ヤクルト圧倒的有利の潮目

日本シリーズ、ヤクルト圧倒的有利の潮目を変えたのは第五戦5回裏のオリックス吉田のホームランやと思います。この日ヤクルト高津監督は大胆にも今年二戦しか経験のないルーキーの投手を先発させた。ヤクルトが2点先制したが、四回の裏オリックスに同点にされたのだ。にもかかわらず5回の裏にもルーキーを続投させた。TV解説者も、え?まだ投げさせるのですね、と。これにはヤクルトの選手もえっ?と思ったのでは?

井上達夫先生より「冥途の飛脚、封印切の段」感想

井上達夫先生(法哲学)より先日の素浄瑠璃「冥途の飛脚、封印切の段@国立小劇場、に関するメッセージをいただきました。〜
『忠兵衛が封印切に走った真情を梅川に吐露する場面に強く感動しました〜義太夫を聴き終わった時、忠兵衛は〈愚劣で身勝手な男〉から真の意味で〈悲劇的人物〉に変わっていました〜リアリティを我々に理解させるのは床本に書かれた言葉ではなく、深い意味を語りによって鮮明に浮かびあがらせる義太夫の芸であると思います』
全文は豊竹呂太夫のホームページに掲載させていただきます。

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以下、井上先生からの全文です。そのままお載せします

私たち夫婦が初めて鑑賞させていただいた呂太夫師匠の公演は、たしか「傾城恋飛脚新口村の段」だったと思います。近松の「冥途の飛脚」を改作したのが「傾城恋飛脚」ということで、今回はこの近松原作、しかも、忠兵衛が梅川とともに実家に逃げる「新口村の段」の前提になる「封印切りの段」を鑑賞させていただき、物語の世界にさらに奥深く引きこまれました。
八右衛門の人物像が近松の「冥途の飛脚」と「傾城恋飛脚」とでは異なり、近松原作の方が八右衛門を人間的により深みのある人物として描いていることがよく分かりました。
今回、忠兵衛が八右衛門に50両を投げつけたときの梅川の「くどき」もさることながら、忠兵衛が封印切りに走った真情を梅川に吐露する場面に、私は強く感動しました。
公演鑑賞前に、私は事前に床本をネットで見つけ読んでおりました。しかし、この忠兵衛という人物に対して、「なんと馬鹿で情けない奴」という印象しかありませんでした。一度、50両の封印切をして八右衛門に許してもらいながら、梅川身請けのためにさらなる横領をしないよう八右衛門が遊郭関係者に事前に手をまわしたのを誤解して、さらに300両という大金の封印切りをし、その中から50両を八右衛門に投げつけるというのは傍目には愚劣で手前勝手としか言いようがない。
しかし、忠兵衛が吐露する封印切の真情についての師匠の語りを聴いていると、忠兵衛がこの破滅的な行為に走らざるを得なかった彼なりの「内的必然性」がひしひしと伝わってきました。忠兵衛を更なる犯罪に走ることから救いたいという思いからとはいえ、八右衛門が忠兵衛の最初の50両の封印切りの事実を遊郭関係者に漏らしたのは、忠兵衛にとって、自分の恥をさらす裏切りと思えた以上に、梅川の恥を花街にさらすもので、許せなかった。懐の三百両の封印切りを一旦は思いとどまるとき、忠兵衛は心中で次の言葉を発します。
「若い者に恥をかかせ川が聞いたら死にたかろ」
そしてついに封印切りをしてしまった後、梅川に次の告白をします。「今の小判は堂島の御屋敷の急用金、この金を散らしては身の大事は知れたこと、随分堪えて見つれども、友女郎の直中で、可愛い男が恥辱を取り、そなたの心の無念さを晴らしたいと思ふより……」
事前に床本を読んだとき、これらの忠兵衛の言葉は私の中を素通りしていました。しかし、師匠の語りを聴いて、ここにこそ忠兵衛の本意があることが鮮明に伝わって
きました。
忠兵衛にとって、自分の恥の暴露は、こんな情けない男を「可愛い男」と愛してしまった「川」こと梅川を「友女郎」たちに馬鹿な女と嘲笑させるもので、八右衛門の
罪は、忠兵衛自身に対する侮辱にではなく、あるいはそれ以上に、忠兵衛が愛する梅川に対する許し難い侮辱にあった。
三百両の封印切が大罪であり身の破滅になることを忠兵衛は知りながら、「そなたの心の無念さを晴らしたいと思うふより」、つまり、梅川の無念を晴らすために、この大罪に走ったわけです。梅川もそれが分かったからこそ、忠兵衛とともに破滅の道、「地獄の上の一足飛び」を一緒に飛ぶことを選んだ。
師匠の義太夫を聴き終わった後、私の中で、忠兵衛は「愚劣で身勝手な男」から言葉の真の意味で「悲劇的人物」に変わっていました。もちろん、自分の恥辱を、愛する女の恥辱と同視するというのは、現代の我々から見れば、男の身勝手と突き放したくなるところでしょう。江戸の花街の世界でも、「金の切れ目が縁の切れ目」というような醒めた打算はありました。
しかしそんな汚れた世界でも、泥の中に咲く蓮の花のような男女の真の愛というのはある。
「傾城に誠なしと世の人の申せども……」という禿の語る浄瑠璃の言葉は、遊女とて真の愛を抱く存在であることを訴えています。
忠兵衛と梅川の間には、自分への侮辱が相手への侮辱でもあると両者ともに受け止めるような「二つにして一つ」という一心同体の愛の関係があったのでしょう。
ふと、若い頃読んだ吉本隆明の『共同幻想論』を思い出しました。男女の愛を中核とする「対幻想」の世界は、外から見れば「幻想」ではあっても、法律や社会秩序という「共同幻想」と個人を対峙・対決させるだけの強い「心的リアリティ」がある。
浄瑠璃の心中物は、対幻想と共同幻想の相剋という根本的な人間の生のリアリティを描いています。
しかし、そのリアリティを我々に理解させるのは、床本に書かれた言葉ではなく、その深い意味を語りによって鮮明に浮かび上がらせる義太夫の芸であると思います。
今回の師匠の御公演で、このことを改めて感じさせられました。

床きわまでぎっしり

今日の平塚も盛況。千秋楽、感謝。普通あけている床きわまでぎっしり。封印切、八右衛門の意味深な性格語り。けっして友達思いなことおまへん。「獄門の種ご覧なれ」と廓の皆んなに忠兵衛が差し出した偽物の器を披露した時点で忠兵衛は終わってます。三百両封印切はオマケ。八右衛門の二重人格は秀逸でっせ。