開かれた扉 ―狂言風オペラ「フィガロの結婚」大槻能楽堂版―

森田美芽

 大槻能楽堂に足を踏み入れる時、いつも異空間に身を置くときの緊張感が走る。
 何度通っても、そこには素人に対する結界のように、興味本位など跳ね返されるような、見えない力を感じる。それでいて、舞台は三方に向かって開かれ、正面、脇正面など、様々な見え方を許し、自由な想像を働かせ、舞台と一体になる感覚をいつも味わうことができる、不思議な空間である。
呂太夫フィガロの結婚 
 昨年、いずみホールで見た狂言風オペラ「フィガロの結婚」が、2019年3月20日、大阪での能のホームグラウンドともいうべき大槻能楽堂で再演された。その楽しさ、そしてそこに深く感銘を受けたことを記しておきたい。
 
 能楽堂で演じられることの意義。それは、能・狂言の役者にとって、身体に叩き込まれた動きのリズムが最大限生きることである。
 三間四方、狭いはずの空間を最大限に使い、道行の足取りもなめらかに、目付柱の前でぴたりと静止し、階(きざはし)を上り、三味線の友之助の陰に隠れ、そうした動きの訓練された自然さに、まず心を惹かれた。
 太郎の野村又三郎氏の重厚さと軽妙さの微妙なバランス、お花の茂山茂氏の、太郎との軽妙な掛け合いと女の強さのバランス、蘭丸の山本善之氏の、「蝶々」のような身軽さ、茂山あきら氏のおあきの、女の抜け目なさ、どれもこの舞台では自然な笑いに包まれる。
 男性が女性を面もなしに演じて、なおも何らの不自然さも感じさせない力。風刺を取り込んだ軽やかな科白の数々、どれも狂言ならではの楽しさを満喫させていただいた。
 
 対して、奥方を演じる赤松禎友氏。金地の唐織の華やかさと、増女(?)のバランスの美しさ。この舞台で唯一、嫉妬や恨みのマイナス感情を体現しなければならず、それがフィナーレの「赦し」へとつながる難しい役どころ。
 赤松氏は、長年の修行で積み重ねられた「女」の恨みとその昇華という、能の普遍的な主題への親和性がもはや血肉となっていると思われた。その自然さが、一見不自然なフィナーレの「赦し」を納得させたに違いない。
 わずかに彼女が本音を表わすかと思われたその舞の美しさ、構えや運びの自然さの中ににじませる人間性こそ、この舞台を生きる場としてきた方の本領であろう。
 
 しかし、身体性の確かさは、文楽も負けてはいない。
 勘十郎の遣う在原平平、人形なるがゆえに生々しさを消し、滑稽さ、風刺が一段と効く。狂言の方との絡みも、嫌味や不自然さがかえってなくなるという不思議。
 この首は以前、国立劇場で2014年に「不破留寿之太夫」に作られた首である。やや大きめで愛嬌があり、この役柄にぴたりとはまる。
 勘十郎の手にかかると、生身の人間以上に人間らしく見えるが、足は宙に浮いているのに、どうしてこんなに自在に体を動かして自然なのだろうと、人形遣いの三位一体の妙技に陶然となる。左は簑紫郎、足は勘介。
 
 橋掛かりにはクラングアートアンサンブルの方々が横一列に並び、伴奏ではなく、舞台において対等の位置を占めることを表現している。
 その音の自然な明るさとリズムは、西洋音楽の古典が身体に宿っている者たちの自然な音の現れのように聞こえる。

 そして今回、改めて知った音楽の楽しさ。普段はこの空間でまず聞かれない洋楽の管楽器とコントラバスの響きの広がり、高音の柔らかい伸びやかさ、低音の効果。
 そして義太夫三味線が、普段のメリヤスや三番叟から、「フィガロ」の「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」まで演じることのできる表現力の広さ。
 友之助ならではの音楽性が、義太夫三味線のもう一つの豊かさを引き出した。モーツァルトの曲と義太夫の間に、全く違和感を持たせない。この構成は見事である。

 しかし、この舞台の要は、音楽だけではなく、義太夫節の語りである。
 モーツァルトの曲は金管・木管とコントラバスの八重奏、狂言の語りと能の謡は生身の詞、その間をつなぎ全体を物語として語る豊竹呂太夫の語りの力。
 時に平平の科白で笑いを取り、その人間性をにじませつつ、人形と人間の異空間を一つにする語りの楽しさ。
 人形でしか表しえない平平のキャラクターの面白さを、人間とのやり取りに自然に引き入れる力である。
 
 それにしても、狂言を軸とする笑いの趣向の楽しさはどうだろう。
 愚かな主人を下僕がとっちめるという趣向は狂言に共通するが、主人が風流を解さないのは『萩大名』を思わせる。
 そして現代の笑い(吉本など)のアレンジや、時勢への風刺のきいた詞(忖度、隠蔽、市長と知事の取替選挙など)はさすがと思わされた。
 これに対し、文楽も負けてはいない。「約束じゃぞ」とおあきを見送るところは「すしや」の権太、三番叟にメリヤス、文楽を知る者には思わずくすり、となるような趣向がそこかしこに埋め込まれている。
 無論、知らなくても十分楽しいが、古典を楽しまれる方には宝石探しのような楽しみのある舞台である。

 そしてフィナーレ。出演者全員による挨拶に、この能楽堂の当主であり、この舞台の芸術総監督の大槻文蔵師が加わる。
 拍手がなりやまない。
 能楽堂では普通ありえないアンコールが自然に起こって、誰の心にも、満足があったことが分かった。
 作者の片山剛氏が言われるように、「誰もが幸せになる舞台を作りたい」と言われた通りの舞台になった。

 そしてこの舞台に立たれた時の、大槻文蔵師の、静謐で気品に満ちたたたずまい、それがすべてを物語っている。
 1400年の歴史を持つ難波宮跡のある上町台地、その中で戦争の災禍を経てこの能楽堂を守ってこられた矜持と使命感。大阪の都市格ともいうべき町の品格を保ち、なお庶民に愛されてきたこの貴重な場を私たちがいまも楽しむことのできるという幸い。

 いままた、次の時代に向けての新しい能楽堂のために、能楽の次の世代のために、また大阪の古典芸能のために働きを止めないその姿勢に、古典を愛する者の一人として、深く尊敬を表したい。この志が舞台を作り、生きる人々に喜びを与え、明日への力を生み出す「衆人愛敬」となるのだと。

カウント数(掲載、カウント19/03/21より)