森田美芽
「この比(ころ)よりは、大方、せぬならでは、手立てあるまじ。・・さりながら、誠 に得たらん能者ならば、物数みなみなうせて、善悪見所は少なくとも、花は残るべし。」
2003年9月、国立小劇場公演「義経千本桜」を見て、『風姿花伝』の年来稽古条々、 「五十有余」の件を思い出さずにはおれなかった。
芸に生きる者が、どうしようもなく直 面せざるを得ない肉体の限界というものを思い知らされた舞台だった。6年前、文楽劇場で 吉田玉男の知盛を見たとき、彼が78歳であることは露ほども思い浮かばなかった。人形遣 いは人形を生かし、自らの肉体を隠す。その陰にどれほどの痛みがあるかなど、観客には いささかも感じさせずに。それでこそわれわれは人形に没入できた。そこに語られるドラ マが、人間以上のリアリティを持って迫ってきた。
いま、84歳という年齢を意識しないわけにはいかない。とりわけ知盛幽霊のくだりには、 痛ましさが先立ってしまった。しかし、手負いとなってからの数々、さらに左と足、さら に2人の介錯に助けられて、ようやく岩を登る彼を見たとき、思わず唇をかみしめた。私 が今見ているのは、吉田玉男なのか、平知盛なのか。
手負いになってもなお降参を拒み、 修羅の地獄へ落ちようとする知盛に、私は何を見ているのか。拍手はできなかった。溢れ てくるものがとどめようもなく、立ち尽くすばかりだった。
吉田文雀の典侍局においてもまた、同じ思いがあった。二重を上るとき、介錯に腕を支 えられて上る。その一瞬、典侍局がただの木偶に見える。それはほんの一瞬であるが、私 たちを現実に引き戻す。
驚くべきは、その後、安徳帝を抱えて海に沈もうとする典侍局が 「いかに八大竜王」と命じるとき、二位の尼が壇ノ浦で安徳帝を連れて入水した時のさま が、ありありと浮かんできたことだ。それは間違いなく、殿上人の威風であった。作り物 の舞台の中に、そうした場を、身分秩序の世界とその論理を、さらに平家一門の無念を現 出させる力であった。
文楽を見ていて、こうした状況を経験すると、何と言えばよいのだろう。一方で『散ら で残りし花』を賞でつつも、若木の桜の時分の花を惜しまずにはおられない。そのせめぎ 合う思いで、正しい評価などできようもない。ただ、その時に見たものを見た思いのまま、 書き記しておこう。
大序、つばさ大夫、睦大夫、芳穂大夫、相子大夫。三味線は清馗、龍聿、龍爾、清丈の 順。つばさ大夫は声が安定し、聞きやすくなった。睦大夫は義経の物語の場を作り出す力 がでてきた。芳穂大夫はしっかりした声を出す。相子大夫は語りのうちに自然と訴えるも のがある。
清馗はのびやかに素直な音。龍聿は音が明快だが、少し上ずって聞こえるときがある。 龍爾はこれからだが、音に対する感性はよいようだ。清丈は後半にはさすがに音が甘くな ったが、だいぶしっかりしてきた。
人形では幸助の藤原朝方、和生の義経、文司の弁慶、清三郎の亀井六郎、簑一郎の駿河 次郎、キャスティングは若返ったが、いきいきと遣っている。一人一人、役をわきまえ、 全力を尽くしているのがわかる。
北嵯峨の段。文字久大夫にかわり呂勢大夫、清太郎に代わり清志郎。清志郎は6年前は 大序を弾いていたが、もうあのころの音とは比較にならない。明快で、歯切れのよい音の ここちよさ。呂勢大夫はやわらかくはんなりした風情を描き出す。人形では玉英の浄心尼 の隠遁者の風としとやかさに見るべきものがあり、清之助の若葉の内侍は、やつしとはこ ういうことかと納得させる。庶民のなりをしていても、身分の高さは歴然としている。と りわけ衣装が変わってからは。紋吉は動かないで高貴さを出すすべを心得てきた。玉女の 主馬小金吾、前髪のさわやかな色気。熱い忠節。勘市の猪熊大之進、きびきびと動いてよ い敵役。
堀川御所の段。嶋大夫、清介。この物語の悲劇の全体を、感覚的に理解させる。義経の 知略、誠実、にもかかわらず部下の暴走で決定的な兄弟の亀裂を迎える。しかも卿の君の 犠牲も無になってしまった。運命のいたずらとしか言いようのない悲劇なのだと、嶋大夫 の語りが迫ってくる。清介はいつもながらの心ある三味線が悲しみを添える。
人形では一暢の卿の君、哀れに一途な義経の妻、紋寿の静、ここでは少し卿の君に遠慮 しているように見える。玉女の川越太郎、秀逸な存在感。和生の義経は、この場では知将 としての気品と諦めの潔さがまさる。土佐坊の玉勢もよく遣っている。
アト、新大夫、清志郎。新大夫はこうした勢いある場は十分。清志郎もまっすぐな気合 で合わせる。
二段目、伏見稲荷の段。松香大夫、宗助。松香大夫は義経の諦念、弁慶の無邪気、忠信 のあやしさを描き、宗助が的確に場を導く。文哉の逸見藤太がひょうきんな味わいを見せ る。紋寿の静の片手遣いも見もの。
渡海屋・大物浦の段。口、呂勢大夫、喜一朗。中、千歳大夫、燕二郎。切、十九大夫、 富助。呂勢大夫はこちらが本役だが、少し「北嵯峨」と似たように聞こえてしまう。喜一 朗の勢いある音。千歳大夫はまた声を痛めているのが残念。心余って声に届かないもどか しさを感じる。こうした重い場をどのように語っていくかが彼の課題である気がする。燕 二郎は鋭さを増した。十九大夫は十分な位と格をもって語り、富助は鋭く切り込むように この場を作り出す。修羅道のいたましさ、惨たらしさを描く糸の見事さ。ただ最後の場面 での声が伸びきらないと感じたのは私の気のせいだろうか。
亀次の相模五郎、この人なら誤りようもない。一徳の船頭、丁寧に遣っている。一輔の 入江丹造、手負いの苦しみと自害の絶望の深さ。玉翔の娘お安実は安徳帝は立派。
三段目「椎の木」口、始大夫、団吾。いつもながらまじめな始大夫だが、もう少しメリ ハリを付けてもよい。団吾は折り目正しく合わせる。
奥、伊達大夫、団七。テーピングをした団七の手が痛々しい。いつもの繊細な美音にわ ずかに蔭がある。伊達大夫の口跡の見事さ。田舎のならず者、そうした権太の生活感がに じみ出る。小金吾の無念。
人形は玉一郎が善太、やんちゃで動きがある。勘弥の小仙、丁寧な世話女房。そこに玉 女の小金吾、紋吉の六代君、清之助の若葉の内侍が登場するだけでもはっとさせる。そし て満を持しての簑助の権太。魂の通った権太としか言いようがない。
「小金吾討死」掛け合いで三輪大夫、文字栄大夫、咲甫大夫、つばさ大夫、三味線は喜 左衛門。三輪大夫の小金吾の、前髪の青年のすがやかさと哀れさ。咲甫大夫は声は十分だ が、部下に犠牲を強いる立場の苦しさをもう少し出せたらと思う。つばさ大夫はその一声 がうまくはまった。文字栄大夫は弥左衛門の実直と忠義のあわいを表出する。
「すしや」切住大夫、錦糸、後咲大夫、清治。鮨桶の木の香り、人の動き、権太の単純 さと複雑さを描き出す住大夫の技巧。そのしみじみと迫ってくる味わいを誰が継ぐことが できるだろうか。お里のさわりがややあっさりとしていたようにも思う。錦糸の微妙な間 からにじみ出るような音色。咲大夫は新境地を開拓し、強さのみならず権太一家の哀れに 迫り、清治の音には一分の隙もない。
この語りにこの人形がそろったとき、圧倒的な存在感の密度を感じた。
玉也の弥左衛門、紋豊の女房、簑助の権太、勘十郎のお里、文吾の弥助、清之助の若葉 の内侍、紋吉の六代君、いずれもが人形とその性根、心と表現にまったく違和感がない。
お里は田舎娘らしく自分の感情に正直な強さをもち、若葉の内侍は町人の着物を着ていて も、その取り成しはまさしく貴族の出である。座っている姿勢だけで、勘十郎も清之助も 彼女らの生まれ、育ち、感情を表現できるほどになっている。
紋吉も格段の進歩。弥左衛 門も女房も自然ににじみ出るものがある。その悲しみの中心に簑助の権太がいる。あまり にも悲しい犠牲、最愛の妻と子を犠牲にし、その犠牲が無になったという嘆きを前に、父 は悔い、母は嘆き、妹は悲しみ、内侍は痛みを共にする。ただ一人、その犠牲を受けるべ き張本人、維盛は出家して永らえることとなる。
だが失われた命のなんと惨いことだろう。 その嘆きを共にするとき、「諦め」――悟りという意味を私たちの先祖がどう理解したかを 心でともにすることができる。不条理とも、怒りとも。全段を通じて、この場が最も印象 的だった。
四段目「道行初音旅」
寛治の三味線が響くと、心からうっとりとさせられる。雲間に見える桜の山々、それを はるかに見渡す大和路の険しさ、愛する者を追って心せく旅の思いが、初めて聞くあのフ シオクリの旋律に、どれほど心に広がってきたことだろう。
英大夫の静御前、予想通り、確かな手ごたえと色気。千歳大夫の忠信、少し声が伸びな ていない。南都大夫、早くこの人で静を聞きたい。相子大夫、「慕い行く」が素直。睦大夫。 三味線は寛治、弥三郎のあとは、龍聿、清丈、龍爾と若手のトリオ。弥三郎のあともう一 枚、最若手クラスとベテランを結ぶもう一人がいてくれたらと思う。
紋寿の静御前、文吾の狐忠信。格から言えば申し分ないはずなのに、なぜか違和感を覚 えた。そう、この二人ならば、水準以上どころか、新しい静や忠信の魅力を引き出しても よいだろうに、浮き立つ華やぎや美しさが、どこか違う。
静の愛らしいこと、忠信の巧み さにもかかわらず。一つだけ指摘できるのは、鳴り物が大きすぎ、タイミングが外れる場 合があったこと。この一つだけでも、折角の舞台が十分になりえないのだ。ただ、忠信は もっと妖しさに満ちた色気を表現できるのではないか。
「河連法眼館」中、津駒大夫、清友。「鶯の声なかりせば」に引き込む力を感じた。忠信 のやり取りもうまい。清友は太夫にとってなんと頼もしい助け手であることか。
切、綱大夫、清二郎、ツレ清丈。「四の切」の狐詞を初めとする難しさは、無論のこと、 技巧の問題を超えた狐の情愛の哀れ、義経の孤独、綱大夫の名人芸に酔わされる。清二郎 も風格をそなえてきた。
アト、貴大夫、津国大夫、三味線は清馗。この長い一日の終わりを、確かな力で締めく くる。息と張りが、物語の最後までゆるぎなく伝えるべきものを弛緩なく伝えてくれた。 玉志の覚範、威風堂々たる大きさで義経と対抗する。玉輝の佐藤忠信、代役とはいえ確か な力を見せてくれた。
打ち出しは心地よかったが、私の心にはやはり晴れないものが残る。私は文楽の「千本 桜」を見に来たはずだが、その世界に没入し切れなかった。ずっと考え続けてきた。ある 種の感動を覚えたのは事実である。だがそれは、文楽の芸において作り上げられる世界そ のものにおいてでなく、技芸員がいのちがけで舞台をつとめ、なお高みを目指す、その状 況の中で役柄と相通じる何かが生まれ、それはあの空間に居合わせた者だけが感じ、共有 できる感動であった。
予定されたものでも、作り上げたものでもなく、この舞台の中で生 まれたものである。それを否定することはできない。人間国宝などという看板ではなく、 それこそ人が理屈ぬきに敬意を払うべきものである。
その一方で、やはりそれは文楽の本道なのか、という思いが残る。私は吉田玉男の名を 惜しむ。私は彼の人形から計り知れないものを学んだ。文楽とは何か、言葉でなく人形そ のもので学ばされた。文楽とは語るものも弾く者も遣う者も、自分を隠して人形にすべて を語らせ、表現する、それゆえにより深い人間性を、物語の本質を描くことが出来るのだ と。彼の人形を同時代に見たことは最大の財産の一つであるとさえ思う。
その彼にとって、 あの知盛は本意であっただろうかという思いは残る。それはやはり生きた人間の作り上げ る舞台というものに本質的な葛藤なのだろうか。
唯一つ、座頭は一朝一夕には育たない。また、もはや若手の成長を待つ、という悠長な 場合ではない。国立劇場には、そうした使命感と危機感をもって、文楽をプロデュースし ていく責任があるだろう。
私たちはそれを見守り、時には批判していく責任がある。なぜ なら、文楽の直面する現実、これほど濃密に生きるということの矛盾に満ちた戦いと苦衷、 さらに喜びを見せてくれるものはないのだから。
文楽に触れるということは私たちの生の もう一つの現実に、現実と虚構の虚実皮膜を通じて出会い、その生の全体を肯定していく ことにほかならないのだから。