森田美芽
兄弟と姉妹、つまり同性のきょうだい間の絆とは何だろう。ことに、忠節を尽くす相手が敵同士であった場合、きょうだいは他人よりも冷たい間柄となるのではないか。そんなことを考えさせられた2026年4月公演。一部は『菅原伝授手習鑑』三段目、二部は四段目を中心の、あまり演じられない段を幕開きに置く展開。三部は『ひらかな盛衰記』でも四段目。四月ではあるが、『義経千本桜』が満開の桜に彩られるのに対し、『菅原』は梅が中心となるため、少し華やかさが違うと思いきや、正月に出ることの多い「二人禿」を桜を背景にしたり、「道行詞甘替」で桜を強調したりと、それなりに季節感を強調するが、ただ、少し違和感が残る。
第一部「道行詞甘替」希太夫、南都太夫、咲寿太夫、織栄太夫。三味線、勝平、清丈、錦吾、清方。桜が溢れる春の野に、飴売りに身をやつして、斎世親王と苅屋姫を救う、二人を匿いながらの道行。明るさとのどかさ、だがそれは桜に酔える状況ではない。偶然の親子の会話から、丞相が筑紫に流されるために安井にいることを知らされ、たちまちその世界は崩れる。短い段だが、爽やかに嫌味なくまとめたのは、希太夫のリードと勝平以下の三味線陣のアンサンブルの良さだろう。紋吉の斎世親王、紋臣の苅屋姫、この段だけだが好ましく美しい。和登、清之助が里の童を愛らしく、里の女房を和馬、里の娘を簑悠、この組み合わせが意外に説得力があった。
「車曳」松王は靖太夫、梅王は小住太夫、桜丸は亘太夫、杉王丸は薫太夫。時平は津國太夫、三味線は燕三。白梅紅梅の吉田神社の参道。玉佳の梅王と玉助の桜丸、浪々の身とはいいながら、両者は対照的な嘆きを父白太夫の七十の賀のゆえに耐える苦衷、玉志の松王との対立、時平の威容。絵画のような、力関係の縮図。津國太夫が底強い力を見せる。
一転してのどかな佐太村の景色。「茶筅酒」では藤太夫と團七、藤太夫は白太夫の詞が実によく似合う。團七の糸はいつもながら、この場での三人の相嫁たちの台所仕事ぶりと、その息の合った仕草を生き生きと描く。90歳で舞台に立ち続けるこの人の存在感こそ、年齢を超えた芸の力であろう。この場を仕切るのは、梅王の妻春。八重は末っ子のようなドジっ子ぶりで、また一人だけ娘姿で、姉のような相嫁たちに甘えるのが微笑ましい。千代はここでは一歩引くように気づかいながらふるまう。遣うのは春が清十郎、千代が簑二郎、八重が勘彌。実年齢も近く、同じ師の下で修業したせいか、3人の動きのトーンが、自然な調和を生み出す。それは三人が三人とも、この場での嫁たちの性格を的確に描き出しているからかもしれない。春の抜け目なさと千代の心の遠慮、八重の無邪気さ、微笑ましい相嫁同士の水仕事の風景。これらが夫である3兄弟の登場でまた暗転する。
「喧嘩の段」小住太夫、清志郎。動きがあり人形も見せ場がある。小住太夫は躍動感にあふれ、清志郎は一人ひとりの性格造形が素晴らしい。
「訴訟の段」織大夫、宗助。織大夫の立ち声がしっかりと響き、白太夫の詞が冷淡にさえ思える。宗助は手堅く、この後に余韻を残す。
「桜丸切腹の段」錣太夫、藤蔵。
沈鬱なる桜丸の出。三宝に刀を持って出てくる白太夫。先ほどからの謎、沈黙が一気に押し寄せる。八重は泣いて止めようとする。だがここでの桜丸の、主君を零落させてしまった失態は、切腹以外にはないという論理と、何とかそれに抗いたい父白太夫の必死さ。八重は泣くなと言われても涙が止まらない。その痛ましさ、錣太夫はその父の思いと桜丸の無念に、八重の嘆きを重層的に、藤蔵がその深さを表す。
幸助の桜丸は抜擢。しかも荒事とは正反対の若男のかしらで、動きも繊細な心理の表現が求められる。そして苦悩を秘めたこの切腹に静かな気品も必要な難役である。幸助の場合、及第点以上ではあるが、それ以上の、独自の桜丸像を描いてほしい。今回は白太夫の玉男、親の慈悲が子に刀を渡すという苦しみを担う父。彼の背後には、常に菅丞相の影がある。玉翔が百姓十作。小気味よい動き。
第二部も珍しい「北嵯峨の段」碩太夫と寛太郎から。碩太夫は声も大きく、春の詞などしっかり語っている。寛太郎はすでに芸歴25年という実力で、この若い太夫をしっかりと底支えする。気持ちのよい舞台。ここに八重と春が出てきて、八重の立ち回りとその死が描かれる。星坂源吾を勘介、玉路が交替で遣うが、大きく性根をしっかり遣っている。
「寺入りの段」亘太夫、友之助。亘太夫は少し笑いの入るこうした段を楽しく、また情を込めて語る。友之助の音遣いは場面ごとに切り替わる。寺子たちの戯れ、戸浪と千代、それと知らせない出会い。小太郎に向ける詞に、わずかに憂いがにじむように語る。
「寺子屋の段」切若太夫、清介。
まるで運命が近づく足音のような、清介のオクリ。源蔵が思案しながら戻ってくる。小太郎の顔を見た途端、機嫌がよくなる。子どもたちを奥にやり、戸浪が聞き質す。寺子を犠牲にすると決めたその嘆きを夫婦が分かち合う。何度も見たこの手順を心に繰り返しながら、この夫婦が、「筆法伝授」で菅丞相から託された奧義と信頼を裏切らないために、最も残酷な決断をする、その痛みが見える。この物語、源蔵と戸浪の側からすれば、いかにして菅丞相から託された菅秀才を守るかの戦いである。
これに対し玄蕃からすれば、時平の命令を違えないこと、首尾よくしおおせて手柄を立てることが目的である。そして松王丸は、最初はこの犠牲を伴う苦境で、源蔵・戸浪夫婦の敵として、禍々しく登場する。抜け目ない敵として、彼は源蔵のたくらみを一つずつ潰していく。机の数まで数えられ、追い詰められていく。おそらく源蔵は、もはやこれまでと松王と玄蕃を斬り捨てることを備えている。戸浪の祈願はその切羽詰まった思いで、緊張がピークに達する。
松王に視点が変わる。「矯めつ眇めつ窺い見て」その呼吸が伝わってくる。実は、試されているのは松王の方なのだ。沈黙。「菅秀才の首打ったは」一呼吸置いて「紛いなし」が独白のように、涙をこらえて。「相違なし」はきっぱりと玄蕃に向けて。ここまでいつ刀を抜くか、間合いを測っていた源蔵と戸浪は驚きのあまり声も出ない。その驚きのうち、玄蕃は事が終わったらさっさと戻ろうとする。もはや松王の進退のことなど眼中にもないように。
ここで私たちは、自分自身がほっと息をついたのに気づく。知らぬ間に、松王に追い詰められる源蔵夫婦のような気持ちになり、何とか無事切り抜けて、人形と共に「五色の息を一時に」吐き出す。祈願する戸浪のように、何とか騙されてくれ、と願っている。若太夫の語りは、まるで私たち自身のことのように私たちの感情を舞台に引き込み、その登場人物と一体化させる。あくまでも自然に。たとえば、「机の数が一脚多い」と指摘するところも、「なに馬鹿な」をそれほど強く言わなくても、戸浪が威圧され、動けないように、自分も追い詰められるように感じさせる。
物語を外から見るのでなく、自分自身がその物語に、登場人物に一体化し、自分を忘れ、一喜一憂する。それも多くの観客、何のつながりもない他人同士の集まりで、そのような劇場の中で不思議な一体感に包まれる。この不思議な心の高揚を生み出したのは、明らかに若太夫の語りである。私は最初、ここを聴いた時、何とも言えない感覚に浸っていた。どこが良い、とか明確に言えないのに、気がつけば彼の語りに酔いしれている。その状態を客観的に見れるようになるのに少し時間がかかった。熱演への賞賛ではなく、何が良いかという評価ではなく、ただそこで、舞台に表されているものと心を一つにし、その生まれてくるものに浸る。その時間がこの上なく貴重なものに思えた。
その思いが後半の呂勢太夫、清治に引き継がれる。
周囲を見渡し、扉を閉めて、ようやく二人は喜びを爆発させる。菅丞相から伝えられた筆法の奧義をいただく。和生のこの遣い方、ここに源蔵の性根を見るのは私だけだろうか。ここに千代が戻ってきて、源蔵と揉み合う中、すべての秘密が明かされる。再び登場の松王にとっては、「何とて松のつれなかろうぞ」という丞相の言葉がすべてであったことが明かされる。つまり、源蔵夫婦は、松王の巧みな追及によって、どうにも今日入門したばかりの寺子である小太郎を、殺さざるを得ないように仕向けられたのだと。松王の首実検は、我が子が身代りの犠牲になったことを確認するためだったと。この転換を自然に起こさせる、若太夫から呂勢太夫、清介から清治へのリレーの見事さ。二人をつなぐものは、丞相への忠義。そこに桜丸の無念が重なる。引き裂かれた兄弟は、ようやく二つの死をもって和解する。しかし千代の嘆き、松王の苦しみ、「いろは送り」の、清治の糸の哀切さ。私たちも我が子を失ったように、その哀切さに酔いしれる。犠牲の痛ましさへの同情だけではなく、千代の涙と松王に呼応するように、「よかった」と「悲しい」が交錯し、痛ましさだけではなく、忠義に死んだ息子への誇りが、主君を守り切ったという使命感が、決して矛盾なく溢れてくる。不思議な世界である。
玉志の松王。堂々として動きは正確、先代玉男の形をよく受け継いでいる。桜丸を思い出すところの哀切さも。千代は簑二郎。前半の抑えた動きから、後半の嘆きといろは送りの形の良さ。ただ、この二人に、何かもう一つ、観客をひきつけ否応なしに没入させるような、独自の魅力があってもよい。源蔵は和生。この人の動きは無駄がない。その中で源蔵の不安と安堵の感情の両極と、菅丞相への熱い忠義を示すところがこの人の本領。戸浪は勘壽。公演中に81歳を迎えたというが、この舞台の誰よりも若々しい力を感じる。戸浪は世話女房のように動き、かいがいしく源蔵の世話をする。この二人の絆を感じさせる好演。我が子の首と対面する菅秀才を勘昇、玉征がどちらも品よく遣う。よだれくりは玉彦、自然と引き寄せられる楽しさ。小太郎は玉征と勘昇が交替で。こちらもなかなか健闘している。下男三助は、玉路と勘介だが、勘介はいろいろと動きを入れて楽しい。勘市は春藤玄蕃、権威をかさに着る性根をうまく出した。
第三部、幕開きは『二人禿』。三輪太夫、咲寿太夫、聖太夫、文字栄太夫、清友、團吾、燕二郎、藤之亮。禿は簑太郎と勘次郎。「外で弄られ内では急かれ」の高音が、やや苦しそうに聞こえる。それでも三輪太夫の語りには、いつも包まれるような温かさや優しさが感じられる。清友も同様。いつもは正月の背景が桜の季節に代わっている。禿が羽根つきをするので、やや強引ではないか。勘次郎が達者なところを見せる。簑太郎もうかうかしていられないだろう。
『ひらかな盛衰記』「辻法印の段」芳穂太夫、錦糸。チャリ場の楽しさ。源太によって弁慶のふりをするところが、人形でも語りでも笑わせる。百姓たちの音程を一人ずつ変えて丁寧に語る。錦糸の調子も楽しい。玉勢がこの辻法印を遣い、また力をつけた。法印女房は紋秀、達者なところを見せる。
「神崎揚屋の段」千歳太夫、富助、ツレ清公。前半のお筆との再会から源太の出陣のため鎧の金を用意するところまでと、後半、無間の鐘のくだり。現代人からはファンタジーに聞こえてしまいそうな内容を、千歳太夫が説得力をもって語る。この人はいわゆる艶物語りではないから丁寧に詞を積み上げ、梅ヶ枝の一念に迫ろうとする。だが、時にその力が空回りして、例えば「姉が力に成つてたも。頼むは妹ばかりぞと、語るも聞くも涙なる」は、「語るも」「聞くも」の主語の変化が不分明に聞こえた。富助は物語の起伏を糸に載せて明確に伝える。清公も丁寧に合わせる。
「奥座敷の段」睦太夫、清馗。ここで源太、梅ヶ枝、お筆に母延寿が揃い、三百両の謎が明らかになる。睦太夫は熱く語るが、清馗はむしろ冷静に弾き分けるように見える。
この段は私も初見。ただ、三百両の奇跡で終わるのと、その続きがあるのとで印象がどう違うかと言われれば、お筆の無念がより深くなっただけではないかと思う。昔の論理であっても、ここまで死ぬ思いで苦難を切り抜け、家族も主君も失い、若君を守ったために身代りに殺されたためその家族からはなじられる、そんな彼女からすれば、納得できないことばかりである。簑紫郎のお筆にはまだその重みが足りない。一方、母は源太に甘く、源太のために三百両を投げ出し、出陣の姿の彼を喜ぶ。玉也の延寿にその格と品位を見ながら、どうしても疑問に感じてしまう。梅ヶ枝の勘十郎は、その美しさと情熱で、源太ではなく観客を魅了する。むしろ源太は梅ヶ枝の献身を当然のように感じているわがまま息子の体で、一輔にとっては感情移入しにくい役と思われるが、そうした鷹揚さは表現した。亭主は玉輝、仲居は玉延、質屋は亀次。
『菅原』の三兄弟は、桜丸と小太郎の犠牲によって再び結び付けられる。しかし残された千代の心はどうだろう。『ひらかな』のお筆と梅ヶ枝(千鳥)の姉妹は、お筆が木曾義仲の奥方に仕え、千鳥が鎌倉方の梶原源太と恋仲になったため、図らずも敵対関係になってしまった。とはいえ延寿の覚悟のほどを示されたからとはいえ、お筆は沈黙せざるを得ない。女性の側から見ればさらに深い亀裂を心の底に作るようにさえ思える。なのに、その理不尽さは、三人の女の段切れの姿に収斂され、不思議な調和を作り出すのだ。解決したわけでもない、恨みが晴れたわけでもない、しかし、答えはその向こうにある。そうした不思議さは、もはや現実や理屈を超えた解決なのだと思わされる。
文楽の舞台の向こうには、私たちの理解を超えた現実がある。現実よりももっと現実の深みに迫る力がある。この公演の意義は、そうした力を引き出したところにあるのかもしれない。