「三つの春、新たな道」―2022年4月・切場語り昇格初公演

森田美芽

文楽劇場の春は、華やかな舞台こそがふさわしい。文楽座命名百五十周年と銘打って『義経千本桜』『摂州合邦辻』『嬢景清八嶋日記』『蝶の道行』と見応えある狂言、そして豊竹咲太夫の文化功労者顕彰、何よりも、三人の切場語りの誕生。ようやく、と待ち望んだ春の到来。

2204こうえん

第一部、『義経千本桜』二段目「伏見稲荷の段」から四段目「道行初音旅」「川連法眼館の段」に繋げる。無論筋だけ追えば、三部制の二時間半ほどにまとめなければならないからとは言うものの、やはり『千本桜』の世界全体の構成から言えば不自然であり、単に筋が通ればよいというものではないと思う。序段の堀川御所での悲劇や二段目の大物浦での試練と知盛との対決や、三段目の巻き込まれた一家の悲劇があって、四段目が輝くのだが。

「伏見稲荷の段」、靖太夫、清志郎。清志郎は物語の始めに緊張感と妖しさを作り出す。
「昨日は北闕の守護、今日は都を落人の」の義経主従の身の転変を、靖太夫が低く、品格をもって語りだす。舞台には下手に紅梅白梅の凛たる姿、伏見稲荷の鳥居、静御前のクドキに、義経主従の存在感が増す。文哉(前半)の武蔵坊が「ハッと恐れ入りけるが」の表情が本当に悔いに満ちて、玉誉(後半簑太郎)の駿河次郎が、鼓を忠信に渡す仕草が丁寧。

「道行初音旅」切語りに昇格した錣太夫をシンに、忠信を織太夫、ツレは小住太夫、碩太夫、文字栄太夫。宗助に率いられ、勝平、寛太郎、清公、清允。桜の肩衣、桜の吉野山の遠景。フシオクリがとりわけ高く華やかに旅の広がりを伝える。「慕ひ行く」の碩太夫の一声。錣太夫の静の嫋やかさと芯の強さ、この人の実力を遺憾なく発揮する。
艶物語りというだけでなく、道行に込められたそれまでのドラマの重さを踏まえた、情ある語りの艶やかさ、深みを感じさせる。織太夫は物語に兄の無念を込める。太夫三味線ともども、ここに至る悲劇の重なりを忘れさせる一幕。

「川連法眼館の段」中、呂勢太夫、錦糸。錦糸の、何と艶やかで、憧れと思いに満ちた音色。呂勢太夫はこの場の格を保ちつつ、詞の多いこの場を、性根を違わず語る。「八幡山崎」のくだりの美しさ、悲劇に伴うこの艶やかさに魅了される。

、咲太夫、燕三。これを最後という覚悟の語り。分けても忠信の長い詞、身の上を明かし鼓に両親を慕う切々たる思いの詞の重さ、「アッと申して去なれませうかい」に至る長いイキの生かし方、すべてが見る者聞く者の基準になるだろうと思える語り。これが「切場語り」の意味なのだと改めて思う。それを語らせる燕三の、狐の躍動も親子の情も見事に描き出す構成力。

勘十郎の狐忠信の至芸。「伏見稲荷」の登場から、この物語の蔭の主人公である狐の親を求める物語が、まさに家族の絆を求める義経と重なる。普段なら「道行」の登場での狐の動きを「伏見稲荷」で見せるなど、全段を通じて狐の動きの中にその性根を構造的に表現する。段切れの動きも歌舞伎のようにケレンで見せるというよりも、狐としての自己を余すところなく表現できる大きさと喜びを感じさせる。獣でありながら人間よりも人間らしい情を、という主題にふさわしい遣い方。
対する静は簑二郎が健闘。仕草の美しさ、型の決まりなどよく研究しているのがわかる。ただ、「道行」でも主従という関係でいうなら、静が「主」の貫禄を見せないと芝居にならない。この場では特に、狐忠信が圧巻過ぎて、忠信のワンマンショーと見えてしまう。そうではなく、勘彌の義経ともども、その悲劇の経糸を通す貫目が必要なのだと思う。他では清五郎の忠信の涼やかで端正な使いぶり、紋吉(後半玉翔)の亀井六郎が一癖ありそうで、勘市の逸見の藤太の鼻動きの軽妙さも印象に残る。

2016_夏休み公演_配役ちらし-裏面-4校-校了

第二部、『摂州合邦辻』 「万代池の段」
合邦を三輪太夫、俊徳丸を希太夫、浅香姫を南都太夫、入平を津國太夫、参詣人と次郎丸を咲寿太夫、三味線は清友と清方。
この段があることで、物語の全体が凝縮される。この物語の焦点が玉手御前の個人的な恋愛云々の問題ではなく、天王寺という土地と仏教の精神性であることが明確になる。

三輪太夫は合邦道心の、教化の愛嬌と力強さと温かさを語り、思わず耳を傾けさせる年功の確かさ。もっと評価されてよい人だといつも思う。希太夫は「前世の戒業拙くて」以下の詞の綺麗さに代表されるように、俊徳丸の絶望と零落の中でも品位を失わない姿勢を印象付ける。「思ひ切つても」の嘆きが一層労しい。
南都太夫が浅香姫の心の動き、どこまでも俊徳丸を慕う思いを好演。津國太夫は若々しさとは言えなくとも、奴の一途な忠誠心にふさわしい。咲寿太夫は参詣人と次郎丸の音程を変え、無理ない発声で三輪太夫との掛け合いを聞かせる。清友の音色の奥行の深さ、一人一人に沿った弾き方を、清方はツレ弾きで懸命に追う。折り目正しく正確なリズムで今後が期待される。

合邦住家の段 中、睦太夫、清馗  、呂勢太夫、清治   呂太夫、清介
睦太夫は楷書の芸。隅々まで行き届いているが、「差別」は「しゃべつ」と発音した方がよいのではないか。大阪言葉の味わいの深さへあと一歩。合邦の詞「アアいやいや、涙は出ねど」の意地と娘思いの両面もよく聞かせた。清馗は講中のしゃべりの調子さえ心地よいリズム。
呂勢太夫、玉手のクドキは当然ながら、合邦の父親としての心情の詞が深く染み入ってくる。「無念で身節が砕けるわい」「思ひ切るに切られぬということはないわい」などの怒りの気色、必死でなだめる母親、それを聞かぬ娘、の構造が見事に描かれる。清治の糸が常にも増して、僅かな一撥ですら、その揺らぎに応じないものはない。こうして高められた思いが、切の字を受けた呂太夫の語りに受け継がれる。

呂太夫の『合邦』の特色についてはすでに昨年末の「玉手の水、俊徳丸の道」で書いているので、ここでは詳細よりも、この舞台独自の経験を記しておきたい。

呂太夫は、玉手の俊徳丸への恋ではない、と言い切る。それは床本を見れば、原作を見れば明らかである。玉手が意識しているのは、夫であり元々は主である高安左衛門丈通俊、どちらも血のつながらない継子二人の確執を、義理の母である自分がどう関わるか、である。
だが、見る人の多くは玉手が俊徳丸に恋をしている、と想像している。なぜそうなるのか。それこそは作者の仕掛けた逆転劇の妙である。玉手が俊徳丸に言い寄る姿、浅香姫との乱闘(?)、それらは真実に見えなければならない。そうでなければ父は怒りのあまり娘を刺し殺すという凶行に至ることはできない。玉手の中には、そうした周囲の人の思惑、人柄、それらを知って自分の描いた結末へと運ぶ、冷徹な計算がある。
しかしその計算、計画そのものが、ある種の狂気に満ちていると思われる。「寅の年寅の月・・・の肝の臓の生血」で癒されるなど、現代人は当然だが、昔の人でも、いささか苦しい設定であり、理論的に納得できる話ではない。ただそれを納得させるのは、「奇跡」という一回性と、玉手の情熱である。自らを殺させ、相手を救う、恋と言われればそれと紙一重の情熱。それを人は恋と錯覚するのだろう。

しかし、その犠牲に至る玉手御前の思いの純潔さがなければ、実はこの逆転のような犠牲は成り立たない。そうした逆転劇が、この「天王寺」における仏の救い、合邦が語る「地獄極楽は元来一つの世帯、善悪邪正不二といふ仏の教へはコレコレこの天王寺」の具体化である。悪が善に、邪恋が献身に、逆様事が善知識になるために、意外にも、この玉手の思いは純潔でなければならない。つまり、純粋な忠義(それも夫への)でなければならない。

呂太夫が「忠義」であるとの立場をとるのは、そうした浄瑠璃世界の逆説を表現することを理解しているからではないか。そこで初めて、この物語は単なる個人の悲恋ではなく、天王寺という寺に込められた仏の救いの教え、それを取り巻くこの地の力と一体になる。
呂太夫はこの浄瑠璃の全体性を把握しつつ、この玉手御前に込められた仏教的逆説を昇華し、表現するに至った。これこそが、切語りとして、半世紀を超える修行の中で鍛えられ、そしていま開花した、義太夫節としての合邦の世界の表現である。祖父若太夫の全身全霊を打ち込んだ語り、故越路太夫や住大夫に受け継がれた情の語り、それらに加えて、まさに物語世界に昇華する、それも舞台全体を率いて、その共同幻想に巻き込む、まさに「切語り」にふさわしいスケールと総合性を備えている。

他にも耳に残るのは、父合邦の側から見れば、二箇所の詞の山場。父にとっては狂気の娘を刺す、「これが坊主のあろうことかい」の繰り返し。ここまでの玉手の狂乱に応じる嘆きと悲しみで、それが深いほど、娘のモドリの告白が唯一無二のものとなる。
「オイヤイ」の二回目は、稲妻のように天を裂く。娘を理解できなかった無念と、自分だけを悪者にして夫と義理の息子を立て婚家に尽くそうとした娘を誇らしく思う気持ち、だが、その娘に手をかけたという悔い。それらが一体となって詞が突き刺さってくる。

清介の超絶技巧に酔わされる。初日はここで拍手が来て、中日以降には少し抑えめながら、この義太夫の詞章が、この三味線と渾然となり、得も言われぬ境地を作り出す。
玉手が恋をしているという解釈は、むしろこの陶酔感から来るのではないだろうか。理性で抑えきれぬものが撥先から溢れ、なおも理性で保とうとする語りと戦い合うような、不思議な経験。「合邦」のここを聞くとき、身内にそうした情念に共感が生まれるのを感じる。上手いとか下手とか、そうした態度を忘れさせる、さらにそれが人形の確かな技術と相まって、ここにしかない舞台と客席の一体感が生まれる。この全体性と一体性が、演劇をライブで鑑賞することの妙味である。それを引き出した呂太夫・清介の両者にはただただ感嘆するほかはない。

玉手御前は和生、気品を崩さず凛とした姿勢は師匠譲り。「恋ではない」という姿勢を貫く。
だからこそ「物狂い」的な場面がリアルに感じられる。合邦は玉也、こちらも持ち役。今回は正宗かしらの頑固一徹さがよく見えた。それでいて娘への思いが溢れることが端々にわかる。女房は勘壽、婆ならこの人、その切ない娘への愛。俊徳丸は玉翔の代役もよく遣っていたが、玉佳は足取りの覚束なさに思わずこの人の悲劇を思い、なおも道を求める求道者としての苦悩もにじませる好演。浅香姫は紋臣、前半は姫の気品を重視し、玉手とやり合うところは客席から笑いが漏れるほど徹底している。
奴入平は玉勢、後半簑紫郎。玉勢は姿よく凛々しく、簑紫郎は忠義に燃える賢明さが見える。次郎丸を亀次、この短い登場だけで、「合邦住家」の玉手の弁明を納得させなければならない難しさをこの人は確実に見せてくれる。

第三部、『嬢景清八嶋日記』 「花菱屋の段」藤太夫、團七。
まず團七が遊女屋の華やぎを、また女房が出てくると、その気ぜわしさ、長が出てくると鷹揚さと、雰囲気の変化が糸で描かれる。藤太夫は巧みな詞の変化を楽しませ、造形も伝わる。糸滝の哀れ、肝煎佐治太夫の軽みと熟練、糸滝の述懐に一同が涙を誘われる一瞬の沈黙が美しい。思えば残酷な話だが、人の情けに助けられ、ほっこりする一段。
花菱屋女房の文司がいい味を出している。結局この人もそんなに悪人でないと思わせる。長を玉輝、洒脱で経験豊富で、何のかのと言いながらも女房を愛しく思っている好人物。肝煎佐治太夫を玉志、又平かしらだが、様々な修羅場をくぐり抜けてきた大人の賢さに情が加わる。

「日向嶋の段」切、千歳太夫、富助。千歳太夫は幕開きからの約二十分、景清の嘆きと回向のさまをただ一人立ちあげ、保持する。その孤独と矜持の果ての日々、「春や昔の春ならん。」に重なる肩に沿えた梅と首からかけた平重盛の位牌。「業に業を果たいても」に滲む無念さ。臓腑を絞る嘆き。千歳太夫のここまでの修行の年月の現れを感じた。
佐治太夫と糸滝の登場。糸滝の造形がやや幼く感じた。娘と知りつつ「親でないぞ」の思い入れ、子であると認めても突き放す意地と誇り。だが一転、娘が自分のために身を売ったことを知り、「孝行却つて不孝の第一」という、己れの矜持の末路を見る。千歳太夫は筒一杯の語りで、景清の悲劇を描き出し、富助の撥が冴えわたり、悲劇の骨格を大きく描く。
人形では、景清は先代から受け継いだ玉男の持ち役の一つ。回向の二十分の持続を構えを崩さない大きさ、娘への思いを逆に表す矜持、最後には重盛の位牌を落としたのか、落ちたのか、今回は自ら運命を手放したように見えた。
糸滝の哀れさと健気さ、武家の娘たる誇りと父への思い、十四歳の乙女の大人びた純真さを表わす清十郎の清冽さ。文昇の軍内、簑一郎の四郎、いずれも出は普通の庶民と見せて戻りからの雰囲気の変化が見事。

『契情倭荘子』「蝶の道行」。織太夫、芳穂太夫、亘太夫、聖太夫、薫太夫に藤蔵、團吾、清丈、友之助、錦吾、燕二郎。助国を玉助、小巻を一輔。
織太夫は力まずとも心地よく響かせる。芳穂太夫もしっかりと哀れさを出すが、高音部に課題が残るか。六挺の迫力。幻想的な背景に、青を基調とした衣裳の二人の舞。文楽ならではの飛翔を伴う舞だが、もの寂しさが残る。確かに、『景清』と『蝶の道行』ではカタルシスというよりやや重い雰囲気のまま残ってしまうのが残念な気がする。これは演者の責任ではないのだが。

「切語り」とは、あらゆる伝承を踏まえ、自己の個性を長年にわたって磨き、それらが一体化するところに生まれる。正統でありながら個性的、これしかない、と思わせる語りの唯一性、そして若手や次の世代の模範として受け継がれるべき語りの模範となるもの。 呂太夫は、令和の若太夫に向けて、力強い一歩を踏み出した。その新たな門出の春を心から祝したい。

掲載、カウント(2022/4/24より)

豆地蔵大菩薩!

僕は大阪市住吉区浜口町の生まれですが、自宅近くにお地蔵さんの小さな社があり、夏には「豆地蔵大菩薩!」と唱えながら大きな数珠をみんなで輪になって廻してました。玉手を真ん中にして廻す、「合邦の段」とおんなじ。子供の頃です。明日、千秋楽❗️

あと2日!

8分目くらいの感じで物語を噛み締めながら語り歩んでいく。感傷的でもありますが、正解を掴んだ気もします。今回、まいちど聴きにこられる方がいて嬉しい限りです。あと2日!