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「異なる者」から「共にある者」へ――2020年初春公演

森田美芽

 文楽劇場の1月は華やぎに満ちている。睨み鯛、凧、繭玉という、いまは庶民の暮らしからも離れつつある正月の風習が、人の心を湧き立たせる。何か新しいものが始まる予感。
そ して竹本津駒太夫の六代竹本錣太夫襲名というめでたい初春公演、その華やかさと賑わいの反面、心にかかることがあった。

2020_初春文楽公演-B2ポスター 
第一部、幕開きは『七福神宝の入舩』床には七挺七枚、太夫と三味線がずらりと並び、舞台は宝船をせり上げるという大がかりなもの。三輪太夫の寿老人が新春を寿ぐのにふさわしい一声。清公の琴が安定感あり。靖太夫の布袋は愛嬌ありユーモラスな語りに清五郎のゆったりした遣い方。津国太夫の大黒天、胡弓は友之助、その弓使いに客席も沸く。勘市は巧まざる遣いぶり。弁財天は芳穂太夫、琵琶に似せた三味線の音を響かせる清友。紋臣、ゆったりとあたりを払う動きが美しい。福禄寿は亘太夫、長い頭を伸縮させ、力いっぱい弾けて笑いを取るのは紋秀、友之助の曲弾きがさりげなくすごい。恵比寿は碩太夫、簑紫郎が鯛を釣り上げるところをしっかり見せる。恵比寿ビールのご愛敬。毘沙門は文字栄太夫、亀次、武骨さの重み。最後に玉志の寿老人が杖を掲げると、「祝六代錣太夫襲名」の文字が。こうして盛り上がったところで、襲名の舞台に移る。

 今回の襲名披露狂言は『傾城反魂香』「土佐将監閑居の段」通称「吃又」と呼ばれる段である。襲名の錣太夫の緊張した面持ち、床上での口上は六代呂太夫が語る。新錣太夫の若い日のエピソードが微笑ましく、いかにも生真面目な人柄を思わせ、観客席もほっと明るい気持ちになる。
 舞台も素晴らしかった。口を希太夫、團吾。短くともすっきりとまとまり、描き分けは確か。奥。新錣太夫の語りは、又平の一途さ、必死さとそれが伝わらないもどかしさの内に、彼の深い絶望と、一転してそこから救われた喜びがまっすぐに伝わってくる好演であった。差別された者が必死で戦い、それを妻が支えようとする。貧しさと困難の中に希望を見出そうとする二人の強さと誇り、そうしたものを感じさせる真実さが錣太夫の魅力だろう。宗助もよくその糸で支え、ドラマを描き出した。勘十郎の又平の、朴訥な誠実さと絵師としての誇り、にも拘らず障がいのために嘲られる者の悲哀と苦しみ。それを支える女房おとくは清十郎。夫を思う一途さと、夫に代わってしゃべる積極性と、やはりただの町人ではないと思わせる物腰の上品さが相まって、もう一つの主題である、助け合って生きる夫婦愛の絆の確かさを感じさせるものだった。又平のかしらはどちらかといえば三枚目のおかしみがまさる。動きの中にもそれを強調するところがある。その動きのユーモラスな仕草に、観客の笑いが漏れる。
 しかし、私の中に止めるものがあった。それは、笑ってよいのか?という、言葉にならない感覚である。あえて言うなら、違和感のようなもの。最後は障がいが治りハッピーエンドとなるものの、又平の、現在でいえば発話障がいに対する師匠や周囲の対応は、今日では絶対に許されないものである。そして又平の必死の詞の数々も、もしそこに、同じような障がいのゆえに差別された人にとって、それが太夫の語りの芸の一つであるとしても、同じような痛みを覚えるものではないかと思わされた。
 
 文楽にはしばしば、「異なる者」が取り上げられる。それは、身分の低い者、外国人、女性、そして障がい者など、差別や抑圧を受ける存在である。そして障がい者に関して、かなり残酷な描写や、昔の差別の名残を見て私たちはそれを痛ましいと思い、あるいは怒りを覚える。それはもはや、私たちの感性が、差別することはいけない、人権にもとることであるという感覚によって生かされているからだ。
 障がい者の扱いも、例えば『敵討襤褸錦』(かたきうちつづれにしき)の中の巻のように、知的障害者を仇討の邪魔になるとして殺す(つまり犠牲になる)場合もあれば、『壺坂観音霊験記』のように、視覚障害が癒されめでたく終わるケースもある。
 さらに『摂州合邦辻』の俊徳丸のように、病に侵された身を義母玉手御前の犠牲によって癒されるケースもある。しかしどの芝居でも、その途中で差別を受けたものの述懐に、心が刺し貫かれるような辛さを感じる。それは紛れもなく、我々の先祖の世代が作り出した感覚である。私自身、昭和の時代になっても、障がい者に対し世間がどれほど冷たかったかを明白に記憶している。その感覚が呼び覚まされるのである。そこから、障がい者を差別すること自体が正しくないという社会に変わるために、どれほどの時間と当事者の戦いがあり、そして日本自体が変わる必要があったかを思うと、感慨深いものがある。
 「異なる者」すなわち「例外者」「少数者」が犠牲となる。これらは文楽を始め、歌舞伎にも、また今日の時代劇等のドラマにも共通する主題であるが、彼らは共同体から少しはみ出た「異なる者」である。彼らは武家社会の倫理や町人の倫理など、それぞれの属する共同体の「義」を優先させる(敵討、お家の再興等)ために犠牲となる。この犠牲によってその「義」が実現する。あるいは「浄化」が起こる。奇跡によって病が癒され、穢れが浄化される。かくして彼らの犠牲は観客の同情とカタルシスを呼ぶものとなり、娯楽としての演劇に欠かせない要素となる。しかしその「義」自体は問われることもなく、少数者の犠牲をなくする方向へ向かうのでもない。この発想の中からは、犠牲者が死んでからの追悼はあっても犠牲は繰り返される。この理不尽さは残ることになる。
 しかしこれはまた、現代の日本でも繰り返されている悲劇ではないか。それを思うと、私たちは、文楽でこうした差別を扱う作品を避けるというよりも、あえて記憶するために、残すという意味もあるのかもしれない、と思った。いま忘れてならないのは、こうした差別の中で生きた人々の声、そしてそうした差別が現に存在したことであろう。むしろそれを忘れないための棘のようなものであるのかもしれない。私たちはかつて、どんなふうに人を傷つけ、貶めてきたか、それをどのように克服してきたか、それに直面した時、どんなふうに感じ、そこから変わってきたのかを記憶しておかねばならないと思う。
 おそらくこれからも文楽を楽しむうえで、避けられない問題となってはくるだろう。少なくとも、但し書きは必要となるかもしれない。ポリティカルコレクトネスというだけではなく、私たち自身の感性が、そうした一方的な差別や抑圧に本能的な忌避を感じるようになってきているからだ。なぜいま、この芝居なのか、なぜこうした表現をするのか、あえて説明しなければならない世代が多数になることは、ある意味喜ばしいことかもしれない。その時にも、伝わる真実があるかどうか、文楽の芸は、そうした普遍性を問われるものとなるのではないだろうか。

 続いて『曲輪ぶんしょう』の華やかさと色町の風情、そして伊左衛門の大家のぼんぼんらしい振る舞い、新町の廓は失われても、その美しさと人情はこうして芸の上に残されている。しかし今回、掛け合いで上演するのは、咲太夫の負担軽減のためだろうか。夕霧の織太夫、楽日近くには声が出なくなっていた。夜の「長局」の影響と思われるが、まだ肚からの声になっていないということだろうか。藤太夫・南都太夫、咲寿太夫らが力を添える。燕三、ツレ燕二郎、清允。なんと艶やかな、しっとりと語りかけるような三味線。口は睦太夫、勝平、ツレ錦吾。伊左衛門は玉男。はんなりとした色気よりも、大家のぼんぼんらしい甘さと夕霧に対する甘えが交錯する駄目男ぶりの内に気概を感じさせ、和生の夕霧は華やかな貫目を見せるが、遊女らしい性根とは少し違うものを感じた。勘壽の喜左衛門は隙のない亭主、おきさに簑助という贅沢に、観客の目がその一点に注がれる。獅子太夫の玉翔が見せ場を作り、勘次郎、勘助、簑之の仲居トリオが楽しくからむ。

第二部『加賀見山旧錦絵』は、昨年を通して上演された『忠臣蔵』の世界をちょうど女性たちの奥の世界に移したもの。「草履打」場面は鶴岡八幡宮、『忠臣蔵』なら大序に当たる。幕が開いた時の両側に対照的に広がる2つの勢力の対比や、敵役の師直を、同じく憎さげな局岩藤に、いじめられる塩谷判官を中老尾上に転じ、一方的ないいがかりでのいじめを見せる.
岩藤の呂勢太夫が休演で代役は靖太夫。尾上を芳穂太夫、善六は小住太夫、腰元が亘太夫と碩太夫、三味線は清治。
 「廊下の段」籐太夫、團七。腰元たちの噂話、岩藤とお初の心理戦、詞で聞かせる。
 そして「長局」、前を千歳太夫、富助、後を織太夫、藤蔵。千歳太夫は何度か手掛けて変わってきた。例えば、お初が尾上の気を紛らわせようと、芝居の話を振るところ。主君を諫めようとする必死の覚悟が伝わってきて、後へと続く思いを印象付けた。富助はその緊張を糸に乗せて伝える。織太夫はお初の激情を爆発させる。藤蔵もさらに強く導く。その畳みかける迫力。
 転じて「奥庭」、靖太夫、錦糸。靖太夫は今日3度目の舞台だが、小気味よく運び、一気に留飲を下げる段切れへと向かう。短いが錦糸は彩り豊かに弾く。
 人形では、和生の尾上が中老の品格と死を決意した嘆きを肩で表現して見事。玉男が岩藤で憎い敵役の強さ。文哉の善六がきっちり性根を見せ、玉誉、簑太郎の腰元が動きも大きく楽しい。勘十郎のお初が誰よりも生き生きとこの舞台を動かしている。お初の強さ、尾上への忠誠というより、姉妹のような絆、それを理屈抜きに納得させる生きたお初。玉佳の安田庄司が最後にいい役で出てくる。

 『明烏六花曙』は平成八年の初春公演以来だから、実に四半世紀ぶりという珍しい狂言。それも文楽では珍しい新内からの作品である。色っぽい作品かと思ったら、次々と趣向は変わるし、登場人物が多く、どこかで見たような趣向が続く。これは一体何なのか、どう解釈すればいいのか。いささかの戸惑いを感じながら見ていた。
 なぜ、ここに浦里がいて、娘が禿にならなければならないのか。なぜ時次郎が死ななければならないのか。それでもみどりの健気さ、浦里の哀れが自然に耳に入ってくると、いつの間にか時代を超えている。髪結のおたつの存在感。こうなった様々な事情があることを、語らずとも理解し、それとなく支え、浦里一家を助ける、こうした人物が、と思った時、また別のことに気づいた。人生の機微をよく理解し、また気の回る役どころ、懐深い、苦労人だが自立した世話の女性。庶民の暮らしの中にあるリアルな存在感にはっとさせられる。それは、生きて苦労してきたからこその粋なのだと。そうした庶民の暮らしの中で育まれた存在感であると。

 一転して雪の責め場、亭主勘兵衛の俗悪ぶりや遣り手おかやの女の残酷、さらに最後に出てくる手代彦六。この人物は文楽の独自の趣向というが、自分では粋でもてる男を自認しているが、結局的外れの思い込みで、主人公を助ける「デウス・エクス・マキーナ」の働きをしてしまう、という役どころ。その軽薄さやうぬぼれまで、どれもがリアルで、どこにもあると思わせる、こうした人物一人ひとりの語り分けが見事であると思った。詞ひとつでその人物の人生観、これまで生きてきた重さ、直面している困難や感情、その絡みのあわいまで響かせる。
 その難しさを、呂太夫・清介が1時間余り、弛緩させずに語り、弾き、客席を惹きつける。その確かな造形に、呂太夫の世話物の底力を見る。江戸時代中期の、250年前の浄瑠璃の人物が、いまここで目の前に生きている、その感情をリアルに現在のものとして共感できる。昔の創作上の登場人物が、いま、ここで実感できるのだ。昔をいまに、人から人へ、思いを伝え、情を伝える。文楽の底力とはまさにそういうものだと実感させてくれる、呂太夫の語りの力を改めて思い知る一幕であった。
 人形では、浦里の勘弥は哀れさのまさる造形、みどりは玉路と和馬が交替で。玉助の時次郎は花ある二枚目。髪結おたつの情の深さを清十郎が描き、亭主勘兵衛の文司は敵役も貫禄あり、手代彦六は簑二郎が剽軽さをたっぷり見せてくれる。

 『明烏六花曙』の、新内の世界の再現も、確かに私たちは、失われゆくものとその感覚をここに共有している。時のはかなさよりも、そこに生きる人々の感情に、その生き生きとした生活感に、私たちは共感する。時代を超えて繋がっているこの共感を育てることが、私たちが文楽を愛する大きな意味に違いない。呂太夫も、錣太夫も、また他の方々も含め、そうした力を代表し、「昔いた者」を「共にある者」に変え、今日もまた、時代を超えた奇跡に出会わせてくれるのだ。
文楽のさらなる発展を期する1年でありたい。

掲載、カウント2020/02/28より)