カテゴリー別アーカイブ: 美芽の“若”観劇録

豊饒の夏―2004年夏公演に寄せて―

森田美芽

 5月の東京公演が終わると、文楽はしばし、若手の研鑽の時を迎える。中堅、若手による 6月鑑賞教室、若手会、南座公演、さらに技芸員たちの個人的な活動など、短い期間に多忙 な充実の時である。
 鑑賞教室では、中堅クラスの実力と内容を、さらに彼らがいま、力を 尽くしても越えることの困難な「寺子屋」の壁を見た。それでもひたむきに力を出し尽く そうとする若手会での真摯な姿勢に打たれた。それらの積み重ねの上に、彼らの芸の深ま りを共にできるという期待のうちに、夏公演を迎えた。

 第一部「文楽はおもしろい」人形解説と体験コーナーを、勘市と一輔が交替で勤める。 筆者が見たのは一輔のだけであるが、興味深く聞かせる力を持っている。体験コーナーで はあちこちで子どもたちの手が上がる。その真剣さや素直さから、やはりこうした経験は、 子どもの時こそ重要だと思わされる。
 ただ太夫・三味線の聞き所やおもしろさ、メリヤス などの簡単な説明もほしかった。一言でいい、太夫や三味線が生易しい仕事でないと感じ てくれるような何かを伝えてほしい。

「西遊記・完結編」
 こうした新作を批判的に見る向きもあると聞く。だがこの作品は、ここ何年かで見る中 でも良い成果を残したと言える。
 まず、人形陣の大健闘。勘十郎の孫悟空が生き生きと活躍している。簑二郎の銀角との 対決など、目を離せない迫力で、宙乗りも飽きさせない。
 玉女の三蔵(紋豊代役)は静か な貫禄。嵐の中で三蔵をかばう孫悟空に、勘十郎と玉女の無言の信頼関係を感じたのは筆 者だけではあるまい。それに清之助の羅刹女、簑二郎の銀角、文司の猪八戒、勘弥の沙悟 浄、勘緑の牛魔王らがからむ。そのバランスのよさ、互いを生かしあう実力伯仲、それぞ れが持ち味を発揮した。
 サングラスをさせたり、帽子をしてみたり、アイスキャンデーを 頭にのせたりと、自然に観客に笑いを誘う場面もある。芭蕉扇を特大にして出すのもうま い演出であると思う。

 床は「一つ家の段」伊達大夫、清友。「流沙川の段」松香大夫、宗助。「火炎山より芭蕉 洞の段」英大夫、団七。「祇園精舎の段」文字久大夫、新大夫、つばさ大夫、芳穂大夫、弥 三郎、清志郎、龍聿、龍爾。
 初め、もう少し若手に任せた方が良かったのではとも思ったが、伊達大夫や松香大夫が ベテランの味わいを出した。のみならず、彼らの語り口を通して、子どもたちに訴えるも のがあると思った。彼らはその語り、リズム、音使いを通して、隅々まで義太夫の響き、 味わいというものを自然に感じさせる。
 おそらく子どもたちの大半は、父や祖父からこの ように力強く人間性を感じさせる昔語りを聞いていないのではないか。彼らはその伝えら れた言葉だけがもつ独特のぬくもり、懐かしさを持つ豊かな大阪弁の物語を、伊達大夫や 松香大夫の語りの節々に、また清友や宗助の三味線のなかに感じたのではないだろうか。
 無論、聞いてすぐわかるというのは無理であろうが、そうした本物に触れることで、これ から何十年か先、そのリズムや節や言葉の主調低音が、彼らの心の無意識の層に残ってい くのではないだろうかと思われた。
 英大夫はやはり入れ事がうまいが、子どもたちがいつ か、この面白さが単なる口先のものでないことに気づいてほしい。いまは時を重ねた芸と いうもの重みが不当に軽んじられている時代だから。団七の三味線のさりげない確かさと 響きの豊かさも。
 文字久大夫、新大夫らも力強くしめくくる。
 最後の祇園精舎の場面のな んと美しいこと。子供たちが思わず手を出して降りしきる金のかけらを集めようとする。
 その幻想的な中を孫悟空や三蔵たちが客席に降りてきて、握手をし、手ぬぐいを撒く。子 供たちも大人も、最後まで動こうとしない。これほど客席と舞台が一体になった雰囲気を 初めて見た気がする。
 無論古典の作品とは違う、観客もいわゆる見巧者の人はむしろ少な い。むしろ文楽とはこういうもの、という先入観がないだけ、次に何が起こるかわからな い舞台をわくわくしながら見入り、そこに入りこんでいる。少しわかりにくい部分があっ ても、だれるということがない。このテンポを作り上げたのは今回の功績であろう。
 この 数年の積み重ねとその都度の反省と改善が実を結び、今回の形になったといえよう。
 何よ り、中堅・若手が中心となって力を尽くしたことで、これだけの舞台ができるのだ。その 彼らのいまを見、聞いてほしいと思った。
 ただ、どうしても人形中心になり、効果音などで床の大夫の声や三味線のメリヤスが聞 きにくかったのは残念である。あと、スモークの多用は舞台の彼らにも床にも良くないの ではないか。これらはぜひ改善してほしい。

 第二部、「生写朝顔話」
 「宇治川蛍狩りの段」掛け合いで、阿曾次郎の三輪大夫、深雪の心を捉えるに十分な色男 ぶり。深雪の呂勢大夫、武家の娘の誇りと熱情。僧月心の津国大夫、やや年かさに聞こえ るが実直な人柄。浅香を南都大夫、単なる腰元ではない、深雪の思いを伝え、かなえよう とするもう1人の深雪。この浅香との関係が、幕切れの徳右衛門の切腹につながることを 理解させる。
 浪人を文字栄大夫、始大夫、勢いと憎まれ役のうまさ。奴鹿内を相子大夫、 印象的。
 三味線は宗助、全体の劇的起伏を理解させる運び。
 夏の宵、宇治川の川辺、蛍のほのかな光、恋は一瞬で始まる。悪者から助けられ、偶然 は運命となる。そして由無い別れ。会えないことによって深雪の思いは決定的となる。
 男 は家を、それに象徴される社会的な立場を重んじざるを得ない。
 だが女には自分の思いだ かがすべてなのだ。この食い違いが、深雪のストーカー的な情熱となることを、その美し い場面と人物の中に感じさせる出来であった。

「明石浦船別れの段」嶋大夫、清介、琴清丈。
 運命は悲劇となる。「わだつみの浪の面照る月影も・・」海原での思いがけない再会と別 れ。チャンスの精は前髪だけというけれど、いまがその時であるとどうして知られよう。
 一瞬のためらい、この「一度」の重さを伝える嶋大夫と清介。

 「嶋田宿笑い薬の段」中、文字久大夫、喜一朗。次、咲大夫、燕二郎。文字久大夫は人 物の語り分けの呼吸がよい。
 幕開きの下女と松兵衛のやりとりが楽しい。
 咲大夫の熱演に は細部まで計算された義太夫の呼吸がある。燕二郎もまた義太夫の呼吸に忠実に弾く。こ のやり取りの迫力、うまさ。
 それに合わせて紋寿が遣う萩の祐仙、理屈ぬきに笑いが、二 度、三度と波のように押し寄せる。三業が一体となった面白さである。陰の高音に龍聿。

 「宿屋の段」住大夫、錦糸、琴清志郎。
 戎屋徳右衛門が主調低音をなす語り、どことなく「沼津」の平作を思わせる、へりくだ った詞の調子に、もと武士の位と宿屋の主の風格をのぞかせる。
 錦糸の一撥で朝顔の哀れ さが深く胸に染み入る。清志郎の琴はいつも、劇中の琴が持つ意味を静かに語っている。 その風情のよさ。

  「大井川の段」津駒大夫、寛治。
 津駒大夫らしい熱演。深雪の嘆き、川の向こうへ届けとばかりに。寛治はむしろ淡々と その成り行きを見守るような温かさを感じる糸。
 しかしこの、深雪の詞のなかでなぜ彼女 が零落の身を島田に置くのか、浅香と徳右衛門の関係、それらをすぐに納得するのはむず かしい。
 まして深雪の目を治すため、徳右衛門が切腹する理由もこの一息では難しかろう。
 人形では簑助の深雪、零落してもどこまでも武家の娘と一目でわかる。困難や逆境に遭 えば遭うほどに思いを燃やす。彼女の論理は明快だ。
 それに引き換え、玉女の阿曾次郎は、 義理の重さと恋人に手を伸ばしてやれない悔しさに唇をかみ締める、色男ぶりのなかの誠 実さを感じる。
 玉也の岩代多喜太、敵役の本領発揮。勘十郎代役の戎屋徳右衛門、父性の 確かさ。玉英の浅香、行儀良い。紋吉の船頭は、いい味わいがある。簑一郎のお鍋、愛嬌 あり。紋秀の小よし、動きがきびきびしている。玉佳の松兵衛、ゆったりとおおらか。玉 志の奴関助の実直さ等が印象に残る。

第三部「一谷嫩軍記」「きぬたと大文字」
 「熊谷桜の段」千歳大夫、清治。
 千歳大夫は相模と藤の方のやりとりがよい。特に藤の方 が相模の夫が自分の息子を討った熊谷と知ってからの変わりなどは有無をいわせぬ説得力 がある。
 しかし梶原や弥陀六が出てくると、低音がかすれて聞き苦しくなる。やはり千歳 大夫には、浄瑠璃が前より自然になってきているだけに、声の使い方はぜひ体得してほし い。清治の糸の確かさが彼を前進させているのだから。

「熊谷陣屋の段」前、綱大夫、清二郎。後、十九大夫、富助。
 この組み合わせ以外は考え られない。
 だが、千穐楽、綱大夫の「熊谷の物語」のくだりはやや苦しさが聞こえた。清 二郎は迫力十分。十九大夫の相模のくどき、弥陀六の嘆きはじんと響いた。富助は変幻自 在。
 人形では文吾の熊谷が、父の苦悩と憂いを隠す悲運の武将の魅力を見せた。文吾の熊谷 で印象的なのは、登場のとき、そっと数珠を隠すような仕草、息子を気遣う妻に答えなが ら妻に覚悟を迫る箇所、「十六年もひとむかし」の眼差しである。
 泣くことのできない熊谷 の涙を感じた。文雀の相模、無論武家の奥方の品位と母親の情愛は十分、特に後半、息子 を失う悲しみが、実は自分の息子と気づき藤の方と立場が逆転してからの嘆きの見事さ。
 和生の藤の方、高貴の女性が知らず知らず人を傷つけるところまで表現する。幸助の堤軍 次、品良く忠節の心篤き折り目正しい武士。清五郎の梶原平次、性根の悪さを巧みに出し た。
 玉輝の義経、貫禄十分。そして玉男の弥陀六、あまりのさりげなさに、この人が85歳 の最長老であることを忘れる。寸分の無駄もない動き、平家の一員でありながら、自分の 仕業で平家を窮地に陥れた嘆き、彼の刻む石塔が、因果の身の嘆きとせめてもの供養であ ることを思う。

 「きぬたと大文字」最後にしっとりと夏の詩情と秋風の立つ風情を残して終わる。
 「大文字」の舞妓は和右と清三郎、和右ははんなりと愛らしく、清三郎は姉らしく少し妖 しささえ感じさせる。指先まで丁寧に決まる。
 京の大文字は盆に帰ってくる先祖の霊を再 び送る火。これが終わるともはや秋である。

 「きぬた」の砧の女、風の音、虫の声、夫を思い砧を打つ女。夫はどこにいるのか、無 事なのか、それすら知れない。ふと世阿弥の「砧」を思い出した。
 しかし清之助の砧の女 は、閨怨のようなどろどろした情念ではなく、ひとり風の中に残されたすさまじいまでの 孤独を感じた。
 床は呂勢大夫、咲甫大夫、睦大夫、呂茂大夫に、初舞台の希大夫と靖大夫。
 美声の先輩 たちに精一杯ついていこうとする彼らの前途に祝福を祈る。
 三味線は喜左衛門が団吾、清 馗、清丈、寛太郎らを率いて夏の終わりの風情を紡ぎ出した。

 千穐楽に初めて気づいた。この三部の主題は鎮魂であると。それでこそ八月にふさわし い。
 盛夏の中に秋を、衰えゆくもののはかなさを思う。
 私たちはいつも、滅びに向かって ゆくものにほかならないと。
 だが、この、理性を失うほどの、くらくらと意識の奥から抑 圧してきた思いと情念を見出させる、死と隣り合わせの暑さを超えていくことなしには、 秋の豊かな実りを生み出すことは出来ないのだ。
 その意味でこの夏の文楽の主題は、あま りにも季節の重みと重なっていた。
 第一部の「創造への意欲」第二部の「夏の恋」第三部 の「鎮魂」と。いくつも巡ってきたこの季節に、帰らぬ人々とそのなしえたところを思い つつ、いま、彼らが自分の生きているという幸運と使命を発見することができるようにと 願う。

 実りの月である十一月に、彼らはそこに何を生み出すことができるだろうか。
 「仮名手本忠 臣蔵」に思いをはせつつ、豊饒の夏ははや立秋を迎える。

永遠の今―-2004年4月「義経千本桜」

森田美芽

 「義経千本桜」の春。20年を越えて時は巡る。しかし人は変わる。鬼籍に入った者、引 退した者、朝日座を知らぬ者・・主役だけが変わらない。20年目の春は迷いと混沌の中で 新たな道を模索する春となった。
 千本桜、これまでも節目ごとに演じられてきた名作、人気狂言。「義経」と「忠」と「信」 をキーワードに、義経という悲劇の武将とその名と運命を分け合う狐の物語として、言葉 の芸術、語りの妙を凝縮するものであると気づかされた。だが演出は人形中心、いくつか の大事な言葉が省略されている。さらに配役発表後に役の変更がなされたことも疑問が残 る。それらはやはり、20年を経たいまの彼らの困難を物語っている。
 所見日が後半に偏ったため、ダブルキャストは後半のみ言及する。
 大序「仙洞御所の段」。つばさ大夫、睦大夫、呂茂大夫、芳穂大夫、相子大夫。三味線は 龍爾、清丈、龍聿、寛太郎、清馗。この物語の核となる初音の鼓のいわれと朝方の陰謀が 明らかにされる。
 忠と信、このキーワードを明確に発生するつばさ大夫、丁寧に義経の物語を語る睦大夫、 朝方との息詰まるやりとりは呂茂大夫、芳穂大夫も声が前に良く出る。相子大夫は精進の 成果を聞かせる。三味線ではやはり清馗の安定感が抜群。龍爾、龍聿、清丈、寛太郎らも 健闘。
 藤原朝方を紋豊、義経を和生、弁慶を亀次、猪熊大之進を一輔。紋豊の存在感と役の把 握の的確さを若手は学ぶべきだろう。和生の義経、りりしく芯の強さを感じる。「強く優な るその姿、一度に開く千本桜」と語られるとおりの武将。亀次も大団七の首を大きく遣う。 一輔は巧みに性根を表わすようになってきた。
 「北嵯峨の段」がカットされている。どうしても疑問のある場だが、若葉の内侍と小金 吾がここに出ていないと、藤原朝方の若葉の内侍への横恋慕という、三段目の悲劇の伏線 がわからなくなる。また若葉の内侍のやつしの姿から一度上臈姿に戻り、「すしや」後半で 村の女房姿になる変化の効果が半減するように思う。時間の関係かもしれないが、やはり さびしい。
 「堀川御所の段」嶋大夫、清介。川越太郎と義経の問答の迫力、義経の理ある詞、卿の 君の犠牲、にもかかわらず弁慶の暴走が兄弟の決定的な悲劇を生む。これらの件が隅々ま で、息詰る確かさで迫ってくる。浄瑠璃とは何よりも言葉によって組み立てられたその世 界を言葉によって伝えることと思わされる。清介の三味線は細部まで行き届いた着実な力。 アト、始大夫、清志郎。若々しい力の発露。始大夫は力が入りすぎるかと思えるほど真っ 正直にぶつかっていく。清志郎は瑞々しい充実。
 人形では文吾の川越太郎の父性と貫禄が見事。簑二郎の卿の君のけなげさが胸を打つ。 勘十郎の静、正妻を立てる聡明さと美しさ。まるで姉が妹に頼むように、卿の君が静に後 を託すのも無理からぬと思わせる。亀井六郎は幸助、駿河次郎は和右。品よく対照を見せ る。土佐坊正尊の玉勢はこのところ芝居ごとに腕を上げているのが見て取れる。
 二段目、「伏見稲荷の段」。呂勢大夫、宗助。落人となった義経主従の悲しみ、諦念、呂 勢大夫ならばそれが小手先の技巧でなく語れるはず。
 静のけなげさに対する義経の覚悟、逸見の藤太は文哉。文吾の狐忠信は額抜けで登場。 「渡海屋・大物浦の段」。口、三輪大夫、団吾。中、十九大夫、富助。切、綱大夫、清二郎。 三輪大夫は調子よく朗々と語る。おりうの詞が印象的。団吾も明確な手。中の十九大夫 は謡がかりが十分、知盛の銀白のいでたちにふさわしい大きさと気品を聞かせる。富助も 余裕を感じさせる。今回は綱大夫については適切な評価がしづらいので、言及を避けたい。 しかし清二郎の勢いある三味線を評価したい。
 人形では、玉誉の安徳帝が確かで品位あり、玉志の相模五郎、あくの強さをよく捌く。 勘市の入江丹蔵、短い出番だが印象的。
 わけても「渡海屋」における玉女の銀平と清之助のおりうの見事さ。銀平の大きさと男 伊達、腹に一物の底強さ、おりうの母らしさ、それらの中にふと匂わせる御所風、力を落 とした義経の色気と合わせて見所ある一場に仕上がった。知盛が正体を見顕し、白銀の衣 装に変わる。その凛々しさ、すがやかさ、気品。型を忠実に追いながらも、そこに溢れて くる瑞々しい力感こそは、玉女が正統の玉男の後継者であることを示している。文雀の典 侍の局、確かにその品格と位の高さは変わらない。帝を抱いて二重を降り、海辺へ近づく その足取りに、伝わるものが変わってきているのを思う。
   玉男の知盛。修羅の手負いは昨年9月よりも元気に見えた。だが最後、沖の岩に登るメ リヤスがいつもより多い繰り返しになっているのを聞いた時、胸が熱くなった。良し悪し を語ろうにも、胸が詰まって言葉にならない。それを言うには痛ましすぎる。目をそむけ たかった。ここまで遣い続けなければならない人形遣いという業の深さに。「名は引く汐に ゆられ流れ流れて、あと白波とぞなりにける」とは、なんという運命であるか。
 三段目、「椎の木の段」。口を津国大夫、喜一朗、後を千歳大夫、清治。津国大夫は言葉 は明確だが、各人物のふくらみが次の課題であろう。喜一朗は的確にこなす。千歳大夫は 権太が特によいが、それでも小仙に悪態づくところや段切れの子への思いにはまだ物足り なさを感じる。とはいえ、清治の示す高みへと挑み、それを越えていこうとする中から、 さらによいものを生み出してほしい。紋吉の善太、勘弥の小仙、いずれもよい風情。玉女 の小金吾、前髪の瑞々しい色気、熱い忠誠、ひそかに若葉の内侍に思いを持つかと思わせ るさわやかな若者。
 「小金吾討死の段」。小金吾討死の段 小金吾の松香大夫、無念さが印象に残る。弥左衛 門の貴大夫、短くとも手堅く余韻を残す。若葉の内侍は南都大夫、美声で嘆きも伝わって くる。新大夫が六代、五人組、勢いがある。喜左衛門はやはりというべきか、こうした掛 け合いをまとめる巧者。
 「すしやの段」前、住大夫、錦糸。これは誰も真似のできない、住大夫の独自の間なの だ。節や詞の使い分けは無論、その世界を作りだす力を持つ人としての。この世界では権 太もお里も弥助も弥左衛門も、今に生きる人間としてわれわれのうちの一人であると納得 させる。錦糸はその間合いをはずさず引き込んでいく。後、伊達大夫、清友。生き生きと 描き出す。一人一人がすみずみまで生きて呼吸している。感情が無理なく迫ってくる。決 して声が良い調子とは限らないときも、清友は実に頼もしい助け手であろう。権太のもど りから妻子を犠牲にした嘆き、父弥左衛門との別れまで息もつかせなかった。
 悲劇の中心となる権太を再び簑助が遣う。最後まで底を割らない、抜け目ない小悪党ぶ り、それでいて母親にすねて甘えるような仕草、「わたしにはとかくお銀」のリアリティ、 「命を騙らるる、あさまし」の嘆きの深さ。紋寿のお里、田舎娘、気が強くても愛らしく 早熟な娘らしさ。清之助の若葉の内侍、どこから見ても隙のない上臈にして妻にして母そ して女。典侍の局との決定的な差はここにある。彼女は母であると共に維盛の妻なのだ。
 そして玉男の維盛、優柔不断、親の威光、その彼がようやく見出したのが出家の道なのだ と納得させられる。玉也の弥左衛門、紋豊の女房、いずれも的確な存在感。玉輝の梶原、 敵役としての思慮深さと手ごわさがほしい。六代君は簑紫郎、高貴さと無邪気さを備えた 遣い振り。
 四段目、「道行初音旅」津駒大夫、文字久大夫、咲甫大夫、睦大夫、相子大夫、文字栄大 夫。三味線、寛治、弥三郎、清志郎、清馗、清丈、龍爾。津駒大夫は華やぎある静を、文 字久大夫は力感ある忠信を語ったが、津駒大夫は「これより吉野に」の矢声が、文字久大 夫は「三保谷の四郎」が届くようにさらに精進してほしい。咲甫大夫は豊かに響かせ、睦 大夫は「慕いゆく」が印象的。三味線は寛治の指導よろしきを得てうっとりとするような 見事なアンサンブルであった。
 忠信でも静でも見たいと思わせるのが現勘十郎である。霞たなびく吉野の山路、満開の 桜、肩衣も桜に一瞬で静が観客を捉える。その晴れやかさ、華やかさは他を圧する。忠信 は見台から現れる。狐の巧みさと忠信の色気に気合を感じた。連れ舞の美しさも忠信物語 の面白さも、終始目の離せない舞台であった。
 「河連法眼館」中、英大夫、団七。7年前にも聞いていたのだ。いまはわかる、言葉に張 り巡らされた旋律の糸、「千本桜」全体を象徴するかのような言葉の繊細と三味線の妙なる 手。綴れ錦か綾布のように、ことばが表地をなし三味線がその文様をつなぐ。気づけば言 葉の世界に引き込まれていく。ここは観客には忠信が狐と知られているだけに、下手をす るとくどいと思わせるところだが、そこを十分に引き込んで、奥の咲大夫、燕二郎(ツレ 龍聿)に手渡す。咲大夫の狐詞の巧みさを聞いていると、確かに義太夫の音が言葉を音楽 に変え感動を生み出すのだとわかる。段切れの三味線の弾むようなリズムと共に、忘れが たい出来である。清三郎の佐藤忠信も難しい役どころであろうが、巧みにこなした。

 確かに舞台を見れば、そのものとしては充実している。自分の与えられた役をいい加減 にする者などいないだろう。だからどんな舞台でも感動はある。だが今回はこれでよかっ たのかという思いがある。
 吉田玉男のなした最も偉大な仕事の一つは、間違いなく吉田玉女という後継者を育てた ことだ。知盛に必要な立役としての全ての要素―大きさ、品格、強さ、執念を備えた遣い 手である彼を。玉男の知盛を模範とするなら玉女はまだそれに及ばないだろうが、玉女の 知盛には師匠とは異なる魅力がある。何より現段階での勢いと花がある。
 吉田簑助と勘十 郎にもそれは言えるだろう。問題は、彼らが座頭・立女方として自分の弟子だけを育てて 引き上げたというだけの結果となってしまうのか、それとも文楽全体にとってのよりよい 道となったかということだ。無論あくまで観客側からの見方にすぎないが、玉男・簑助・ 文雀らという偉大すぎる壁を前に、そこにいたるまでに多くの者が力尽き、またその力を 出し切れないまま終わってしまうのではという危惧である。そうなった時、はたして文楽 は存続しうるのだろうか。
 この公演の前に一暢がなくなった。彼も途中で力尽きた一人である。その痛ましさは言 いようがない。また若い人形遣いの吉田幸司、桐竹一徳が廃業したと聞いた。彼らは共に 研修生から修行しよい成果をあげていたにもかかわらず、彼らを育てることができなかっ たことは遺憾である。逆に呂茂大夫や玉誉が復帰し以前にもましてよい成果をあげている ことは大きな喜びである。一暢も子息の一輔がよい修行を積みその片鱗を見せている。だ が彼らのこれからの道の険しさを思うとき、手放しでは喜べない。
 20年前、やはり文楽の伝承と存続の危機が叫ばれていたが、国立文楽劇場の開場がそ の起爆剤となりいまでは一つの市民権を得ているように、いまのこの困難が、過ぎ去って しまえば思い出となるのだろうか。玉男の役を玉女が、簑助の役を勘十郎が演じるように なり、さらに次の世代になっても、昔を知らない人がやはりそこで文楽に出会い、「文楽は いい」と思えるような時がくるのだろうか。私たちに「永遠の今」は繰り返されるのだろ うか。偉大な過去ではなく、今に生きる彼らが、いま、ここで示す芸の充実に陶酔し、共 に一つの時代を作っていける時が。

五月の桜、終わらぬ夢―2004年5月「妹背山婦女庭訓」

森田美芽

 「妹背山」の小宇宙の根幹をなすのは、大和の国、春日と三輪という神域に由来する原 初の自然の力から生まれる超自然の力である。対立する両家の犠牲となる若い男女という きわめて人間的な主題を、とりわけ犠牲となる女性の貞節と献身において超自然の力と結 びつけたことによって、善が悪の原理を滅ぼすという単純なはずの論理を、神話の域にま で高めた作品である。
 三段目の「山」はこの全体を象徴している。2つ原理の対立、それは全体として善と悪、 鎌足と入鹿、天皇を供奉するものと僭称するものの対立である。この対立は屹立する二つ の山、その抗争のなかで犠牲となる人々の運命は、間を流れ下る吉野川の急流にたとえら れる。さらに、しばしば使われる、高貴と卑賤を対比し、その落差におかしみを感じさせ る技法と浄瑠璃に織り込まれたきわどい表現の数々。それは人の持つ原初的なエネルギー を解放する笑いとエロスを感じさせる。それゆえ妹背山の世界は、噴出する人間の生のエ ネルギーと、自然の持つ呪力の壮大なシンフォニーである。また舞台としては、初段で紅 葉、次に雪、3段目は雛の節句に桜、4段目は七夕に三輪山伝説を背景とする。人々の出会 いと別れの悲劇を、四季の移ろいの中に巧みに配置し、その時空の中に物語を悲劇的な運 命として成立させる。私たちはこの舞台を見ながら、そうした半二の世界の壮麗さに引き 込まれずにはおれない。
 2004年5月国立劇場での「妹背山」通しの上演は、そうした物語の本質に迫るものであ った。とりわけ簑助のお三輪の魅力において。
 初段、小松原の段。秋たけなわ、紅葉を配する春日野の出会い。運命の恋は一目で始ま った。そして二人は互いに自分が何者であるかを自覚する。恋はその公的な確執や家の事 情には関わりない。そこに悲劇が起こる。
 久我之助の貴大夫、この場を立ち上げる貫禄と久我之助の誠実さ。雛鳥の咲甫大夫、十 分。久我之助を一目で虜にするほどに。腰元小菊を睦大夫、このところますます調子を上 げている。腰元桔梗と注進をつばさ大夫、動きを出せるようになってきた。宮越玄蕃の文 字栄大夫、憎まれ役も的確。采女を相子大夫、落ち着いた詞の動き。喜一朗が全体の調子 と情景を見事に弾き分け、大夫をまとめる。
 蝦夷子館の段。雪の白さと冷たさ。口を始大夫と清馗、隅々まで力がこもる。節も自然 に流れるようになってきた。「心に探りのひと思案、真しやかに」が耳に親しい。清馗の素 直で品よい三味線。奥を松香大夫、喜左衛門。松香大夫はめどの方のやさしさ、蝦夷子の 大舅、入鹿の底知れぬ悪に迫り、喜左衛門は揺るがぬ北極星のように大夫を導く。
 蘇我蝦夷子の玉輝、老獪さを出す。入鹿を玉也、底知れぬ悪という困難に挑む。めどの 方の紋豊、しとやかで品ある遣いぶり。彼女もまた貞女であるが、同時に父、阿倍行主の 命を受けており、父と夫の対立に引き裂かれた悲劇の女性である。中納言行主を文司、り りしい検非違使。この場の久我之助のさわやかな若男ぶりも忘れがたい。
 二段目 猿沢池の段。津国大夫は短いが場の風を重んじて語る。団吾、的確に受け応え る。この場での禁廷の使の勘市は、きびきびした動きだが、もう少し舞台全体から見て大 きく遣えた方がよいのではないか。
 ここで三段目に移る。「太宰館」英大夫、清友。30分ほどの間に、この浄瑠璃のエッセン スを詰め込んだような、風と格と地力を要求される場。大判事と定高のやりとりに、二人 の意地と背負うものを示す。入鹿の登場。口伝では「入鹿は年若く、気張らず軽く高いと ころで発声する」と言われると聞く。実際聞いてみると、入鹿を気張らずに凄みを出すと いうのは至難の技である。素人の耳には、むしろ頼りなくさえ聞こえる。だが、ここで入 鹿という悪の本性と、大判事、定高の性根を定められるからこそ、この悲劇を納得できる。
 大判事は入鹿の若さのゆえに年の功で言い逃れようとするが、それを許さないで両家を追 い詰める抜け目なさ。それゆえ大判事は久我之助を、定高は雛鳥を差し出さなければなら ず、両家は互いに和解することもできなくなる。その重さ。大笑いの呼吸も十分。清友は 強くまたやさしく時を奏でる。
 眼目の「山の段」背山、千歳大夫の久我之助は荘重さを出すが全体に重々しくなりすぎ たきらいもある。この状況、愛する雛鳥への思いやり、若者の純潔というすがやかさを工 夫してほしかった。住大夫は「花を歩めど武士の心の険阻刀して削るがごとき物思ひ」の 大判事の苦衷が見事。義と名と共に子を思う父性の強さ、厳父の情を語る。清治の撥先か らこの場の沈鬱が広がり、錦糸は段切れへと導く迫力と呼吸。妹山、呂勢大夫の雛鳥は声 柄もはまり健闘。ただ一箇所、定高との掛合で「心ばかりは久我之助が宿の妻と思うて死 にや、ヤ」「アイ」「ヤ」「アイ」の件が強すぎ、定高とのバランスを欠いたように思う。定 高の綱大夫、「一つ枝に取り結び、切り離すに離されぬ悪縁の仇花」の裏に隠された母の思 いが迫る。「ヤア雛鳥が首討ったか」「久我殿は腹切ってか」のクライマックスへの運びは 息つく間もない。宗助の華やぎ、清二郎の瑞々しい造形に、清志郎の琴が嘆きを添える。
 人形では、まず勘十郎の雛鳥。小松原で久我之助と目交す、その一瞬で彼女の人生が変 わった。恋する娘、これ以外にない自分の相手を持った一人の女として生きはじめる。た だ一人の人を思う心の貞女、雛を打ちつける仕草の激しさに、垣間見る。和生の久我之助、 やや線が細いが、品あり花ある武士。この場では一番大人の配慮と少年の純潔を併せ持つ 魅力がある。
 玉男の大判事。ここでは千本桜の知盛のような、物語全体の座頭の象徴的な役というよ りも、息子を襲ったその困難に現実的に立ち向かおうとする、気骨と誇りの大人の代表で ある。これに対し、文雀の定高は、太宰の後家としての気概と娘を思う母の矛盾に苦しみ、 ついに母としての情の勝ったところに共感させられた。玉英の腰元小菊、お福の愛嬌も十 分、勘弥の腰元桔梗、主人に感情移入するやさしさを見せる。

 第2部は、二段目 鹿殺しの段に始まる。芳穂大夫(後半呂茂大夫)、龍聿。明快な言葉 の響き。
 掛乞の段、鷹揚な風格とおかしみ、詞の動きが楽しい。三輪大夫の実力発揮、喜一朗も 楽しませる。人形では、簑二郎の大納言兼秋にユーモラスな動き、玉志の米屋新右衛門も 着実。
 万歳の段、文字久大夫の節使いがよくなった。燕二郎は頼もしい助け手として後輩を導 く。ツレの清馗もよく響く。
   芝六忠義の段、十九大夫、芝六の苦悩を負う父性と忠義の対立、それに向かう妻であり 母のお雉との対比を鮮やかに描く。富助の表現力の幅。とはいえ、石子詰の刑や芝六が忠 義を表わすために杉松を殺す件は現代人にはどうも納得できない箇所である。寺子屋の場 合などと違い、首の身代わりという切羽詰った事情でなく、親の忠誠心を見せるためとい う論理に対しては違和感を覚える。
 人形では文吾の芝六が、芝六の苦悩に共感させ、勘十郎のお雉は母としての性根を貫く。 一輔、聡明で芯の強い子、万歳の丁寧で自然な舞も評価できる。簑紫郎、無邪気で愛らし い犠牲者がいっそう哀れ。和生の鎌足は孔明かしらで、初段の入鹿に対抗する大きさと智 謀を表わす。采女の清三郎、出番は短いが品格を要する役を良く遣う。玉佳の鹿役人、和 右の興福寺衆徒、憎まれ役だがその性根を表わしていた。
 四段目、杉酒屋の段。「井戸替」がないのはさびしい。いかにも唐突に始まる。嶋大夫は この場の三角、四角関係の面白さとお三輪の心根を描く。お三輪のいかにも少女らしい、 早熟な、それでいて一途な思いを清介の糸が彩る。
 簑一郎の子太郎、ひょうきんだがうまく笑いに導く。玉也がお三輪の母。遣い方に問題 はないが、入鹿という敵役を演じて、こうした役を割り振るのはどうなのだろう。 道行恋の苧環。津駒大夫、文字久大夫、呂勢大夫、南都大夫、咲甫大夫の美声の大夫ら に寛治、弥三郎、清志郎 清丈、龍爾のはんなりした三味線。清丈の跳ね返す力、清志郎 の深く冴える音の奥に師の影を聞く。
 女は追い、追われる男は別の女を追う。前半の「面影隠す薄衣に、包めど香り橘姫」の ゆかしさと後半のあけすけな恋の鞘当の魅力。
 鱶七上使の段。伊達大夫の野趣あふれる鱶七の魅力、入鹿とのやりとりの悪びれなさと 官女らとの対比の妙。合わせる団七の音と呼吸の確かさ。
姫戻りの段。津駒大夫、宗助。はんなりとした色気の中に橘姫の苦悩を描く。美声家の 聞かせどころ。宗助も大役に続き責任を果たす。
 金殿の段。咲大夫、燕二郎。「豆腐の御用」のチャリから官女のいじめ、お三輪の疑着か ら死までを一部の隙もなく仕上げる見事さ。お三輪が単なる怒りでなく、生き変わり死に 変わりというほどの一念がこもることを知らせる。お三輪の死の哀れさ。燕二郎は2場を 通じてその性根を見事に弾きわける。
 入鹿誅伐の段。新大夫、長い一日を納める勢いある語り。団吾は多彩な音色をテンポよ く仕上げる。

 こうして全体を見ると、どうしても二段目の芝六の件が、悲劇ではあるものの、四段目 の前説にしか見えないうらみがある。わけても簑助のお三輪の見事さ。出の愛らしさ、恋 する男への思い、苧環を持って追う執念、金殿でふと、はしたない女子と思われてはと留 まるいじらしさ、いずれもがお三輪という名に冠せられる全ての要素を過不足なく表わし ている。
     お三輪は、鱶七に殺され、自分の愛する人が実は藤原淡海であり、「あっぱれ高家の北の 方」と言われ喜びつつも、「この主様には逢はれぬか、どうぞ尋ねて求馬様」と言う。なぜ 彼女は「求馬」と呼んだのか。三輪伝説では、夜な夜な現れる男に糸をつけて後を追った ところ、糸は途中で切れて男は蛇であったという。お三輪にとって、その男は藤原淡海な どという見も知らぬ高貴の男ではなく、どこまでも烏帽子折求馬にほかならない。その彼 方の男は正体を現し、求馬という男はとうに幻となっている。しかし彼女は苧環を手繰り 続け、いつかはその果てに男を手繰り寄せるだろう。その情熱こそが彼女を入鹿退治の超 自然的な力と結びつけるのである。これは渡辺保が六世中村歌右衛門に寄せて論じている ことだが、それを体現しているのはこの簑助のお三輪に他ならないと思う。
 橘姫もまた、恋してはならない相手を好きになり、恋人に操を立てるべく、父に代わる 兄に反逆する。「誅伐」で宝剣を追って水に飛び込むさまは、「日高川」の清姫を思わせる。 彼女もまた、「妹背山」を彩る貞女である。清之助はこうした姫を描くに十分なものをいつ も見せてくれる。美しさと高貴さ、恋する女の情熱、まさにある意味半二の理想であると 思われる。
 紋寿の求馬、プレイボーイの色気と策謀家の顔。2人の女に愛され、女を自分の目的の為 に利用する冷徹さ。玉女の鱶七、大きく躍動感と力感に溢れる野性味、金輪五郎に戻って からの「鍛えに鍛えし忠臣」の骨柄が見事。勘緑の荒巻弥藤次、検非違使かしらをよく使 いこなす。亀次の宮越玄番 よい一対をなす。官女たち、紋臣、紋秀、文哉、玉勢。いき いきとよく遣っている。
 
 今回まず、上演の仕方に疑問をもった。初段、二段目がやや地味とはいえ、初段と三段 目、二段目と四段目を結びつける、こうした分割の仕方がふさわしいかと思う。これでは 物語はあくまで二つの恋と雛鳥、お三輪というヒロインの悲劇という人間的な主題にとど まり、それらを呑み込んでいく運命と歴史という壮大さへ結びつかないのではないか。と りわけ雛鳥と久我之助の件が、死して魂魄残るという感が薄まってしまった。「入鹿誅伐」 をつけたことで、一応それまでの犠牲と悲劇が成果をもたらしたことに理性的には納得で きるが、その情念というか、言葉にならないものの領域までは踏み入らないまま終わって しまうのでないか。つまり、言葉と人形を通して、超自然的なものを媒介するという働き が、見る側に通じるということがきわめて困難になってしまっているのではないか。
 「妹背山」の桜は、「千本桜」の桜と異なり、潔さや純潔、討たれし者たちの墓標として だけでなく、人知を超えた自然と歴史の動きを象徴すると思う。それが半二の描く迷宮の ような世界観の一つの結論であるのではないかと筆者は考える。桜の小さな花々が集まっ てその木と山を作り出すように、人の小さな思いと出会いが、重なり合い響きあい、まっ たく異なる大きなドラマの一部分として形成され、一つ一つの犠牲が絡まりあってさらに 大きな歴史を動かす。それをどうやってこの現代に伝えるか、それこそ彼らの伝える芸の 根幹の意味はそこにあると思う。
 また、配役にも問題を感じる。中堅以上の、奥や重い場を担当する太夫や三味線が、ほ とんど間をおかず2度の舞台を担当するというのは、あまりに過酷ではないか。そうした 形でしか、通しを上演することは本当に不可能なのか。相生大夫や緑大夫、呂大夫、八介 らを失ったことがこのような形で響いているとは思うが、このままだとまた無理のかかる 者たちを追い詰めることになりはしないだろうか。それだけでなく、次の世代を見据えた 芸の修行を段階的に進めることが困難になりはしないか。
 私たちは国立劇場の40年、文楽劇場の20年が積み重ねてきたもの、失ってきたものを もう一度見直し、新たな50年の礎を築かねばならない。私たちが見聞きし、感じているこ とが芸の本筋をわきまえ、それを理解する方向に向いているのか、また古きものがうせて ゆくのをいたずらに嘆くだけなのか。私たちの夢は終わらない。平成の文楽は、300年の時 の上にさらに新たな力を加えてゆくのだと信じたい。

北浜・花外楼浄瑠璃の感想 暗くなってゆく灯心を消すことなく ――素浄瑠璃「堀川猿廻しの段」

森田美芽

 北浜の花外楼から下を見ると、満々と水を湛えた大川の流れは碧に、午後の鈍い光を受けてたゆたう。向こうには青テントのダンボールハウスが立ち並ぶなか、公園の桜と薔薇が時を待っている。川の上の高速道路に、一つのリズムのような車の流れが続く。しかしガラス戸に隔てられた大広間には、街の喧騒は届かない。
 170年の歴史を持つ大阪屈指の名門料亭、花外楼の若女将、徳光正子氏はクリスチャンである。老舗の暖簾を守る責任の重さは、われわれの想像の及ぶところではない。しかし先祖から受け継いだものを守り伝えるという働きは、文楽の技芸員諸兄の日々の努力とも一致するのではないか。その徳光氏と英大夫の友情から、また一つ名舞台が生まれたことをここに記しておく。

 『近頃河原の達引』の「堀川猿廻しの段」。1782年江戸外記座初演。しかし作者ははっきりわからない。かつては人気曲であったというが、最近では2002年11月の国立文楽劇場で上演されているが、それほど頻度は多いとはいえない。私もそれほど注目はしていなかった。それは無知に他ならないと知らされた。
「堀川」は何より浄瑠璃として面白い。文楽で上演する時は、ともすれば視覚的な面白さにのみ目がいきがちであるが、それなしでも、というより、素浄瑠璃で初めてわかるその音楽的な見事さを思い知らされた。世話物としては、その日暮しの庶民の生活感情を生き生きと描き、わけても与次郎のキャラクターが魅力的である。「おもしろうてやがて哀し」の世界。
 冒頭、「同じ都」といいながら、貧しくわびしい堀川辺の、赤貧洗うがごとき暮らし。たそがれ時の薄日の残り、煙の臭い、生活の香りとでもいいたいようなその感覚が、清友の三味線で蘇ってくる。
 目の不自由な母がおつるに「鳥辺山」を指南する。これは武士と遊女の心中もので、愛らしいおつるの手と母の手の合奏を、清友と連れ弾きの団吾がこなす。

 与次郎が帰ってくる。母が病を嘆くのに対し、与次郎は母に心配をかけまいと大きなことを言う。その思いやり、笑いに紛らすやさしさ。おしゅんの登場。母と兄の妹への思い。だがおしゅんが思いつめていることは手に取るようにわかる。母と兄にこれ以上心配かけまいと退き状を書くふりをして書置きを書く。「しばしこの世を仮蒲団、薄き親子の契りやと、枕に伝ふ露涙、夢の浮世と諦めて、ふけゆく 鐘も哀れ添ふ」おしゅんの覚悟が伝わってくる。
 伝兵衛が訪ねてくる。与次郎が暗闇で余りに怯えて妹と伝兵衛を間違える滑稽さ。「屑が出るぞ屑が」「皆目おれはナニアノオ、祐筆ぢゃわい。」の呼吸の巧みさ。
 伝兵衛が書置きを読み、母と兄は全てを悟る。妹は死なせたくない。しかし妹は、たった一人の人のために、あえて共に死のうとする。伝兵衛もそれを止める。しかしおしゅんの決意は固い。ここでくどき「そりゃ聞こえませぬ伝兵衛さん・・」「たっぷりと」の声がかかる。英大夫はここを美声家のように引っ張らず、むしろしっとりとおしゅんの思いがしみじみと溢れるような語りであった。

 母の思い。この「堀川」でも、娘を思う母の思いこそが最も大切な主題なのだ。娘を思えばこそ、「どうぞ逃れて下さりませ」と願う。ここを出れば心中するのはわかりきったこと、それと知りつつ娘を死出の旅にやる母の無念さ、悲しみ。与次郎もまた、はかないこととは思いつつも一縷の望みのように、編笠を与え、祝言の門出と猿廻しを演じる。涙を流すよりももっと答える幕切れである。
 再び団吾が連れ弾きに向かう。清友のいぶし銀の三味線、団吾のしなやかな音が、華やかにその場を盛り立てる。清友が導き、団吾が受ける。さらに語りかけ、変化を与える。あるいはユニゾンで、時に交替し、手を変えつつ高めていく、その呼吸、その応答の輻輳が、驚くべきスケールの音の世界を作り上げる。音の漸層法に身をゆだねる喜び。そのダイナミックさと巧みさ、様々な先行作品の旋律や飽きさせない多様な技巧と音使い、息の合った美しさと面白さ。おのずから拍手が沸いてきた。それは絶望の旅であるはずなのに、なぜか心がなごむ。「まさるめでたう、いつまでも、命まっとうしてたも」という母の言葉に集約される。
 この「堀川」で改めて知らされた、浄瑠璃の音の構成と詞章の構成の巧みさと出会い。無論、段切れに向けてのいくつかの布石、不吉な予兆を感じさせながら、与次郎というキャラクターの力で、不安は笑いに紛らわされる。笑いと泣きは表裏一体、泣かねばならぬ時こそ笑うのだ。それはどうしようもない不条理と絶望の日々に対抗する庶民の力であったに違いない。しかしそれだけではない。母、与次郎、おしゅん、伝兵衛、それぞれの思いが交錯する場としての浄瑠璃の力。英大夫にとって与次郎は素のままではまる役柄であるが、むしろ母の思いに耳を開かれた。おしゅんは言葉少なに、されど思いを秘めて。
 伝兵衛の人の良さ、覚悟の潔さ。それらの人物を描きつつ、なお音は迫ってくるように集約され、物語の起伏を明らかにし、そして心の底に入り込んで酔わせていく。私はいつしか全身で聞き入っていた。そこには人形の、特に勘十郎の与次郎も猿もいないのに、それが見えるようなというより、その言葉と音だけで十分なのだ。それ以上何もいらない。義太夫節とはこれほどまでに自己完結的な宇宙なのか。その場に居合わせたすべての人がそれに満たされた。英大夫の内なるその命の充溢が、その力において輝き出でていた。

 一段が終わる。太夫と三味線は深々と礼をし、姿を消す。だが私には、春の日の中にただよう思い残りがあった。それを何と名状することもできないような、深いところに突きつけられた鈍い刃のようなものが胸に残った。表現することは他者の深いところに切り込む行為であり、それを受けることはまた、その思いを共に痛みとして担うことでもある。私にとって義太夫節とは、そのように思いに突き刺さる何かをもたらす。私の文章は、それに形を与え、目指す方向を見出す、その作業にすぎない。大切なのは、彼らが受け継ぎ伝えようとしているものを万分の一でも正しくその意味を受け止め、理解しようとすることだと思う。
 浄瑠璃のあと、卓に置かれた早咲きの桜をめでつつ、花外楼の料理に舌鼓を打った。穏やかな光、静かな時の中で、何かに満たされまた何かに向かいつつある心を見出していた。

 「傷ついた葦を折ることなく 暗くなっていく灯心を消すことなく 裁きを導き出して、確かなものとする」(旧約聖書 イザヤ書42章3節)
 主イエスは私たちのうちの傷を理解し、私たちのうちのわずかな光を見出し、それを絶やすことないよう助けられる。私は劇評を書こうととして自分の力不足を思うとき、いつもこの御言葉を思い出す。35年の修行を経てきた彼らにも、またその第一歩を踏み出したばかりの者をも、ともに支えて下さる方が、私たちにその意味を知らせると共に、終わりまで支えてくださることを信じる。「暗くなっていく灯心を消すことなく」彼らの手に置かれたその光を絶えず見出し続け、伝えるという働きをなし続けることができるように。

新たなる時よ目覚めよ(正月公演評)

森田美芽

 千穐楽の日、この稿を書いている。今回はようやく一部二部ともに見ることはできた。
 これを書いているその時間、もう一度彼らの芸に出会いたいと何度思ったことか。手を伸 ばせば届きそうな、それでいて隔てられた時間の中で、彼らの舞台の一つ一つがこの手の 中によみがえってくる。
 今回の狂言は「八百屋献立」を除きすべて過去に見た経験がある。 今見ているものが過去の経験と重なり、あるものはその意味をようやく見出し、あるもの はその変化に驚く。一つの狂言にいくつもの時が重なる。そうした経験をした。

「寿式三番叟」
 十九大夫の第一声がこの舞台のすべてを表わす。荘重にして風格あり。 松香大夫、情と格はあるが瑞々しい色気というのはやや無理があるか。文字久大夫と新大 夫、勢いある三番叟。ツレ文字栄大夫、芳穂大夫。三味線は富助、弥三郎、団吾、龍聿、 清丈、勘太郎。
 清之助の千歳。梅の香の馥郁たる香りをあたりに漂わせる、若男。14,5歳であろうか、 その微妙な少年の美と色気を、そのはかなさに至るまで感じさせる。
 和生の翁。師の文雀のカリスマ性には及ばぬものの、誠実にして気品ある翁の格を演じ た。「万代の池の亀は」以下の優雅さも忘れがたい。

 勘十郎と玉女、この二人の三番叟というだけで思いが入る。3年前のあの三番叟で見た ものは、一つの奇跡のようにさえ思える。三番叟という意味を私はこの目で見た。その記 憶を重ねつつ、いまの舞台を見てしまう。思いは今とかの時を行き来する。
 鈴の段の17杯の繰り返し。勘十郎と玉女、互いの左遣い、足遣いまで力のぶつかり合 う舞台。3年前、あの繰り返しは20回を超えていた。あの時、清治の率いる三味線の、 大地の底から湧き上がってその場を満たし、隅々までそこに居あわせた者すべてを高揚さ せ、その向こうの、無限の繰り返しの時が螺旋状につらなり永遠へと引き込まれてていく ように思われた。今回、富助の三味線は、どこまでも清浄に、高ぶろうとする感情を抑え、 神への奉納としての格を保ったように思う。その通り、今回は三番叟もその規矩のなかに 余裕というか、内に秘める力を感じさせるものであった。


「染模様妹背門松」
 この舞台は、20年前、「油店の段」を含めた版で見たことがある。「生玉」からにすることで、確かに大つごもりの1日の緊張感は伝わりやすくなるだろう。
 「生玉の段」千歳大夫、燕二郎、ツレ咲甫大夫、清馗。千歳大夫はずっと自然にこうし た生活世界を描けるようになった。燕二郎も着実な手。咲甫・清馗は若々しい彩を添える。 お染は紋寿、久松は一暢に代わり清之助。清之助はやはり前髪の少年の色気がうまい。主 を裏切り娘と通じ、妊娠までさせてしまったという義理からくる自責の念。にもかかわら ず無邪気にじゃれあう幼さの対比がなんともいえない。紋寿のお染の愛らしいこと。6年 前に見た簑助のお染は、まだほんの子どもでありながら色事だけは知ってしまった娘のあ やしさを強く感じさせたが、紋寿のお染は、大家の娘らしい鷹揚さと、それゆえ純粋に1 人の男を思う一途さを見せた。文司の善六は蔵前を含め地力を発揮してきた。

「質店の段」
 住大夫、錦糸。空気が変わる。劇場が300年余り前の大阪の街角に移動 したように、大つごもりのざわめき、人々の暮らしぶりが伝わってくる。そして無学な百 章の口から出る息子を思うゆえの言葉の数々、その説得力。錦糸は場面を、人物を彩り豊 かに描き分ける。祭文売りの勘市、質受男の清五郎、質入女の清三郎、それぞれによい役 割を果たす。久作は文吾、白太夫の首の味わい、親としての情、こうした役がしみじみう つる。紋豊の母おかつ、大家の「おえ家さん」の貫禄と母としての強さ。お染の論理がいよ いよ幼く見える。

「蔵前の段」
 英大夫、団七、ツレ団吾。この場のお染のくどきが忘れがたい。「可哀相に 久松が思いつめて死んだのを」お染が死ななければならない理由は、彼女が黙って嫁入し なければならない理由よりも重い。
 ただこの場の改作には、いささか違和感を感じざるを得なかった。なぜ白骨の御文様を 省略するのか。お染と久松が蔵の内外で心中してこその悲劇ではないか。もし二人で逃げ たままどこかに道があるなら、死を思いつめることは、それこそ滑稽ではないか。善六の からみは前回と同じと記憶する。
 このチャリが生きるのは、二人が死だけを思いつめてい るからである。英大夫の語りや団七の三味線は伸びやかで人物が生きている。しかし、め でたいと言われる正月こそ、死に近づく里程標であることを昔の人は知り、覚悟していた からこそ、この世の楽しみを心から楽しんだのではないか。今のわれわれには、あやふや な生の実感と、死から目をそらすだけの安易さだけのような気がしてならない。今回、出 演者の力と充実にもかかわらず、もう一つ、感動に至るとは言えなかったのは、この物語 の焦点がはっきりせず、つごもりから明けの元朝までの1日という時の凝縮を十分に生か せなかったからではないだろうか。


「壇浦兜軍記」
 歌舞伎であれば、立女方の素養を見せるワンマンショーになりがちなこの狂言のおもし ろさを納得させられた。それはなにより、義太夫としてのおもしろさである。重忠と岩永 の水面下の争い、愛のゆえにただひとり権力に立ち向かう女の強さ。嶋大夫の描く阿古屋 は、政治の論理に打ち勝つ、一筋に男を思う女の論理の物語である。重忠の余裕と、岩永 の滑稽さの対比の見事さ。呂勢大夫の榛沢六郎、若々しく勢いがある。清介への信頼感、 宗助の力感は無論、特筆すべきは三曲の清志郎。どの曲もすみずみまで阿古屋の思いを伝 えるにふさわしい、ひとつとして無駄のない曲と納得させる出来栄えであった。阿古屋は ここで、離れている夫との間に積まれた、いまは自分のうちにしかない時を繰り返し、偲 んでいるのだ。
 簑助の阿古屋、5年前の正月は休演せざるをえなかった。いま、左の勘十郎、足の簑次 親子とともに、新たな阿古屋を創造する。苦界を知り、そこに体を張って生きる女の強さ とやさしさ、気概。文吾の重忠、風流を解する心ある武人。玉也の岩永、悪役だが憎めな い。榛沢の玉輝にはむしろ実直さを感じた。水奴の紋臣、紋秀、玉勢、簑紫郎らの健闘も 記しておきたい。


第二部「良弁杉由来」
「志賀の里の段」
 三輪大夫の渚の方が声柄も合い明確。貴大夫はあぶなげなく、南都大夫、睦大夫もきち んと役割を果たすが、果たして南都大夫はこの役だけに納まるべき人なのだろうか。三味 線は清友、悲劇の発端となる場面の展開を糸で丁寧に表現する。ツレは清馗、龍聿、八雲 の扱いも丁寧に仕上げられた一場。勘弥の乳母小枝、危なげない出来。腰元の簑一郎、和 右、扱いが柔らかくなってきた。

「桜宮物狂いの段」
 千歳大夫、呂勢大夫、始大夫、咲甫大夫、つばさ大夫、三味線清治、 喜一朗、清志郎、清丈、龍爾。
 清治の三味線に鍛えられる若い太夫・三味線たちは幸いであろう。芸の水準、音の質、そ のすべてにおいて自分ののぼるべき水準を目のあたりにできるのだから。
 この渚の方の30年とはどんな年月であったことかと思わされた。千歳大夫はこの正気に 立ち戻る変化を聞かせた。玉英の花売り娘、簑二郎の吹玉屋も目に楽しい。

「東大寺の段」
 津駒大夫、喜左衛門。渚の方の心もとなさ、「誰を頼りて」の嘆き、津駒 大夫はしみじみとした味わい、雲弥坊の人のよさ、心地よく聞かせてくれた。喜左衛門の 三味線は、大夫を本来あるべきところに導く力を感じた。紋豊の雲弥坊も好人物でほっと させられる。
「二月堂の段」
 良弁の述懐、30年の歳月、まだ見ぬ親への思いの深さを綱大夫、清二郎 で聞かせる。玉男の良弁。緋の衣、悟りの首。しかし表現は心に染み入る。どれほど人間 として純粋に深められた30年であったことか。渚の方の失われた30年とがここで出会う。 捜し求めた長い月日は無駄ではなかったのだと。
「八百屋献立」
 「心中宵庚申」のやりきれなさを救うために、こうした改作ができたの だろうか。確かに多くの人物が絡む割に奥行きは薄いが、文句なしに楽しめる。伊達大夫 と寛治のコンビならではの呼吸と余裕。勘十郎のおくま、脱帽というよりほかはない。玉 女と和生の生真面目さとの対比があまりに見事。十蔵の亀次、嘉十郎の幸助、それぞれの 役の性格をしっかりつかんでいる。


 今回、ただ一度であろう出会い、二度とはめぐり合えないだろうと思える舞台と、これ からますます洗練されていくであろう舞台に出会った。それを初芝居という繰り返し、時 の経過にうずもれ、忘れ去られていくものにはしたくない。たとえ後になってからしかそ の意味を知ることができなくとも、見たということがいま、私たちが出会っていることの 意味を作るのだと思う。
 文楽の芸は時間の深まりの意識とその受け渡しである。彼らは自分の人生の時間ととも にもう一つの時を受け継いでいる。彼らはその芸を師匠先輩から受け継ぐ時、もうそれは 彼らだけのものでない。彼らが受け継いでいるのは、その30年、50年、300年の時をかけ て作り上げられ、洗練され、時に応じてその新しい輝きを増し加えてきた、文楽という歴 史そのものを担っているのだ。
 国立文楽劇場の20年は、ただ10年、15年の続きではない。文楽の歴史と伝統を担って 次世代に受け渡すための時間である。限りある私たちの一生で、20年は決して短くはない。 その時間を作り出してきた文楽劇場の役割は過小評価してはならないものだ。
 文楽が世界遺産に指定されたのは、それが人類に共通の時の意味を担ってきたことであ る。未来は過去に積まれてきた時の中にある。永劫回帰ではない。私たちは過去の中に伝 えられてきたことに真に関わることによってしか、正しい意味で未来となるものを作り出 すことはできない。文楽は簡単に時代に動かされることを望まない。だが、彼ら一人一人 が、真実にこの芸を受け継ぎ受け渡していこうとするその時の充実のなかにこそ、新しい 時代にふさわしい、しかも人を真実に動かしてやまないものが生まれるはずなのだ。
 新たなる時よ目覚めよ。その昔彼らの父祖より受け継いだ力を、今また新しく見出すた めに。