カテゴリー別アーカイブ: 美芽の“若”観劇録

四位一体、四つの共鳴―2022年2月公演より―

森田美芽

『平家女護島』「鬼界が島の段」の冒頭ほど、凄まじい孤独と絶望を感じさせる作品は稀ではないだろうか。能では舞事の一切ない、甘さの全くない語り事である。それを踏まえた近松の文章に、呂太夫が息を吹き込む。「鬼ある処」「今生よりの冥途なり」「憔悴枯稿のつくも髪。」と、この世の地獄のあり様を描いて見せる。感傷など入る余地もない絶望的な状況で、しかもこの絶望が3年続いている。その凄まじさが否応なしに伝わってくる。呂太夫の語りは、その甘さを断ち切る、安易な気休めもないという状況を、声を通して伝える。安定した、中音の音域で、言葉の一つ一つの中に遠くまで届くような広がりを感じる。生身の私たちの世界との距離を作り出す。
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一転して、少将の恋物語の浮き立つような思い、千鳥の健康的なエロスが匂い立つような語り。あの絶望からの救いは、康頼の頼む宗教より、女性の生命力の力だと感じる、よどみない詞の数々。「面白うて哀れで伊達で殊勝で可愛い恋」に見られる、俊寛の年かさらしい思いやりが自然に伝わる。

一転して赦免船の到着、そして自分の名がないことの、再度の絶望。ここで3人が対立してしまうという構造の残酷さ。その地獄を耐えてきた同志の間柄にひびが入る、その絶望。さらに二転して、能登守教経の赦しが告げられ、すべてが報いられるとの喜び。
俊寛、康頼、少将夫婦、それぞれが未来を信じることのできるはずだった。それが再び絶望に突き落とされる。確かに瀬尾の言う通り、赦免された罪人のほかは乗せられない。だから丹左衛門も説得するように促したのだ。流人の三人は、瀬尾を敵として団結するが、権力に再びねじ伏せられる。ここでわかるのは、あくまで千鳥は人の数に入れてもらえない、差別という現実。
千鳥は嘆き悲しむ。恋を知り、夫婦となる。それまで一人であった者が、もう一人ではいられなくなるという絆を知り、千鳥はただ嘆き、恨みをぶつける。海女らしいストレートな、飾りのないクドキ。その嘆きを見た俊寛は、自分の代わりに千鳥を船に乗せようとする。「枯れ木のいざり松」のような体で、瀬尾に立ち向かい、丹左衛門の制止を振り切り、恨みの刀を向ける。

船を見送り、「思ひ切つても凡夫心、岸の高見に」の絶望。もはや声は届かず、野たれ死んでも誰にも看取られない。それほどの絶対的な孤独。
ここに冒頭の地獄の究極の姿が現れる。赦免船を迎えるという希望も一切絶たれ、共に分かち合う者のない、打ち捨てられるという絶対的な孤独を自ら選ぶという絶望。これこそが地獄だと、近松は書きたかったのだろうか。彼の浄瑠璃の段切れには、そうした人の世で巡る地獄の例えが多く出てくるが、これほど痛ましいものはないと思えるほどに。

その絶望の大きさを、希望と絶望の二転三転の中で確かに描ききった呂太夫。筆者が聞く限りでも、おそらく6度か、それ以上の経験を経て、こうした近松の描こうとした人の世の絶望と地獄を描き切るに至った。清介の糸が、的確に、その起伏に沿って物語世界を描いてやまない。詞の端々に決まる一撥一撥の気合と繊細の妙味。酔わせるよりもその世界から遠ざかるような、義太夫節独特の、段切れの広がりも。

人形では、玉男の俊寛は、登場時にはそれほど憔悴していないように見えてしまう。確かに表情はうつろで、はるかに見る視線も強くはない。
だが、その生命の根はいまだ枯れてはいない。孤島での生活に疲れ果ててはいても、その思いはまだ都にあり、それが彼を生かしている、そうした造形に見えた。なればこそ、妻が清盛に殺されたという嘆きが、千鳥と成経のために島に残るという選択が意味をもつ。玉男の造形は、そうした俊寛の「希望」の意味と「絶望」の変化を見事に描いている。
成経は文哉、若さゆえの一途さを感じさせるさわやかさ。康頼は玉翔、しっかりした存在感を示した。千鳥の勘彌は健闘。健康的な輝きとそれゆえの真っすぐな怒りが伝わる。瀬尾は玉助で見たが、敵としての強さとふてぶてしさが印象的。丹左衛門は代役の簑紫郎、形よく決まるが、情けの武士としての性格をより強く対比させると面白いのではないか。

観客も息を詰めて見守る、その緊張の後に『釣女』でほっと息をつく。『平家女護島』で人間の業の凄まじさを覗いても、それは長時間続けることは難しい。フェミニズムの視点からは批判されようが、あまりに典型的なルッキズムには笑ってしまうよりほかはない。

芳穂太夫が表情豊かに、この太郎冠者の面白さを語る。こちらもつられて笑いそうになる。小住太夫は端正なはずの大名の本音が聞こえてくる。そこで碩太夫の美女が出てくるが、どうも本当にお人形さんのようで、個性とか人となりが感じられない。そうした性根を出している。
だから締めに登場する南都太夫の醜女が実にチャーミングで、千鳥のように生きた女性として輝いている。
一方、錦糸の率いる三味線は、こうした景事でもあくまで義太夫節としての格を保とうとする。前受けを狙わない、派手に畳みかけることなく、一糸乱れぬユニゾンで淡々と舞台を進める。文司の休演で太郎冠者を玉助が代わる。瀬尾とは逆に、自然と愛嬌が滲み、芝居としての楽しさが出る。玉勢の大名は形よくさわやかな中に、大名らしい品位が垣間見える。紋吉の美女は愛らしく、清五郎は醜女の愛嬌と、一転しての執念を巧みに遣った。

呂太夫は語る。
「お客さんは、喜怒哀楽を巧みに演じる『意思のない人形(木片)』に自分を投影しつつ、己の想像力によって喚起される『私』自身の物語に出会うわけです」
人形は、それ自体では何の表情もなく、感情も表さない。ただ、太夫の語りを通して、それが感覚として入ってくる。だから、人形が生きた人間のように見えるのは、感覚と想像力の相乗効果によるものである。特に聴覚は微妙に感情を聞き分ける。物事の真実を直観的に把握する。それが私たちの中の記憶と結びつき、無意識のうちに感情の共鳴を作り出し、それが人形を通して、その「何か」を見出させるのだ。今回の舞台を見てその感を強くした。

だから、文楽は人形が注目されやすいが、その木偶に命を吹き込み、物語の中のその人物として感じさせるのは、太夫の語りであり、共に創る三味線である。
その声が、節が、詞が、生きた人間としての感情を聴くものの中に、自分自身の過去や現在、経験した感情を呼び起こす。だから文楽は大人の娯楽であり、年を重ねることで浮世の苦しみを味わうほどに共感できるようになる。

私たちは人形の演技を見るとき、それがうまいとか、人間のようだと感じ、次に、肩を落とし、肩を震わせるその姿に、言い表しがたい感情の高まりを理解する。でもそれを見いだせるのは、自分自身が死ぬほど悔しいとか、悲しいとか、裏切られて辛いとか、そんな感情を感じたことがあるからだ。
だから、文楽で感動するというのは、そうした、眠っている自分の感覚や感情を見出して、それを人形の演じるところに重ねてみる、そこで自分自身の経験した感情を反復することではないだろうか。

「反復」はキェルケゴールの鍵となる概念の一つだが、自分の中にあるものが、他者の中にも、自分の外にもあることを知って納得する、また一度経験したことを、再び見出すことである。それは未来に向かっての投機とも呼ばれる。過去を過去としてでなく、現在に見出し、その意味を新たに創造していく。そういう精神の営みを私たちは経験しているのだ。この舞台との出会いは、そうした観客の側の精神を通して感性される。

文楽の舞台は三業の闘いである。時にそれは、それぞれの思惑を超えたぶつかり合いと、新しい何かの生まれ落ちる場所となる。それこそは三業一体としての文楽だけが可能な創造性であり、芸術としての深みである。だがそれを見る観客は、そこに一人一人が意味を見出し、感動を作り出す。三業一体ではなく、観客を含めた四位一体こそが、文楽の舞台に出会う妙味である。そうした喜びを再発見させていただいた。コロナを乗り越えて務められるすべての技芸員の方々への感謝を込めて。

掲載、カウント2022/2/23より)
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春の芽吹きのように―2022年初春公演―

森田美芽

春の芽吹きのように、黒土にわずかに顔を見せたばかりの緑が鮮やかに薫るように、その時は少しずつ着実に近づいている。コロナの蔓延が、人々に劇場への足を遠のかせているいま、それでも途切れることなく、彼らの舞台は続き、その技芸の高みへと近づいている。
私にとっては27度目の初春公演。人は変わる。しかし、演目は人を新たに、繰り返される。時は巡りつつ、一人ひとりの内に、かけがえないものとして積み重ねられる。

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第一部、『寿式三番叟』翁を呂勢太夫、千歳を靖太夫、三番叟を小住太夫と亘太夫、ツレに碩太夫と聖太夫(後半薫太夫)三味線は錦糸、清志郎、寛太郎、清公、燕二郎。
人形は、翁を和生、千歳を勘市、三番叟は玉勢と簔紫郎。格を重んじつつ、意欲的な配役。
呂勢太夫はこの翁の格を保ちつつ、祝祭と祈りの荘厳さを示す。靖太夫は千歳に瑞々しさが欲しい。三番叟の二人は勢いと共にユーモラスな雰囲気も出ている。錦糸は鈴の段の14回のユニゾンもあまり緩急を目立たせず、それでいて人形にはたっぷりと、呼吸を合わせて遣う楽しさを見せるよう、心憎い演出。和生の翁は師を彷彿させる品格と穏やかさ、勘市の千歳は軽やかに、簑紫郎と玉勢はリズムよくテンポよく、また掛け合いの楽しさ、息の合った遣いぶりで客席を楽しませる。若々しい弾けぶりよりも、三番叟の福の種を蒔くことの大切さを、その歩みと動きに込めながら。
『菅原伝授手習鑑』「寺入りの段」芳穂太夫、清丈。芳穂太夫は詞がしっかりしている。今回、千代の詞で「これはマア御留守かいな」の一言に、初めてそれが持つ重みを感じた。あるいは「大きな形して後追ふの」の後の「か」の一言に込められたものが強く感じられた。ただ千代と戸浪の差がはっきりしないのと、地のさばきが時に荒く感じるところがある。清丈は淡々とその深さを伝える。

「寺子屋の段」前、錣太夫、藤蔵。この「前」での情の表現の豊かさ。戸浪の優しさ、源蔵の変化、「労しや浅ましや」の真情、小太郎を身代わりと決意してからの二人の苦悩、また「退つ引きさせぬ釘鎹、打てば/響けとうちには夫婦」などにじわじわ追い詰められる二人の苦悩を垣間見せる、情味豊かな前場。藤蔵のアシライの巧みさと強弱の幅。
、咲太夫、燕三。「ご夫婦の手前もあるわい。」はやや低く、あまり強めない。泣き笑いも含め、全体に抑えた中に哀切なる思いが籠る。いろは送りでは「散るぬる命是非もなや」の一節が全体を担うように。燕三はその薄闇の悲しみの色を滲ませる。
和生の源蔵、直情径行な忠義者。そして菅丞相から委ねられた筆法伝授の一巻をしっかりと祈念するところが、全段を通した源蔵の性根を明確に出している。一輔の戸浪はしっかり者の女房、だが母性というよりキャリアウーマンの顔が時折覗く。玉男の松王、動かずしてその性根を見せる風格と、父の嘆きの対比。勘彌の千代が好演。御台所の紋吉(後半玉誉)、情の深さを感じさせ、菅秀才は玉征(後半勘昇)で前半はおっとり、後半はきちんと品格を見せる、よだれくりが玉彦(後半勘介)で笑いを取り、玉峻の小太郎が健気で、簔之の下男三助は下手でしっかり芝居をしている。文哉(後半紋秀)の春藤玄蕃の小役人ぶりもいい。

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第二部、『絵本太功記』
「二条城配膳の段」掛け合いで光秀を三輪太夫、春長を津圀太夫、森の蘭丸を咲寿太夫、十次郎を碩太夫、中納言を南都太夫、勝平の三味線がドラマ性を描き出す。実際、主君を殺すということがどれほど重いか、母さつきが命を賭けて諫めるほどの重大事なのだ。咲寿太夫が蘭丸を勢いよく、その忠義心をよくあらわし、津國太夫の春長が肚に一物あり、南都太夫は中納言のさばきがうまく、三輪太夫の光秀は、なぜ主君殺しに至ったかを納得させる語り。碩太夫はまだやや単調だが衒いのない語り。

「夕顔棚の段」藤太夫、團七。最初に近在の百姓たちの表情、誇り高き老女、集まる女たち、謎の旅僧、十次郎の初陣。偶然ではない、その深さを、籐太夫は奥深く語ることができる。それにしても皐月の「戦場のこと聞きとうない、アアいやいや情けなやの浮世や」の何と響くことか。女たち三代の交流を團七がたおやかに奏でる。

「尼ヶ崎の段」前、呂勢太夫、清治。十次郎と初菊。「残る莟みの花一つ」からの十次郎の痛ましい決意から、「鎧の袖に降り掛かる」がまさに降りかかる雨の風情。それ以上に響くのは「嫁女、可哀やあつたら武士を」の嘆きである。この構成力、清治の糸が冴える。
、呂太夫、清介。「ここに苅り取る真柴垣」からの光秀の、一歩ずつ近づいてくるその迫力。そこから一転しての、母殺し。だがここで、皐月の詞がこれほど沁みようとは。「内大臣春長」の「春」にアクセント、つまり主君殺しをあくまで認めようとしない母は、苦しい息の下から「人非人」を息子に届くように言う。「不義の富貴は浮かべる雲」でその儚さを強調し、「百万石に勝るぞや」で道を説き、「主を殺した天罰の報ひは親にもこの通り」ここに、分かり合えない母と息子の悲劇がある。
この母の頑迷さ、光秀の見ている現実を認めない強さに対し、光秀はあくまでその必然性を主張する。そして十次郎の帰還。畳みかけるように「ヤイ光秀、子は不憫にはないか、可哀いとは思はぬかやい」と母は責め立てる。この義と義の対決、和解できない理の闘いに対し、何より十次郎の死への痛みが彼を決定的に動かす。
「さすが勇気の光秀も」から「雨が涙の汐境」でクライマックスに達する。実に、三業ともここがこの舞台の頂点としてこの上ない昂揚を覚えた。あとは汐が引くように、物語としては収斂していくのが見える。終始母皐月の重みを感じる舞台、そして光秀の、私怨ではない、男として武士としての義と誇りのゆえに、主君殺しを決意するその悲劇の全体から生まれるドラマの骨格を見事に描いた呂太夫、それにさらなる迫力を備える清介の三味線の縦横さ。

人形ではまず、勘十郎の光秀。悲劇の武将の骨柄、父としての嘆き。今回はその強さの中に大オトシへの緊張の高まりが素晴らしい。簔二郎の妻操、クドキの前に光秀に一礼する型、あれは姑の皐月への礼ではなかったか。あえて文七かしらの夫をいさめるという迫力が今一歩。
紋臣の嫁初菊。愛らしく、恋に憧れるような前半。後半、契ったばかりの夫を失うという悲劇を経ての覚悟への変化が著しい。玉佳の十次郎、スケール大きくさわやかな遣いぶり。すべての人から惜しまれる清らかさ。勘壽の母皐月。夕顔棚の隠居の中に見せる矜持、命がけで息子をいさめる迫力。この手強さがなければ、この舞台は生きない。玉志の久吉、実は光秀と対抗する強さとスケール。前半の旅僧姿にもその雰囲気が漂う。

 

第三部、『染模様妹背門松』ここでは大晦日の一日の内に起こる悲劇。「生玉の段」希太夫、清馗、ツレ亘太夫、清方。希太夫はこの若い二人のままごとのような恋路を、またその中で義理をわきまえた久松の苦悩を、「結ぶ互ひの悪縁も」から転じる調子に活かす。また善六の詞も明確。清馗はこうした大阪の町人世界の風情を的確に弾く。

「質店の段」千歳太夫、富助。冒頭、子の着物を質に入れる母の詞が利いている。そして久作の登場と、息子を諫めるその一言一言が響く。「今日を真つ直ぐに暮らすこそ人間なれ」が芯のように通っている造形。富助はこうした人々の心に寄り添うような三味線。

「蔵前の段」織大夫が病気休演で藤太夫と宗助。父の情けある言葉より、白骨の御文様よりも、久松と共に死ぬしかないという世間の壁に涙を誘う。お染のクドキもたっぷりと、宗助の澄んだ音色が冴える。
清十郎のお染と勘彌の久松。実にバランスがよく情味のある、しかしまだ幼いと感じさせる二人。清十郎は首を自在に遣い、簔助のそれを彷彿させる。しかし清十郎のお染は、14歳くらいだろうか、幼さゆえの一途さが迫る。勘彌の久松も然り。善六の出番が少なく簑一郎は少し気の毒。清五郎の質入れ女房がそれらしい。玉也の久作に年齢の重み、文昇はおかつで元気なところを見せる。玉輝の太郎兵衛もいい味を見せる。
通例、正月狂言は人が死なないようにということで、お染の亡骸を見せる演出は私も初めてである。通常は善六との絡みで、久松と逃げることが多い。

 

『戻駕色相肩』「廓噺の段」睦太夫、靖太夫、希太夫、咲寿太夫、小住太夫、文字栄太夫、清友、團吾、友之助、錦吾、清允。浪花次郎作を玉志、吾妻与四郎を玉助、かむろは簔二郎。
平成17年(2005年)以来の上演。次郎作の大阪と与四郎の江戸を対比で見せ、かむろの京を添えて華やかに仕上げる。三味線も軽やかに、はんなりと優しい。追い出しには相応しいだろうが印象が薄いのは否めない。

公演の終盤になって、呂太夫、錣太夫、千歳太夫の3人が切語りに昇進するとの報が入った。遅きに失した感はあるが、それでも大きな一歩である。この3人はすでに切場を語っており、その成果を挙げている。しかし「切」となることは、切の字が許されることは別の意味がある。名実ともに義太夫節の正統、これでなくてはという芸の境地を見せ(聞かせ)続けていくことであり、あらゆる意味で、格と規範が求められるのだから、責任は重い。今回の3人はそれぞれに、その重みを感じさせる舞台であった。その中で呂太夫の語りは、まさに義太夫節の正統を継ぐものであり、古典を現代に生かすものである。これからの一つ一つ語りに注目したい。

掲載、カウント2022/1/31より)

苦難のかたち―2021年錦秋公演―

森田美芽

文楽の時代物の主人公は例外なく男である。にもかかわらず、女性こそが影の主人公である物語がままある。というよりも、男だけの論理の世界で、人の追い詰められる理不尽を受け、その矛盾に苦しみ、何とかその中で生き抜こうとする女性たちこそが、この文楽の物語を、いまも生きたものとして伝える縁なのかもしれない。今回、日が経つにつれ、その思いが胸の奥に刻まれてさらに深いところに届くような感慨を抱いた。

第二部『ひらかな盛衰記』 「大津宿屋の段」靖太夫、錦糸、ツレ錦吾。
靖太夫の詞。とりわけ権四郎の饒舌が、働き者で武骨だが孫への愛に溢れる人物像がしっかり伝わってくる。この人物の造形がしっかり届くので、これ以降の段に一貫した人物像が見える。錦糸の糸が底支えする。
そしてこの段で最も印象的な清十郎のお筆。「大津宿屋の段」から「逆櫓」までの転変、敗れた木曽方に仕える男と女、わけても、ただ一人ですべての苦労を負わなければならなくなった彼女の運命が痛ましい。

「大津宿屋」で、お筆は慎重にならざるを得ない。偶然隣り合わせた隣客が、気の良い船頭の一家であると知っても、心を許さない。追手がいつ来るか、常に警戒し、その緊張を隠せないでいる。
その夜、番場忠太らの追撃に、ほぼ女一人で立ち向かい、男4人を相手の立ち回りを見せる。しかし父は忠太に切られ、駒若君は首を討たれる。その直後、取り違えた子であるとわかったが、あまりの心労に山吹御前も亡くなってしまう。しかし彼女には嘆く間もない。まだあたりには敵が忍んでいる。

主の遺骸、父の遺体、そして取り違えられた子の始末、駒若君の行方、全てが彼女の肩にかかってくる。絶望してもおかしくない中で、彼女は毅然と、山吹御前の遺骸を伐り倒した笹竹に載せ、運ぼうとする。女一人で、必死に引こうとする。「お筆の笹引」と呼ばれるこの段の哀切。咲太夫が語り、燕三が合わせる。清十郎が、女の細腕に、重すぎるほどの亡骸を引く。詩情などとは言えない。彼女の耐えている重さが、我が事のように迫ってくる。至高の一段。

それを思う時、次の「松右衛門内」で、その出からの憂いの風情、沈んだ表情、「妻恋ふ鹿の果てならで、難儀硯の海山と、苦労する墨憂き事を数書くお筆が身の行方」のマクラ一枚が、ずしんと胸に堪える。呂太夫、清介の、なんという説得力。お筆の苦難の何重にも重なる思いのうちに、巻き込まれた権四郎一家の悲劇が立体的に揺るぎなく構成される。
お筆は子との再会を待ちわびている親に対して、最も残酷なことを言わなければならない。でも彼女の思いは、あくまで無念の内に亡くなった主の山吹御前と、主君の後継者である若君のことしかない。ここに権四郎の一家との致命的なすれ違いがある。
お筆は勇気を振り絞って、「その夜に敢へなくなり給ふ」といった途端、もはや二人の耳にはその言い訳も届いていない、とそこまで感じさせる詞の間。一方で、お筆がその夜のことを、苦しみながら絞り出す「悲しみやら苦しみやら、私一人が背たら負うた身の因果」は、彼女の辛い独白であるが、おそらくそれは権四郎たちには届かないだろう。それほどの悲しみ、「祖父は声こそ立てねども」の気合の二撥。「涙を老いに噛ん交ぜて、咽に詰まれば咽かえり」の痛ましさ、理不尽に取り違えられ、奪われた我が子の命、その怒りと悲しみの表現。
権四郎の「女子黙れ」以下の詞の勢い、飾らぬ言葉だから、篤実な、しかし気も手も早い船頭として、板子一枚下は地獄の生業を生きてきたと感じさせる玉也の権四郎の造形。勘彌の娘およしの直情さ。そして松右衛門(実は樋口次郎兼光)と再会。ようやく彼女は味方を得た、という安堵が伝わる。しかしまだ、彼女には、父の敵を討つ、という使命が残っている。息つく間もなく、彼女は妹を尋ねるために出ていく。
そして玉男の樋口の出の大きさと凛々しさ、権四郎を黙らせる迫力。それでも、悲しみを隠せない権四郎の泣き笑い。
この段に集約される思いを通して人物を描く、このところ、呂太夫の充実ぶりは素晴らしい。こうした「情」と核の必要な切場で、精神的な深みを、また劇的な大きさを、自在に表現して余すところがない。いまこそ「切」の字にふさわしい時ではないか。
そして「逆櫓の段」睦太夫、清志郎。清志郎の手強さ、三味線の迫力。睦太夫はそれに流されず、段切れの「さらば樋口」まで丁寧に語る。

 

第三部、 「団子売」は三輪太夫、希太夫、津國太夫、南都太夫、聖太夫(後半薫太夫)、文字栄太夫。清友、團吾、寛太郎、錦吾、清方。三輪太夫や清友をここに使うのはもったいない気もするが、人形の玉勢(杵造)、簑紫郎(お臼)にとっては何と心強いことか。すっきりとして、しゃれた語り口、はんなりと柔らかく響かせてくれる三味線。二人の掛け合いが楽しい。

続いて『ひらかな盛衰記』四段目、「辻法印の段」藤太夫、團七、ツレ清允。32年ぶりの上演。
藤太夫は辻法印のキャラクターを生かしながら、お筆との対比の面白さを芝居気たっぷりに楽しませてくれる。合わせる團七の余裕。辻法印は玉佳、こうしたキャラクターの遣い方も手に入ってきた。
「神崎揚屋の段」千歳太夫、富助、ツレ寛太郎。こちらも国立文楽劇場では32年ぶり。その故越路太夫を追うように語る。梅ヶ枝の心の昂揚と落胆、そして追い詰められた彼女が、「無間の鐘」になぞらえて手水鉢を打とうとする、その迫力は見事。ただ、こうした四段目では、強さだけではない、もう一段の色気ともいうべき何かが欲しい。
この梅ヶ枝を遣うのは勘十郎。無間地獄といい、輪廻も地獄も信じていた昔の人にとって、究極の二択というべきもの。梅ヶ枝は恋する男の故に、自分の身を永遠に犠牲にすることを決断する。髪を振り乱し、柄杓を構えて手水鉢をきっとにらむ。その姿は、狂気を思わせる。もともと傾城になったのも夫のためだから、心はいつも、彼のためにというところからぶれない強さがある。その強さが華やかな秋の打掛をまとい、動くたびに銀のかんざしが揺れる。観客はいつの間にか、梅ヶ枝の思いに引き込まれていく、彼女の芝居にはそれだけのスケールと吸引力がある。一方、玉助の源太、どこがいいのか、と思わせる、自己愛過多のダメ男に見えるのは正しいのだが。

 

第一部、『芦屋道満大内鑑』の保名物狂、口碩太夫、燕二郎。行儀よい印象。織太夫の流れるような語りに、のどかな風景と保名の心象風景が重なる。藤蔵の糸の艶やかさ。ツレの小住太夫、清公は篤実に。

「葛の葉子別れ」、中、咲寿太夫(後半亘太夫)、清丈(後半友之助)。「隣柿の木」など随分滑らかに聴かせるようになった。
奥の錣太夫、宗助の哀切さが迫る。
「恥づかしや年月包みし甲斐もなく…」と、直接語ることをはばかる、と言い訳し、「我は誠は人間」で一呼吸おいて、「ならず」から、狐としての本性を表わしていく。
「死ぬる命を保名殿に助けられ、再び花咲く蘭菊の千年近き狐ぞや」で、一瞬で狐に使われる「毛繍(けぬい)」と呼ばれる衣裳に変わる。そして「夫の大事さ大切さ愚痴なる畜生三界は人間よりは百倍ぞや」と、狐でありながら人間らしい情を持つと知らせる。その優しさ、「恩はあれど怨みはなし」と、ただ、我が子が狐の子よとそしりを受けないように、案じる。生き物を殺すその癖を、自分のせいと感じて「釘貼り刺す如く何ぼう悲しかりつるに」と語るその痛ましさ、そして「名残をしやいとほしや」と離れ難く、寝ている童子を妖力で引き寄せる。このクドキの美しさと切なさ。

狐の方がよほど人間よりも、母として、妻としての情に満ちているのだ。命を救われた恩を忘れず、保名を愛し、生まれた子どもを大切に愛おしむ。だが別れは突然やってくる。葛の葉姫の姿を借りていた狐であることが全て明らかになる。この子がどんな目に遭うか、これから、大事に守ってもらえるのか、その不安と、別れなければならない哀しみが、見る者に涙を誘う。和生の至芸。他にも、紋臣の葛の葉姫の愛らしさと一途さが印象的。簑二郎の保名は色男から後半の変化がよい。勘壽の信田庄司や文司の妻も貫禄。

「蘭菊の乱れ」呂勢太夫、芳穂太夫、咲寿太夫、亘太夫、碩太夫。清治に率いられた三味線(清馗、友之助、清允、燕二郎)が地鳴りのように響き、私たちの見る世界と、もう一つ、隣接した別世界へと誘う。
ここでは葛の葉は、笠をかぶって万寿菊の柿色の衣裳。こちらは人間から狐へ戻っていく表現が細かい。「身は畜生の苦しみ深き」で、人間になろうとしてなれなかった苦しみが伝わる。最後に狐火を描いた「火炎」の小袖姿で決まる。

 

文楽が現代において問うものは、私たちの世が、一見理不尽な封建的な論理に追い詰められる個人の姿を通して、普遍的な人間の姿を見出し、そこに新たな意義を創造しうるかということだ。その要を担うのが太夫であり、そのトップが切語りと呼ばれる。 「切」の字の重さ。それは文楽座を率いる紋下たるべき資格を得た人、あるいはそうなるべき人、と理解している。その意味で、「切語り」となることは到達点ではなく、さらにそこからの高みへと歩まなければならない、その責を負う人であると私は解釈している。すでに得たところだけではなく、これからも、その道を歩み続ける人々に、私は拍手を贈りたい。

掲載、カウント2022/1/26より)

玉手の水、俊徳丸の道

森田美芽

 2021年12月4日、豊竹呂太夫、鶴澤清介による、「大曲丸一段に挑む」シリーズ、『摂州合邦辻』合邦庵室の段の奏演は、大槻能楽堂で行われた。歴史と現在、伝説と現実が交錯する「辻」に、立ち現れた奇跡のような舞台の至芸に出会えたという喜び。
河内平野と上町台地に展開される世界観の概要を、児玉竜一早稲田大学教授が15分で語ってくださる。その後、舞台も客席も、一つの緊張のうちに始まる。
大槻能楽堂
「しんたる夜(よん)の道」マクラ一枚の力。この語りだけで、彼女を包む暗闇の深さ、彼女が高安館を出奔してからの道のり、そして秘密を抱えた彼女の足取りが見えてくる。いきなりその世界が立ち上がり、時を超えて現前してくるのに、否応なしに引きずり込まれる。最近の呂太夫の義太夫には、そんな力が漲っている。いとも自然に、無理に大声を絞り出すようなこともないのに、知らぬ間に、その世界に引きずり込まれているのだ。登場した玉手の周囲に広がる沈黙。そして、これまで気づかなかった「包み隠せし親里も今は心の頼みにて馴れし故郷の門の口」という言葉が迫ってくる。高安左衛門の後妻に納まってからは親はないもの、と互いに思い合いながら遠ざかってきた実家を訪れる。ここに父と娘の絆がほの見える。これがもう一つの伏流水となっている。
「母様、母様」の声も密やかでありながら、しっかりと通っている。ここでは父ではなく母を呼ぶ。義理を重んじる父は、家に入れてくれないだろう。ひたすら娘を案じる母の「これ幸ひ」は本当に心の声の独り言に聞こえた。そしてあくまで娘をかばおうとする母。「辻でござんす戻りました」と彼女は娘に帰る。母はヤア戻ったとは夢ではないか」と喜ぶ。この「夢」のアクセント一つで母の喜びが伝わる。
しかし合邦はあくまで引き止め「ここへ何しに来うぞい」「高安殿のご厚恩」「もとより娘は斬られて死んだ」と、義理を通すことを優先する。娘を思うのに意地を張っているような、後の長い詞の伏線である。そしてまた、「この世を離れた者なれば世間を憚ることもないかい、そんなら早う呼び込んで、茶漬けでも、」に一瞬の間、そして「手向けてやりゃ、アア可哀や立ち寄るところはなし、幽霊もさぞ、ひだるかろ」の、精一杯の父性の詞が美しく響く。
この父と母の迎えるところで、彼女は娘となる。ひたすら娘を喜ぶ母と、途中で気づいてた止まるように「以前の詞と世の義理を」まで高ぶった思いをとどめ、「思へばちゃっと飛びのいて」でまた義理に立ち戻る。こうした合邦の心の動きが手に取るように感じられる。
そして前の山場、玉手のクドキ。その前に「箸持ってくくめるやうな母の慈悲」の一言、これがまた効いている。それに対し「面映ゆげなる玉手御前」は、頬を赤らめる風情で始まる。このクドキはたっぷりと、したたるような色気。「恋ひ焦れ」まではうっとりと、「思ひ余って打ちつけに」は粒読みで、「なほいやまさる恋の淵」はまたたっぷりと聞かせる。「後を慕うて歩はだし」はまさに高安の館を出てからの彼女の歩み。「親のお慈悲」で高く終わる。
続く合邦の詞の迫力、「青砥左衛門藤綱」 の子としての運命を担う彼は、自分の父の「天下の政道を預り」武士の鑑であったことを誇り、それを娘に求める。「親の譲りの廉直を建て通した合邦が子に」の一言が、彼が娘を断じて許せない意味が迫ってくる。「みなわが業とお身の上を省みて、親への義理に助けさっしゃるほどに」で、彼の感じている妻の夫への義理が伝わる。「ドドドどの頬げたで吐かした」の怒りがくっきりと。
それを宥める母「命の替りに」の後の「尼法師」が低く沈んだので、出家する、女を捨てるということの重みが伝わる。娘に対して「ふっつりと思ひ諦めて、はやう尼になってたも、十九や二十の年輩で器量発明優れた娘」あたりにクレシェンドが、まさにこれほど優れた娘を尼にしなければならないという無念が伝わる。
しかし玉手も懲りない。「アイ嫌でござんす」「今までの屋敷風はもう置いて、これからは色町風随分派手に身を以て」「あっちからも惚れて貰ふ気」と、立て続けの詞に、思わずこれは本気かと思わされる。そんな娘を引き立てていく、その三味線もなんと魅惑的なことか。
後半へはほとんど間を置かず、「入る月の、影さへ、見えぬ目なし鳥」の俊徳丸の境涯に人々の目を集める。「かかるけやけき姿をばお目にかけなば母上の愛着心は(な)切れやもせん」で、あくまでこの世の色恋沙汰や争いから身を遠ざけようとする彼の姿勢が見える。だが義理の母の告白に、「まだまだ罪を重ねよとか」「道も恥をも知り給へ」と強く拒絶する。俊徳丸には、彼岸の救いこそが全てなのだ。それに答える玉手の「この盃肌身離さず抱締めて、いつか鮑の片思ひ」に、別の意味が籠るのを俊徳丸には届かない。浅香姫はもっとストレートに、「ようあのやうにしやったなう」とほとんど断末魔の叫び。だが、「玉手はすっくと立ち上がり」からの、人形が入ればそちらに注目が集まるところが、「恋の一念通さで置かうか邪魔しやったら蹴殺す」が、怒りというよりうっとりと自分に酔いしれているように、そして「怒る目元は薄紅梅、逆立つ髪は」のくだりは、太夫三味線ともに勢いがぶつかり合う。そこへ「駆け出る合邦」「ぐっと差込む氷の切っ先」がまさに空気を両断し転換させる。
「心からとは云ひながら、ヲヲ術なかろ苦しかろ」でまず第一に拍手が来た。そして合邦の詞で、「浮世の義理とは云ひながら、これが坊主のあらうことかい」で第二の拍手。これらは自然発生的に起こった。誰かが拍手をするのを、誰もが待っていたように。
息も絶え絶えに、苦し気に応答する玉手も、「道理でござんす」が強い。そして彼女の通した義理の意味が語られる。「殺させては道立たず」「さぞや我が夫(つま)通俊さま…おさげしみを受けるのが、黄泉の障りになるわいの」がはっきりと届く。そして2つ目の返答で、「次郎丸様も俊徳様も、私がためには同じ継子」「悪人なれど殺させては先立たしゃんした母御前が草葉の蔭でもさぞやお嘆き」と、義理を尽くした彼女の本心が明かされる時、それが二重三重の義理に絡めとられていることを納得させる。夫高安左衛門にも、亡くなった先妻、彼女の主君に対しても、彼女は義理を尽くさねばならない立場だということ。「あなたこなたと思ひ遣り、継子二人の命をば、わが身一つに引受けて、不義者と云はれ悪人になって身を果たすが、継子大切、夫の御恩、せめて報ずる百分一」の重さ。呂太夫は、玉手のかなわぬ恋説には与せず、義理という立場をとる。それを納得させる造形であり、詞の流れである。畳みかけるように3つ目の答え、「寅の年寅の月、寅の日寅の刻に」のリズム、「肝(くわん)の臓の生血を取り、」に、一瞬目がくらみそうになる。「その嬉しさ」はややあっさりと落とす。
合邦の「オイヤイ」の最初は軽く、まるで魂が抜けたようで、そして畳みかける時には強く、一気にクライマックスに高まる。「それで毒酒を進ぜたな」「アイ」で、父と娘の強い絆が再びよみがえってくる。続いて俊徳丸、浅香姫の嘆き、入平の「ご最期(せえご)痛はしや」、そして母が「義理にせまればわれとわが、身を責めはたる無常の寅」はテンポよく。「逢坂増井の名水に龍骨車かけしごとくなり」で最高潮に達し、客席と舞台が一つになる。
最後は娘を囲んでの百萬遍、鐘撞木、「南無阿弥陀仏」の繰り返しにかかる三の糸のぎりぎりのアシライから、俊徳丸の詞、月江寺の由来、父合邦の「東門中心極楽へ、娘を往生なし給へ」と祈る。玉手の犠牲は、むしろあっけなく、舞台に停止しているように思える。
段切れはいつも、カメラを引くように、「仏法最初の天王寺、西門通り一筋に、玉手の水や合邦が辻と」と、個人の運命を超えてその歴史と場に収斂していく。いわば、この世での「逆様事も善知識」という逆説が、この物語全体の主題として、理不尽な恋が忠義であり、親不孝が親との絆を取り戻すという不思議な世界を完結させる。
大槻能楽堂2
この舞台を聞いた人の全てが引き込まれた、素浄瑠璃の世界の豊かさと魅力。まず呂太夫は、全ての人物について、的確にその音程で語り分けるので、劇の全体として、「父と娘の義理の物語」の骨格がぶれない。詞の一つ一つ、もちろん強い部分は強く、うっとりと色っぽいクドキもあるが、案外、あっさりと語る部分がある。ところが全体として聞くと、はっきり残るべき部分が心に残っている。しかもその語りの中で、劇的な起伏、段切れに向けての構成が明確に、普遍的に伝わる。無論、個々の聞き手の側の解釈の相違はあっても、そうしたすべての土台となる劇的世界の構成において、一人一人の人物の人となり、その言動が、全てが必然性をもってつながり、この世界を構成しているのがわかる。ある意味、歴史と伝承と劇作家の趣向と、様々な要素でかなり理性的に理解しにくい物語が、やはり名作であると言わざるを得ない理由が納得できるのである。そして聞く者すべてが、それを自分の感性の中に、共通の何かとして受け止め、共有できたこと。詞の深さ、三味線の間、それらの合わさった、素浄瑠璃でなければ見出せなかったであろう、感性の覚醒が起こっていた。
「合邦」については、必ず玉手が本当に俊徳丸に恋していたかという問いが付きまとう。呂太夫はそれに否と答え、物語の全体を、義理を通す父娘の物語として造形する。だから呂太夫の語る玉手は潔く清らかであり、自分に恥じるところがない。だが、清介の三味線の鋭さ、強さ、そして超絶技巧のうちに、思わず私たちは、深層心理の中では、やはり惹かれるものがあったのでは、と理屈抜きに思える。それは矛盾したことではなく、太夫と三味線は、互いの解釈の違いを正面からぶつけ合い、戦っているのだ。その中に生まれるものは、思いがけない、計算を超えた真実、理性で割り切ることのできない人間の深層であろう。その一つの頂点を、聞かせていただいたと思う。呂太夫の語りの劇的構成力、確かな技術での正確な人物造形を通して、また清介の三味線の感性に直接働きかける怒涛の如き力を通して、人間の不思議さ、割り切れなさをこれほど的確に、また深く描くことができるのかと思う。
歴史的名演といい、至芸といい、それは聞かなければ出会うことはできない。それに出会えたことを心から喜び、その僥倖に出会えた人に、おめでとうと言いたい。奇跡は起こるところに起こり、出会うことのできる者にだけ微笑むのだから。

掲載、カウント2021/12/10より)

かくも長き不在―2021年国立文楽劇場7月公演―

森田 美芽

 この災厄は、いつ終わるのだろう。多くの人がそう思い、そして無事を祈る。あまりに長いその忍耐の時に、心が倦み疲れ、まして夏の無聊を慰めてくれる浪花の夏祭も中止または縮小とあれば、この猛暑と悪疫に立ち向かう心の憩いすら見当たらない。
だから、劇場に向かう。そこにいる人々が、その圧倒的な熱量が、心の底にとどまる氷塊を溶かしてくれることを期待して。

第一部は恒例の「親子劇場」。今年の演目は『うつぼ猿』『解説 文楽ってなあに?』『舌切雀』。最初に亘太夫による約3分の解説。子どもにも真っすぐ通じる、ということは、本質的で、しかも子どもの世界を広げるものでなければならない。その困難への挑戦を力強く思う。

 『うつぼ猿』は、狂言よりも猿曳の深い情愛、やさしさ、猿の無邪気さの描出に目が行く。

籐太夫の猿曳が情愛にあふれ、芳穂太夫が愚かだが後味悪くない大名を、津國太夫が両者の間で悩む太郎冠者を子どもたちにも届くように、丁寧に語る。初舞台の聖太夫、薫太夫らも、最初は恐々声を出していたような感じが、「俵を重ねて面々に」など、負けじと声を張っていたのに好感を持った。三味線は清友がシンで、團吾、友之助、燕二郎、清方と、手堅くまとめる。人形では文司の猿曳がやはり温かさを感じさせ、文哉の大名も嫌味なく、紋吉の太郎冠者が悲哀を感じさせ、猿は勘介・玉路で、愛らしい猿の仕草に温かい拍手が起こる。

『解説 文楽ってなあに?』簑太郎と勘次郎。内容はいつもの人形解説。やはり客席からでは人形の首の面白さが見えにくい。そこだけでも拡大した映像を出した方がよいかもしれない。
『舌切雀』は、小住太夫、亘太夫、碩太夫という若手トリオ。小住太夫のお竹は達者なところを聞かせ、亘太夫は人の良い爺そのままに、親雀の碩太夫は、まだ声の使い方が単調に聞こえる。いまや中堅の清志郎が三味線を導き、清丈清公、清允らを引っ張る。なんと心地よく、その勢いが心に届くことか。

親雀は貫禄十分だが、小雀たちは実に愛らしい。翼を広げていっぱいに踊る姿で、前半の不気味さも中和される。もちろん、筋立がやや単純すぎるきらいはある。おそらく文楽を見に来る子どもたちは、少なくとも小学校3年生以上という感じの子が多いから、これでは内容的に物足りないと感じるのではないだろうか。すると見どころは、やはり葛籠の中の化け物との対決ということになるが、大蛇、怪鳥、骸骨、それに今年の時事ネタは大谷翔平。オリンピックにしなかったのは、やはりコロナに苦しむ人の多い大阪での配慮か。玉助の婆が悪役らしく、勘市の爺の人の良さと正反対。紋秀の親雀が貫禄十分。勘次郎の子雀が愛らしく、勘介、玉路、和馬、簑之らも総踊りと宙乗りで沸かせる。

 第2部「生写朝顔話」の半通し。こうした場合、よく出る「宇治川蛍狩の段」を略し、「薬売りの段」「浜松小屋の段」を入れる。そうすることで、この物語全体の印象がはっきりと違ったものになる。
 「明石浦船別れの段」 清治の糸が、一瞬で月明りに惑う夜の海に誘う。呂勢太夫は「せめて慰むよすがもと、掻き鳴らしたる糸調べ」に、深雪の思いの深さ、会われぬ苦しみを感じさせる。そして思いがけない出会いとつれない別れの嘆きを見事に描く。
深雪の勘十郎の思い詰めた積極性と阿曾次郎の和生の歯切れの悪さが対照的簑悠の船頭、最初は両手の表情が堅い。船上の二人、異なる思いと時間が流れるのがわかる。途中から、主人の行動に困り、照れるところがうまくなった。
「薬売りの段」希太夫、勝平。はずむ息、明るくよく響く音。「かたげて走る」などのリズムの変わりや、『行こか参らんしよか』の唄、桂庵の長い口上の面白さもよく勉強している。
笑いの一幕のようで、手を消毒したり、参詣人が集まると「密です」の看板を出す。このあたり簑一郎がうまく遣った。

続いて「浜松小屋の段」呂太夫、清介。零落した深雪の出。いまならタブーの障がい者いじめ、禁止用語のオンパレード。それほどの屈辱を受けながら、なお生きようとする深雪の執念と、その誇り。乳人浅香もまた、辛苦を重ねてここに出てきたとわかる。深雪のためらい、名乗ることのできない苦しみに、浅香もまた、嘆きのうちに故郷の母の死を告げる。深雪が、自らの境涯を嘆き親を苦しめたことを悔いる、そして浅香との再会。しかしそれを妨げる輪抜吉兵衛。立ち回りのメリヤスが入り、瀕死の浅香が生き別れの親のことを告げ、「大井川の段でなぜ戎屋徳右衛門が自害するのかの理由がここで語られる。
その痛ましさ。実は、この場が出ることで、初めてこの物語の輻輳するドラマの奥行が見える。深雪がストーカー的に阿曾次郎を追いかけることばかりが目につくが、実は深雪自身がこの恋を貫くために、自らも危険にさらされたり、遊女に売られかけたり、散々な目に遭う。それを助けるのが、実は阿曾次郎ではなく、こうした家来たちの忠義の物語であり、また生き別れの娘と父の絆、深雪を介して、会うことのできなかった二人が冥途で出会うという伏線が引かれる。

深雪と阿曾次郎の恋の陰にある、家臣たちの、それも二代にわたる忠誠の証。その犠牲の上に、彼女の恋は後に成就する。そのもう一つの主題、親子と主従の絆の深さを見せることができたのは、言うまでもなく、呂太夫の的確な浄瑠璃世界の把握に基づく確かな語りである。とりわけ、一度は身を偽って突き放した浅香に向かって呼びかける詞、「浅ましい浅ましいこの形で」の一言に息を飲み、「海山超えて憂き苦労」が迫ってきた。「お果てなされた母様の死に目に遭わぬのみならず」の嘆きが深まる。ここで呂太夫は、わざと調子をいなした声で絶叫する、その詞の一つで、深雪の苦悩が、また浅香の、亡き母の嘆きまでが一つになる。それを包み込むような、浅香の芯の通った強さと優しさ。一切を解さずただ己が欲望にのみ忠実な吉兵衛。その的確な人物描写を支える、哀れな二人の運命に寄り添うような、清介の糸。
簑志郎の輪抜吉兵衛、悪役の性根、ふてぶてしさの描出が見事。勘彌の浅香は、前半動きが少ない所も、思いやりと忠義に溢れ、後半の女丈夫の強さで芯の通った乳人像を描いた。

「嶋田宿笑い薬の段」の南都太夫、清馗がよく動く明快な詞で面白く聞かせる。南都太夫は萩の祐仙のおかしみを語り、清馗は人物の表情まで見えるような達者な三味線。
、咲太夫、燕三。切場ではないが、ここは咲太夫しかない、という配役。今回、徳右衛門の性根がよく見えたので、祐仙の軽薄さがより際立った。しかし笑い薬の笑いが、今回は長く感じてしまった。客席の反応が静かすぎるせいもあるが、笑いが舞台を包んで客席を揺るがすような、そんな広がりにならない。それは私たちの中で、あまりに長く、笑うことが許されなかったためだろうか。
祐仙といえば勘十郎の持ち役のように思えていたので、簑二郎の祐仙は驚きだったが、舞台を広く使い、自在に動き、笑いが止まらない表現もきっちりこなす。ただあとは自分の役柄への自信のみかと見た。

「宿屋の段」前段と打って変わって、阿曾次郎、この場では駒沢の深いもの思いに始める。深い余情をたたえた富助の糸に導かれ、千歳太夫も駒沢の詞に情を込める。朝顔の女が深雪と気づき、それとなく彼女をかばい、助けようとする、ただそれが深雪の熱量に比べ、あまりに冷静なように感じさせるところは、また彼も狙われる身のゆえであるとわかる。去り際の「テ残念至極」の詞に底力を感じた。ただ、徳右衛門の詞がやや世話に傾いたように感じた。

「大井川の段」靖太夫、錦糸。
ここからは一気に結論に向かう。こんな艱難辛苦を経てまで恋い慕う夫を目の前にしていながら、なぜ気づかなかったのか。深雪の口惜しさ、そしてここで情熱を爆発させる強さを、靖太夫は一気呵成に語る。錦糸は終始冷静に背景を描く。
ここでいつも徳右衛門が自害することが解せなかったのが、先の「浜松小屋」と結びついて、徳右衛門の人物像も深まる。今回の勘壽の徳右衛門は、その人の良さがどこから来たのか、父としてどのような思いであったかも感じさせる好演。
そして勘十郎の深雪。極めつけともいうべき簑助師の「朝顔」を受け継ぎ、その一途さ、情熱、零落しても誇りを忘れず、芸人となって自らの境涯に恥じらうところも見事。和生の阿曾次郎が、深雪に引きずられるようで、しっかりと自分の公的な立場をわきまえつつ行動している冷静さと賢明さ、そしてふと見せる優しさが、この人らしい。玉彦の手代松兵衛、簑太郎の下女お鍋もちょっと笑わせるところがよく、玉輝の岩代は骨のある敵役で、阿曾次郎の苦衷を理解させる出来。玉勢の奴関助もさわやかな印象。

第三部『夏祭浪花鑑』極めつけ、夏の定番。あまりの名作で、しかも夏の暑さを吹き飛ばすような力演で、おそらく誰もが引き込まれるエネルギーに満ちている。
様々な浪花の夏の風情を背景に、祭りの興奮と狂気が交錯する中での殺人事件。その背景は、高津神社の夏祭である。その近しさゆえに、大阪人はこの物語を愛し、また親しむ。今なら半グレなのだろうが、そこに貫かれる意地は、いまも大阪の地に脈々と伝わる。しかし、「内本町道具屋の段」を省略したことで、やはり物語が単純になりすぎたきらいはある。
「住吉鳥居前の段」口、碩太夫、錦吾。碩太夫は声も大きく、精一杯の姿勢はいつも気持ちよい。まだ声は一色しか出ないという感じ、特に釣船三婦のような貫禄は難しい。「丸う捌いた男伊達、美しいので気味悪く」の変化はまだ。錦吾は落ち着いてしっかりと弾いている。
、睦太夫、團七。睦太夫は安心して聞ける。多様な人物の語り分けなど、自然に流れる。三婦だけでなく、団七も徳兵衛も、さらにこっぱの権やなまの八などにも、血が通う。ただ、碩太夫もそうだが、大阪の香りというか、そういう感覚的な部分まで求めるのは難しい。かつて故小松太夫でここを聞いたとき、住吉の風情、町の賑わい、住吉の反橋に響く蝉の声や日差しの暑さ、さらに黄昏の町の香りまで感じたことがある。浄瑠璃の生活世界とは、そういう時空の広がりを包むものであることを知らされた。これは作り事であっても、現在に通じる感覚を伝えているのだと思う。團七はそうした懐かしさを心に描かせる魅惑的な糸。
「釣船三婦内の段」口、咲寿太夫、寛太郎。磯之丞と琴浦のやり取りが、何とも言えずつきづきしい。「据ゑ膳と鰒汁を喰はぬは男のうちでは」の強がりなど、思わず微笑んでしまうほど。寛太郎の突っ込み、まるで会話をしているかのような的確さで入る。
、錣太夫、宗助。この人は、切れ味よりも情の深さが勝る。お辰の詞も、そのイキだけでなく、夫の顔を立て、周囲を立てる気遣いや、夫の面目を失わせないでよかった、という感情が伝わる。これは清十郎のお辰の表現にも当てはまる。簑助師のお辰の気風のよさや潔さよりも、そうしたいじらしさや、恥じらいといった風情が伝わってくる。また義平次のアクの強さも。宗助もこの人とのコンビネーションが板についている。構成の確かさ、ふとした感情の表し方も。
「長町裏の段」団七を織太夫、義平次を三輪太夫、三味線は藤蔵。
必死で追いかける団七、この憎々しい義平次。義理の親子とはいえ、義理と金に絡んだ対立、しかもこの義平次のブラックな表情。団七をいたぶる意地の悪さ、挑発。草履で顔をはたく、ここまでやられては黙っていられない、追い詰められていく団七が切れ、「毒喰はば皿」とついに刃を向ける。その怒りを生み出し、また挑発する三輪太夫のうまさ。織太夫は、団七が怒りを溜めていき、それが切れる一瞬の凄まじさを爆発させる。
丸胴に刺青、長い手足、不思議なバランスで、その大きさ、ダイナミックさが強調される。
しかし殺し場は、スローモーションのようにゆっくりと、そして義平次のしぶといこと。泥にまみれても、この人は簡単に死にそうにない。その団七と義平次が絡み合う向こうで、過ぎていく夏祭の提灯。いまも西成区の生根神社に残るこの「だいがく」は、古い祭りの形を表わしている。そして「ちょうさ、ようさ」の掛け声とともに現れる神輿のスピーディなこと。人形遣いが神輿の台を振り回すように、人形もそれにつれて振り回される。その騒ぎに紛れて逃亡しようとする団七。「八丁目、差して」が圧倒的。
人形では、玉男の団七が圧巻。この不器用な男の生きざまを共感させる遣い方。玉也の三婦の貫禄と、積み重ねてきた経験の重さ。お梶の一輔も小気味よく、玉翔のこっぱの権と玉誉のなまの八もいいコンビ。清五郎の磯之丞はほんまにぼんぼんやなあと感じるし、紋臣の琴浦は健気で品のよい娘のよう。亀次の佐賀右衛門のうまさ、一目でその性根がわかる。勘昇(後半玉征)は倅市松を愛らしく遣い、玉延(後半玉峻)の役人もしっかりと見せる。一寸徳兵衛は玉佳、玉男の団七と並んで引けを取らないスケールが出てきた。おつぎは簑二郎と勘彌の変わり(所見時は簑二郎)でどこかに「極妻」を経験した柔らかさ。玉志の義平次の憎々しさが、このドラマを最高潮に盛り上げる。
夏が終わる。そしてまた、忍耐の日々が始まる。
「失われたものはかえってこない
何が悲しいったって、これほど悲しいことはない」

(中原中也『黄昏』より)

 ひとたび失われれば帰ってこない。それほど大切なものを私たちは与えられているのだ。文楽に限らず、この国を支えてきた人々の業が、仕事が、暮らしが。分けても、舞台芸術が「不要不急」のように扱われ、また人々にも、それがなくて済ませられる贅沢のように、甚だしくは諸悪の元凶のように扱われ、それほどでなくても、人々の心から、それを受け止める余地が失われていったことは否めない。
そうした文化の「不在」に対して、私たちは次第に鈍感になりつつある。「去る者は日日に疎し」と言わんばかりに、目からも遠ざかる者に我々は冷淡である。また多くの人々が、その日の暮らしに、また病のための困難に、「それどころではない」状況にある。だからこそ、残さなければならないものがある。
今回、この舞台を見て、そして呂太夫の浄瑠璃を聞いて、改めて思ったことがある。文楽の時代物は、必ず主従の絆、親子の絆を無残に引き裂くものがあり、運命に翻弄される人間の苦しみがある。そうした根底にある浄瑠璃の文法ともいうべき世界観がある。そのうえで私たち現代人が共通に感じる悲哀や情が表現されるのに共感する。呂太夫の浄瑠璃を聞く時、その根底的な確固たるその世界の文法、世界観とそれを表現する音韻の法則としての節使いや語りの技法が揺るぎなくあって、その上に彼の理解した、普遍的な人間性を備えた登場人物の理解の表現がある。だから、江戸時代のことなのに、いま目の前に起こっているように、しかも全く違う世界観を描いているのに、今の世の人の思いに通じるものとして伝わってくる。それが古典としての厚みであり、語りの芸としての義太夫節の本筋であるから、どの演目であっても、その基本がきちんと、素人にも伝わってくる。驚くべきことと思う。
これがまた、残さなければならないものの一つであることに間違いない。
「不在」ではない、いま彼らはここに生きて、そして大切なものを守っているのだから。それはまた、これからも私たちすべての命を伸びやかに生かし、輝かせるものであるから。

掲載、カウント2021/8/12より)