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茶漬け食うてひと寝入りのつもりが…

昨日は疲れてたんですねえ、夜の9時過ぎにウトウトして…目が覚めたら今朝の8時過ぎ。
ムカつきイライラを素直に日記に書いてホットしたんですなあ。
タカシさん、タミコさん、メイコさん、ホームページの方へ励ましメールやら共感メールを有り難う御座います。
返答が返ってくるのは嬉しいものです。
このところ『居眠り』『八介君のこと』『和知にて』等に反響がありますが、とりわけ、島田正吾の芝居を見て感激のカーテンコールに包まれた越路師匠のコトバ『感動するのは劇評なんかとちゃう、実際その場にいるお客さんなんや』がヒットしております。
ノーマルな品格のある賛同のメール、電話が届いております。

悲歌拾遺――追悼、鶴沢八介

森田美芽

 思えば、この2年の間に、文楽はかけがえのない人々を相次いで失っていった。
 緑大夫、相生大夫、呂大夫、そして鶴沢八介、さらに吉田文昇まで。
 悲しいというより、その一人ひとりの死と共に、もはや取り戻しようのない何かが、永遠に失われていく・・文楽は一体 どうなるのだろう。わけても鶴沢八介の死は、道半ばで、しかも49歳の働き盛りで、とい う痛ましさと、三味線陣のなかでいま、最も必要とされていた、ベテランと若手をつなぐ 立場の人を失ったという苦しさで、内心忸怩たるものがある。
 鶴沢八介という人の芸風を、一言では表わしにくいが、その端正な舞台姿に思いを致す 人は多い。派手ではないが着実な人、端場の大夫を助けて物語の骨格を作りだし、道行で あれば2枚目あたりで変化を面白く聞かせ、ベテランと若手をつなぎ、共に支える、貴重 な役割を、淡々と、しかし見事にこなした人だった、と思う。
 英大夫とのかかわりで言えば、忘れがたい舞台が2つある。
 一つ目は、1997年1月の研修発表会で「合邦」の奥を丸一段弾いたこと。「英旅日記」 によれば、暮れ正月を返上しての50回以上の稽古であったという。むべなるかな、と思っ た。このときの「合邦」は、私にとっても衝撃であった。
 この英―八介の「合邦」を見た とき、私は人間のドラマとしての「合邦」に惹きつけられた。それほど、実感をもって感 じられたのだ。
 玉手は、俊徳丸に恋しているのかいないのか、思わずくらくらとなるよう な玉手の思いの複雑さ。そう、恋してはならないと自らを鎖しているのかもしれない。そ のこと自体が、溢れるような想いの現われではないか。
 そして、そういった情念を浄化す るような、犠牲としての死。その間に封印された玉手の想い。解釈としては、むしろ明快 であった。ひとつの完結した世界として提出されていたと思う。
 だが、私にとっては、か えって玉手の謎は深まった気がする。
 そう、割り切れないことが、この場の誘惑なのだと。
 八介の三味線は、本当に気迫のこもった、一貫した主張が感じ取れる、そういう三味線だ った。
 そして太夫が三味線をリードし、三味線が太夫に挑む、その中から生まれてくる見 事な調和。このとき、二人の間に、自らの芸の高みを求める、太夫と三味線の戦いを感じ ずにはおれなかった。
 もしこのとき、この三味線が八介でなかったら、私は英大夫と出会 わなかったかもしれない。そんな深い情熱を、心に持つ人だった。
 その一年前、同じ研修発表の時、彼は「御所桜堀川夜討・弁慶上使」の奥を弾いていた。
 その時、三味線の10年と20年はこうも違うものか、と聞いた。
 悪いというのではない。
 だが、技巧がどうのという以前に、この世界は、どうしようもなく年功によってしか磨か れていくことの出来ない何かがあるのではないか、と思われた。

 そんな形で、文楽の厳し さと美しさを、この拙い耳に教えてくれた人であった。
 もう一つ、1997年8月、大東市市民会館における青少年芸術劇場の「野崎村」(英・八介) のこと。つまり「野崎村」の地元で演じられたときのこと。
それにしても、と思った。
 どうしてこんなにこの物語の世界から隔たってしまったのだろう、とため息をついたのを覚 えている。
 野崎参りの歴史、お染久松の悲恋、大阪人の心に深く刻まれたこの物語が、こ の当地で、どうしてこんなに遠く感じられたのだろう。
 それは演じる人々のせいではない。 だが、もう義太夫は、大阪人の共通の精神基盤ではなくなっているのだ。そんな悲しさを 覚えた。
 舞台の方はむしろのびのびと演じられていたように思う。二人の幼い恋、切々と訴える 父、自ら身を引く健気な犠牲。そしていよいよ段切れ、三味線の連れ弾きでの聞かせどこ ろ。
 生き生きと美しく、はぎれよい八介の三味線に呼応して連れ弾きの団市の音色の小気 味よさ。その三味線の華やかな合奏が、かえってその悲しみを際立たせる。
愛し合う二人 の未来の絶望と、それと知らぬ気の駕籠と船頭のチャリめいた仕草。その距離、それを眺 める精神の距離を感じることができた。
 こうなると予測し、それにたがわぬ響きに身を委 ねることができる。うっとりとその喜びをかみしめることができた、幸いな一時であった。
舞台後、不躾にも紹介もなしに楽屋を訪ねた私に、八介氏は快く応対し、サインを下さ った。用意がなかったので、持ち合わせた「艶容女舞衣」の文庫本に。
また連れ弾きをさ れた団市氏にも並んで書いていただいた。それから数年を経ずして、八介氏は早世、団市 氏も病のため廃業された。
 このサインは、あまりにも貴重な記念となってしまった。

 ほかにも、いくつかの舞台を思い出す。
 「雪狐狐姿湖」の鮮やかな、彩り豊かな世界の描 写、「二人かむろ」のぽってりはんなりした風情、「平家女護島・六波羅」では、数多い大 夫を語らせつつまとめ、「忠臣蔵・雪転し」では、ベテラン、松香大夫と共にこの段の面白 さを聞かせてくれた。その一つ一つを忘れることができない。
 その人がいることで、確か に舞台が一本芯が通り、一枚豊かさが加わる、そんな中堅としての役割を果たしていた人 だった。

 もう一つ、触れておきたい。氏は国立劇場研修生出身者の一人として、よい成果を残さ れた。
 つまり、この研修が始まった当時、文楽を初めとする古典芸能は深刻な後継者難で あった。
 この計画が発表されたとき、幼い頃からの修行が大事、とする人たちからは、成 人になってからの入門者である彼らに、危惧する向きもあったと聞く。
 事実、1期、2期 生出身で、廃業、転業した人は多い。
 彼はその中で、まだ世間の評価も定まっていない研 修生という道を選び、誠実に努力を重ね、ここまでになった。
 成人してからでも、本人の 気概と努力により、25年を勤めれば、ここまでになりうるという可能性を、事実として 後輩たちに示しえたのである。
 それなればこそ、3期の錦糸、4期の燕二郎、5期の宗助 始め、有望な若手が続くことになったのだと思う。

 それだけに、惜しい人をなくした、ではすまないことを思う。
 彼が果たしえなかったこ とを継ぐために、研修出身者では12期以下の団吾、喜一朗、清志郎、龍聿、清丈、そして 清太郎、清馗、寛太郎、彼らの一層の奮起と精進を期待したい。
 文楽に新しい可能性を見 出すことができるとすれば、そうした彼らの成長以外にはないのだから。
(2001、6, 3)

旅日記を書く心得

自分の日記を読み直すと、嫌になりまんなあ。
何か自分を美化したような、いつも充実しているような事ばかり書いて。
きのうは、木石(ぼくせき)とか、おとといは、チーボーとか、その前は賀茂川の涼風とか・・エエ加減なことヌカセっちゅうねん。
内実はそんな陽気じゃおまへん。
今夜も和知で、ひとり食事してまんねんがな。
美化して書こうと思たらなんぼでもかけまっせ。
今日は一日中雨降っとったしワテのこんころ持ちはサッパリですがな、本当は。
いったい、誰が充実した人生を送ってまんねん。
そんな人いたら、手を上げておくんなはれ。
茶漬け食うて寝よ。

木石(ボクセキ)

目が覚めて、深夜の二時過ぎ(6月6日)・・今、用事で京都府の和知にいます。
山村といったイメージぴったりのところで、駅前の『角屋旅館』に客はボクひとりでんねん。
トイレに行くのも恐い位、しん、としています。
この地には郷土芸能として、人形浄瑠璃の『和知文楽』があり、春子大夫師匠(私の最初の師匠)からの関わりでボクはここへ昔からチョクチョク訪れます。
これからは鮎、冬は桜鍋(イノシシ)がおいしい所。
目前には《長老ヶ岳》の連峰が見渡せ、昼間でもあまり人を見かけない、シンプルな風景に溶けこむと、そこらの木石になり、感情を見失います。

チーボー(綾戸智絵)から、TELいただきました。

先日、東京公演の折、大阪のKさんから『綾戸智絵さんのコンサートへ行きますが、何か彼女に伝言することありますか』とのメールをいただき、『八介君の事を是非、伝えて下さい』と頼みました。
そしたら今日、チーボーからTELが入り『先日はKさんからエエ楽屋見舞いをもらい有り難う、ところで八っちゃん、アカンかったんやねえ・・私、なんかすることある?』と言うので、近々、八っちゃんの四十九日の会をする予定らしい旨伝えたところ、その時、花とメッセージを送らせていただきます、との返事が返ってきました。
当日、非常に印象的なメッセージが届くようです。
5月22日付けの日記のように、八っちやんは根っからのjazzファンでした。