知らずとばっちりを受けることになる塩谷判官。
 師直にいじめられ、追い詰め、追い詰められていくその火花の散るような葛藤と、ついには禁を破って刃傷に及ぶほどの怒りを、呂勢太夫
は見事に描き出した。大笑いに二度、拍手が来るほどに。導く清治の糸の揺るぎない足取り。

 「裏門の段」
 睦太夫、勝平。ここは一気呵成に進むところ。睦太夫は最初の一声の調子がどうかと思ったが、持ち直し、勘平の無念をじっくりと、またおかるの悔いの一言を、説得力ある語りで聞かせた。
 勝平の人物の描き分けの的確さ、ユーモラスささえ感じさせる。

 四段目。「花籠の段」
 文字久太夫改め豊竹藤太夫、團七。緊張感を保ち、しかも原剛右衛門と斧九太夫の性根を示し、クライマックスへの備えをしなければならない。藤太夫は荘重さを出しつつ詞の変りに性根を感じさせ、良い備えとなった。團七は、唯一の色である花の華やぎとこの空間の重苦しさを糸に乗せて描きだす。

 「塩谷判官切腹の段」
 唯一の切語り、咲太夫の力演。白木の見台の備え。塩谷判官と石堂に比べ、薬師寺がやや軽い。しかしそのためにかえって静かな塩谷の怒りが伝わってくる。「通さん場」ならではの緊張感、
 燕三の「雨だれ」は、3度ほど、静かに降ろされる撥のあいまの、無音の透徹した間。
 待ちかねた由良助の登場からの畳みかける迫力と、判官の無念。昇華されないこの無念が、後々の悲劇を引き起こす。「さてこそ末世に大星が忠臣義心の名を上げし」のいたわしい強さが、今回の咲太夫の成果であろう。

 「城明け渡しの段」
 清允の三味線、正確にリズムを刻み、繰り返す中に浪士らの無念が確と刻み付けられる。碩太夫の気合の一声。

 人形では、まず勘十郎の師直の巨悪が見事。「恋歌」での色欲、「進物場」での物欲、「殿中刃傷」での権勢を誇る権力欲、それらの権化としての大きさを勘十郎が表現し、表情の変わらない人形の、怒りが増幅する様子まで感じさせた。
 対する和生の塩谷判官は、今回、品位を保ちつつも、理不尽な罵詈雑言を向けられることへの怒り、その故に切腹に追い詰められる無念さを強く表した。
 玉男の由良助は、舞台も観客も、固唾を飲んで見守るこの場の役割を、信頼して委ねられる座頭の貫録を感じさせた。師の型を踏襲しつつ、判官の無念を受け継ぎつつ、ふとにじむ悲しみを表した。

 簑助の四段目の顔世。
 花を飾る品位と、夫の遺骸にすがりつく様子に、判官との夫婦の絆を感じさせる。今回省略された「御台二た目と見もやらず、口に称名目に涙」の詞章が見えるようだった。
 文昇の桃井若狭助、直情径行の若さとふてぶてしさを大序から遣う。玉輝の本蔵、老獪さと実直。文司の伴内、愛嬌ある端敵。玉佳の勘平、ここでは軽率さが目立って良い。
 一輔のおかる、「文使い」で勘平の手を取って迫るのが色気というより若さ。玉路の珍才、小物だが忠実。玉翔の力弥、「梅桜」の瑞々しい色気と、四段目の気丈さ。勘市の原郷右衛門、堅物らしい。
 文哉(代役簑一郎)の九太夫、こちらも腹に一物をよく遣う。石堂は玉志と玉助が交替で、重さはやや玉志が勝るか。紋秀の薬師寺、こちらも石堂との対比だが、やや軽く感じた。
 

第二部は『祇園祭礼信仰記』より「金閣寺の段」「爪先鼠の段」
 「金閣寺」
織太夫、藤蔵。織太夫は意欲的な語りでこの場を勤める。
 時代物の格、大膳の悪の大きさ、碁の用語を織り込んだ詞の小気味よさといい、舞台ごとに大きくなっていると感じる。ただ、少し時代を意識しすぎてか、力が入りすぎたところも。
 藤蔵も相乗効果のように波に乗っていく。

 「爪先鼠」
 千歳太夫、富助。アト芳穂太夫、清志郎。千歳太夫は朱色に金房の見台。力むこともなく自然に大きな構えの時代物を語るようになった。大膳の悪も雪姫の必死も実に自然に体に入ってくる。
 「花か雪かと眺むる空に、散ればぞ花を雪と詠む、命も花と散りかかる」の美しさと、緊迫感の見事さ。支える富助もまた、派手に聞かせるよりも花に託された運命の流転を包み込むような、包容力を感じさせる。
 アト、芳穂太夫、清志郎。ここも聞かせるし、見せ場が多いが、それをしっかりと作り出す、力強い語りと頼もしい糸。

 そして清十郎の雪姫の美しさ。一分の隙もなく、まさに「雨に打たれた海棠桃李」の風情、縄に縛められ、必死に爪先で鼠を描く、鼠が体を上るその感触まで感じるような、被虐の美。
 目を閉じて片手で遣うその集中力が隅々まで漲り、その奇瑞を生み出す不思議な空間が広がった。
 玉志の松永大膳、口あき文七の悪役のスケールの大きさを表現した。玉助の此下東吉、品位ある、美しい二枚目に映るので、背が低いという設定があまり実感できない。三重での活躍も危なげがない。
 紋秀の直信、こちらはうちしおれた二枚目の風情。亀次の慶寿院、身分の高さが自然ににじみ出る。紋吉の松永鬼藤太、兄に勝る弟はなし、という点で忠実さが光る。玉誉の石原新五、簑太郎の乾丹蔵、玉彦の川嶋忠治らも気分よく動く。
 玉誉に一日の長あり。文哉の十河軍平、正体を現してからも手強い。

 溢れんばかりの桜、大掛かりな仕掛け、スペクタクルな面だけに目を留めやすいが、今回は語りの丁寧さもあり、雪姫の爪先鼠も効果的で、幻想的な春の風情まで感じさせる好舞台であった。

 続いて『近頃河原の達引』「四条河原の段」「堀川猿廻しの段」は、しっとりと胸に迫る情の舞台。
 「四条河原の段」は靖太夫、錦糸。靖太夫はこうした地味なやり取りもしっかり聞かせるようになった。
 とりわけ官左衛門と伝兵衛の性根の語り分け、勘蔵のおかしみ、久八の実直など、人物像を明確に出している。錦糸の糸の華やぎはこうしたところでも、ふっと息をつかせるように響く。上方唄「ぐち」は碩太夫。

 「堀川猿廻し」
 前津駒太夫、宗助、ツレ清公。奥呂太夫、清介、ツレ友之助。
 津駒太夫はたっぷりと、貧しい中で懸命に生きる母子の情、おつるの愛らしさ、与次郎のおかしみを聴かせる。情の深さが加わった。
 宗助は逆に淡々と、この家の光の薄さ、生活の音の豊かさを静かに伝える。清公は三味線の掛け合いを対話のように弾いている。

 呂太夫の語りが、「おもろうて、やがてかなし」を体現している。
 この、善意の人たちの悲劇を、あまりにも貧しくはかない運命の人たちを、暖かく見守るように。「最後はお猿に全部持っていかれる」というが、猿廻しの後の「ああよい女房じゃに」で思わずほろりときそうになった。
 「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん」もまた。無駄な力を入れず、それでいて心の琴線に触れ、動かす。軽さと重さの妙味。
 清介の名人芸というより、この三味線の楽しさと豊かさ、友之助もまた一段と華やかに、この場を盛り上げる。それゆえに、段切れはまた悲しみが増す。

 井筒屋伝兵衛は勘弥。町人らしい柔らかさと、怒った時の激しさ。玉勢の官左衛門、こうした敵役もうまくなっている。勘介の仲買勘蔵、なかなかの遣いぶり。廻しの久八は清五郎、男気ある立ち姿。
 簑二郎は誠実そのもの。そのおしゅん、師簑助の型を受け継ぎ、遊女でありながら心は貞女の一筋なる思いが形に現れる。

 玉也の与次郎。貧しく無筆であっても心優しく実直な男としての造形が素晴らしい。勘壽の母は、目の見えない悲しさ、娘を思いやるがゆえに、心中行を許す切なさ、そしていま、想像もつかないような、貧しさに生きるリアリティは、この人でなければと思わせる。
 勘次郎の稽古娘おつる、三味線手の扱いもよかった。猿は勘介、この愛らしさに、この悲劇は救われているように。

 舞台成果は素晴らしいものであったが、やはり違和感は残った。
 とりわけ、「判官切腹」のあと、たよりなく放り出されたような感じで劇場を後にした時の「これでよいのか」という違和感。

 この忠臣蔵の悲劇の根本は、すれ違い、八つ当たり、とばっちりである。本来は桃井と師直の対立であったのが、その怒りの矛先が、元々はあまり関係のない塩谷判官に向くという理不尽。
 しかも原因を作った当人は、部下の機転で難を逃れ、最初全く関係なかったはずの人間は、道ならぬ横恋慕のとばっちりで侮辱されるという屈辱。そして結果は、藩を奪われ自分は切腹、部下たちは浪々の身となるという理不尽。
 そしてそれが、仇討のために増幅されることから生まれる悲劇である。そのためには、その原因と無念さが、全編に亘って貫かれていなければならない。
 全体を3回の公演に分けることのデメリットは、まず忠臣蔵というドラマの成立全体にかかわってくる。悲劇はまだ始まったばかりで、いわば仕込みの段かいである。その劇的緊張が続かない、一つの世界が終わらないままに、まったく別の時間が始まる。
 そこに不安というより、根本的な問題を感じる。

 第二に、演者の問題。「忠臣蔵」は総力戦である。演じる側にも大きな試練である。
 公演ごとに、どの役を、どの段を割り振られるかが、現状の自分の立ち位置となる。それは毎回、さながら演者の方々の「番付」を見る思いであった。しかしこの上演の仕方ではそれが確とはわからない。
 「忠臣蔵」の中の役、それは文楽の内部にある厳しい芸の秩序を示すものではなかったか。
 歴史を紐解けば、国立劇場ができた昭和42年ごろの文楽は、やはり人数的に現在と大差ない陣容で通しをかけている。今回は3分割というやり方だが、それが問題と感じられるのは、おそらく夏公演の五段目から七段目、11月の八段目以降の時であろう。
 花形の役が、特定の技芸員だけに集中されないだろうか。もしそうなら、ベテランも若手も、それぞれにしどころのある役を与えられ、それを精一杯努めることで、芸の上でも飛躍を遂げるという上演のもう一つの意味はなくなってしまうのではないか。
 
 本来通しの上演なら一人の人が良い役を独占できないようになっている。しかし3分割となると、それもどうなるか不安である。
 結局、いまの文楽で、いつも役が特定の人に集中してしまい、一方で実力を正当に評価されていないのではと思われる人がいる。そのために、舞台がマンネリ化していないか。
 役をどう割り振るかは制作の最も重要な仕事である。今回の3分割方式が、悪い前例にならなければと案じる。「忠臣蔵」での配役は、可能な限り、毎回新しい挑戦であるべきである。

 舞台は、この一度では終わらない。現在の舞台の質を保ったまま、この陣容を維持し発展させていかなければならない。新しい観客を取り込み、新しい時代の中で、なおもその美しさと情を発信できる文楽でなければならない。
 5年後、10年後のためにいますべきことは、この業と伝統を担う一人一人を活かし、その芸をきちんと評価し、芸の伝承ができる舞台を作り続けていくこと。国立文楽劇場は35年の歴史を重ねたが、それが終わらないように、いまこそ、全力を挙げてその課題に取り組むべきである。

カウント数(掲載、カウント2019(令和元年)/05/01より)