『初陣 若大夫のこと』安藤 鶴夫(昭和25年12月三つ和会東京三越公演プログラムより)其の一。

以下、古番附(パンフレット)よりの抜粋である→《文楽座には『大序』6年、『序中(ジョナカ)』6年という修業年限の原則がある。
この『大序』の6年間を一足飛びに一芝居で、『序中』をまたひと芝居で抜いたのは、豊竹英大夫、即ち今日の十代目若大夫ただ一人であろう。
つまり、普通12年間掛かるものを、英大夫は二芝居、即ち二興行で見事飛躍したのである。
三代目越路大夫の抜擢であった。
大正8年、英大夫から7代目島大夫になる時、因講(チナミコウ)という太夫、三味線の組合で問題になった。
時の委員長春子大夫が、島大夫という名跡の、余りにも由緒の深い重い名であることを問題としたのである。
島大夫は豊竹座再興の名人、2代目若大夫の前名である。
一寸遅れてその序に登場した3代目越路大夫と、それよりやや遅れて席に列った摂津大掾の推挙で島大夫の襲名は可決した。
因講とは毎年暮の25日に、全国津々浦々の義太夫を業とする者が集って、祖先竹本義太夫を祭った後、和気あいあいたる中に酒を汲む年に一度の集いであったが、この時の因講は、島大夫問題のために、いつもよりも酒の出るのが、2時間近く遅れたものである。
》(続く)